『天使よ帰還せよ』

正午近くの繁華街。夜にはネオンに飾られて毒々しくも美しい街角も、昼間は底にたまった滓を照らされて、薄汚い本性を晒される。車の入らない、再開発からも見捨てられたような細い通りを何度も折れて、男は目当てのマンションに辿り付く。老朽化しかけた雑居ビル。何とかローンだの開発だのという胡散臭い社名に紛れて、ぼっかりあいた空白の表札。その横の呼び鈴を鳴らした。返事はない。

「あけろ。……居るだろう」

男は軽くドアを叩いた。内側からかすかな物音と気配。暫くして、

「なんだ……、朝から」

 いかにもさっきまで眠っていました、という風情で、ドアを開けたのは若い男。闇と電飾に飾られなくとも十分に美しい白い面輪。寝不足なのかほんの少し、額にかかる髪がやつれた風情だが、しっとり潤んで、みずみずしいカンジ。

「ちょいと聞きたいことがある」

 習慣で懐から出そうとした黒い皮表紙の手帳を、

「鍵かけろよ」

 見たくなさそうに美貌の主は奥へ消える。後を追うように、男は玄関先に靴を脱ぐ。建物自体のうらぶれた風情とは裏腹に、室内はきちんと整えられている。飾り気と生活臭のない、事務的な雰囲気ではあったが。

「昨夜、客が来たろう?」

 慣れた仕草で上着を、男は脱ぐ。逞しい肩と胸元があらわになって、美貌の青年は目を細めた。男は勝手知ったる様子でキッチンの冷蔵庫、ビールとミネラルウォーターだけが入った中から、ビールを取り出して飲む。

「勤務中のくせに」

 歌うように呟いて、青年は微笑んだ。そのままリビングのソファーへ。片隅に寄せられたクッション、反対側の肘掛は倒されて、床に落ちた毛布とともに、たったいままで眠っていた体温を、そこは宿していた。

「おい。質問に答えてから眠れ」

「……昨日のことなんか忘れた」

「思い出せよ、ボケる歳でもないだろうが」

 歩み寄り、喉が締まるほど冷えたビールの缶底を、つむったまぶたに押し付ける。男にしておくのは惜しいくらいの、長い睫が冷たさに震えて、かすかに開く。

「……忘れたいんだ」

 細い、けれど実感のこもった呟き。

「過ぎたことは、全部……」

 言ってもう一度、閉じる目蓋が悲しげにさえ見えて男は屈みこむ。睫を舐めるように唇を寄せると、ようやく青年の口元が緩む。かすかに。

「……するか?」

「ソファーで、どうやって。お前、ベッドを買えよ」

「なんか、ヤでな」

「なら布団でいい」

「布団では寝た事がない」

「我儘め」

言ってはなれようとする、腕を掴まれ、引き寄せられて。

「……ちょうど、こういう位置なんだ」

 青年が目を開く。けれど視線の焦点は男ではなかった。男以外でもなかった。

「怖いからキスしてくれって言われて何人とも、したよ」

 彼が今、見ているのは過去の残像。青年医師として紛争地域に、行って帰ってきたとき、彼は変わっていた。自発的なボランティアではなく監察医として、国策にそって送り込まれた戦地で、自分より若い十代の、金銭で正義を購われた若者が死んでいくのを見て。

 ソファーで仮眠のようにしか眠らなくなって、切れ者で将来を嘱望されていた彼が勤めも辞めてぼんやりと、しているまではまぁ、良かった。

 が。

 優秀な外科医で、戦地で傷の縫合の経験を積みまくった彼は現在、地元のヤバイすじから表沙汰に出来ない傷の手当てを、頼まれるようになった。無造作に彼は引き受け、そうするうちにいつのまにか、このあたり一体を取り仕切るヤクザに重宝がられて、後見のようにされて。

 囲われているといっていい。個人ではなく組織に。スジ者たちの共有財産として、大切に。

 そうしてかつて、監察医と刑事だった二人の関係は変質した。任意同行を求める者と求められる者に。

「起きろ。話を、署で聞きたい」

「イヤだ。眠い。

「いつ来てもぐーすか寝やがって。そのうち脳みそ、溶け出しちまうぞ」

「それも、いいな。……楽そうで」

「ったく、おめぇ……」

 男の台詞の、語尾が揺れる。

 ソファーから背中が浮くほど、ぎゅっと抱き締めて。

 どうしたいのかと、耳元に囁かれる、言葉。

不精もナマケモノも、本当は以前から。男はそれをよく知っていた。……一緒に暮らしていた、ことがあったから。

彼が戦地に派遣される前。

ほんの少しの、期間だったけれど。

帰国後、彼は男のもとへは帰らなかった。男はそれを、黙って受け入れた。けれど。

彼が、帰らなかったのは、男の腕の中だけではなかった。

実家にも、大学にも、警察にも病院にも、彼は戻ろうとしなかった。理由を問い詰める家族や同僚、上司に曖昧に笑うだけで、誰にも理由は告げなかった。ただ、わずかに男にだけ口を開く。戦地での体験を。そして。

「どこに、おっことした?」

 男だけが、気がついた。

「拾いに行ってやる。教えろ」

 彼が本当は『帰って』いないことを。

「時々、ぬけてるからなお前。ナニを何処におっことしたのか、教えろ」

「……」

 青年は腕をまわす。こよなく愛した、男の逞しい背中に。

 後ろ頭を撫でながら、囁く。分からない、と。

「ただ、死んでいくんだ。まだ若いのに。病気でも事故でもなくて。それが、なんだか」

 死ぬのが怖いと、助けてくれといいながら。

 だったら、どうして。

 どうして戦場になんか来たのかと、問うことに意味はない。

 そこに生まれてしまっただけ。そこでしか、生きて来れなかっただけ。

 軍隊に入って配給を受ける以外、飢え死にしない方策がなかった。

 強制される、死を繰り返し、見ているうちに多分。

 したたかなのに奇妙に優しいかった彼の、どこかが壊れて欠片はまだ、あの戦場にいる。

 死ぬのが怖いと、泣く少年たちをだいている。

 そして虚ろな本体は、男にきつく抱き締められ抱き返しながらそれでも、そこに存在する自己を実感しきれない。ひどく、頼りなく、揺れている。

「帰って来い……」

 三課きっての強面で知られた男が、気弱にさえ聞こえかねない、声で囁く。

「俺のそばにじゃなくてもかまわねぇ。とにかく、ここに、帰って来い」

「……分からないんだ」

 どうすればいいのか。自分がどうしたいのか。その前、そう、どうなっているのか。ただまるで糸が切れたように、無気力に流される。何もする気がしないまま。

 ヤバイ関係の、怪我を治療してやるようになったのは、手当てを受けれずうめく若者に戦場の残像を見たから。助けて、やりたくなったから。警察に通報とか、その怪我が他の誰かを傷つけた代償かも知れないとか、そんな風には、意識が動かなかった。

「自分がこんなに華奢とは思わなかったよ……」

 自嘲をこめて呟くと、

「優しいさ。おめぇは、案外な。オトートも泣いてるぜ」

 嫉妬を感じるほど彼に愛されていた、二つ年下の、彼の弟。毛並みを舐めて手入れしてやりそうに愛していた弟のことまで、彼は放り出した。自分自身と同様に。

「このまんま、まさかヤクザに使われて、生きてくつもりじゃねぇだろが」

「分からない。先のことなんて」

 今、生きているということさえ、実感できないのに。

「……ごめんな。心配、かけてるな」

 それは分かるしすまないと、思いもするのだが。

 でも。

「見捨ててくれ。お前も啓介も、俺のことなんて」

 苦しめるより、棄てられる方がいい。省みられずに、打ち棄てられてしまいたい。

「できねぇ相談だ」

 男は笑う。線の太い、男っぽい笑み。

「俺は、弟もか。おめぇをまだ、愛してるんだ」

 告白を受けてしかし、青年は曖昧に微笑むだけ。

「お前に愛された記憶も消えねぇしな」

「うん……。それは、俺も覚えてるけど」

 なにより大切だったことは。

「あそこで思い出したよ。お前たちのコト……」

 大切な、宝物を見せるような口調が呼び鈴と重なる。青年は動かず、男が玄関に出ると、

「おぉ、これは須藤さん」

 にこにこしながら立っていたのは、ヤクザからまわされた弁護士。

「センセイに任意同行ですとか。どういうご用件ですかな」

「ちょっと、聞きてぇことがあってな」

「センセイは昨夜から、私と一緒でしたよ。証人もいます。ほら、店の領収証も」

 ヤクザの頭がオンナにさせている店の領収証に男は視線もあてなかった。

「とりあえず帰るぜ。任意だからな」

 弁護士が出てきた以上、いかんともしがたい。

「今度ゆつくり、話を聞きに来る。あばよ」

「京一」

 初めて青年が、男の名前を呼んだ。

「布団って、ゆっくり眠れるか……?」

 うとうとしては目覚め、目覚めてはまた眠気にひかれて。

 覚醒と睡眠、夢と現実の区別が曖昧なのは辛いのだと、告げられて。

「寝たことあるぜ、お前」

 玄関から振り向きながら、三白眼の視線とともに、京一は告げた。

「旅行いったろ。九州に。忘れたか?」

 いわれて涼介の表情に、かすかに生気が宿った。それは羞恥の色合いでもあった。それは初枕の記憶。互いに男は初めてだった。試行錯誤、しながら交わした契りだった。

「そうだった。昼間で眠ったよな。あんな風にもう一度、眠れたらもう、ほかに望みはないよ……」

 涼介の言葉が京一の、胸の琴線を、ぴんと弾いたらしい。

 長身の、体重を感じさせない素早さで、履きかけた靴をそのまま、京一はリビングへ戻る。上体を起したままで壁にもたれた涼介を抱き締める。くちづけて、シャツのボタンを外していく。事情を知っている弁護士は、鞄を抱えてさっさと退散した。

 愛していく。

 項を喉を、腕の内側を。

 胸元、下腹、そしてすらりと伸びた脚の、狭間。

「……ごめん」 

 謝罪したのは、涼介。

「ごめん、な」

 これ以上内ないほど丁寧に、かつ情熱的に愛されながら、涼介のそこは少しも、反応しなかった。

 いつも、こうだ。

 戦場から戻って以来、ずっと。

「見捨てていいぜ、もう俺のこと。別のを捜して、幸せに、なれよ」

「お前がいい」

 一瞬の躊躇もなしに返される、宣言。

 途端に潤んで零れ落ちる、涙。

 無くした欲望は、生きることへの執着。

 それは性とも、深く関わっていて。

「……きょう、イチ」

 せめて、きつく、腕を絡めながら。

「お前に会いたかった。それは、本当のことだ」

 血と死に満ちた場所で、幾度も思い出した。

「会いたかったんだ……」

 力強い腕の中で何度も繰り返す、せめてもの、真実。