帰還・2

 

 

 いい加減期限きめませんか、と。

 いきなり言われてロイ・ムスタングは顔を上げた。湯気に濡れた前髪が額に張り付くのを、右手で掻き上げて後へ流す。形のいい額が出て、オールバックじみた髪型は葬儀の時の礼装を思い出させ、若い男の気持ちを疼かせる。

「……なんの」

「忌中の期限ですよ。いつまで俺のこと放り出すんですか」

「誰が忌中だ。……、俺か」

「あんた以外の誰だっていうんです」

 下っ端尉官が大佐に向かって、それも直属の上司に、きいていい口ではなかった。が、大佐はそれを咎めない。そこは隊内ではなく、今は勤務中ではない。官舎に帰ってくつろぎ、風呂に入っている。湯船に漬かって手足を伸ばしても部下がまだ立っている気配がしたから、お前も家に帰っていいぞと言った。なのにその部下は逆らって部屋に上がりこみ浴室に押しかけた。一人暮らしの男には浴室に鍵をかける習慣はなくて、ドアにもたれてこっちを見る若い男を止める気もなくて。

「開けっぱなしにするな、冷える」

 階級に相応の広い官舎の、浴室も広い。ドアも大きく、そこを開けられると暖気が逃げて、ぬるい湯に長く漬かるのが好きな黒髪の男の肩を冷やす。

「話があるなら、入ってドアを閉めろ」

 告げると、戸惑いもなく着衣のままで踏み込む。そのまま浴槽のわきに屈み、シャツが濡れるのも構わずに。

「……、ねぇッ」

 掴まれたのは肩でも喉でもなく浴槽の淵。指先が白くなるような力でそこを握り締め、視線はまっすぐに上司に向いて。

「いつまで俺のこと寄せてくれない気なんスか」

 それは質問だった。だから上司は、答えを捜そうとしたのだが。

「……すまない」

 見つからなかった。代わりに謝罪する。

 

中央で行われた友人の葬儀から帰って既に、十日が経っている。出発前夜から通算すれば二週間、この飼い犬をベッドに入れていない。入りたがっていることは痛いほど分かっていて、悪いと一応、思ってはいるのだが。

「そんな気分に、なれない」

 正直な気持ちだった。正直すぎたかもしれない。至近距離で男が目を細める。威嚇より失望の分量が、多い。

「まだ悲しいの?」

 大事な話をする時は優しい口調になる。見かけより随分、これは頭のいい悪い男。

「そう、かな。……よく分からん」

「なんで悲しいの?」

 あいつが死んだから。

 まさか、あれが死ぬとは、思わなかったよ本当に。

 あれはしたたかな男だった。どんな危機になっても最後にはうまく、切り抜けていく奴だと思っていた。俺との深みから一人だけうまく抜けて、みなに祝福され美しい奥方を娶ったように。

「俺とセックスする気になれないぐらい、悲しい?」

 する気にはなれない。お前だけじゃなく女性とも。あいつが最後に俺に電話を掛けようとしたことで、あいつを殺した連中に、俺は否応なく標的にされる。こっちにはまだ敵の正体が見えていないのに。

「あいつのこと、そんなに好きだった?」

 ……好き。

 ……だったことは、そういえば。

 ……忘れかけていたけれど、昔。

 ……あったような気もする。

「勘弁してくださいよ。あいつのことなんか愛してないって、俺に言ったくせに、話が違いますよ」

 言った時はそう思ったんだ。嘘をついたんじゃない。死なれて、居なくなって、忘れていたことを思い出しただけ。あいつは痛くて酷い男だった。でも、そう、昔。

 俺はあいつを、好きだったことがあった。

「勘弁してよ。今更……」

 若い男が目の前であんまり嘆くから、手を伸ばして髪に触れた。目を閉じて顔を傾けた。男の手がバスタブの淵から離れて私の顎を、そっと掬い上げる。上向きのくちづけ。

 あぁ。

 こんなことがあった。何度もあった。たいてい俺は泣いていた。あいつと一緒にバスルームに居るシチュエーションは殆ど、俺があいつの機嫌を損ねた時だった。

水をためたバスタブに漬けられて、頭をぐいって、水面近くまで押し下げられて。体温を奪われてガタガタ震えなきゃならないし、ほんの一センチの距離を詰められれば呼吸が出来なくなる恐怖が目の前だし。力では敵わなかったから怖かった。一度、肺に入るほど水を飲まされたことがあったから、尚更。

 なぁ、窒息するほど呑まされたことはあるか?

「……は?」

 いきなりの質問に男が戸惑う。誤魔化さないで下さいといいかけて、こっちが真面目なのに気付いたらしい。自分もマジメな顔をして。

「まぁ、ガキの喧嘩ん時は、相手がよっぽど気に入らなきゃ、便所に顔、押し込んで水流して、げほごほいわせたこともありました、かね」

 したことがあるのか。お前もかなり、えげつない男だ。俺はそんな男にばかり当る。

「いや、でも、よっぽどの時ですよ。ガキん頃の話だし、それに」

 それに?

「あんたにはしませんよ。出来ません。二週間、放り出されても、恨み言いうだけがせいぜい……」

 でもそういえば、あいつにされたのもガキの頃だった。まだ十代の、人生が生々しかった頃。若い頃にはそういうことが、ありがちなものか。

「寝てる相手にそういう真似、するのはどーかと、俺は思いますけど」

 キスを繰り返しながらさりげなく、男は軍服の上着を脱ぐ。もうかなり湿ったそれを、ドアを開けて脱衣籠に投げ込む。明日、洗濯屋はサイズの違う二着の軍服をクリーニングすることになるだろう。

「一緒に暖まっていい?」

 聞いてきた時にはTシャツを脱ぎ捨てて、見せつけるみたいに下も、下着まで脱ぎ捨てる。いいって言っていないのに湯船に入って来る。湯が溢れたが、まぁ男二人、なんとかならない浴槽でもなかった。

「大佐に触んの久しぶり。嬉しいなぁー」

 にこにこしながら俺の肩に額を擦り付ける仕草はかわいい。抱き寄せない狡猾を知っていても許してやれるほど。

「キモチいいー。やっぱ生身の大佐がスキっすよ」

「生身じゃなくてなんだというんだ」

「えー。写真とか、脱ぎ捨てたシャツとか目蓋の裏のメモリアルとか」

「……、お前……」

「しょーがないでしょ。俺まだ青少年ですから」

「とおの立った青少年だな」

 くすくす笑いながら、湯の中で男が俺を探ってくるのに任せた。最初は遠くに触れて、ゆっくり蕊に寄って来る。器用な固い掌に包まれて、両手で捧げるようにされて、指先で揉まれて。

「……、ん……」

 気持ちいい。キモチはいいんだ、が。

 男が身体を擦り付けてくるたびに湯が揺れて水音が浴室に響いた。それに混じって男の息も荒い。興奮して盛り上がってくれる相手に悪いと思いつつ、どうしてもうまく波に乗れない。情熱的に熱心に、求めてくりるのに応えられない申し訳なさが胸に募る。

「……」

 悲しそうな表情を見せながら、男は俺に、擦り付けながら放った。ごめん、と心の中で謝る。お前はこんなにいい男なのに相手してやれなくてごめん。どうしてだろう。きっと疲れてるからだ。

「……遊んできて、いいぞ?」

 まるで突き放すみたいに一人でさせてしまって、本当に申し訳なくて。

「外で、遊んできても」

 若くて逞しいオスに当然の欲求を、かなえてやれない、俺が悪いのだから。

 男は暫く、俺を抱き締めて動かなかった。また俺は心無いことを言ってしまったのだろうか。怒らせたかな、傷つけたか?

「……昔むかし」

「ん?」

「大佐が大佐になる前の大昔」

「なんだ?」

「大佐は猫を飼っていました」

 覚えはないが。

「その猫を大佐は好きだったそうです。でも猫は出て行ってしまいました。そして遠くで、結婚して幸せな家庭をつくりました」

 あぁ、その話か。猫ってほど、可愛い男でもなかったが。

「随分たって犬が迷い込みました。特に好きとは思わなかったけど」

「お前は可愛いよ」

「可哀想だったから餌を与えました。犬は喜んで勝手に飼ってもらえたつもりで、番犬を勤めるのがとても楽しかった」

「……お前は」

「ある日、大佐には悲しいことがありました。そうして遊んでくれなくなった。犬はそれが寂しくてたまらなくて」

「……すまない」

「庭でわんわん吠えました。うるさかったのでしょうか、大佐は出てきてくれました。でも遊んではくれなくて、お外にお行きと、門をあけたのです」

「……」

「犬は行きたくなかったけど、行っておいでって言われたから一人で散歩してきました。やっぱり一人では淋しくてつまらなくて、すぐに帰って来たけれど、門はもう、閉まっていました」

「それは、おかしい」

「窓の明りはついていて、犬は捨てられたんだと分かりました。最初から拾ってもらえなかったのかもしれません。主人はやっぱり、居なくなった猫のことだけ好きだったのでしょうか」

「お前はここの鍵を持っているだろう」

「白々しいですよ。開けれない錠をすぐ下ろすくせに。部屋にも、ここにも、こっちにも」

「……、ぅ……」

 心臓の上を右手で、脚の間を左手でぎゅっと押されて声が漏れる。

「再婚、のヤツと結婚するときに」

「……、は、ン……ッ」

「よく言うじゃないですか。生き別れはいいけど、死に別れとは一緒になるなって。生きて別れンのはお互い、嫌になって別れたんだからいいけど、死に別れは絶対、死んだ奴には勝てないんだから、って」

「……ハボック」

「あいつ、ずるい。……ずるいよ」

「止めろ。殉職なんだぞ。貶めるな」

「おとしめてませんよ羨ましいだけで。あんたのこと何年も捨ててたくせに、最後にあんなふうなんてずるいよ」

「もう言うな。……泊まっていっていいから」

「あんたのことホントに愛してんのはあんな男じゃなくて俺だよ」

「好きなように遊んでいいから、もう、言うな」

「あいつのことなんて忘れようよ。忘れて」

「言わないでくれ」

 まだ気持ちに整理がつけられない。戦場で死は身近だったし、士官学校の同期の一割はもうこの世に居ない。でもまさか、あいつがその中に入るなんて思わなかった。俺の思考はそこで静止してて、お前とあいつとどっちがどうとか、そんなことは、考えることさえ出来ない。

「……、は……、ですよ……ッ」

 お前まで揺れるな。俺をそんなに、ガタガタ揺らすなよ。

「ホントはあんたが犬だったって、オチはなしですよ」

 なにを、言っている。

「捨てた主人が拾いに来てくれるの、ずっと待ってたなんてオチはなしッすからねッ」

 ……待って……?

 待ってはいなかった。とぉに諦めていた。でも。

「俺を棄てた、後も」

 身体を重ねなくなって、あいつが結婚してからも。

「あいつは親切だった。友人では、いてくれようとしてた」

 半分打算で、半分は男の意地。で、あったとしても。

「でも俺がどうしても、それに馴れなかったから」

 あいつと『友達』なんて白々しくて、笑えるの通り越して泣ける。

「愛人に、してくれようと、してた」

 していたんだ。本当にしていた。申し出じみたアプローチを俺は受けて、どうしようか、まだ決めていなかった。

「まだ混乱しているんだ。すまない」

「あんたは……」

 若い男の、声が低くかすれる。

「……あんたって、人は……ッ」

 続けろ。どんな罵声でも受ける。

 俺が馬鹿だってことぐらい俺だって分かってる。