あの日あの時、なくしたきみを3

 

   朝食が運ばれるまでの間、この人は新聞にざっと目を通す。ヨーロッパラウンド中に眺める新聞は、当然日本語ではなくて、それを平気で読んでいく人に惚れ惚れした。頭がいい人は好きだ。大好き。難しい顔で読み薦める。凛々しい口元が、きゅっと締まった。
「啓介さんって、あんまりパッシングありませんよね」
その記事の内容が見当がついた。ヨーロッパに来て以来、俺はマスコミからパッシングを受けてる。俺だけじゃなくロシアやアメリカのレーサーたちも。要するに、ヨーロッパ人以外のF1レーサーは、まるで無礼な闖入者みたいないわれ方をしてる……、そうだ。
英語もろくに読めない俺にはよく分からない。が、他の日本のチームやロシア系のチームなんかと、涼介さんが真剣な表情で話し合ってるのは知ってる。これ以上エスカレートするようなら連名での抗議、問題の記事を書いた記者を取材から占め出すことをFIATへ申し入れようとか、そんな話も聞いていた。
「愛想がいいからかな。こっち系の顔してるし。ちょっとイタリアかスペインかって感じしますよね」
 中高のキツイ顔立ちは日本人離れしてる。
「俺は俺って、一応は思ってるんですけど、時々ちょっと、羨ましいかも」
「藤原は東洋系だからな」
「日本人ですから」
 ちょっと唇を突き出してみる。
「どーせ俺は典型的な東洋人です。あんなに鼻も高くないし彫りも深くないですよ」 
髪の色も抜いていないからますます日本人してる。それは目の前の人も同様。けれどこの人は不思議と中国系に間違えられることが多い。チャイナドール、なんてこの前は言われてた。
「お前は充分、整った顔をしてるよ、藤原」
「涼介さんに言われると何か変な感じ」
「会った頃はお前、まだ十八で、美少年だったよな」
「涼介さんに言われるとすっげー変な感じ」
「俺はけっこう気を使っていたぜ。峠にはガラの悪い連中も多かったから。お前が」
 人の悪い表情で、涼介さんは笑った。
「レイプされたり輪姦されたりしないように、さ」
 意地悪なからかい文句を嘯く唇さえ、逆らいようがないほど艶やかでハンサムで。
「朝っぱらから、申し訳ないんですが」
「ん?」
「今、すっげー腰にきました」
 本気が半分。報復がもう半分。
「朝だからな」
 さらっと言われて、白旗をあげるしかない。運ばれてきたトーストに蜂蜜を塗って齧りつく。わきに新聞を置いて涼介さんは紅茶のポットから、俺のカップに注いでくれる。ミルクを少し、砂糖はなし。
「なんか、こーやってると俺たち、夫婦みたいですね」
「お前は素直で世話しやすいよ」
「頑張って稼ぎもよくなりますよ」
「怪我しないようにな」
 今のところの成績は五位入賞が一回、リタイアが一回、七位が一回。新人にしては破格の出来だとみんなが褒めてくれる。でも俺は満足していない。高橋啓介は四位が二度、六位が一度。リタイアなし。四位といっても紙一重で表彰台を逃がしたことがあって、日本人二人目の表彰台と初優勝の期待がかかっている。総合でも七位につけていて、……羨ましい。
「お前には将来がある。焦って怪我はするな」
 真摯な助言に逆らうつもりはなかったけど、
「今年が勝負ですよ」 
 言って見返す。意味を悟ってくれたらしい涼介さんは自分のカップを持ち上げて顔を隠す。この人を俺のものに出来るかどうかは、今年にかかっている。
「朝から、すげぇいい天気ですね」
 視線を中庭に向けて目の前の人を解放した。追い詰めるつもりはなかったから。
「焦げないように、気をつけような」
「はい」


 政治家の失言なんかもあって、ジャパンパッシングがきついから。
 気をつけるようにと、いろんな人から言われていた。
 でも買い物に行きたかった。タンクトップを着せたかったのだ、涼介さんに。
俺の財布は彼に預けてある。俺にとってはけっこう大金の契約金も、入賞の時にもらった賞金も。買い物にはいつも、通訳と支払いのためにカードを持った涼介さんがついて来てくれる。帰りに食事もするから、デートみたいなものだ。
 仕上げのキスがないだけで。
 服が欲しいと言うと涼介さんは、少し考える顔をしたけれど、
「そうだな。麻の軽いスーツが必要だし」
 そう言ってついて来てくれた。


「藤原」
スーツを二着、補正を頼んで、出来上がったらホテルに届けてもらうことにして。
「走れるな?」
 店を出て何歩も歩かないところでそう、声をかけられた。頷く間もなく走り出す。そうして俺は初めて、追いかけてくる足音に不穏さを覚えた。
「振り向くな」
短い叱咤。こんな真昼の、デパートやブランド店が並ぶ街中で。
 角を曲がったところに停まってたタクシー。涼介さんが乗り込む意志を見せて後部座席の窓を叩くより早く、タクシーの運転手はエンジンをかける。係わり合いになるのを恐れて逃げ出そうとしていると、音だけで分かった。
次の瞬間、目にもとまらない速さで。
「り、」
 振り上げられた涼介さんの踵がタクシーのガラスを蹴る。派手な音をたてて粉々に砕ける。破片が残ったままの窓に手を突っ込んでドアロックを解除。開いたドアに、突き飛ばされるようして押し込まれて。
「涼介さんッ」
振り向いた視界に、信じられないものが映る。ドアを身体で塞ぐようにして俺を庇う彼とその背後、でかくて若い男の集団と、その一人の手にもたれたナイフ。先端が赤い。
向き直る俺をもう一度押し込んで、涼介さんは運転手に何かを言う。運転手は戸惑ったように首を左右に振る。血の匂いが車内に満ちる。咄嗟に俺は運転手のシートの背中を蹴りつけた。
弾かれたようにタクシーは走り出す。
「ナイスフォロー」
 笑う涼介さんの、前髪をかきあげる指が赤い。白い額に、それがうすく伸びた。
「涼介さん、しっかりして、涼介さん」
「騒ぐな、死にやしない。それより、止血を手伝ってくれ」
 切りつけられていたのは右腕。裂けた皮膚の隙間から血が溢れている。脱いだシャツで指示通り縛りながら、俺は手が震えるのを必死で抑えた。膝の震えは、抑えようがなかった。
「大丈夫。死にやしないから」
 見かねた彼が笑う。でも顔色は悪い。彼の上着のポケットから携帯を取り出してチームスタッフが滞在してるホテルにつなぐ。タクシーは、救急病院らしい建物の前につけてくれた。
 わめく運転手に札の種類などわからないまま、彼に預けていた財布の中の現金を丸ごと渡したのがきいたらしい。運転手は彼をストレッチャーに乗せるのを手伝ってくれた。あお向けでなくうつ伏せに運ばれていく彼の背中にも傷があるのに気づいてぞっとする。それでも、
「そんなに心配しなくても大丈夫だ」
 白い美貌は俺に、優しく笑いかけた。


 麻酔は、局部麻酔にしてくれと強硬に言い張ったらしい。
 自身が医師だという彼に根負けして、最小限の麻酔で縫合は行われた。背中の傷は大したことなかったけど斜めに裂かれた腕は重症で、深く、筋肉繊維と腱を傷つけていた。
 その説明を、俺は彼自身から聞いた。油断してると泣きじゃくりそうで唇を、ぎゅっと噛み締める。
「だから、心配しなくても、大丈夫だから」
 出血はひどかったけど輸血も拒みとおして、増血剤と点滴を受けただけの彼は顔色が悪い。背中の傷のせいでうつ伏せに、病院のシーツに頬を預けながら、
「お前のせいじゃない。敢えて言えば、俺が悪かった。危ないかもって思ったのに買い物に来らせたんだから。お前に怪我がなくってよかったよ」
「涼介さん」
「お前に怪我でもさせた日には、チームのみんなに顔向けが出来ない」
「怪我なおったら、俺と寝てください」
「唐突だな」
 懸命に慰めようとしてくれた人が苦笑する。
「でもありませんよ。ギリギリで今まで、ずっとやせ我慢してたんです」
 好きですと、何度も繰り返した告白。
「俺、浮気相手でいいです。今そう思いました。涼介さんが遊びでも俺がマジならいいかって」
「ごめん、藤原。俺は遊びでは寝ないんだ」
「あの賭けは?」
「有効さ。一回だけなら、いつでも。今でも」
「どーしてそんなに啓介さんのこと好きなの。あの人そんなにイイ?うまいの?」
「さぁ」
「さぁって何だよ」
 怪我人相手に大声を出す。いけない事だと思ったけれどとまらない。
「しらばっくれちゃってさ。口もきかないような喧嘩してて、どーしてベッドにだけ入れるの。よっぽど彼、あなた鳴かせるのがうま……」
 ヤケクソの挑発に、
「あいつ以外と寝たことがないから分からない」
 それ以上の爆弾発言で返されて息を呑む。
「う、そだぁ」
「信じてもらえるとは思ってないよ」
 熱意のない静かさが、かえって事実のように思えた。
「ホント、それ」
今度は答えはなく、美しい眉の片方が上がるだけ。手入れの行き届いた髪も爪も肌も、まさかあの男のためだけにあるのか。
「須藤さんとかは?」
「京一は、昔馴染みなんだ」
「ナンにもない訳ないじゃない。須藤さん、涼介さんには無茶苦茶に甘いよ。あんな怖そうな人が、涼介さんにだけ優しくって親切だ」
「オンナから」
 自分のことをそう呼ぶのに、彼は躊躇を感じないようだった。
「剥いで行く男も居れば着せていく男も居る」
「須藤さんなんか目もくれなさそうですけど」
「あいつは理想が高いんだ」
「よーするにメンクイなんですね。涼介さんみたいなレベルじゃないと須藤さんにはオンナ扱いしてもらえないんだ」
「京一は過保護だ。着膨れさせられるから、あんまり近くに居すぎると身動きとれなくなる」
「俺は?」
 自分がオンナにどういうタイプかなんて、それまで一度も考えたことはなかった。
 いつも、オンナが自分にとってどうか、そればっかりが問題で。
「俺はでも、涼介さんから絶対に剥ぎませんよ。脱ぐのも着るのも好きなようにすればいい。脱いだのは、ちゃんと預かっときます」
 思い出すのはこの人と一度だけマジの勝負をした時。脱いだ上着を預けられたのはあの男。羨ましくて、妬ましい。
 あんまり他人と自分とを比べてどうこうと、思ったことはないけど。
「着たいならいくらでも着せてあげる」
「剥がれるのは嫌じゃなかったんだよ。啓介になら」
 それがそもそもの問題だったんだと、笑う。
「少し疲れた。眠らせてくれ」
「はい。……怪我してるときに、すみませんでした」
「大丈夫だから本当に心配するなよ。熱が下がって血が戻ったら、すぐに退院できるんだ」
「啓介さんが会いに来たらどうしますか」
 会わせたくはなかった。あの男とは、もう二度と。
 でも。
「涼介さんが会いたいなら、なんとかしてみますよ」
 面会時間の終わった病室に、手引きを。
「大丈夫だからって、それだけ伝えてくれ」
 会いたいとも会いたくないとも、彼は言わなかった。


 高橋啓介はやって来た。早かった。何処からどう聞きつけたのか、うちのチームスタッフよりも先に。
 言うべきことは沢山あった。涼介さんからの伝言、俺を庇ってくれた事情の説明と謝罪。この男に、俺は謝るべきだろう。涼介さんはこの男の情人なのだから。
「アニキはッ」
 息を乱して駆けつけた男に頭を下げる。それと一緒に、こぼれおちた言葉は。
「涼介さんを俺に下さい」
 謝罪でも伝言でもなかった。
「なに言ってんだお前。アニキだよ、怪我はどうなんだ」
「涼介さんは啓介さんから離れられません。それは、啓介さんも知っているでしょう?」
 涼介さんは好きなのだ、この男を。我儘で激しくて乱暴で、喫煙者で扱いにくくて、ハンサムな顔と精悍な身体をした男を。
「だから、啓介さんが涼介さんから離れてください。あの人、俺に下さい」
 他人に頭を下げてものを頼んだのは、もしかしなくても、これが初めてだった。
「アニキ何処だ」
「ください。大事にします。絶対、幸せに」
「何処かって聞いてんだよッ」
 イラッとした声。襟首を掴まれる。俺もけっこう伸びたけど、背は啓介さんの方がだいぶ高い。にらみ付けられて、でも怖くもなければ反感も持たなかった。それどころじゃなかった。
「欲しいんです。大好きなんです、あの人を」 
啓介さんの右手が固められる。殴られるのは少しも怖くなかった。いっそ殴られて当然な気がした。でも。
「藤原、タクミッ」
「啓介、止めなさい。手を離して」
「暴漢に襲われたんだって?大丈夫だったのか?」
「スウィーティーが怪我をしたって?」
俺のところと啓介さんのところと、スタッフが一度に到着して混雑したロビー。俺と啓介さんは引き離され、二度と近づくことはできなかった。
「啓介さんに、涼介さんから伝言があるんです。大丈夫だからって」
 それだけ伝えてくださいと、あっちの美人のオーナーに、頼むのが精一杯だった。
「分かったわ。ありがとう。乱暴して、ごめんなさいね」
「いいえ」
 乱暴な真似を、してしまったのは俺の方だった。
 別れてくれと頼んだとき、一瞬だけ見せた啓介さんの、泣きそうに不安な顔。
 押すなら、あっちだ。
 涼介さんは押しも引いても、どうせびくともしやしない。手ごわい人だし、俺は涼介さんのことを好きだから、キツイ真似は出来ない。けど。
 啓介さんになら出来る。彼が泣こうが傷つこうが、俺の知ったことじゃない。
 あの人が欲しい。
 身体で庇ってくれたあの人が、どうしても。
 

 その腕で抱いて。
 タクシーの中で庇われた、あの感触が忘れられない。
 あなたの腕の、なかで息をさせて。