あの日あの時、なくした君を・1

 

 自分の目が信じられなかった。

会いたい気持ちがあんまり募った挙句、心が見せた幻覚だと思った。居なくなったあの人が立ってる。黒のジーンズに白いTシャツ、胸元にスタッフパスを吊るした珍しくカジュアルな姿で。

薄い色の入ったレノマのサングラス。

髪型が少し変わってる。伸びた前髪を後ろに撫で付けて、形のいい額を惜しげもなく晒して。

薄茶のガラスに隔てられて目の表情は見えない。けれど厳しい視線をしてることは、きゅっと引き締まった口元で分かる。

視線が、向いているのは、俺にではなかった。

雷が幾つも重なったようなエンジンの、エキゾーストで満たされたサーキット。

轟音の中、耳元に唇を、近づけなければ何を言っているのかは分からない。

耳たぶを齧るみたいな近さでレーシングスーツを着た男に何か、言っている。

手元にはノートパソコン。空いた手は腰に添えられてる。姿勢のいい背中も首も、最後の記憶とは別人のように健康そうで、薄いTシャツの内側の胸も痩せすぎてはいない。

何度も頷いていた男が最後に、深く了解の仕草で顎を引く。引き締まっていたあの人の頬が緩む。破顔一笑値千金と昔、その笑顔のことを言ったのは史浩だった。全然いい奴じゃないって知っているのに、あの顔で笑われると、なぁ。

不満も苦痛も忘れる。

何でも出来るような気になる。

俺に向けられたものでない笑顔に、それでも、惹きこまれるように、俺の足はあの人へ向かおうとした。

が。

「ダメよ。こっち」

 オーナーに腕を取られて引きずられる。強い力だった。

「こっちに来なさい」

「待ってくれ、あれ」

「いいから来なさい」

 強引に引きずられる。あの人の背後でチームスタッフが俺に気づいて、仲間に何かを言う。好意的な表情じゃなかった。レーシングスーツ姿の男が顔を俺に向ける。童顔のなかで、目つきだけは一人前の雄の強さを見せる、その顔は、昔馴染みの。

 藤原拓海。今期から、F1に昇格した新人。

 俺を見て藤原は笑った。あの人に合図する。あの人は俺を見ない。俺はオーナーに逆らって立ち止まり、でも立ち尽くしたままで進みも引きも出来ない。

 藤原拓海が俺に手を振る。

 日本人同士の後輩として、親しげな態度で。笑顔で。

 俺に車を潰されたことなど、忘れたように、親しげに。

 そうして今度は、藤原があの人に顔を寄せる。耳元を舐めるように何かを告げる。背はかすかに、あの人の方が高い。

 掌で肩を押されるようにしてあの人は俺を見た。サングラスに遮られて表情は分からない。いかにも義理、という感じに手を上げて合図。そして、さっさと背中を向けピットの奥へ行ってしまう。

「行くわよ」

 オーナーが俺を引きずってくれなかったら。

 俺はいつまでも、そこに立ち尽くしていただろう。

 

Tボーンステーキ?なんですか、それ」

 無知を恥じない素直な口調に、

「肉の部位だよ」

 優しい声が答える。

 チームの全員で親睦を兼ねて、小型のバスを連ねてやってきた小さな町。サーキットから、それでもここが一番近い。明日からはタイムアタックが始まって忙しくなる。暫くモーターホーム暮らしだ。

「T型の骨の、片方がヒレで片方がサーロインになってる。ラッキーだったな、一枚だけあるってさ」

 厚切りにすれば一頭の牛から三枚くらいしかとれない肉だ。しかも狂牛病の恐怖に満ちたヨーロッパの町で、安全なステーキが食べられるなんて。

「俺、いいですよ、そんなの。普通ので」

「いいから食べろよ。スープはどうする?」

「いいですって。俺どうせ、そんなのの味、分かりゃしないし。誰か他の、もっと好きな人が食べればいい」

「お前が食べるんだ。一枚しかないなら、お前に食べる義務がある。レーサーはチームの象徴だからな。お前が食べれば、みんなが食べたことになる」

 瞬きして、藤原拓海は頷く。教えられたのは肉のことではなく、もっと大切なことのような気がした。代表としてそれらしく振舞うことは義務でもあるのだと。

 運ばれてきた皿にナイフを入れる。それは確かに美味だったけれど、それよりも。

 向かいの席でチキン・ア・ラ・キングを食べてる人が気になる。食事をする彼を見るのが好きだ。静かに、優雅に、でもけっこう手早くぱくぱくと、おいしそうに食べる。

「啓介さん、目がこぼれそうでしたね。本当になんにも言っていなかったんだ」

 昼間から言いたくてたまらなかったことを小声で言ってみる。返事はない。

「喧嘩したんですか?だから俺のマネージャー、引き受けてくれたんですか?」

「喧嘩はしてるがマネージャーの件とは無関係だ。喧嘩は二年前で、マネージャーになったのは病院をクビになったからだ」

「俺うれしいです。すごく、嬉しいですよ」

 一緒に日本を出てから、もう二ヶ月が経っている。それでもこの人が隣に居る幸せに慣れない。国境を越える手続き、通訳、荷物の手配に来客の対応、健康管理に取材の打ち合わせまでこなしてくれる人。個人的なマネージャーだけの約束だったのに最近はチームのスタッフに混じって、データーの分析まで。それというのも、スカウトが来たからだ。

藤原に、ではない。マネージャーの高橋涼介に。日本の車両メーカーが絡んだチームの殆どから申し込みがあった。レース業界に来たのならどうして連絡をくれないのかと、格上のチームから来訪が絶えない涼介に、チームスタッフたちの態度も変わった。ひどく丁重に助言を求めるようになり、それに答えているうちにいつしか、サブリーダーじみた立場に居る。

「こんなに楽でいいのかなって思うくらいです。車に乗ってさえいれば良いなんて、レーサーとしては最高だけど、ばちが当たりそうな気もします」

人間関係の苦労も雑事に煩わされることもない。

「そういえば、Dの頃もこんな感じでしたっけ。涼介さんの指揮どおり、頭、真っ白にして走るの気持ちよかった。啓介……」

「藤原」

「はい」

「うまいか?」

「はい。とても」

「良かったな」

話題を拒まれて藤原拓海は黙った。彼を怒らせたくはなかった。でも。

「涼介さん、口、あけて」

そこで大人しく、引っ込むだけの男なら、こんな世界でのし上がってはいけない。

「はい」

透明な肉汁がしたたる柔らかなステーキ。なかでも一番、色艶のいい部位を切り取り、フォークにさして差し出す。

彼は驚き目を見開く。日本語で喋っていたから周囲のスタッフたちに会話の意味はわからない。でも同じ皿のものを切り分けて差し出す、仕草は万国共通の表現。愛情と親しさの証。

冷やかすような声と視線に拒むことも出来ず涼介は口を開いた。かすかに傾げられた首。唇で肉を挟んで受け取り咀嚼する。幸福感に藤原拓海が笑う。本当に心から、幸せだった。

「夢でしたよ、俺。涼介さんとこうやってメシ、食うの」

「何度も一緒に食べたろう」

「でも二人だけじゃなかった」

 今だって二人きりではない。でも奥まった向かい合わせの席で、彼らの間に入ってくる人間は居ない。涼介の一番近くで、嫌いな野菜を兄の皿に次々に放り込んでいた、あの弟は、ここには居ないのだ。

「藤原は好き嫌いしないな」

「あ」

「なんだ」

「俺たち、同じこと思い出してましたよ」

 付け合せの野菜まできちんと食べた藤原拓海が笑う。

「俺は好き嫌いしませんよ。タバコも吸わないし」

「それがいい。タバコは百害あって一利なしってな。一本に含まれるニコチンは人間二人分の致死量だ」

「え、本当?」

「猛毒なんだよ」

 うっすらと涼介は口元を綻ばせる。脅し、怖がらせた後で、

「もっともあれは抽出が難しいから。煙で吸う分には殆ど吸収しないし、そのまま食べてもなかなか。確実に死ぬには、アルコールで抽出して蒸留しないと」

「なんだ。びっくりしました」

 食事を終えてホテルに帰る。これがまともなベッドで眠れる最後の夜。二人の部屋は他のスタッフたちとは離れた階にとってあった。誰かが気を使ったらしい。

「お休み、藤原」

 言って涼介は部屋に入ろうとする。返事をせずに藤原拓海は廊下に立っている。古いけれども手入れの行き届いた、天井の高い建物。

「……入るか?」

 涼介がドアを支えて、招き入れるように開いた。

「いえ。たぶん俺、我慢できないから」

「構わないぜ。賭けに勝ったんだから、お前は」

「一回きりなんでしょ。俺、そんなの我慢できないから。それに、他人のものに手を出すの嫌なんです」

俺は啓介のものじゃないと、涼介はもう言わなかった。それは二人の間で今までに、何度も繰り返された言葉。ここに居ない男の存在はそれでも、彼らを隔てて、壁を作っている。

「涼介さんを好きですよ。でも今、あなたと寝たくはないんです。俺、処女とかはどうでもいいけど」

「つまらないしな。処女は、抱いても」

 真剣な会話が辛くて話を誤魔化そうとしたが、

「つまんないとか面白いとかじゃないよ。そんなの関係ない話してんの、分からない?」

真正面から反駁され、口を噤む。

「あなたが啓介さんのもののうちは、触りませんよ」

「じゃ、お前に抱いてもらえないうちは、俺は啓介……」 

のものだってことか、と。

軽く続けようとした。出来なかった。ただの言葉が、あまりにも重く、苦くて。

黙り込む涼介を救うように、

「ちょっとだけ触っていい?」

 伸びてくる指に、涼介は何処でも好きにさせる気で力を抜いたが。

「おやすみなさい」

 触れられたのは髪の毛。爪の先端に絡めただけ。

 可愛いのか、したたかなのか。ガキなのか海千山千なのか。

 分からないのは相変わらずだった。

 部屋に入るとメッセージランプが点いている。電話を取り上げフロントに繋ぐと、

「タカハシケイスケ様から、お訪ねしたいとご連絡が入っています」

 年下の藤原に慰められたような、手玉にとられたような気が、していないでもない時に。

 思い通りの反応をしてくる男は、可愛げがないでもないと思う。

 

かかってきた電話に出ると、思いがけなかったのか、受話器の向こうで相手は沈黙した。

詫びや謝罪を言うべきはどっちだろう。責められるべきはどっちだろう。どっちも御免だったから、口をきくなと、最初に条件を出した。

 来てもいい。でも、絶対に口を開くな。

 うちのチームにお前の来訪がばれないようにしろ。

 出て行けと言ったらすぐに出て行け。

 それでいいなら、来い。

 今時、安い娼婦でもこんな条件を呑みやしないだろう。

 それでも男はやって来た。

 精悍な姿がドアの向こうに立つ。

 

 言葉をかわしたくなかった。目線さえ合わせることが嫌で部屋は暗くしたまま、竦む男の腕を掴んでベッドに連れて行く。

 闇の中で服を脱ぐ。触れさせて導く。脱がせてはやらない。

戸惑った雰囲気が伝わってくるけれど構わなかった。おずおずと、触れられる唇。指が顔の輪郭を撫でてゆく。「……、」

男が何か言おうとした。雰囲気だけで察してすっと離れる。言葉を使うつもりなら脅しではなく本当に、即座にベッドから蹴りだすつもりだった。

これは、自慰。セックスじゃない。ありえない。甘い記憶の通りに動く人形が欲しいだけ。

追ってくる腕はひどく慌てていた。無反応で出方を見守ると、許しを乞うように引き寄せた肩に、額を押し当てて懺悔の姿勢でじっとしている。髪を撫でて先を促すと、そっと手を胸元に滑らせる。優しい抱き方だった。礼儀正しくて親切。ゆっくり身体の力を抜いて、抱いてくる腕に自身をゆだねる。

本当は、これが一番、気持ちがいい。

マグロのように転がって好きに弄らせるのが。激しい愛撫や盛り上がりは、同時に何処か、嘘と虚しさが混じってる。それよりは一方的に愛撫を、受けるだけの方がいい。少なくとも、こっちは嘘をつかなくていいから。

愛している演技を。

身体の線を辿るように、男の指は手足を辿っていく。そんなに心配しなくても治ったさ。健康的で、栄養が足りていて、いい感じだろ?立ってるだけで誘い込めるくらい、回復するまで、お前の目から逃げていた。

足の指にキスされる。そのまま唇が内腿を上がってくる。どうぞ、何処でも、好きなように。爪は磨いてあるし叢も手入れしてる。目的の場所は二ヶ月ぶりだ。ずいぶん締まっているだろう。

腰を捕らえて腕をまわす、男の腕が熱い。指先も息も。俺に触れて震えてる。

唇に包まれる。

最初に寝てからもう、十年以上になるけれど。

それまで一度もされたことがないような、丁寧な奉仕。

声を漏らさないためにシーツを噛む。跳ねた腰が弾けたあとの始末まで、させて脱力する。

そっと奥の、筋を辿られる。たどり着く場所に触れる。

思わず笑った。お前そういや、そこをナントカって言ってたな。すごい恥ずかしいことを。

本気か?だったら、舐めろ。

そんな気分で手を伸ばし、男の頭を、そこに押し付ける。意図を正確に男はすくいあげる。唇が寄せられて舌が這う。

分かるじゃないか、その気になれば、俺の気持ちも。

そうだよ。そのまま、甘く絡んでいろ。

指が挿し入れられる。とろけたなかは慣らす必要がないくらいだった。けれども本物をいれられようとして、とっさに身体をよじる。

戸惑ったように苦しげに、男の身体が半端な状態でとまる。

何が嫌なのか。

説明してやる気にはならなかった。

男は一度離れ、脱いだ服のポケットをさぐる。暗闇の中、そっと頬に触れさせられたのは四角く薄いビニールの袋。固い弾力の輪を挟んだ、コンドーム。

 なんだ、お前。

 ちゃんと分かっているんじゃないか。

ゴムを纏った雄を今度は拒まない。擦りたてられる久々の感触が甘い。肉体の、というよりも粘膜の、ダイレクトな感触を貪る。

男の手は、最後まで。

俺を慰めるように絡み続けた。

 

終わってすぐに、俺は身体を離す。そのまま指先でドアを指す。用の済んだ情人はさっさと部屋から追い出すもの。

男は悲しげな顔をした。見えなくても気配でわかる。願うように、俺のドアをさした指先に口付ける。隣で寝かしてくれと、言葉ではなくても伝わる。

指をさっと引き、壁を向いて拒んだ。

男は諦めてベッドから降りる。脱いだ服を、手探りで着てゆく。闇になれた目にはそのぼんやりなシルエットが見える。逞しくしまった肢体を、顔を隠した腕の隙間から堪能した。若々しい腰つき、張り詰めた足。筋肉が張り付いた腕に背中。

服を着てドアを開け、男は最後に振り返る。シーツにくるまり背中を向けたまま、俺は振り向かない。

パタンと、ドアが閉じる。オートロックがかかる音。シャワーも使わせず追い出したことに、俺は不思議な陶酔を感じていた。

いい気味だ。

昔、似たようなことがあった。立場は逆だったけど。

まだ高崎の家に住んでいた頃。不定期に戻るお前は不意に訪れて眠る俺を抱いて、用が済んだら自分だけさっさと二階のサニタリーを使った。足の間にたらしながら一階のバスを使いにも行けずに、俺はお前のシャワーが済むのを待っていたよ。待ちきれず部屋で始末したこともあった。最低の気分だった。

今度はお前が惨めさを味わう番。

それが嫌なら、俺に近づくなよ。

出来ないだろうけど。

さないつもりだけど。

どこもかしこも磨き上げてお前を誘ってやるよ。

跪いて俺につくせ。優しくなんか、絶対にしてやらない。

 

窓から聞こえてくる雨音。

お前が濡れて歩いてく気がして、それがさっきから耳についてしょうがない、なんて。

俺は絶対、お前には告げない。