あの日あの時、なくした君を・2
薄闇の中で、黙って思い通りになることに。
耐え切れたのは、ほんの少しの期間だった。
「藤原と、寝てんの?」
開かせた胸元に唇を寄せながら尋ねる。反応はすぐ返ってきた。押しのけようと、腕を上げる。
その腕を掴んでシーツに押し戻す。力は俺が強い。でも気持ちはびくついてばかり。口をきくなという条件を破った罰が怖い。でも、尋ねないではいられない。
「俺が娼婦とか言ったから怒ってんの。だから俺に、こんな真似させてんの?」
金銭で買われた娼婦みたいに。言葉も愛情も与えられず、相手の望むことを巧く出来た時だけ、少しだけ優しく撫でられて、それがご褒美。
「なぁ。口きいてくれよ。答えて」
この人と壊れて二年、冷たい無視と拒絶には慣れてた……、つもりだった。でもどうしてだろう、心臓が痛い。胸が痛むとかそんな抽象的な言葉では足りないほど、キリキリ、ズキズキする。
以前の拒絶なんて可愛いものだった。身体だけ使われる今と比べたら。
「返事、してくれよ」
以前は。
ベッドの中では、口をきいてくれた。でないと俺が暴力的になったから。優しい声を出したり甘えたり、演技や義理が見え見えだったときもあったけど、してくれていたのだ。なのに。
今は呼吸の音さえ漏らさない。力づくでは叶わないまま、それでも静かに、俺を拒んでる。
殴ろうが怪我させようが好きにしろ、という態度。そうだ、だいたいこの人は、暴力や痛みを怖がる人じゃない。なのに二年間、何を怖がっていたの。
俺の敵意?今、俺があんたのそれを怖くてたまらないように?
「……、なんでもするからさ」
抱きしめて哀願。返事はない。とろかすために必死で身体を抱いた。それでも、返事はない。
返事どころか熱もかえってこない。すりあげて舐めて宥める。それでも熱は宿らない。気持ちが拒んでるから?オンナって、だから嫌だよ。残酷で。
気持ちで拒んだから身体まで冷えやがる。
冷たいままの中に挿し入れる勇気はなかった。そんなこと、したら致命傷を負うのは自分だと分かってた。うすやるの中でも艶やかな光の宿る瞳が怖くて背中から抱きしめる。大好きな背中の感触を貪りながら、拒まれながら、ひどい気分で内股に挟ませて吐き出す。
うなじにため息をついて、でも、背中に倒れこみはしなかった。重さと体温を嫌がられるのが怖かった。身体を離して汚した場所を枕もとのティッシュで拭おうとする前に、彼がさっさと起き上がる。
「……」
怖くて、口がきけなかった。
手櫛で髪を直して服を着る。そのまま出て行こうとされて、とっさに追おうとした俺の肩に。
「ッ」
投げられたのはタバコの箱。
俺の服と一緒に、床に落ちていたらしい。
軽いそれが鋼鉄の礫以上に俺を打ち抜く。強張るうちに彼は出て行く。ドアが閉まって暫くしてからようやく動けた俺はのろのろ、シーツの上に落ちたタバコに手を伸ばす。
何本、吸っていたっけ?
抜かれてないよな、中から。
自動販売機で中学生が気軽に買える日本と違い、欧米でタバコを買うのは大変だ。若い日本人なら先ず確実に身分証の提示を求められる。自動販売機なんてものはそもそも存在しない。
俺にはひどく不自由な規律を今、初めて有難いと思った。冷たくなっていった指先を思い出す。嫌な記憶だった。抹消したい感触ほど強く刻まれるなら、俺は多分、死ぬまであれを忘れない。
乱れたシーツの、彼の頭があったあたりに顔を寄せる。あの息を吸った布を舐める。少しだけ彼の、気配に触れた気がした。
彼が居ない部屋に長く居る気にもなれなくて服を着て、同じように出て行く。でもその前に部屋の明かりを点けた。なんてことはないツインの部屋。デスクに用意された便箋とペンを手にとる。
季節外れのハリケーンのせいで、堤防と一緒にサーキットの日程までが流れた、ぽっかり空いたオフ日。
高橋啓介は部屋に閉じこもった。スタッフやチームクルーから何度か外出の誘いがかかったが断った。最後には返事をするのも鬱陶しくて受話器を上げっぱなしにする。憂鬱な気分でフテ寝して、目覚めても、雨。
連絡がない。電話がかかってこない。
新しい街に着くごとに、彼のホテルへ自分のホテルと番号を知らせているのに、一度も呼び出しはない。同じシリーズを転戦している以上、あっちもこっちも状況は似たり寄ったりで暇を持て余しているだろうに、来いとも言ってきてくれない。
書置きに気づいてくれたんだろうか。それともあれが逆に、彼の怒りを煽ったか。
『すみませんでした。もうしません。連絡を待ってます』
手紙なんて彼に書いたのは初めてだった。メモさえ残したことはなかった。甘やかされていたって改めて、俺は思った。
ノックされるドア。返事をしないと、眠っていると思ったか、そっと隙間から差入れられるメモ。
拾って読むと取材の申し込み。またかよ、と嫌な気分になる。プロとしてレースに出始めた頃はマイクを向けられるのが嬉しかったが、今はもううんざり。何故って、連中は俺に話を聞きたいわけじゃないことに気づいたから。
自分が書きたい話をさせる為に、誘導尋問を仕掛けに来るだけ。記事の内容は最初から決まってて、それを俺が言った言葉にされるだけ。
でも。
取材の相手の名前が俺の、憂鬱な気分を吹き飛ばす。藤原拓海じゃない。日本人ドライバーって事で、奴と並べられての取材は多い。
藤原拓海のマネージャーのセッティングで、、会食を兼ねた対談。
オーケーを出すために俺は電話に飛びついた。
会食の場所は日本食レストラン。離れ座敷風のそこは畳も敷かれていて、でもやっぱり、日本と違うかすかな違和感があった。
売り出し中の新人らしく、藤原拓海は記者にぺこっと頭を下げた。その背後では敏腕マネージャーが、
「写真は食事の前がいいですね。とりあえず何か、簡単に並べてもらいましょう」
「席を少し直します。ライトが入りやすい位置に」
「藤原、髪」
まめまめしく場を仕切っている。記者もカメラマンもはいはいと動き、取材は滞りなく進んだ。藤原は言われた場所に座り呼ばれた方を向き、尋ねられたことに答えていく。発言をろくに聴きもせず、
「それはつまり、……、ッて事なのかな」
自分好みに解釈する記者に大人しく頷く。自分から口を開いたことは一度だけ。
「その人は写さないで下さい」
美貌の敏腕マネージャーに、感心したようにレンズを向けたカメラマンに、
「僕のプライベートスタッフです。マスコミに出すつもりはありません」
逆らうと怖いことになるぞ、という脅しを含んだ声で。
それきり俺たちは向き合い、あちこちで繰り返した似たような会話を続ける。テープレコーダーがまわり速記記者がペンを走らせて行く。日本人ドライバーに夢を与えてくれたとか、先輩として尊敬していますとか、そんな言葉を聞き流し、意識はカメラに入らない位置で、うちのチームマネージャーと名刺交換なんかしている人に向けられていた。
「俺、ずっと高橋……、啓介さんのこと羨ましかったんです」
聞き流していたから言葉のつながりはよく分からない。ただ、言葉の真剣な響きが俺の意識を現実に引き戻す。向き直ると、声と同じ真剣な顔がじっと、俺を眺めていた。
「ふぅん」
タバコを取り出してくわえ形勢を立て直す。
「どのへんが?」
「いろいろ。でも一番は、もてる所かな」
視線が彼に流れる。
「すごく羨ましかった」
俺は苦笑するふりで周囲をうかがった。マネージャー二人はインタビューを終えた記者たちと打ち合わせをしてる。食事を運ぶ仲居はまだ来ない。花形レーサー二人がぽつんと放り出されている、落とし穴のような時間。
「俺、まだ、アニキと寝てるぜ」
答えず藤原拓海は唇の両端を吊り上げる。切れ長の目尻が下がる。能面のように内心が伺いにくいアルカイック・スマイル。
「知っています。世の中にはお節介な人間が居ましてね」
「?」
「涼介さんが夜中のロビーの、人目につかないところで時間を潰してて。そこにサングラスした啓介さんがおりてきて、涼介さんに気づかず出て行ったのを確認してから、涼介さんが部屋に戻っていった、とか」
「……」
「そういうことを教えてくれるフロントマンも居るんですよ。口止めしときましたけど」
「……迷惑かけたな。払おうか」
「いいえ。チームに知られたら困るのは俺だから。彼があなたの、情人だなんてね」
「……」
「なんで別れないんです?」
心から不思議そうな声。
「喧嘩したんだろ?こうやって会っても目もあわせないのに、何でベッドにだけ一緒に入るの?そーゆーのって不潔じゃねぇ?別れてお互い、別の相手とやり直した方がいいとか思わない?」
「考えたこともねぇよ」
「あんたたち見てると時々、イライラしますよ。なんかそういう歌ありましたね。古い。……『愛しのエリー』だったっけ」
「知らねぇよ」
嘘だった。題名とサビのとこくらいは知ってる。歌えされする。
「俺、あーゆーの大嫌い。愛してりゃ何してもいい筈なんかない、ですよね?」
同意を求めているというよりも、脅迫。
「そうだな」
本当に思ったから答えた。
「泣かされて冷たくされて、離れられない女も女だよ。マゾってゆーか、甲斐性がなさすぎ。泣けばいいと思ってるってゆーか、泣いてることに陶酔しちゃってんのか。暴力夫に泣く妻、とか聞くたびに思うんです。馬鹿すぎるって。愛してるから苛めるんじゃなくって、苛めることが愛情なんだから永遠に治らないって、分からないんですかね」
「藤原」
「悪い癖って、ぜったい治らないから。タバコも酒も、虐待も。アンダー出す奴は最初から最後まで出すし」
「藤原」
「一回泣かせる癖がついちまったら最後までそうだよ」
「喧嘩売ってるのか?」
「まさか」
否定の言葉と裏腹に、目はそうですと、言って俺を見返す。
「俺の好きな人がそういう女なんですよ。そういう女には、全然見えないし思ってなかったんでびっくり」
「……」
「でも惚れちゃった後じゃ仕方ないから、どーやって今の男と別れさせようか思案中なんです。いい手段、ありませんかね」
「諦めんのが一番てっとりばやいぜ」
「それは却下。言ったでしょう。俺、ずっと羨ましかったって。せっかく今、そばに置いてんだから手放すつもりはありませんよ」
「寝てんのか、あの人と」
刃物を突きつけるような問いに、
「…、」
藤原が答えようとした瞬間、ふすまがからりとあいて、からりとあいて、
「イラッシャイマセ。本日はようこそ」
カタカナアクセントの店主が挨拶に来る。背後には和食の料理を捧げ持つ給仕。
「こんにちは。わー、ご馳走だ。刺身なんて久しぶり」
テーブルの上に次々に食べ物が運ばれて、藤原との距離が遠ざかる。藤原は箸を持ち俺を見る。俺が上座なので先に手をつけろと言っている。仕方なく箸をとり頂きますと口の中で呟き、藤原と会釈しあった、途端。
「涼介さん、一緒に食べようよ。久しぶりの和食だよ」
背後を振り向いて藤原は、仲居にチップを渡す彼を呼んだ。
「あとで頂くよ」
「どーして。一緒に食べよう、こっちおいでよ。記者さんもう帰っちゃったんでしょ?そっちのマネージャーさんも一緒にさ」
席は四人分、用意してあった。
「いや、これはどうも。じゃ、お言葉に甘えて」
藤原のところと違ってうちは日本のチームで日本人が半分以上だ。当然、自前のホスピタリティにも和食が多い。だからこっちのマネージャーは和食に飢えてるわけでもないのに、さっさと座敷に上がりこみ下座に座る。
いや別に、俺は、それがどうこうじゃなくて。
「ほら涼介さんも」
苦笑した彼が藤原拓海の、隣に座るのが嫌なんだ。
白い手が箸を取る。かすかに笑って会釈する顔をうちのが、ポーッと眺めているのが気に入らない。
ガラス製の徳利を取り上げて藤原拓海は、
「どうぞ」
俺を見た。シーズン中は酒を飲まないことにしていたが、
「……」
挑発された気になって片手で杯を取る。一杯だけだよと横からマネージャーが口を挟む。分かってる、そんな事ぁ。
冷えたのをぐいっと干して杯ごと返す。受け取った藤原がきょとんとする。返杯も知らないらしい。横から彼が藤原の耳元に何かを告げた。いちゃついてるように見えて腹が立つ。
頷いた藤原が俺に杯を、片手を添えて差し出す。なみなみと注いでやったそれに唇だけつけて。
隣のあの人に手渡して。
俺は眩暈がしそうになった。
口だけつけてこっちに流せとさっき言ったんだろう。主客が下戸の時、上戸のお供が流れをうけて庇うのはよくあること。でも俺は、殴られたようなショックを受けた。
白い喉が動く。俺が注いで藤原が口をさけた、酒をあの人が飲み干す。
これはキスシーン。いや、もしかして三々九度。俺が注いだ酒で?
「その手があったか」
こっちのマネージャーが能天気な声をあげ膝を叩く。彼は上戸だ。
「それではこちらもお流れといこうかな」
「そうですね」
彼が自分の杯を取り上げてマネージャーに差す。
二枚目に酌してもらうと久々の日本酒がさらに甘露だ、とかなんとか、マネージャーが言い出す。俺はそれどころではなかった。彼の手元に止められたままの、もとはといえば俺の杯を見ていた。
「……おい」
「はい?」
ばくばくメシを食ってた藤原が顔を上げる。
「いつまでそれ、そこに置いとく気だ」
顎先で彼の手元の杯を示す。
「啓介」
棘のある俺の言葉を咎めたのはこっちのマネージャー。
「あ、すいません。えーと」
どうすればいいのか、と尋ねるように藤原が彼を見る。
「盃洗で洗って返すんだ。今度は下座に流れるんじゃなくて上座に昇ることになるから」
「はい」
手元に用意されたそれでさっと飲み口をそそいで杯を返す。酒を満たされたが口はつけなかった。あの人の唇が触れた杯だったから欲しかったのに、洗われたんじゃ意味がない。
それでも。
今の俺にテーブルをひっくり返してあの人の腕を掴み、車に詰め込んで強引にさらう度胸はない。
それに正直、嬉しくもあった。食事をする姿を見るのは久しぶりだ。山葵醤油で食べるつきだしの墨染め豆腐、前菜は百合根の酢味噌和えに小さな烏賊の黄金焼き。オクラの胡麻よごし。
吸い物は焼き茄子となめこ。造りは赤貝。白身魚もあったが種類はわからない。日本で普通に刺身になる種類じゃないのは確かだ。でも新鮮で、味は悪くなかった。
焼き物は鴨。木の芽味噌のほうらく焼き。そして、鯛のバター蒸し。
揚げ物は海老のはさみ揚げ、野菜の黄身揚げ、キスの磯辺揚げ。一品ずつ運ばれるのではなく一度にテーブルに並んだ。藤原は時々無作法をしたが、横から小さなささやきが来るのでたいしたことはなかった。大体、俺の隣に居る奴が吸い物の実をかきまわしたり揚げ物に最初に箸をつけたりと無茶苦茶なので、俺に藤原をけなす権利はない。
隣に気をつかいながら、それでも彼もけっこう、食べている。それがなんだか嬉しくて安心で、藤原との会食は無事に終わった。
そして。
藤原が俺に別れの挨拶をし、すっかり酔ったうちのマネージャーが、藤原に別れの挨拶を返している時。一瞬のすきをついて。
テーブルの下から俺の膝に投げられた箸袋。さりげなく、俺はズボンのポケットになおす。マネージャーが車の用意をしに行った後で見てみると、そこに書かれていたのは部屋番号と時間。
天を仰いで息を吐く。やっと、呼吸が許された気がした。
好きとか、愛してるよとか。
そんな言葉さえ禁じられた夜。
でもこの人に触れるのは嬉しい。虐待が俺の癖になってるってんなら、必要以上の接触を持たないこの関係は、この人を傷つけずに触れられる唯一の方法かもしれない。
キスを重ねる。あんまりしつこいからか嫌がられた。背けられた顔をそれ以上、追ってもいけずに指先で、触れるだけで我慢した。
渡さない、渡せない。あんたを手放すことは出来ない。
あんたが居ないと息が出来ないんだ。
冷たいままの唇で良いから、俺に呼吸をふきこんで。
あんたの思い通りに動くから。
なんでも、言うことを、きくから。