終末の唄・上
「……」
そのイキモノと、
「……」
俺は数秒、見詰め合ってしまった。
先に着いたら、水をやっておいてくれ、と言われて。
はいはいと、俺は気軽く答えた。ちっちゃい観葉植物の鉢かナンかだと思っていた。小さい鉢でも室内の空気はずいぶん、改良されるらしい。そういいながら煙草を吸う俺に嫌味のように置かれた鉢に、コップで水をやってることがあった。
もっている合鍵で彼のマンションのドアを開けた、途端に動くものが視界に入ってくる。丸いふわふわの尻尾をふりふり、揺らしながら俺を見上げてくるのは。
「……アニキ?」
「誰がだ」
うさぎが喋った、と思った俺は驚いてのけぞる。
後ろに立ってたアニキは薄情にも俺を避け、さっさと部屋に入ってしまう。
「急げ。冷える」
それでも、ドアを支えてくれたのは嬉しかった。
「うさぎが寒がる」
理由がなんか、ひっかかったけど。
彼はコートを脱ぎながらリビングへ向かう。うさぎはそれについて行く。その後ろから、俺も。
彼はネクタイを緩めながら、コップに汲み置きしていたらしい水をキッチンの床に置かれた皿に注ぎ足す。すぐにぴちゃぴちゃ音たてて、うさぎがそれに口をつける。俺の位置からは、まん丸の毛玉が動いてるようにしか見えない。時々、尻の丸みの向こうで耳が揺れる。
「ナニ、それ」
うさぎを跨いでリビングに戻った彼に問い掛ける。
「うさぎ」
「そーじゃなくってさ、飼ってんの?」
「あぁ」
「なんでまた、あんたが」
ペットなんか、と俺が眉を寄せると、彼は苦笑して、
「俺は、前から飼ってみたかった」
猫とか犬とかを、と呟く。そういやそうだった。嫌がっていたのは彼ではなく俺。だって。
「イキモノって、死ぬじゃん」
水を飲み終えたうさぎは、主人を慕うようにリビングにやって来る。俺の存在を気にも止めずに、真っ黒い目で彼を見上げながら素足の甲に乗る。遊んでくれと乞われて彼は、それを抱き上げた。
「俺もお前もな」
可愛がられてる日常を示すような、つやつや、ふわふわの毛並みだった。真っ白な毛並み。
「シロウサギ?」
「いや、目が黒いだろう?今は冬毛なんだ。本当は茶色の斑が入ってる」
「どーしたんだよ、ソレ」
「ちょっとな」
「ちょっとじゃ分かんねーよ」
「ここ暫く、無茶な生活をしてたから……」
忙しくてな、と彼が言う。それはそうだろう。彼は来期から自分のチームを立ち上げる。史浩やメカニックを始めとして、レッドサンズやD時代の関係者のうち、プロになってる連中をかき集めてる。スポンサー探しには俺の一番気に入らない男、須藤京一も協力していて、はっきり言って、俺は面白くなかった。
「入院したんだ。三日だけだけど」
低血糖に低蛋白。要するに、栄養失調で。
「知らなかったぜ、俺は」
「たかが三日の入院を、南米に居たお前に知らせてどうする」
要するに栄養失調だった。退院した日に、うさぎをもらった。これと暮らしていればイヤでも、家に帰るし買い物もするだろう、と言われて。戸惑い、飼えないと言って還そうともしたが、子うさぎはあまりにも可愛かった。そして、暖かかった。手放すことが惜しくなるほど。
そして、確かに。
彼は買い物をして、自宅に戻るようになった。乾燥のラビット・フードは好きでないらしく、本当に飢えないと食べないから、ニンジンやレタスを買いに行かざるを得ず、そうするとつられて自分の食べるものも買う。たんぽぽやあざみの葉が好物で、もって帰るととても喜ぶから、休日の公園や空き地にでかけるようになった。そんなこんなで、健康状態はずいぶん良くなった。
「……史浩?」
啓介は、一抹の期待を抱いて尋ねたが、
「いや」
短く否定されてしまう。……すると。
「あいつかよ」
名前を呼ぶことさえ、嫌なあの男。
気の利く真似をする奴が気に入らない。自分のことは構わないくせに、庇護するべきイキモノに対してはとてもやさしい彼の、習性を上手に利用した手段が気に入らない。
不機嫌に黙り込む俺に、
「乱暴、するなよ」
彼が釘をさす。しねぇよ、そんな、小動物になんか。
気にいらねぇのは、そのふわふわの毛玉じゃなくってそれをあんたに与えた男の影。
「死なれるの怖くねぇの?」
いとおしげに毛並みを撫でる彼に、繰り返し尋ねる。
「可愛がったぶん、死なれんのって痛くなるぜ?」
「だからって可愛がらないのは本末転倒だ」
うさぎを床に、そっと彼が置いて。
「……風呂、どうする?」
肝心なことを尋ねた。
一緒に温まって、ベッドに入る。
毛玉はリビングの一角、古い毛布を敷き詰めて、ちっせぇホットカーペットを敷いた場所で寝てる。
俺たちは抱き合い、身体を繋げて息を分け合った。好きだよ、あんたのことを、とても。
腕をまわして抱き締めると、全身で抱き返してくれる。ぴったり重なるカラダがとても、いとおしい。ダイスキだよ、とても、凄く。
初めて寝た時から、十年。ようやく俺たちは隙間なく、抱き合うことが出来る。
あんたを、泣かせたり傷つけたり、散々したけども、ようやく。
甘い交合の美味を飽食して、夜明け前。
「……さみしーの?」
彼の匂いと感触と暖かさに包まれて、ムチャクチャにシアワセなキモチのままで、尋ねる。とけあった場所から体液だけじゃなく気持ちまで流れ込んで、ようやく俺は、彼の内部に、触れた。
「少しだけ、な」
「俺が居るじゃん」
「うん……」
「うん、じゃねぇだろが。俺が居るのに、ナンで寂しいんだよ」
追求に、彼は曖昧に笑う。優しいキスを交わしながら、それでも考えていたが、
「なんで、だろう」
結論を出し切れず、目を閉じる。
「離れてっから?それともまだ、俺んこと信じてねーの?」
もう……、俺は。
オンナはあんただけで、いい。
あんたと寝る前も後も、散々に女とは遊んで泣かせて恨まれて。呪い殺されて当然の真似をずいぶん、したけれど。
結局、やっぱり、俺の全部はあんたに戻ってく。鮭が外海を泳ぎまわりながら、終焉を生まれた川で迎えるために回遊してく、みたいに。
最後には、俺は、あんたの、ナカに居たい。
言うと優しく、本当に優しく彼は、俺を抱き締めてくれて。
「愛している、よ」
嬉しい言葉を、こぼす麗しい唇。
それに優しく、俺は自分のを重ねた。
うーあんたは俺んで、俺はあんたの。
まだ、分かんねぇのかよ……?
ずっと一生、ずーっと居るのに、俺は、俺たちは……。
愛し合って……、るのに。
翌朝。
というよりも、昼下がりだったが。
俺は珍しく、彼より早く目覚めた。一昨日、日本に着いたばっかりでまだ、体内時間が微妙にズレてる。
彼はまだ眠っていた。裸の肩と、喉が真っ白だった。軽く撫でて、毛布を引き上げてやり、寝室から出る。リビングのひだまりで毛玉が、あったかそうに丸まってうとうと、していた。
「……よぉ」
なんとなく声を掛ける。キッチンの冷蔵庫から牛乳を取り出して飲む。と、毛玉はぱたはた、こっちに駆けて来る。尻尾をふりふり、しながら俺を見上げる目はきらきら、輝いて。
「なに、呑むのかよ。大丈夫か?」
聞きながら、それでも小皿に牛乳を移してみると、顔ごと皿にぶつける勢いで飲みだす。なんか、可愛い。
彼がこれを、アイシテルのが分かる気がした。
「……パンもやってくれ……」
毛布をカラダに纏ったまま、起きてきた彼が言う。けだるげな様子と乱れた髪、素足がむちゃくちゃ、イロッポイ。
「棚の奥に、あるから」
それはさっき見つけてた。彼の家に栄養剤以外の食品があるのは本当に珍しい。柔らかなライ麦パンを差し出すと、毛玉は耳を揺らして食いつく。
「お前、役に立ってんだな」
パンにしろ牛乳にしろ、人間の食料でもあるそれが、あれば彼だったハラが減ったら摂るだろう。思いついた奴のことは気に入らないが、毛玉自体にはものすごく感謝した。
風呂からあがってきた彼が、
「散歩に行くが、お前、どうする」
「え?」
「その子の餌をとりに行くんだ」
暖かなダウンジャケットを羽織って、ビニール袋を手にして。
「買ってきた野菜より、公園のアザミの方が好きなんだよ」
おかげで近所の空き地に詳しくなったと、笑う彼にもちろん、ついていく。
遅いランチを近所の喫茶店ですませてから、ぶらぶらと川原まで。きれいな白い指先がアザミの茎を折る。茎から滲んだ白い汁が、ナンかちょっと、淫らがましい感じで俺の目を愉しませた。
彼の指先が白濁した液体に塗れるのが。
「なぁ……、アニキ」
「ん?」
「俺もさぁ……、寂しいよ」
よく考えたら。
普段はそのことを忘れてるだけ。
「そうか」
「うん。……でね」
昨夜から、ずっと考えてた。
「結婚しねぇ?俺たち」
あざみを探して川原を降りようとしていた彼が、不審そうに瞬いて振り向く。
驚きと言うより、理解していない顔をしてたから。
「俺と、結婚してください」
真顔で繰り返す。
十年来の、それが望みだった。