形代・3

 

 

きっちり3日後。

史浩のアトリエへ、所謂、御忍びってやつで出向いた。理由は肖像画の件。

史浩は使用人を使いに出し、中庭の噴水の水量を強めて、予め会談が盗聴されないようにしていた。

京一もいたが、宗主が来ることは知らされていなかったのだろう、慌てて立ち上がって臣下の礼をとろうとするのを手を挙げて制した。

「……史浩、京一にもしゃべったのか?」

「いや、まだだ。将軍、突然のお呼び出しで申し訳ない」

煌きながら空中に舞う水流が言葉を密やかに流してゆく。

「何、どうということはない。とりあえず表と裏、両方の出入り口に信の置ける屈強の部下を二、三人配しておいた。まぁ、不審者は入れまい」

示し合わせたように部屋の真ん中に敷かれている絨毯に三人、顔をつき合わせて座り込んだ。

「茶を出す使用人も使いへ出してしまっている、悪いな」

茶のないことを先ず謝ることから史浩は口を開いた。極秘性を京一に伝えるために。京一は半瞬で呑込むと、顎を一撫でして頷いて続きを促した。

「宗主、貴方の身内は今は将軍お一人だ。それに間違いはありませんね?」

「……イヤミか? ………まぁ、認めたくはナイがそうだな」

そしてまだ腹の中だけれど、未来の身内が一人追加予定。あくまで予定の危うさ。

「将軍も。正妻はいらっしゃらないし、側女にも?」

「……あぁ、いねぇ。一族いても近い血っていったら宗主だけだ」

カンがいいからそれだけで筋を読むのが早い。宗主を見てにやり、と笑った。

「ヤベェオンナでも孕ませたか? どっかの後家とか」

オンナはハレムから出ちまえば、何処の何方サマか判別がつき難い。どいつも似たような外套〈アバヤ〉で身をすっぽり覆ってしまうから。ほんの隙間からのぞく双眸すら、厚い化粧をほどこしてしまうと全く解らなくなる。オンナがモスクへ参拝したいと言えば男は拒みようがない。宗主が絶対視されているのも、男達が信仰する神の意思を遂行する代理人だからだ。

事実、そうやって市井のハレムを抜け出してきた人妻をツマミグイした前科もあったから笑えない冗談でもあったが、今はムリして笑って違うことを示した。

「……孕ませたのは、……俺のハレムのオンナ」

「じゃあ、オダリスクか? なら女官の身分から昇格させてハーセキ・スルタナ、夫人の身分にすればイイことじゃねぇか。うまく皇子が生まれて即位すりゃハレムの最高権力者ヴァリデ・スルタンだ」

そこのトコロのオンナの権力闘争なんかには興味はねぇと鼻で笑った。武人だから戦場の正面の敵しか相手にしたくない性分。国を治めるのに自分のハレムくらい治めてみせろと先度の科白を逆手に取ってきた。

「……下女あがりで後見がねぇんだ。他のオンナに殺される」

「それで、俺に後見になれって? ……バカいってんじゃねぇよ。ハレム内の権力闘争にまで俺は手ぇ出す気ねぇぞ。ヘタに介入して身動き取れなくなんのがイヤだからな」

ハレムの権力闘争に生涯明け暮れた叔母の醜態をまざまざと見てきた。実家に面当てに帰る時は、いつだってそりゃあ不機嫌で、美しい筈の顔は憎しみと呪詛に歪んでいた。

連れられて来ていた宗主との共通の記憶。

「そうでなくとも文官どもが五月蝿い。これ以上、身辺が五月蝿くなんのはゴメンだ」

縁も所縁もねぇオンナ庇ったら、他の娘差し出しているヤツラまでいらぬ警戒してくる。冗談じゃねぇ。

あっさりと切り捨ててきた。

弱っているのを捨てるようなヤツじゃなかったが、あの人の一件以来、宗主のオンナには首どころか手、口すら突っ込みたくないらしい。

不機嫌に沈黙した京一と唸って明後日の方を向いた宗主に、慌てて史浩が口を出した。

「いや、そうじゃなくって……将軍……宗主……ハレムに居ては危ないっていうんなら、いっそのことハレムから出してしまおうと考えたんだ、俺は!」

離宮には出せねぇって言っただろう?、と睨むと、まぁまぁと手を振って場を治める。

「俺が考えたのは、将軍にその、オダリスクをだ、下賜してしまえばいいんじゃないかって、考えたんだが……ダメか?」

「はぁ?!

「……お下がり貰って喜ぶほど困ってねぇぞ」

宗主からの下賜品で最高級の物をぞんざいに言うヤツはコイツくらいだろう。

史浩は遮って言葉を継ぐ。

「将軍は宗主に仕えて長いし、身内だし、女を下賜されても警戒するような内儀もいらっしゃらないし、それにそこまで手を出そうなんて考えるハレムの輩もいないだろうし、匿ってもらうには最適かなぁって……」

史浩の言が面白くないという風に脚を組替えた。下賜しちまったら会えなくなるからだった。当たり前だ、一度くれてやったオンナに執着するだなんて、そんなみっともねぇ真似は矜持が許さない。

でも執着したい、あの人だから。

傍に、手許に置いておきたいと言ったはずなのに史浩の策ってのは、それを忘れている。あの人の身の安全だけ。

あの人を傷付けないように宗主から離す。宗主に返り咲いた後、あの人の安全のため離そうとして死なせてしまった記憶が、今更の距離を拒む。手離したらまた何処かへ行ってしまいそう。手を伸ばせば触れられる距離で、白い肌の温かさを確認していたい。白を彩る鮮赤など、二度と見たくない。

沈黙してしまった部屋の重い空気を噴水の水は流せなかった。

暫くそうやって三者共に視線を合わせずにいたが、京一が口を重々しく開いた。

「……俺もなぁ、一応一族の長だ、いずれ一族の中から後継ぎを決めなくちゃならねぇ。その時期が近いんだ、歳も歳だしな。きっと一族内がゴタつき始めんだろう……そんな中にオンナ貰ってみろ? 有力なヤツらから、おめぇのその、大事なオンナが確実に無事ってな保障、俺はしきれねぇなぁ……。ワリィが最適の策じゃねぇんだ」

宗主の外戚の家ってのもそれなりにな、と苦笑して立ち上がる。結局あの人の無事を保障する打開策はないまま済崩しに密会は解散になろうとしていた。

が、その時、京一の部下の一人が足跡を立てずに走って来ると京一に耳打ちした。

座ったままの宗主を見下ろして片眉をあげてみせる。

「お前、迎え頼んだのか? 宦官とオンナが裏に来てるってよ」

 勢いよく伏せていた顔を上げ、京一を振り返る。

「! 来たか……中に入れてやってくれねぇか? 目立つから」

史浩だけだと思っていたから、どうしても守りたいってのを解らせるために密かに呼び寄せていたのが来た。ゆっくり揺らさないよう、徒歩で連れてくるように命じて。

屈強な兵士に先導されて、ケンタがアバヤのオンナの手を取って歩く。手招きしてオンナを絨毯の上、宗主の傍に座らせた。

京一も場の雰囲気で仕方なく座りなおした。なるべくなら誰にも見せたくなかった人を、見せる。この人の命が大切だったから。

目だけを出した厳重なアバヤ。化粧気のないのを煌く黒い光彩が補って余りあるキレイさ。

覚悟を決めて顔を覆っているヴェールを手ずから取ってやった。繊細な花の囲いを外すように恭しく。

零れる黒髪、白い頬、艶やかな唇、何よりも替え難いその戻ってきた容貌に。

史浩は仰け反り、京一は。

声なくあの人の名を、薄い唇が呟くのを見届けた。

驚愕した顔が、今まで見たこともない程の間抜けズラであったことも。

 

 

 

常でなくなった体というのは男には解らないツラさがあるようで。肌触りの良い上等な絹布と腹の子のための贅沢な食事を与えた。

しかし、あからさまに「腹に子がいます」と宣伝するような迂闊な真似が出来るはずはなく、宗主専用の厨房に宗主の希望という形で食事を二人分用意させ、ハレムのオンナはハレム専用の厨房で作られた食事を食べるという決まりを無視し運ばせず、宗主の膳で共に食べさせるというハレム中のオンナに殺されそうな猫可愛がりな寵愛という形を示した。

囲いすぎて、今までの均衡がグラつきかけていることは、生木が燻るようなハレムの雰囲気からじわじわと伝わってきた。

館に出入りする宦官も宗主がいるということで自ずと増えた。

救いといえば、緒美の腹が普通のそれと比べてふくれておらず、目立たない事であった。服もゆったりした物を着させるようにケンタに密かに指示しておいた。

一番困ったのが入浴。沐浴も神の定めた重要事項だから外せないのだ。

人目、それも一番厄介な人間の目につく行為。

当然だが宗主は専用の浴場を持っていた。あと浴場を所有しているのは皇太后のみ。妻以外は寵愛を受けるオダリスクといえど、奴隷身分であったから低待遇であることが当然であったのだ。

決定打だと思っていた。

小振りだが専用の浴場を作ってやったのは聡いオンナの視線から裸身を見られないようにするためであった。

神の定めた運命〈クスメット〉はその人間の額に書き込まれる、というが、この人の白い額に書き込まれた運命が宗主から離れなければならないというものでないことを夜毎額に口付け、祈った。

あの人の運命と同じ運命なんて、それは酷すぎる。

 

 

 

乗馬を楽しむ、というのは嗜み以上に戦場で如何に馬を操れるかが関わっていて否応無く男には課せられた義務のようなものだった。

気性の荒いアラブ馬を乗りこなすことが自分には簡単な行為に分類されていてよかったと思う。あの人もキレイな顔に似合わず、平然と荒馬を乗りこなしていた。膝できゅっと馬の胴を挟み込み、細い腕で靶を捌いて。

そんな感傷に浸っていられたのも短時間で、その日は軍編成後の閲兵を兼ねた帝室の狩場でポロ競技が行われていた。

畢竟、ハレムから出なくてはならなくて、後ろ髪を引かれながらケンタに事後を預けて今、ここにいる。

結果は見るまでもなく、黒馬を駆る京一以上に巧みな騎手がいることはなかった。先ず、馬自体が他のものと比べ物にならない。靱やかな筋、張り詰めた筋肉、恐れもせず駆け込むことを慣らされた、主人に従順な性質。あれで牝馬だというのだから良い種馬が見つかれば最上の軍馬が産まれるだろう。武人なら喉から手が出るほどの良馬を常に有しているのは強みであろう。

予定より早めに終わっても、表宮で宴が張られることになっていたのでハレムへ入る時間が遅くなるであろうことが予想された。けれど憂鬱な表情を頬に載せず、軍の編成具合に満足そうな笑みを浮かべなくてはならない。ハレム内で横暴に振舞っていた前の宗主が、ちらりと脳裏を掠めた。あの人が言った科白で一々腹をたてていたバカだった自分も。

鷹揚な態度で馬を歩ませていると、前から宦官が走ってくるのが見て取れた。

ケンタだった。

あれ程離れるなと命じておいた事を放棄したのかと舌打して馬を寄せようとして、隣で轡を並べていた京一に制された。

「…俺が行く。お前は速度を変えるな」

ケンタを道の隅に寄せ、話を聞き戻ってきた京一は渋面を隠そうとしていなかった。凶報であることは一目瞭然、あの人に関わること。

「……ハレムのな、警護の斧兵、何人か借りるぞ。後、医者をすぐに寄越してくれ」

「何があった?!

「閉じ込められたんだと。風呂に。どうやら金を撒いたヤツがいるらしく、他の宦官どもが救出に手を貸してくれねぇって」

!! クソッ……誰の仕業かわかったら、そいつ、海に叩き込んでくれる……ッ」

「おめぇに愛されるオンナは大変だな。蒸されたり……干されそうになったり」

壬宮の一件を蒸し返された。眉間に皺を寄せている時間すら惜しいのでその発言に反撃をせず、ハレムへ入る許可を京一に与えた。

「宗主、ゆっくり来いよ? オダリスク一人にあたふたするザマなんか臣下に見せんじゃねぇぞ」

ただのオダリスクでない事を知っていながらの忠告。

黒馬に鞭を当て、京一は宮殿へ向かった。

権力に足をとられて何も出来ない、情け無い宗主。隠れて溜息。

 

 

 

酒の味などわからない宴だった。けれど中座するわけにもいかず、注がれるままに杯を干す。

途中、広間に遅れて入ってきた京一は憔悴の色を巧みに隠していた。ケンタの報告では、特に母子ともに異常はないとのことであったが、ハレムのオンナたちに妊娠が知れたようで、ざわざわと蠢爾する音が表宮まで聞えてきそうだ。

なのに広間の酒精のざわめきは紗の掛ったような隔たった音となって耳を打つ。悪酔いした脳が不規則な楕円を描いて回り、仕方なく瞼を軽く閉じた。

「……主…さ…、宗…、……宗主…さま……」

 閉じていた時間が長かっただろうか。

傾いだ上体を軽く揺すられて目を開いた。酌女がその柔らかい体で支えていたらしい。媚を含んだ仕種が、煩わしかった。宮殿に仕えるオンナというオンナは子を殺そうと狙っているように見えるのだ、どうしようもなく。

邪険に手を振って払い、侍従を呼ぶ。

「……酔った。ハレムに行って寝る」

「……御疲れなのでは…? マーベインのほうがよろしゅうございますでしょうに」

「うるせぇ……、愛妾の館に行く。そう、宦官に伝えておけ」

首を巡らせると、不味そうに杯を小さく傾ける京一が視界に入った。

「あと、京一に……感謝するって伝言しておけ」

ハレムの入口からは出迎えた宦官の肩を掴み、酔歩を補う。

ケンタには今度こそ傍を離れるなと命じておいた。食事は勿論、水にも気を付けろと。知れた以上、気は抜けないのだ。そういう場所なのだ。

館の扉まで着いたところでついて来た宦官達をかえす。小金を握らされている可能性があるからだった。

扉を押し開け、体を滑り込ませると内から錠を下ろした。

音を聞きつけて部屋から出て来たケンタの肩につかまる。

「……どうだ、様子は…?」

「できるだけ水分を取って頂いて、今はお休みになってらっしゃいます」

寝台の脇、絨毯の上にクッションを持ってこさせ腰をおろす。ゆるやかに上下する胸を見届け、漸く安堵の息を吐けた。

「ケンタ」

「はい?」

「下がっていいぞ。俺はここで寝るし。おめぇも休んでおかねぇと隙ができんぞ」

「……すんません…じゃ、隣の部屋にいますんで何時なりと起こしてください、宗主」

ケンタの持った燭の灯りが静かに扉が閉められることで遮られる。室内は隅に一つだけある明かりでぼんやりとしていた。

その闇に溶け込んでしまいそうな黒髪に指を差し入れ、梳いてみた。毛先は冷たかったが、頭皮の近くは温かく生きている実感がした。

「…………よかった」

助かって。

寸でのところで取り上げられそうになったのを取り返した。しかし、また取り上げようとされている。ここにいる限り何度でも。

指先から伝わる体温がこんなにも心地良いのに、地上から無くなるのは、辛い。

それによくよく先を考えてみるに、仮に皇子を出産して宗主にならなかった場合、今腹の中で息づく子の命はない。生まれて次の世代へ繋ぐことなく切れてしまう。皇女なら嫁に出してしまえば良いことだが、確率は半分。

どう助けようと足掻いても必ずその道には行き止まりがあり、宗主の権力をもってしても八方塞がりになっていた。皇女であることだけが唯一の細い道で、けれど子を産んだ実績のあるオダリスクを正妻達が放っておくはずがなく、潜在的な敵として変わらず嫉視と殺意の対象である、命の当ての無さに嘆息した。

悔しくて、涙が滲み出る。

何時だってこの人を困らせるのはバカな俺で、守りたいと思っても守られてばかりで。助けられるのは今度だって京一だった。

雫を拭うこともせずに眠る白い面を見詰めた。

そうやって悔恨と思考を繰り返しているうちに、酒精がゆるゆると睡魔を連れてきたようで意識がぷつり、と途切れた。

 

 

 

愛しい雰囲気が身を包んできた。

それに覚えがあり過ぎるほどあったので起きようと努めたのを、その気配はやんわりと制した。

疲れているんだから寝ていろ、と。

記憶のまま優しいそれにうっとりとして、言われる通り体を動かさなかった。

きっと大丈夫、と気配が呟く。

「だめ。……殺されそうなんだ。つきっきりでいられねぇし、目の届かねぇところでまた、いなくなっちまう」

喪失の恐怖に新たな涙が溢れる。

泣くなよ、と笑う。

笑い事じゃない、と返事に口を尖らせた。

父親になるくせに子供みたいだな。

「予定外だった」

過ぎた事をいうな。前を見ろ、前。

突き放す言い草も励ましているのだと分かる。けれど。

「……やだ。アンタがいなきゃ生きていけねぇ……」

甘えて縋る事を許されているのを確かめたかった。バカみたいな駄々を捏ねて。

…大丈夫。

また繰り返した言葉に傷付く。アンタが戻ってくるまで平気だった訳じゃないと言いかけたが、先をとられる。

大丈夫……、腹の子には俺がつきっきりでいるから。お前の息子、死なせる筈がないだろう?

微笑んで緒美の腹を掛け布の上から大切そうに何度も撫でる白い手。出来ない事なんてなかったその手が、往復しているのを見詰めていると言われたように大丈夫なんだと思えてきてしまう。

その隙間に滑り込ませるように呟く声。

そう、大丈夫だから……お前はお前で出来る処置をとるんだぞ? 必ず。

「……それは俺にハレムから出してやれって言ってるの?」

お前がそう考えたなら、それがお前に出来る事なんだろう?

「ヒデェ……結局アンタ、俺の傍からいなくなるんじゃねぇか……」

不貞腐れて、布に顔を伏せる。その位はしてもいい筈だ。

苦笑する気配は仕様が無いなと、もう片方の空いていた手で俺の髪も丁寧に撫でてくれた。

その仕種に気持ち良くなっているうちに深く眠り込んでしまう。消えてしまうからダメだと叱咤したのにも関わらず。

相変らず扱いの上手い人だと、萎える意識で罵った。

結局、アンタの望んだ通りに生きてしまっている。