「恩にきる」
真面目に礼を言ったら手の甲で額を叩かれた。その勢いで立ち上がる。近藤さんに目線で詫びて総悟の呆れ顔にもあいまいに笑いかけて、待合を裏口から出て流しのタクシーを拾う。桜田門から出て四谷の待合に居たから歌舞伎町までの距離は5キロもない。水曜の夜の街を眺めてるうちに着いた。
一階の飲み屋の暖簾は内側に片付けられてて、もう帰ったか、どーすっかなと、ちょっと考えた。
「開いてるよ。入っといで」
店の中から声がして、引き戸に手をかけると抵抗なく横に滑った。カウンターにボックス席が四つ、二十人ちょっと入れる店内はきちんと片付けられてたが、女主人だけが残って一杯、引っ掛けてるところ。
そしてカウンターの真ん中には潰れた客が一人。
「やれやれ、助かったさね。あんた、そいつ、連れて上がってくれるんだろう?」
電話が掛かってからまだ20分もたってねぇ。このカウンターで掛けたのか外でか知らないが、呼ばれて来たからにゃ酔っ払いを何とかすんのは仕方ねぇ。
でも。
「冷たいことを言うなよネェサン」
潰れた男の隣の椅子を引く。
「なか入れたんだ、一杯だけ飲ませてくれ」
「いいとも。あたしのボトルからでいいかい?」
店主がそう言った途端。
「……なに、イロボケて、やがる、ババァ……」
カウンターに突っ伏した頭から、動かないまま声が聞こえてくる。店主は竹鶴をグラスにダブル注いで、氷入りの水を横に置いてくれた。好みの具合に水割りにして口をつけると、はらわたに染みるくらい美味い。
「看板過ぎて酔いつぶれた迷惑な客を引き取ってくれるんだ。サービスくらいするさ」
昔は相当美人だっただろう店主に贔屓されながら呑む酒は美味い。俺はそれほど女好きじゃねぇが年上のネェサンに好かれんのは嫌いじゃない。
「ざけんなよ……。行くぜ……」
「乾杯だけで出てきてやったんだ、一杯ぐらい飲ませろ」
冷たい水の残りを頭の横に置いてやる。ゆっくり頭を起こした酔っ払いが、ごくごく、それを呑み干して。
「……あれ?」
やっと正気で醒めたらしい。
「なんで、オタク、居るの?」
「てめぇが呼んだからだ。なんだ覚えてねーのか?」
煙草いいかと店主に仕草で尋ねる。カウンターの内側から、袂を押さえながら伸ばしてくれた手に口元を差し出して火を点けてもらう。男の前でちやほやされんのはマジでいい気分。
「呼んだ、けどさ……」
まさか来るとは思ってなかったらしい。びっくりして幼い表情になってる男の前で悠々、煙草一本吸った。
「ごちそーさん。またな」
店主に挨拶、そしてまだぼんやりしてる男に手を伸ばして、椅子から引き立たせた。
「掴まれ。吐かねーなら担いでってやるぞ」
「そこまで酔ってないヨ……」
よろっとしたものの自分で立って、俺に支えられながら歩く。足元はよろけてるが背中は崩れてねぇ。
「……なんで、来たの?」
店を出たところで、ちっせぇ声でまた尋ねられる。しつこさが、不愉快じゃなかった。
「仕事中じゃなかったからだ」
驚きすぎてうまく喜べないでやがる様子が満足。迎えに来て優しくしてやったらそりゃあ驚くだろーと思ってた。予想以上に驚愕されて実に満足。恥かいて麻雀を抜けてやった甲斐があるってもの。
「仕事ン時はてめーが泣き喚こうが行き倒れよーが迎えに来れねーからな。それ覚えとけよ」
来ないんじゃなくて来れないんだと言い聞かせる。信用させるためにはいっぺん、ちょっと無理してやる必要があるのは女にそうする時と同じ。
「あ……、うん」
「登るぞ」
飲み屋の横手から二階にあるこいつのヤサに続く階段を。
「ヒトリで登るの、イヤだったんだろ」
笑い混じりにからかう。
「……覚えてたのかよ」
「忘れてた。てめーのさっきの、電話で思い出した」
酔い潰れちまってこいつのいいよーにされた、あん時も一階の店で飲んでた。カウンターじゃなくてボックス席、店主もメカっ娘も近づけずに差し向かいで。
呑み方からしていつもと違ってたのに気がつかなかったのは不覚だ。酔いがまわった俺にこいつは泊まっていけって言って、俺は確かに頷いた。セックスに同意したつもりじゃなかったが。
あん時たしか、こいつは言った。一緒に住んでたチャイナが居なくなって寂しい、独りで階段のぼって一人の家に帰りたくないんだ、って。
一人前の男が寂しいとか口走りやがるのは嘘っぱちの安い口説き文句に決まってる。なのに俺はころっと騙されて、今とは逆に支えられながら、階段を一緒に登ったっけ。
「ウソはついてねーよ……。口説き文句だったのは、否定しねーけど、よ……」
「手ぇ入れるぞ」
予告して片肌脱いだ袂の中に手を突っ込み、そこに入れてる鍵で戸を開ける。その気になれば簡単にピッキングできる簡単な鍵だ。まぁ、盗られるよーなモンはナンにもねぇ部屋だが。
「鍵、こんど……、替えとく、な……」
俺の心の中を読んだみたいなことを男が言い出す。
「合鍵、神楽にやっちまって……、ないんだ……。ゴメン……」
「いらねーよ。ってーかオマエ、鍵やったんなら替えちゃ意味ねーだろ」
いつでも遊びに来いって意味で渡したんだろう。なら、勝手に鍵を替えるのは裏切りになる。
「……、か、な……。ごめん……」
「気分悪くねぇか?吐くか?」
「……、わるか、ねぇ……。ダイジョーブ……」
「布団しいてやるから座ってろ」
事務所のソファに転がして奥の和室に布団を敷く。押入れから出した枕までぽんぽん膨らましてセットして迎えに行く。
「掴まれ、ほら」
「……、も、いいぜ。……、ナニ、しても」
「気持ちだけもらっとく」
「ンだよ、据え膳、喰いやがれ」
「勃ちゃしねーだろ、テメェ、今」
馴れた『メス』ならヤれるかもしれねーが、男同士の関係で俺は100%ネコだ。こいつの足ひらかせてどーこーしよーって気はねぇし、跨ったってこんなに酔ってちゃ役にたたないだろう。
「なによー、鬼のフクチョーさん、度胸なーい」
「おうよ。酔っ払いに手ぇ出す度胸はないぜ」
それは男の嗜みだ。意識がない、若しくは朦朧とした相手に触れるのは剣呑。合意が確認できない状態では合意の上だったっていう釈明が通らない。
「へいへい、俺ぁどーせ、男の風上にもおけないロクデナシですよー。……ごめん」
「水、枕元に置いとくぜ。気分悪くなったら起こせよ」
「ごめん……。せっかく来てくれたのに、可愛がってやれなく、って……。ごめんね……」
布団に転がしてやってもまだ、男はぶつぶつ言っていた。
「やれねーのに呼んでごめん……。ホントに来るとは、思わなかった、んだ。……ごめん」
「怒ってねーよ。まーナンだ、オレがいつか、風邪とか二日酔いとかで、ヤれなくっても、テメェも怒るなよ」
「怒ん、ねーけど……。オマエそーゆー具合悪ぃ時、オマエんチから出て来ねーじゃん」
言われてみりゃそうだ。俺はけっこう頻繁にこいつの家に出入りしてるが、こいつは俺の『家』に踏み込んで来れない。真撰組の屯所は部外者の来訪を基本的には拒む。
「ごめん……。なぁ、ナンか……、言えよ」
「いーから寝ろ。たまにゃいーんじゃねぇかこんなのも」
知り合ってからの時間は長い。けど『お付き合い』は抜き、いきなりセックスだった。手順スッとばされても既成事実の成立は厳粛、ヤられたことを俺が追認して情事は成り立ってるが。
「オタクがホントに、そー思ってンならウレシーけど……。オレのさぁ……、カラダ以外もちょっとは好きか?」
酔いに紛れて。ナンてこと尋ねやがる。
「おう」
度胸を決めて、俺は素面で答えた。
「じゃなきゃダチに笑われてまで、酔っ払いの介抱しに飲み会、抜けて来やしねぇ」
それも一つの厳粛な事実。
「……」
酔っ払いが驚きに息を呑む。その隙に、オレは寝てしまうことにした。
「……おい、トシ」
オレは寝た。聞こえねぇ。明日には何を言ったかも覚えてねぇ。
「ちょっと、トシちゃん、ねぇ、ちょっと」
揺するな。寝たんだ。
「起きろよ、なぁ、起きろって!」
酔いも吹っ飛んだらしいヤツに、何をされても、俺は目を開けないでおいた。