形代・2
「俺、今度はあんたのアニキに生まれてたい」
「……どうして」
「最初にひらいてみたいから。俺の形だけ覚えさせたいから」
「馬鹿なことを……」
「何で馬鹿だよ。大事だろ?」
「もっと大事なこともあるさ。俺を女にしたのはお前だ」
「なに、それ」
「男にされてイッたのはお前に手を掴まれた、あれが初めてだった」
記憶の中のあの人が夢に出てきて、目覚めたら泣いていることに気付いた。あまりに幸せで甘い過去だった。夢中だった幼い馬鹿な自分を思い出して、ムカついた。
寝台で身動ぐと、同じ優しい指が目許をそっと拭ってくれる。そして瞼に、慰めるように口付け。
甘い過去が、ここだけに戻ってきた。白くっていい匂いのする、あの人がここに。
「………」
無言でその肢体を引き寄せ、確かめるために抱き締めた。同じ仕種で寝乱れた髪を指先で梳かれる、目を閉じたままの、天国。言葉はいらない。
一日中こうしていてもここ、ハレムなら誰も文句は言わないだろう。けれどそれでは天国は維持できず、崩壊してしまうことも知っていた。頂点でいるためには馬鹿ではいられない、いられなかった。
ひとしきりキスを交わして現在に視界を戻す。
「……緒美、着替えを」
今度は緒美の濡れた唇を親指で拭ってやり、オダリスクの朝の仕事を言いつけた。こくりと頷き、室外に待機している宦官から宗主の服を受け取る一連の動作に、宗主は嘆息した。
優しい声が、どうしてもあの人じゃないから聞きたくないというエゴ。
抱いてから、聞きたくない気持が大きくなっていったからこのところは喘ぎ声しか耳にしていない。緒美の思惑など、二の次で解そうとすら。
懸命に仕える姿にそうして欲しかった望みが叶えられた。おとなしくハレムの中で傷がつかないように包まれていて欲しかった頃の。従順なあの人、それだけでも天国。
最初は皮肉かと思った。
「…何だって?」
「ん? 最近は随分キレイにハレムを治めているなって言ったんだ」
母親、彼にとっては叔母であったオンナの前例を指していることはわかった。気位の高いオンナの扱いを、知り尽くしているやつでもあった。
「ふん。乗るオンナどもくらい御せないようで国治められるかってんだ」
九重内唯一の帯刀臣下は、その言い方がツボにはまったのか無骨な体を器用に小刻みに揺すって笑った。
「じゃあ、ハレムをつくってねぇ俺は、どう転んだってダメってことだな」
宗主の実の母親から守るために塔へ宗主を押し込んだこともある。とっさに人の気配がないか見渡してしまった。シャレにとってくれる気の利いた臣下は、あまりいなくなったから。言質をとっての密告、聞いた時期もあったが帝国が安定期にはいったころには止めさせなければならない悪習である。
自分の口許を指した。
「口、気ぃつけろよ。俺だって庇いきれねぇこと、あるんだぜ?」
「わかってる。ヘマはしねぇよ。それくらいの機転はもってるツモリだ、密告くらいで死んでらんねぇよ」
別嬪さんにあの世でどやしつけられる。そう言う心裡の声が聞えた。いまだに、京一の中にもあの人は居て。
ハレムの中にあの人が戻ってきているなんて知ったら、どんな顔をするか見物のような気がした。京一がハレムをつくらないのは宗主への誓いのため、なんて言っているが真実はあの人への操立て。懸想、というより崇拝だから今更目くじら立てることもない。
だがやはりオトコはオトコだから見せたくはないが。
見せたら、きっと欲しくなるに違いない。
軍編成の報告をする顔を見ながら、こいつの愛馬で何人あの人が買えるのか考えてみた。それほど安く市場で売り買いされてきたのだ、今ハレムに納められているあの人は。
市場で、品定めされるときは容赦なく裸に剥かれるという。あの白い肌を女衒たちは見たのかと不快なことを考えていた。
「……おい」
「あ?」
「あ、じゃねぇよ……聞いてたのか? オンナ乗ってて寝てねぇなんてフザけたことはぬかすんじゃねぇぞ、宗主?」
苦笑して聞いていなかったことだけ白状した。
夢中になって、溺れて、またあの人に毒でも盛られたら目もあてられない。かなりトラウマになっているみたいだった。
取り上げられたら今度こそハレム中のオンナ、袋詰して櫂船に積み込んで岸から離れたところで己の手ずから海に投げ込んでしまいそう。飽きたからっていう理由でハレム中のオンナをそうして入れ替えた宗主もいたが、それよりきっと凄惨な光景がカクジツ。
そしたらハレムに姉妹娘を差し出したヤツらが挙って反逆するだろう。京一は呆れて見放すだろうか。
またそんな違うことを考えていて聞き逃し、本格的に怒鳴られた。
オンナボケも大概にしろ。
もう、笑って誤魔化されてはくれなかった。
緒美以外のオンナ、必要があって娶った夫人たちの部屋や館に泊まらなければならない夜はだいたい月の半分くらい。
その他、狩に行ったりして野営をする夜もある。
宦官にも役割分担があって、白人宦官はセラームルク、宗主が謁見する表宮で働き、ハレムには入れない。ハレムに入れる宦官は黒人宦官。どの宦官もそうだが、権力欲が強い。
そんなのの中から緒美の傍に置いてもいいかと思えるのはそうそう人数は居らず、今のところ、ケンタというのに殆んど一任している状態だった。
無条件に宗主を敬い、権力欲の殆んどないヤツ。ただ、やはりこれも宦官らしい欲のうちの一つである食欲、とくに美食を求める傾向があってわかりやすいのが楽だった。どんな人間にも欲があって、それに突き動かされていることは物心つくころからの常識。
欲なんてなさそうなあの人。結局、あの人にも欲はあって、宗主を、弟を守りたいという庇護欲で動いて随分泣かされた。非道いって、どんなに泣き言いっても聞きやしなかった強固な欲、だった。愛されていて、愛していたから辛くって。穏やかに愛し愛されるのがどうしたってあこがれる。
手に入れたのが蜃気楼のような幻ではないことを、切に祈る。
マーベインから「黄金の道」アルトゥン・ヨルを通って愛妾〈ハセキ〉の館へ歩む。数日ぶりの道順だった。
ここはハレムの低い身分の女のために金貨を撒いてやるための道でもあった。だから「黄金の道」。寵姫のところへ向かう道で他の女の嫉妬を金でそらす、随分皮肉な道。
先導するケンタに館の扉前についたときにチョコレートを渡してやった。甘味はハレムや高い身分のものでなければ口にできない。宦官の中にはそれを食べたいがために金を貯めるものもいるくらい。
『トルコの喜び〈ロクム〉』という名の菓子があるくらいに、甘味は最高の喜びの一つだった。
「…頂戴いたします」
押頂くとケンタは扉を開け、宗主を中へ促し自らは扉の外に残った。
天井付近のステンドグラスから西日が射し、室内は色の光が床の絨毯に当たって極彩色を撒き散らす。暗順応と明順応を瞳に強いて緒美を探した。
「宗主さま」
緒美は長椅子に座って猫をじゃらしていたのを止め、すぐさまやって来て足許に傅いた。宗主の許しなく顔を上げるのは不敬だった。
手をとって元いた場所に二人で座る。緒美を背中から抱くように。
隅で人に懐くように仕付けられた猫が様子を窺う。孔雀の羽扇の羽が数本散らばっていて、またそれでじゃれさせて欲しいようだった。
同じく長椅子の上に投げ出してある扇を緒美の手にとらせる。小首を傾げ、淡く微笑むと緒美は猫を呼び寄せた。
背に当てたクッションの陰に当たり前だが書類は、ない。従順、オトコの側からみての美徳。
黒髪の合間からのぞく、白い首筋に口付けた。
「あ……」
反応の返し方も、教えた通りに。
猫が扇に飛びついて、羽を思うさま爪と牙で掻き乱した。抜け落ちてゆく、黒光りする碧の羽。西日に燐光をちらつかせながら舞う羽を追って猫は床へ下りた。
無言で耳朶を軽く噛む。すぐに色の変わる象牙の肌。
絹の服越しに胸を手で包み、形を確かめた。途端に力の抜ける体、扇も猫を追うように床に落ちていった。
夢中になって羽扇に噛み付き爪を立てる猫の傍で、同じように夢中になって肌膚を吸上げ指を這わし。
「……ン、……けぃ、…け、すけ……」
掠れた甘い声で名を呼ばせる。
条件反射のように口をついているのかどうかすら疑う余裕はない。前宗主があの人に要求した囁きとこれは同質のことであると、心裡の片隅で己の冷たい声が囁く。
いやだ。そんなことはない。
声に耳を塞いで、甘い鼻腔をくすぐる同じ香と肌の香りに意識を沈める。
それでも、どんなに夢中になっても溺れても、守ると決めたことだけは守った。
懐妊させない、この人を。
孕んだら最期、豹変した正妻・夫人たちが自分からこの人を取り上げようと画策するのが、火を見るより明らかだった。
母親が、いい見本を散々見せてきてくれたから。
数ヶ月たって。
真綿と絹布で包むようにしてきたあの人の変調を内密にケンタに告げられた。宮殿にはあちこちに噴水があり、その水音で盗聴を防ぐように設計されていた。
「…何だって……?」
「え…っと、ですから御懐妊のご様子で……」
周囲を鋭く見渡し人影がないかを確認し、尚且つ宗主はケンタの声を小さくさせるために自らの声を低くした。
「他に知っているヤツは?」
「あ、いません。俺くらいかと。だって館から御出にならないっすから」
「お前も他言すんなよ」
「え? でも御子が皇子の場合は御身分が昇格される栄誉なんでは…?」
「うるせぇ…それは俺が決めることだ。いいから黙っていろよ、海水浴したくなきゃな」
「……したくないっすから、黙ってます」
肩を大仰に竦めたケンタをハレムへ帰した。
険しい顔で回廊を足早に歩む宗主に皆下がって道を譲り、頭を伏せる。
長衣の陰で指折り、緒美がハレムに納められてからの月日を数えた。数えて考えられたのは、初めてひらいた夜のこと。
その夜以外、緒美には含ませていなかったから。処理は、他のオンナでしていたから、それしか思い浮かばない。守ると決めていたことを夢中になって忘れた夜、よりによってその夜。
とりあえずの沈黙を強いたが、どこからともなく噂が広がるのがハレムだ。報告を聞いただけで、もう正妻たちが砒素を隠し持って狙っているような気分になった。猜疑心が強くなったのも、宗主を守るために平気で裏切るあの人の心を疑っていたおかげ。
警戒しすぎても、彼女らの疑心を増長させるだけかとも考える。
守ろうと決心していたのに、自分が付け込まれる弱点をつくってしまったマヌケぶり。執務室に入るなり衝立を蹴倒して冷静さを取り戻そうと足掻いた。
孕ませちまった、どうすれば。
治まりきらずにいらいらと室内を往復する。長衣がジャマになって、脱いで机に投げ付けた。
あの人に下手にガキ、産ませたら殺しちまう。
彫りの美しい大理石の柱も蹴り上げる。観葉の鉢植えも蹴飛ばした。割れる音を聞き駆け付けて扉の前で逡巡する侍従の気配を無視した。
宗主の子の母親となることは絶大な権力と冨への道を約束するが、同時にすばやい状況判断する英智と大胆な行動力を要求される。後ろ盾のある正妻・夫人ならまだしも、何ももたないあの人では周りの動きすら感知できまい。危険を知らせてくれるようなオンナ同士の横の関係すら、守ろうという目的のために築かせなかった。
四六時中俺が隣で、守っててやれるわけでもない。
隣にいて同じものを食っていれば宗主へ危害を加える危険性も増すから手は出してこなくなるが、そんなことは宗主の政務からすると不可能で。
「……ッ…」
手負いのライオンのように低く唸っていると、場に似合わない声が扉の外から掛けられた。
「おーい、宗主。今日は肖像画のつづきの日だ。入るぞ」
それでも配慮したのだろう、侍従に持たせずに画材一切合財、自分一人で持って踏鞴を踏むような足取りで入室してきた。
手の塞がっている事実にすこしためらって、肩をすくめ足で扉を閉める。
「……行儀ワリィぞ、史浩」
「そういうなって、手が塞がっていたんだし」
背を丸めて床に画材を置く。
イーゼルを組み立てて、その後の行動がおかしかった。
「この間のつづきなんだがな、けっこう色のいい絵の具を手に入れたんで大分変更になるんだが……」
投げ付けた長衣を除けて書類の反古の裏にペンを走らせ、文面を見せる。
“なにかあったのか? 眉間の皺がすごいぞ。肖像画が別人になっちまう。”
机に戻ってまたペンを執る。
“聞かれたくないんだろう? 一人で部屋ん中で唸って。相談があるなら乗るぞ?”
「こことか、このへんとか…この色のほうがいいと思うんだが……」
「……お前のセンス、最悪だな。この色じゃ中に着ている服の色とあわねぇじゃねぇか?」
口を合わせ、椅子に座った。ペンを受け取り同じ反古の上に書く。
“今ハレムでかわいがってんのが妊娠した。”
“どうして? めでたいじゃないか。”
「ワザとこういう色をもってきて目立たせるという技巧だ。別におかしかないだろうが?」
口と手と頭の中と。忙しい。
“馬鹿。下女あがりで後ろ盾も何にもねぇからヤバいんだ。正妻共が寵愛タテに権力握るんじゃないかって警戒して、腹ン中の子ごと毒殺狙うに決まってる。俺はつきっきりでいらんねぇし。”
「……でもなぁ…道化師じゃねぇんだぞ、この色はねぇだろうが。この前の前に塗った色の方がよかったんじゃねぇのか?」
“とてもじゃねぇが、子が成人してハレムを出る十二まで無事って保障がねぇ。………殺したくもねぇが、傍に置いときてぇし……かといって堕胎なんてもっとできねぇ。それこそ殺しちまう。”
ぎり、と親指の爪を噛んだ。あんな細い体、流産だってもたないだろうに。
「この前の前の色? ……うーん、画面全体が暗くならないか? 俺はそう思ったから塗り直したんだが……」
“……随分入れ込んでんだな、噂以上に。……ハレムから出さない限りは安全じゃあないんだろう、その、寵姫殿は。どこか離宮とか、そういうところに住まわすってのはどうなんだ?”
“妊婦ってぇのは5ヶ月まではやたら動かせねぇんだよ、子が流れちまうから! 馬車で移動なんて堕胎させんのと同じだ。離宮だって考えてみれば危険なんだよ、俺の目も遠くなるぶん、刺客送り込む機会が増やせる。やっぱり手許しかねぇ……”
文字一杯になった紙面を、封のための蝋を溶かす火で燃やした。灰もつぶして文字を窺えないようにする。
「暗いって……ヘンに明るくっても威厳ってーモンがなくなんだろうが!」
「威厳……ねぇ……」
別の反古を裏返し、また史浩がペンを動かす。
“とにかく、しばらくの間はハレムで内密にさせるんだろう? が、出産となると必ず人目につく。そうすると子のことがバレて殺される。お前はそれを避けたい。……さすがの俺も咄嗟には策なんて思いつかない。2、3日、時間をくれ。何とか手を考えてやるよ。”
縋るように史浩の顔を見てしまったらしい、安心させるような笑みを浮かべた。
“お前、身辺に気をつけてやれ。その他のことは、アイツに命助けられた義理もある、絶対に手を考えてきてやるから俺に任せてくれ。”
読み終えると紙片の隅に火をつけて、その紙も燃やした。
「しょうがない。いっぺんアトリエに戻って絵の具を練り直そう。2、3日後にまた窺います、宗主」
もう一度笑って史浩は来た時と同じように、画材の従者のような格好で辞していった。
急ぎの書類にだけ目を通して、その日は早めにハレムに入った。
ぴりぴりと逆立つ神経がハレムの他のオンナにどう映るか心配だったが。