再びの景色

 

 

 とめてある車を。

 立ち止まって、僕はまじまじと眺めた。

 日曜日の昼間。えりこに頼まれた本や食べ物を買って荷造りして、イギリスへ送った。そんな細々した用をするのはけっこう楽しかった。大型ショッピングセンターで、巨大な棚の前に立ち、指定された銘柄のコーンフレークを探す。ドライフルーツが混ざったそれの、箱が僕には懐かしい。僕が知っている男も昔、朝はそればかり食べてた。僕が泊まった翌日も。僕も何時の間にか、それを好きになった。

 けど忘れていた。冷たいミルクをコーンフレークにかけて、優しい甘さを向き合って味わう。そんな朝は随分と遠い。そうしてもう、二度と戻ってこない。

 コーンフレークをダースで箱のまま買い、自分のためにもう一箱。僕は買い物をするのは嫌いじゃない。街を歩く事も。ただ、多分はそんな機会がなかなか、ないだけで。

 昔、むかし。

 昔は、あいつと休日のたびにそうしていた。

 土曜日は夜通し走りこみ、そのままよく、あいつの部屋に泊まった。日曜は朝、遅く起きてコーンフレークで朝食。僕はまだ医学生で、電話で呼び出される頻度も今とは桁違いに少なかったから、昼は大抵、外に食べに行った。洒落た店には入ったことはないけど、駅前の喫茶店やバイパスのファミレスで、いろんな話を、しながらゆっくり食事を、した。

 懐かしい。

 前世の記憶みたいに朧な、幸福な思い出。

 それに浸りながら真昼の街の歩道を歩いた。街角で曲がった途端、僕の視界に飛び込んできたのは、ミッドナイトブルーのボディ。真昼の明るい陽光を弾いて尚、禍々しさを撒き散らす、重量感のある輝き。

 コーンフレークの一箱が入った紙袋を片手に抱いたまま、僕は気が遠くなった。あれだ。あれが僕から、幸福を奪った。僕の幸福の、あれは棺。僕に優しかったあいつがあの、中で、死んだ。

 フロントガラスに太陽と青空と、そこに浮かぶ雲が写ってる。その光景を、僕は何度も見た。寝床で一緒に過ごした翌日、僕に車の運転はムリだった。あいつがいつも、車を出してくれて、僕はあいつがナビのドアを開けてくれるのを、あのガラスに手を置いて、待った。

 どうして。

 お前は……、そこに居る。

 他は何もかも、カタチを変えて失われてしまった。なのにどうして、お前、だけ。

 昔と微塵も変わらない、姿でそこから、俺を見るんだ……?

 そのまま、どれくらい、立ち尽くしていたのかは分からない。

「……えっと、コンチワ……」

 若い声が、すぐ後ろから聞こえて、僕は正直、驚いた。はっとして振り向くと、僕の反応にかえって驚いた表情で。

「こんな所で、会うの偶然だね」

 それでも落ち着いて僕に話し掛けるのは、悪魔のZの、今の持ち主。名前が僕のあいつと音が同じな、アキオ。

「そっちも車?」

「いや……」

「地下鉄?僕もそうすればよかった。日曜は、道すいてるけど、車ノロくって、ヤになるよ」

 まだ十代のこの若いアキオは、そう愛想がいいという訳じゃない。けど率直で素直で、思ってることを自然に話す。悪びれないところが僕が、知っていたアキオに似てる。

 無言で肯定して、若いアキオが車に乗り込むのを眺める。そのまま見送るつもりだったけど。

「はい」

 ナビシートのドアが内側から、開く。

 戸惑う僕に、若いアキオは真っ直ぐな目を向けて。

「あれ、違う?」

 不思議そうに首を傾げた。

「乗せて欲しそうな顔、してるのに」

 その言葉に促されて、僕は屈んで、Zの胎内に入った。乗りたかった。とても。だって。

 これは、あいつが死んだ場所。

 この中で、あいつは息を引き取った。

 Zはゆっくり発進する。真夜中の湾岸で怪物のように、闇を切り裂く姿からは想像もできないほど大人しく、車の流れに乗って進んでいく。こんな時間が前にもあった。僕はこの車のこのシートから街を眺めていた。

「駅まで送ろうか?」

「いや……、別に」

「昼ごはんは?食べた?」

「まだだけど」

「じゃあ、適当に入るよ」

 異議は唱えなかった。僕の気持ちは時間を何年も瞬時に遡った。シアワセだった暖かさを思い出す。僕はあの頃、笑っていた。あいつは僕を安心させて、笑わせるのが上手かった。僕は信じて、何もかも任せた。

 この、車の中で、最後の時。

 僕もごく近くに居た。暴走するこのZを必死に追いかけた。この中であいつが必死に、ブレーキを踏むのが分かった。路面にはタイヤの擦れた跡が何百メートルも続いて、でも、これは減速、しなかった。

 アキオはそれでも諦めなかった。僕も諦めずに追い続けた。でも、とうとう。

 最後に一瞬、目があった。

 何かを、言われた、聞こえなかった。でも何を言われたかは痛いほど分かってる。逃げろ、って。

 あいつは僕に言った。そして炎に包まれた。僕はなんにも出来なかった。僕の目の前で、あいつはこの世から居なくなった。このZの中で。

「どったの……?」

 ハンドルを握ったまま、若いアキオが尋ねる。

「……すまない」

 滲みそうな涙を、拭うのもなんだか気が引けて、僕は掌で顔を覆った。だからって涙が、止まる訳でもない。

「すまない。適当に、とめて降ろしてくれ」

「いいよ。隣で泣かれるの初めてじゃないし」

 えりこのことだってすぐに分かった。えりこも、ここで泣いたのか。えりこもこのシートには何度も座ってたはずだ。アキオが一人暮らしを始めて、僕が時々、そこに泊まるようになる、前。

「適当に流してるから、好きにすればいい」

 言われてようやく落ち着いた。掌を顔から外して目を伏せる。フロントガラスごしの空が、ビルの隙間から見える。ひどくきれいな、冴えた青だった。

「死んだ人のこと思い出したわけ?」

「……あぁ」

「好きだったの、そいつのこと」

「とても」

 ふぅん、と、若いアキオは言ってアクセルを踏み込む。市街地から郊外、そしてバイパスを抜けて車の数が減る。湾岸に向かっていると分かった。けどこんな日曜の昼に、行ってどうするんだろう、とも。

 思った、瞬間。

 Zは鋭角に曲がった。予備動作抜きで、不意に。何を考える間もなく、気づくと駐車場だった。四方を壁に囲まれて薄暗く、出入り口さえ幕が垂らされて、外界を遮断した薄暗い、場所が。

 インター近くに点在するラブホテルの、ソレだってくらいは辛うじて、僕にも、分かった。

「名前」

「……」

「なんだったっけ?」

「……」

 僕は答えなかった。本名を尋ねられていると分かったけど、応えてそれで、呼ばれたくはなかった。だって呼ばれたら、僕も呼ばなきゃならなくなる。この若い子を、あいつの名前で。

「あなたも僕を身代わりにしたいの?」

 死んだ男の面影を、君に……?

「懐かしいのは、車だよ」

 君自身ではないと、言外に告げた。

「ここに、僕はよく、座った」

「ふぅん」

 感心なさそうなその言葉は、この子の口癖らしい。二度目の後も、不意をつかれた。俯く僕に、重なる唇。

 最初は僕の出方を誘うように軽く、やがて僕を誘うように蠢く。でも無反応で居ると、苦笑とともに、離れた。

「行かない?」

 部屋に続いているのだろう階段を、目線で指し示す。

「君は、十九歳だろう」

「だから何?普通のことじゃない」

「僕が十九の頃はそうじゃなかったよ」

 免許をとって車には乗ってた。乗ってた車がポルシェだって意味ではあんまり、普通の十九じゃなかった。でもそう、こんな風に気軽に、入る場所ではなかった。ホテルも、ベッドも、相手の体の中にも、心にも。

「単なる、意思表示だよ」

 僕と寝る気になったのか。えりこのことも、こうやって誘ったのか。ヘンな子供だ。

「降りなかったら、どうなるのかな」

「どぉにもならないよ。無理強いしたら犯罪じゃない。残念だなぁって思いながら、出るよ」

「出てくれ」

「……残念……」

 それでも笑いながら、若いアキオはギアを一速に入れる。入ったときとは裏腹の優雅さで、Zは薄暗い結界の中から外界へ戻った。途端に、青空も、僕の瞳の中に。

「なにか食べたいもの、ある?」

「いいよ。降ろしてくれ」

「昼ごはんぐらい付き合ってよ。ファミレス入るよ。それでいい?」

「あぁ」

 僕の答えに、視線を街並みに向ける若いアキオは気づいていなかった。僕がひどく脆くなってることに。

 あのまま、車の中でなら、僕は大人しく、なんでもされていただろう。

 Zの中で抱き合ったことは、あった。キスはそれこそ、数え切れないくらい。

「はい。お待たせ」

 集中ロックじゃない車の、ナビ側のドアを運転席から身体を乗り出して、外してくれる仕草が。

「飲みたかったら、酒のんでもいいよ。帰り、家まで送るから」

 残酷な錯覚。

「行こう。なに食べる?」

 君に。

 飢えてる僕に、君はまだ気づいてない。