カカオ受難の前

 

 

 決勝で、ジャン・ハボックは最後の的を外して負けた。

「……」

 指導教官であったリザ・ホークアイ中尉は何も言わなかった。

「ナンか、言ってください」

 言われないとかえって気になる。背の高い少尉は指導教官に縋りつくようにして懇願した。それぞれの部隊別に選別されて技量を競い合う演習会。師範認定をされている競技には出られないから中尉は射撃には出られなかったし、金髪の少尉は格闘技には出場できなかった。

だから年明けから一ヶ月、マンツーマンで鍛え抜いてくれたのに、よりにもよってハクロ准将のところの代表に決勝で負けた。お前にしてはよくやったとマスタング大佐は上官のらしく褒めたが、その顔は別のことを告げていた。キサマ、しばらく私の前でデカイ顔をするなよ、と。

 目顔で言われて若い男はしおしおとなった。煙草も減ったくらい落ち込んでいた。風邪で弱って食事が出来なくても煙草は吸うというこの男にとっては世紀の『反省』ポーズ。けれど大佐の機嫌はなかなか直らない。その上に時間と手間と情熱をもって指導してくれた中尉に、無視された上でのノーコメントは辛くて身の細る思い。

 せめて罵って欲しかった。いつもの寸鉄人を刺す、辛辣な言葉でもいいから。

「無視をしていた、わけではないの」

 若い少尉の必死の懇願に窓の外を見ていた金髪の中尉が振り向く。凛々しい表情の綺麗な顔立ちをしているが、その目にはいつもより力がない。

「わたしも反省していたの。指導のやりかたが悪かったかしら、って」

 告げられて、若い男は、ふにゃっとした情けない顔になってしまう。

「中尉、そんなこと言わないでくださいっ!」

 気持ちとしては膝をついて腰に抱きついて泣きたかったけれど、それをするとセクハラになってしまうので握りこぶしに気合を篭めて、力の限りを声に出す。

「悪いのはオレですっ!」

「そのとおりよ」

 ゆっくりと腕を組みながら、美人の中尉はかなりの下方から、間近に立つ背の高い男を意識で『睥睨』した。

「ここ何日か、ずっと考えていたわ。私の指導に落ち度はなかったし、あなたがあの的を外す筈もなかった。なのにどうして、弾が外れたの?」

 ヘーゼルの瞳にじっと見つめられて。

「そ……、れは……」

 若い男は、首筋に冷や汗。

「集中力が切れたのね?」

「……そう、です」

「気合が足りなかったのね?」

「は……、い」

「あなたには絶望したわ、ハボック」

「もうしわけ……」

 罵ってくれと希望したのは本心だった。けれど実際にそうされて、悲しさとわが身の情けなさに若い少尉は、泣きそうになってしまう。

「ござい、ませ」

 震える声で、ん、と続ける間もなく。

「要するに、あなたには情熱がないのよ」

 強い口調で決め付けられてしまう。

「執着といってもいいわ、愛情がない。男のくせに的を打ち抜くことに意義や快楽を感じないのね。弾を撃っている途中でオトコが気を抜くなんて信じられない。そんな風だからあなた、女の子にふられるのよ」

「……」

 返す言葉がなかった。最後の一言は立派にセクハラだったが、それでも否定することは出来なかった。余所見をしないでと言われたことがない訳ではない。もっとも二十何年も男をやっていれば、女にその台詞を告げられることの一度や二度、ない方がおかしいのだけれど。

「こんなにフニャな男だなんて思わなかった。格闘技の指導で立ち技きめてるあなたとは別人のようなヌケっぷりだったわ。そんな男に少しでも才能があるなんて、見込んだ一ヶ月前の自分を撃ち殺したいくらい」

「ホークアイ中尉」

 若い男が情けない声を上げたのは、言いたいことを言うだけ言った美人が、はあっと、悲しみのため息をついて。

「私が悪かったわ……」

 らしくない弱い口調で、悔いる顔をしたから。

「指導すべきはそこだったのに、気がつかなかった私のせいよ、あなたが負けたのは。ごめんなさい」

「いや、その、中尉、違いますっ!」

 罵られているときよりずっと追い詰められた様子の若い男を。

「来なさい」

 金髪の美しい女は窓辺に招く。半身になって窓を半分、譲ってやる。ガラスの向こう側は中庭、そしてそのベンチには、黒髪の大佐。

「あー、またサボってますねぇー」

 バレンタイン前のこの時期、たらしの大佐は無意味にあちこちを歩く。そうして自身の周回ルートを軍の女の子たちに知らせている。むろん、昼休みには外へ出て、街の看板娘たちに顔を売ることも忘れていない。

「ナンか、渡されてンでしょーか?」

 ベンチに座った黒髪の大佐の前には軍服姿の女の子が三人並んで、楽しそうに何かを話している。二枚目の大佐はにこにこ、女の子たちが話しているのを聞いては受け答えしている。表情はよく見えないけれど雰囲気で分かる。

「いいえ、たぶんまだ、さぐりを入れられているだけ」

「さぐり?」

「ナッツは好きか、ラム酒は、オレンジピールは。お好みはビターか、ミルクか、スイートか。そんなことを聞かれているんでしょう」

 実感とリアリティを伴って、金髪の中尉は呟き、そして目を細める。

「かわいい、ひと」

 囁くように、歌うように。嬉しそうに、いっそ幸福そうに。

「オレは今、すごく憎らしいです」

 同じく金髪の少尉は正直な本心を告白した。

「あなたは気性が薄情で淡白ね。だから射撃に集中力がないの。格闘っていうのはねじ伏せて参ったって言わせたらお仕舞、手を離してしまえば勝利だけになる」

 中庭から目を離さずに、厳しくて優しい女は呟く。

「撃ち殺して自分のものにしようとしない男なのよ。所有する責任から逃げたいの。離さない、っていう執着がないんだわ。掌から決して出さないっていう決意が。欲望の熱量が低くて、モノにしようっていう気概が足りないの」

「……、そうです。だから、女の子によくふられるんッス」

 たたみかけられて、事実を認める度胸は持っているけれど。

「狙いなさい」

 す、っと。

 師匠の威厳をもって、腕ごと指先を持ち上げて、女が中庭を指し示す。

「アレは欲しいでしょう?」

「……欲しい、ってぇか」

「欲しくないの?」

「オレん、です」

 既に既得権、既成事実があることを男は主張した。

「そう。じゃあ、私にその証拠を見せて」

 指の先から中庭へ男は視線をゆっくりと移した。

 狙いを定める、かのように。

「あれを狙って、撃ち抜いて、あなたのものだって証明して、私にそれを見せて」

 ふふらと気まぐれにそぞろ歩く、つかみどころのない上官を。

「撃ち抜けるのは愛された人間だけよ。あなたなの?」

「……オレっス」

「言葉だけなら、誰でも、なんとでも言えるわ」

 形のいい唇が微笑む。それをマジで睨んでしまったほど、疑いを持たれることに、疑問を差し挟まれることに、男は腹が立った。アレはオレのと心から思っている。

「それが本当なら撃ちなさい。愛されているなら撃てる筈よ。だって大佐も、本当はあなたに撃ち抜かれたいのだから」

 男はぎゅっと手を握る。中庭のベンチに座る標的に視線を向ける。その瞬間、確かに弾丸は放たれた。はっとしたように、びくっとしたように、中庭の大佐は慌てて立ち上がった。

「お見事」

 射撃というのはそんな風にするのよ、と。

 優しくて厳しくて天才的な師匠は口先で、筋は良いのに気合の足りなかった弟子に教え込んだ。