ぼんやりとした不安を感じないではなかったが。

「あ、こんにちは、土方さん」

 三日ほどたった昼間、二枚目の副長はスナックの二階に入っている万事屋を訪ねた。

「いらっしゃい。制服っていうことは、お仕事中ですよね。ごめんなさい、銀さん、今、神楽ちゃん連れて、ちょっと外に出てるんです」

 留守番の眼鏡しか居ないことに内心でほっとしながら、なら渡しといてくれと菓子折りを託す。中にはすかした和菓子屋の菓子だけではなく封筒に入った現金も入っている。

 金曜の夜に山崎が『立て替えた』飲食費は7万。歌舞伎町の飲み屋で好き放題したにしては安いが、真撰組の監察責任者にぼったくり価格を請求する度胸はなかったのだろう。そうして万事屋が押し付けてきたあの写真の価値は、7万どころではない。

情報料として適切な金額との差額を包んだ封筒はかなりの厚みになった。

「いつも依頼をありがとうございます」

 そう言って深々と頭を下げる少年は菓子折りの中に現金が入っていることを分かっている様子。子供のように見えるがやはり道場育ちだ。仕官のための推薦状を望む弟子たちが菓子折りを抱えてくることがあったのだろう。

「あの、銀さんは夕方まで戻ってこないんですけど、お茶を一杯、飲んでいかれませんか?」

 ニコニコしながら少年が言った誘いを断るのは簡単だった。が、それでは万事屋の戻りを恐れて逃げるような気がする。腰も下ろさずに帰ったと白髪頭の悪党に伝えられるのはイヤだった。路肩に停めた車内で待っている山崎にも早かったですねと安心したように微笑まれたくなかった。

ただでさえ心配でたまらないといった表情で、上までついて行きましょうかと申し出られて不愉快になっていたのだ。

じゃあ一杯だけ、煙草吸っていいかと言って応接間と事務所を兼ねたソファに座った理由はそんなところ。どうぞと言われて遠慮なく紫煙を天井へ向かって吹き上げる。奴が帰ってきたときに匂いが残っているといいなと思った、気持ちの理由は、自分でもよく分からない。

「お待たせしました」

 煙草を吸い終わるタイミングを計っていたような間のよさで眼鏡の少年は台所から茶碗を運んでくる。たぶん、ちゃんと測っていたのだろう。意外と気配りのヤツだと思いつつ口をつけた茶は意外なほど美味い。貧乏なくせに贅沢していやがると、ふと、思った瞬間、白髪頭の男の育ちはどうだったのだろうかと思った。

 怠惰で自堕落な容子にしているけれど、武家育ちである匂いは消しがたい。剣筋も我流ではなく基礎のしっかりした洗練されたものだ。

武門の育ちでない二枚目には白髪頭の男の妙な折り目正しさに気づいていた。お侍さまと呼ばれていた人間に独特の誇りと傲慢がある。まぁべつに、自分とは関係のないことだが。

「どうぞゆっくりしていってください。夕方には銀さんも帰ってきますから」

 眼鏡のガキは愛想がいい。いやもう帰る邪魔したな、と、言おうとしてそちらを向いた二枚目副長は、盆を抱えて立っている少年がパッと目をそらす。

「?」

 その反応が不思議でそのまま眺めていると、みるみるうちに目元が紅潮してきて、あぁ、と。

 気づかれていることに気がつく。あの白髪頭とのことをこのガキは知っていやがるらしい。まぁ、自分もそうだが、一緒に暮らしているも同然の『職場』にプライベートはない。帰りが遅かったり泊まってきたり、帰ってきてからの態度なんかでなんとなく分かるものだ。二枚目のことを山崎が気づいたように。

「ごちそうさま」

 そうか、と、分かった二枚目は、何故かバッチリ、落ち着いてしまって。

「また来る。あの糖尿が帰ってきたら、話したいことがあるって言っといてくれ」

 その二枚目の台詞をどう解釈したのか。

「あ……、はい」

 目尻をますます赤くして、深々と頭を下げて少年は、その腰高に後姿を見送った。

 カンカン、建物横の非常階段を二枚目が下りていくと、待たせていた車の中から山崎が飛び出してきて助手席のドアを開ける。時間が短かったからか、ほっとした嬉しそうな笑顔で。

「お疲れ様です。ダンナのご機嫌はいかがでした?」

 しらっとそんなことを尋ねる度胸のよさを、二枚目はかなり気に入っている。

「いなかった」

「ああ、それは良かったです」

 本気でそう言う腹心に。

「あのな、ザキ」

 誤解を解いておく必要を二枚目は感じて、眉根を寄せつつ忍耐強い穏やかな声を出す。

「万事屋のヤローに、誤解されてんだ」

「どんな?」

「近藤さんのことを、オレのモトカレだとかって、あのバカ勝手に思い込んで行きやがった」

 男の悲しそうな表情に二枚目が驚いているうちに、誤解だ違うという否定の言葉を発する間も与えずに男は離れていった。だから仕方なく追いかけて、オマエのその予想は外れだと言ってやらなければならない。

「えー」

「なにがえーだ」

「いいじゃありませんか、局長が副長のモトカレってことで。局長がそうならダンナも諦めるんじゃありませんか?副長の献身と純愛には誰も入り込めませんから」

「てめぇ……」

 色々な意味でとんでもないことを、しらっと言われて二枚目は驚愕する。

「そういうことにしておきましょう。丸く収まるから」

「何処も丸まらねぇよ。第一、近藤さんにムチャクチャ迷惑じゃねぇか」

「副長の為に少しくらい局長が泥を被ったっていいんじゃないでしょうか。プライベートくらいは」

「ばぁか。プライベートじゃ近藤さんは、もう何べんも、俺のせいで泥人形だ」

 と、二枚目が言った台詞には感慨が篭っていた。

「へぇ、存じ上げませんでした」

「昔の話だけどな」

「故郷に居た頃のお話ですか?土方さんがプライベートな色事で揉め事って、ちょっと想像出来ませんけど」

「要領のよさを素行の悪さが上回ってた時代が……」

 かつてこの二枚目にはあった。もてると思っていい気になってずいぶんな悪さをしてきた。騒ぎは大抵、馬鹿な男が起こしたが、遊びだということを忘れて逆上せ上がった年増が近藤勲の道場まで怒鳴り込んできたこともあった。

「局長が匿って庇ってくれたんですか?カレシのふりをしてくれたりとか?」

「向こうが勝手に思い込むことがあってな」

「仲が良すぎるんですよアナタがたは」

「ほっとけ。まぁそんなだから、テメェもあいつ見かけたら俺に連絡しろ。いいな?」

「ダンナには誤解しといていただきましょうよ。君子危うきに近寄らず、です」

「オレぁ君子じゃねぇ」

「あぁ……。そうでしたね」

「あっさり納得しすぎだ」

「じゃあ言い方を変えます。ダンナがヤバげなワケアリなのは土方さんだってよくよくご存知でしょ」

「……おぅ」

 知っているぜと二枚目は事実を認める。あの万事屋が実は昔、白夜叉と呼ばれていた攘夷軍の大物だったことは分かっている。現在は足を洗ったことになっていて、昔の話には証拠もなくて見逃しているけれど。

「そういう人と副長がややこしいことになったら、局長も困られると思いますよ」

「……」

 ややこしい、こと。

 それなら既に、もうややこしい。枕を交わした既成事実がある。だからこんなに面倒くさいのだ。セックスというのを若気の至りされのせいで片付けるには、歳を取りすぎてしまった。関係が成立したからにはお互いにその気があったからだ。自分には確かにあの男に対する好奇心があったことを認めざるを得ない。

「ダンナに副長が遊ばれるのはオレもイヤですし」

 確かに一度、遊ばれた。なのにこうやって理由をつけてヤツに会いに来るのはどうしてだろう。痛い目みたのに避けようとしないのは心の中で二度目を期待しているからか。要するに、誘いを一度は断ってみたもののあの味が忘れられないからだろうか。

「……」

 紫煙をくゆらしながらその夜のことを思い出している二枚目の横顔には下品ではない艶があって、そっと横目で盗み見た山崎を息苦しくさせる。

ネコは卒業したつもりでいた。本当に何年もそんなことはなかった。けれど凄まじい快感にむせび泣くあの快楽は女を抱くことでは得られない。カラダが芯から痺れて溶けるかと思った。男の背中に夢中ですがり付いた。

「局長は、副長が不幸になるより、モトカレの濡れ衣を着せられる方がご迷惑でないと思いますよ?」

 山崎の台詞がずしんと二枚目の胸に響く。

「そうだな」

「あっさり納得しすぎですよ、アンタ」

 山崎は少し悔しそうに言った。