終末の唄・下
「いやだ」
俺の答えは、素早かったと思う。
「なんで」
弟の反問はそれ以上だった。
理由を問われて考える。嫌だと言ったのは脊椎反射で、思った理由は脊椎から逆に辿っていかなければならない。脳ではなく胸へ。思考ではなく、感情へ。
「そんなに何もかも、お前の思い通りになるのは嫌だ」
真っ直ぐ弟を見て答えた。弟はむっとして見返したが、やがて静かに、目を伏せて。
「……無理じいして、ねえじゃん」
いい訳か抗議か微妙な、曖昧なつぶやき。
「してクダサイって、オネガイしてんじゃん」
そうだったか?それでもやっぱり、俺は、嫌だよ。
そこまで完全に、お前のものになってしまうのは。
お前に全部、渡してしまうのは、怖い。
「俺たちもう、離れらんねぇよ?」
それは分かってる。俺とお前はもう溶けちまった。ずっと以前にそうなって、切り離されれば生きてく術をなくす。分かっているけれど、でも。
「結婚は、嫌だ」
それとこれとは別の話。永遠にお前を抱き締めて、お前に抱かれてそれでいいけれど、でも。
「なーんでさ。ケチ」
アザミを追って川原の下まで、弟は下っていく。俺も付き合って追いながら、なんでなのかを考える。なんで、怖いのかな。
「結婚なんて、ナンの意味がある……」
まずはそこから、考えようとした。
「今だって似たようなものだろう」
名門チームのバックアップのもと、新しいチームを立ち上げようとしている、俺。
以前からのところで、F1レーサーとして活躍中の、弟。
御互いに多忙だが、同じ業界の中で、どかんと取れる休暇も重なっていて、マメに連絡をとっては一緒に過ごす。手こそ繋ぎはしないけど食事して散歩してセクスして眠る。これ以上、なんの必要があって『結婚』なんか、したがる?
「ケジメ……、かな」
自分でもよく分かっていないのか弟は、言いながら小首を傾げるような動作。素直そうで率直で、奇妙にそれが、かわいい感じだった。
男が時々、俺の『オトート』に戻る、瞬間。
目を細めてそれを愉しむ。可愛いこいつを、俺はダイスキだから。
「俺たちさぁ、イロイロあったじゃん」
あったな。本当に、いろんな事が。
兄弟で身体を重ねちまった、原罪を償うために随分、苦しんだ。俺もお前も。いろんなものを、無くしたな。
それでも、俺はお前を手放せなかった。お前は俺から離れていけなかった。
奇形でいびつな、けれどもこれは、何より純粋な愛。でなければこうして、何もかも棄てて互いの手だけを掴んでる、覚悟は到底、なかっただろうから。
「あんた随分泣かせたし……、俺も、泣いたし」
それ以上、具体的なことは言うなよ、啓介。
触るだけで痛い傷跡に触れるな。
「海越え山越えしてきたから、もうこのへんで、安心しちまいたいの。誓おうよ、一緒に」
……何処で、何に。
俺たちを揺する神様も、祝福してくれる立会人も、居ないぜ?
俺はそれでもいいと思ってるけど。
それでもお前を、手放したくないから。
「永遠に愛してますってさ」
弟は誓いの内容を答えた。場所でも宣誓の対象でもなく。
「あんたのことを、愛していますって」
目で誘われて近づく。寒い川原に人気はない。促されるまま目を閉じて唇を差し出す。くちづけを、俺も欲しかったから。
片手にあざみを抱えてうまく、抱き寄せられない弟に自分から寄り添っていく。耳元に頬を寄せ息を吸い込む。愛している、男の匂いがする。かすかな煙草と、石鹸の。
「啓介」
「……ん」
「愛している」
「うん。……だから、さ」
「それだけだ」
「だけって、ナニ。どーゆー意味」
「俺に、あるのはそれだけだ」
身体はとぉに、お前に引き渡してる。
心を今、全部お前に、やるよ。
告白が嬉しかったから。……凄く。
これで、全部。
膝に置くなり棄てるなり、お前が好きにすればいい。
俺がそう言うと弟は微妙な、とても複雑そうな、顔をした。
「あんたはいっつも、そうだね。自分はポンって、俺にくれるね」
それはそれでとても嬉しいけれど、でも。
「それだけじゃ駄目、なんだよもう、俺たちは」
まるで少女に、恋愛の意味を教えるような優しい口調で、俺に。
「あんたは俺を、受け取らなきゃならない」
言われてまじまじと眺める。深い強い、目をした男のことを。
十七の、時から俺のオトコだった奴を。
俺を抱いて、俺の身体に溺れこんで、時には爪をたて牙をたて、血肉を啜ったり傷跡をつけたり。
それでもずっと俺に飢えている、オスを。何を欲して飢え渇いているか、俺にはよく、分かっていなかった。
「あんたのになっちまいたいの、俺も」
いま分かったと、凛々しい口元が綻ぶ。結婚という意味を。自分がどうして、ずっと、それに拘ってきたかを。
「俺をあんたの、ものにして?」
腹の、上に。
指を置かれた。開かれた五指をひたりと、当てられる。胸じゃないのが、やけにリアルだった。
「あんたは俺の持ち主に、なるんだ。分かった?」
優しい口調と言葉だった。
怖い、内容と裏腹に、とても。
静かに俺を見据える瞳の奥に、もう。
逃げは許さないと、容赦ない意志がやどる。
「あんたは俺の、鞘だ」
宣言に、気が遠くなった。
殆ど惰性で歩いてマンションに、戻る。
戻った途端、駆け寄ってくるうさぎ。
啓介が抱えた大量のあざみに興奮して、新聞紙を敷いた上にこんもり置かれた、あざみの中にもぐったり上を転がったりぼりぼり食べたり、大喜びの大騒ぎ。
居てくれて良かったと、思った。
「腹壊すなよー。どー見ても、お前よかあざみの方がでかいぜ」
一番大きな株の、棘だらけの幹を咥えて根元から、しゃりしゃり食べていくうさぎに啓介が話し掛ける。片手で持ち上がるような、こんな小さな生き物が俺と弟の空気をどれだけ和ませてくれるだろう。この子が居なきゃ、俺はとうに、泣くか逃げるか、していたかもしれない。
腹いっぱいになったうさぎは、よろめきながら俺の膝に来た。ソファーに這い上がろうとするが腹が重過ぎて出来ない。片手を添えて手伝ってやると、ようやくよじ登り、いつもの格好で横たわる。俺の腿の上に、膝に頭を載せて。
その頭を撫でてやる。柔らかくて暖かな手触り。可愛い。とても、凄く。
弟は暫く、俺をそのままにしていてくれたけど。
「……うさぎ」
俺の膝から、うさぎを抱きとって。
「ちょっと、出てて」
離されるまいとうさぎは暴れたが、大きな掌の中ではどうしようもなかった。ぽいっとリビングから廊下に出される。俺は逆らわず、ただ、うさぎの毛布と湯たんぽを廊下に出した。
「さっきの話の、続きなんだけどさ」
煙草に火を点けながら弟が口を開く。聞きながら俺は、確かに変わった、なんて考えていた。
俺も、弟も、俺たちの関係も。
ゆっくり、弟は俺を説得しようと言葉を捜し。
俺はそれを、静かに待っている。
「今さぁ、俺、居候ってぇか、転がり込んでる、みたいなもんじゃん」
……そう、かもな。
通い夫、にしてはお前べったり、ここに居るけれど。
確かにここは俺の家だ。お前じゃない。
「こんなんじゃなくって、俺らの家を、どっかにさ、買おう?」
何処でもいいから、あんたの好きな家を。
「マンションじゃなくて、庭がある方がいい。そこで一緒に、暮そう?」
返事は、出来なかった。
聞いているだけで俺は、精一杯だったから。
「昔みたいに、あんたが俺の、家になるんだよ」
昔と違ってるのは、両親のじゃなくって俺たちの家で。
俺たちは、家族にもう一度、なるんだ。
今度は兄弟としてじゃなく。
優しい、暖かな家に……、還ろう。
高崎のあの家は、俺のせいでなくなってしまったけれど、代わりに。
俺たちの、家をつくろうよ。
「そこで死ぬまで、一緒に居よう。ガキの頃から、俺あんたを好きで散々、傷つけたけど」
その言葉にだけ俺は首を振った。横に、振った。傷つけられたのは本当だったけど、一方的な被害者ってワケじゃなかったから。俺も愛していた、確かに、この弟を。
「許して、一緒に、生きて。……俺と」
眩暈が、した。
答えないままソファーに崩れた俺の上に弟の、オトコの身体が重なる。
背中を抱かれて腰を抱き寄せられて、ぎゅうっと腕に閉じ込められる。
その度に、俺は蛹になる。キュンッと身体の外側が固まって、内部では劇的な変貌が、起こる。
それを承知の弟は殻を剥く。服を剥がれて舌で素肌を辿られると、正直な腰が揺れる。
「……、ン」
吐息とともに殻が剥がれ、羽化したばかりの俺をオトコの手が包む。いとおしそうに優しく触れてくれるけど、恐ろしさに竦むのは仕方が無い。生まれたばかりの柔らかな皮膚に、硬い指先は脅威だ。オトコがその気になれば簡単に皮膚を裂いて、俺の内側を引き裂ける。
「あぅ……、ッ」
のたうつ。羽化したばかりの濡れた羽根ではうまく羽ばたけない。乾くまで、掌に転がされて弄られて喘いでいることしか出来ない。吹き付けられる情熱に羽が乾いて、舞い上がれた、瞬間、
「あ、あぁ、ッ、……ッツ」
襲い掛かる、マグマ。
焼き尽くされる、灼熱。
熱くてキツイ、腕の中で、芯まで燃え尽くされて、灰も残らない、快楽。
「……、なぁ……」
俺を貪るオトコの、声もかすれて低かった。俺の水気を吸い取って欲情に濡れていた。
「結婚、しよーぜ。うんって、言えよ……」
ひどく強気な、言葉。
「言うまで……、離さねぇよ」
「ヒゥ、ひ、……、ッ、や、ソコ、や」
「……ん?」
「ヤ、だ……、そ、んなに、しないで……」
「こう?」
「イヤァ……、あぅ、あ、アーッ」
のたうつ。支配、される。
それがとても、素敵な快楽で。
承諾を催促する、オトコの声を聞きたくて。
「うんって、言え」
答えを、引き伸ばした。
「言えよ……」
最初から、決まっていた、答えを。