帰還

 

 

 

 見た目ほど温和ではない大型犬は、それでも流石に、暫くは大人しくしていた。

 友人の急死、いまわの際を生々しく回線ごしに聞いていた人を、どう慰めればいいのか分からなかった。そもそも下手な慰めは逆効果な気がして、大人しく職務に精励した。

仕事はいくらでもあった。現場検証、状況検分、そして目撃証言の確認。軍隊内での事故は本来、憲兵の所轄であって、それを侵す彼らには風当たりが強かった。指折りの大物である彼らの上司に対する嫉妬という名の敵愾心まで上乗せされた、嫌味や悪態をしかし、彼らは自然に聞き流していた。

精神衛生上の理由で耳を塞ぐまでもなく、彼らには聞こえなかったのだ。耳朶の奥は別の音響に支配されて。それは危険を告げる音。彼らの上司の耳には直に届き、その響きは彼らにも共鳴した。一発の銃声、一人の男の死。それによって証明されたのは、軍中央が『敵地』であるという事実。

葬儀と調査を終えて一度、一行は東部へ戻った。列車の一両を借り切った帰路でも、彼らの上司は殆ど口をきかなかった。白い発火布の手袋に包まれた指を組み合わせ、テーブルに肘をつき何かを考えている。視線は窓外に向いているけれどその目に景色は映っては居ない。瞳の中には多分まだ、友人が殺された公衆電話ボックスが映っている。

軍中央の情報部中佐。国家錬金術師を兼ねた彼らの上司には劣るものの、まずは文句ないエリートのパリパリ。有能すぎてお偉方に忌まれ、地方転出という名のドサ廻りに出された彼らの上司より政治力は上をいっていた。

それが、最後に、わざわざ民間の一般回線を使って何を、伝えようとしたのか。

聞こえなかった言葉に耳を澄まして、ロイ・ムスタング大佐は目を細める。誰も彼には声を掛けなかった。列車の轍がレールを伝う振動だけが満ちる空間で、中尉に倣って両脇につけたナイフに手を当て周囲を警戒しながら、大型犬は少しだけ、ほんの少しだけ動いた。

本物の犬が主人の注意を引こうとして目の前で、わざと欠伸をしてみせるように、まさか勤務中に上司の前で口は開けなかったが、振動に揺れたふりでわざと、足音をたててみた。

視線だけでも自分に流してくれることを期待して。

期待は見事に裏切られた。飼い主は意識の欠片も向けてはくれなかった。最初は軽かった失望が、ガタタンという揺れのたびに振れて大きくなっていく。暗い気持ちに沈みそうなのを、横顔を見て踏みこたえる。

滞在は数日。なのに横顔の線が鋭いのは、その数日でどれほどに、この人が消耗したかを証明している。滅多なことでやつれる人ではない。心労と疲労を隠し切れないのは相当に参っている証拠だ。

眠ればいいのに、と、大型犬が見詰めながら思った時、

「大佐、椅子を倒して、休まれたらどうです」

 車輌の端から声が掛けられた。腰のホルスターから手を離さないままの中尉。上司の方には目を向けないままで。

「君こそ」

 上司も姿勢を変えずに肘をついたまま答えた。

「少し休みたまえ。見張りは交代ですればいい」

「平地に出ましたら、そうさせていただきます」

 列車は市街地を抜け、山と海との境を走っている。線路は複線でそのとき、のぼり列車とすれ違う。中尉は緊張して銃把に手を掛けた。椅子を倒せという訳は眠れという意味でなく身を隠せということだと、大型犬はようやく気がついた。

「そうだな。今日は気持ちのいい天気だ。火柱でも上げれば尚更、気分がいいだろう」

 天気は快晴、時刻は昼下がり。空はどこまでも青く、真っ白い雲が山々の間から、時々光る海の彼方に見える。

「ハボック少尉、椅子を倒して」

 今度は進言ではなく指示で、大型犬はそれに従った。近づいても飼い主は無反応で、座った椅子が倒されるのに、素直に従って背中を伸ばす。次の指示を待たず、大型犬は車輌の椅子を幾つかランダムに倒し、荷物棚に置かれた毛布を掛けていく。何処に本物が居るか分からないように。

 最後に飼い主に毛布をかけると、

「……日暮れ前に起こしてくれ」

 ようやく声を聞かせてくれた。頷き、機関車側の車輌の端に立つ。反対側にはホークアイ中尉が居て。更に連結車輌と前方の機関車にはブレダとファルマンが警戒に乗り込んでいる。

 足もとが揺れる。本当はこんな振動はなんでもない。なんでもない筈なのにつられて揺れていくのは、膝ではなくて気持ち。

 そっと飼い主が横たわる椅子を見た。毛布の下の膨らみはびくとも動かない。眠っているのか泣いているのか、気配はなくて、分からない。

 剥ぎたい、と思った。姿を隠しているあの布を剥ぎたい。それで隠した顔を暴きたい。どんな表情で何を考えてる?

「少尉、かけて休みなさい」

 不意に掛けられた声にびくっとすると、ホークアイ中尉はホルスターを腰の前に廻して椅子に座っていた。列車は山中を抜けて煙を上げていく。見通しのいい平地。線路は単線になって、軍用列車が通り過ぎる駅では通過を待つ民間車輌が鈴なりの人を乗せている。

 カタタン、カタタン、規則的だが暖かな振動。少し鼓動に似ている気がして、大型犬は飼い主の胸が恋しくなった。もう何日も聞いていない心臓の音。耳を押し付けて確かめたいけれど。

 出来ないまま、列車は東部に一途に向かう。

 せめて眠る人に、膝枕でもして体温を感じたいと、そんな欲望を抱いていた大型犬を無視して。

「……中尉」

 飼い主は、別の相手を呼んだ。毛布の下から。

「はい」

 視線も姿勢も動かさず、呼ばれた中尉はきれいな返事をする。

「君も少し休みたまえ。先は長い」

「ありがとうございます」

 中尉は礼を言ったが休むつもりはないらしく姿勢は変えなかった。姿勢は変えなかったが声が変わった。柔らかく。珍しい上司の気遣いに苦笑しつつ、嬉しそうだった。

 ……俺は?

 大型犬は順番を待った。きちんと脚を揃えて頭を垂れて、主人が撫でてくれるのを。でも次の声はなかった。黒髪の悪党、札付きの国家錬金術師、生意気な若造、それでも有能な実力者。その人は今、毛布の下に隠れて。

 俺には?

 休めと言って欲しかったのではない。むしろ、来いと招いて欲しかった。毛布の代わりでも、楯でもよかったから。

 カタタン、カタタン。列車は走っていく。

 やがてすぐ彼らが戻ることになる道を。