あの日あの時、なくした君を・4
病室のドアを開けた途端、飛んできた文庫本を、
「っと、」
藤原拓海は咄嗟にドアを閉めて避けた。予想していたことだった。
「危ないなあ。予選四位のご褒美がこれですか」
笑いながら毛足の長い絨毯の上に落ちた本を拾う。
病人は右腕を包帯で吊りながら、それでも元気だった。彼が上体を起こしているベッドは飴色の桜材。背もたれのクッションも豪奢な刺繍が施された羽毛。
「ここって一泊、幾らくらいでしょうね」
ホテルのロビーに飾られていそうな、派手な過敏に山盛りに挿された花を眺める。
「凄い匂い。ちょっと減らそうか。臭くない?」
「記者会見、見ていたぞ。誰が恋人だ、誰が」
「俺もちょっと怒ってましたんで」
ベッドのわきに椅子を引き寄せて、座る。脚は組まない。行儀のよさと裏腹の、
「言い損なったんですよ。恋人にしたい人って」
したたかな言葉。表情。目線。一緒に寝てくださいと涙目で哀願したのはつい三日前なのに。
嵐のような三日間だった。
F1レーサーが暴漢に襲われたこと、彼を庇ったマネージャーが何針も縫う大怪我をしたことはすぐにマスコミにもれ、ヨーロッパ人以外のレーサーに対するパッシングが社会問題になりかけていたこともあって、緊急記者会見が開かれた。そこで。
正面に座らされた藤原拓海は、用意された原稿を丸めて、床に捨てるところから始めた。
彼は最初から喧嘩腰だった。礼儀正しくて大人しい、それまでの印象が一変する。怒鳴り散らすわけではないが静かに、そして激しく怒っていた。
「記事を書いた記者と、俺を襲った人だけの責任にするのは卑怯です。記者が何度も記事を書けたのは評判が良かったからでしょう。読んで愉しんだ全員に、俺は責任があると思う」
そこまでは、まだ良かったのだが。
「ユダヤ人殺したナチスみてぇ」
ヨーロッパでは、不用意に使ってはならない言葉だった。
通訳されるなり会場はざわめきで満ちた。好意的なものではなかった。ドイツと同盟を結んで間接的に虐殺を支持したも同然の日本人に、そんな言葉をいう権利があるのか、とかなんとか。
藤原拓海は黙って聞いていたが、
「通訳してくれる恋人が今、居ないからなんて言われてるか俺、分からないんです」
怪我をしたマネージャーのことだと、悟った記者たちは一瞬だけ怯む。
「だから何を言われても構わないんだけど、返事が欲しいなら順番に言ってください」
発散タイプではない。どちらかというと収斂。叫ぶより黙ることが多い人間の怒りは。
胸に閉じ込めた言葉の数だけの重力で、その場を支配した。
それから事態は二転三転した。ナチス発言のあった傲慢無礼なフジワラタクミを国内追放にという一部の過激派はしかし、ナチス発言があったが故に今回の騒ぎに興味を持った人権団体の反感を煽った。記事を書いた記者だけでなく、その出版社自体が人種差別的偏見を持っている疑いをもたれ、最終的には、出版社の社長が見舞いにやって来て、高橋涼介はしつこい懇願に負けて郊外の病院の、最高級の個室に移された。
タイミングがいいのか悪いのか、日本の外相の欧州訪問が二週間後に迫っていた。世界的な自動車メーカー統合の動きの中、アジア市場に食い込むために日本の車メーカーとの提携を望む企業も多く、藤原拓海の事件は産業界まで注目した。なによりも。
『恋人の身体と俺の心に、消えない傷が残りました』
なんて断言するレーサーがまだ若い、整った顔の青年だということも手伝って、自国の女たちが日本人レーサーの側についてしまった。それだけでもこの国の男たちには痛手だったが。
然るべき謝罪がないならこの国でのレースをボイコットする、と。
最初に言い出したのは現在、ランキングトップのアメリカのレーサー。彼は今でこそアメリカ国籍だが出身はブラジルで、デビュー当事に所属したヨーロッパ系のチームで苦労した体験を持っていた。彼の発言は注目を集めた。勝負の世界に生きているレーサーがレースをボイコットなんて滅多にするものじゃない。彼のメインスポンサーに、日本のタイヤメーカーの重鎮が居たとしても。
その後、ロシアや南米、アジアのレーサーやチームも同様の声明を発表し、もちろんその中には高橋啓介も入っていた。足並みが揃ったのには理由がある。怪我をして入院中の高橋涼介が、その前に連携をとってFIAに記者へ抗議するよう申し入れをしていた。が、FIA側の反応は鈍かった。それに不平を持っていたところにこの事件だ。
FIA自体が人種差別的偏見を持っているのではないか、と。
まだ誰も、それを指摘しなかった。けれどみんな心では思っていた。
指摘された後では遅いことはFIA側も、百も承知だった。会長が記者会見をして今回の事件に対する哀しみと、今後への対応を検討することを発表した。最悪、この国でのF1レース開催の中止を。
各国の車業界の反応はすばやかった。代わりにうちのレース場で開催してくれという申し入れが続々届き、FIAはギリギリのタイミングで被告席から原告側へ身を滑らせた。
結局、首相が非公式ながら、日本風に言えば『哀悼の意』とでもいう発言をして。
問題の記事を書いた記者はカーレースの世界から締め出し、出版社は賠償と平謝り。
そこで、最初にボイコットを言い出したロシアのレーサーが間に入る形で、藤原拓海はマスコミ側と握手した。大騒ぎの結果、その知名度と注目度はうなぎ上り。日本の雑誌にも人種差別と戦いながら対外で活躍中の若武者、なんて恥ずかしい宣伝文句と一緒に流されて、ファンを増やした。
そして。
予選で、藤原拓海は四位につけた。天候の関係で本戦は二日後。トップとの差は僅かコンマ一秒。接戦の中、この勢いを駆って何かを、やらかしそうな雰囲気ではあった。
「ねぇ涼介さん。啓介さんより先に、俺が表彰台にのぼっても怒らないで下さいね」
優しい顔でその男は笑う。ふざけるな、と、彼は叫んだ。
「なに。やっぱり俺が弟を負かすのが嫌?」
「そんな話をしてるんじゃない」
高橋涼介の珍しい激高を、
「俺、大人しくないよ。知ってるでしょう?」
童顔で笑いながら、藤原拓海は受け止める。
「啓介さんを煽る為の当て馬なんか嫌だから。手綱を千切って俺が乗ります。必ず」
「調子に乗るなよ、藤原」
「乗ってる?俺が?まさか。俺は真剣ですよ。レースよりマジかもしれない。あなたと啓介さんの手を、切らせてみせます」
「俺と啓介の問題だ。お前には関係ない」
「あなたにとってはそうでしょうね。大切なのは弟の啓介さんだけ。考えてるのはあの人のことだけ。本当は俺のことなんかなんとも思ってない。利用して捨てるだけ。いつも」
恨む、という執念もなく指摘され、そうだとも違うとも言えず高橋涼介が一瞬ひるんだ隙に、
「でも啓介さんはそう思わないんじゃないかな。あの人は俺のこと凄く意識してる。俺に負けてもまだ、あなたの情人で居続ける度胸が彼に、あると思います?」
「藤原……」
「俺は、怖いよ」
いっそ堂々と藤原拓海は宣言した。
「ってゆーか、あなたの周りの男たちがあなたを甘やかしすぎ。何でも思い通りになると思ったら大間違いだよ、お姫様」
「ふじ……」
「試してあげる。あなたと啓介さんのこと。俺の圧力に負けずに啓介さん、あなたと繋がっていれると思う?」
漆黒の瞳が瞬く。美貌を浸透して不安が透けて見える。
「けっこう脆いって俺は思います。啓介さんってお坊ちゃんだし、打たれ弱いって思う。あなたが過保護にしてきたから」
「そう見くびったものでもないぜ」
不安を殺しながら、艶やかに、涼介は微笑む。
「あれでもあいつは、俺の弟なんだ」
「いざとなったら泣き付けばいいもんね。本当に好きなのはお前だけなんだ、とかなんとか言ってさ。そしたら啓介さん勇気百倍だよ」
「するもんか」
駆け引きを、仕掛けられていることには気づいていた。これは挑発。あまりにもあからさまな。
「好きなようにやってみろ。啓介はお前には負けない」
「本音が出ましたね。ひどい人だ。俺のマネージャーなのに」
言葉と裏腹に優しい指が伸びてくる。前髪にかすかに触れて、大人しく退く。
「あなたがそんなに啓介さんを好きって、啓介さんがちょっとでも知ってたら、俺に入り込む隙間なんかないのに」
「知っているさ、あいつは」
「そうなの?」
「知っているから俺を追ってくるんだ。俺があいつを拒みきれないことを、あいつはとおに承知しているから」
「依存関係って、いけないと思う。涼介さんと啓介さんは別れるべきだよ。お互いのために。涼介さんもそう思ったから、俺のマネージャーになってくれたんでしょう?」
「まさか。それならこんな、奴の目に付きやすい場所には来なかったよ」
「それもそうだね。何のためだったのか聞いていい?」
「聞きたいのか?」
「うん」
「予想はついてるだろ?」
「うん。たぶん。でも涼介さんの口から聞きたいから」
「思い知らせてやる為さ。あいつに」
「……何を?」
「俺がいなけりゃ、生きていけないことを」
同じ頃、高橋啓介は。
「お願いよ。お行儀よくしてよ。あたしにはお舅様に当たる方なんだから」
着飾ったオーナーの後について、ギリシャ風の邸宅に足を踏み入れる。
「レースなんて遊びだからお金は出せないって、ずっと仰ってた方なの。でも、今度の騒ぎで気が変わったのか、初めて見に来てくださるんだから。絶対に怒らせないで」
「へいへい。大丈夫って。俺、行儀はいいぜ。あんたにゃ迷惑かけてるし、困らせる真似はしねぇよ」
噂はずっと知っていた。台湾華僑の超大物で、かなり桁のとんだ大金持ち。政治家との繋がりも深く、最近は日本に行くことも多いらしい。気難しい老人を、高橋啓介は想像していたが。
「やぁ、よくいらっしゃった」
出迎えてくれたのは小柄で血色のいい、日本語の上手な老人。
「若旦那、ほら本物だよ、高橋啓介だよ。若旦那が大好きな彼だよ」
「……」
「……」
大邸宅の玄関で。
男二人はお互いに、何も言わないまま立っていた。
よく来れたなと驚かれ、肩を竦めただけで答えた。
「たまたま仕事でこっちに来てただけだ。商談の途中でこの騒ぎだろう?仕掛け人がどんな面してるか、日本に帰る前に見ていこうと思ってな」
高橋啓介から藤原拓海、さらに辿ってようやくこの病院をつきとめたのは今朝。入院中の本人が面会の意思を示した後は、すらすらと進んだ。見舞いに持ち込んだのはトランク一杯の本。手当たり次第に表紙を捲りながら順番に積んでいく彼を京一は、あきれたように眺めた。
「人聞きの悪い。俺は事件の被害者だ。事前と事後に、ちょっと工作はしたが」
「俺ぁてっきりやらせかと思ったぜ」
「冗談。やらせなら左手を切らせた。医者の縫合が下手糞でな、右手じゃなかったらいっそ自分で縫いたいくらいだった」
「無茶言うなよ」
「本当だぜ。皮膚は四層になってて、下の二層をすくい縫いすれば傷跡は残らないんだ。なのにぶすぶす縫いつけやがった。日本に帰ったら知りあいのところで再縫合だ」
「女の子じゃあるまいし」
「傷跡自体はどうでもいいが、この無様な縫い目には我慢できない」
豪華な病室で、高橋涼介は絶好調だった。
「元気そうじゃねぇか。こんなところに隔離されてる怪我人にしては。それとも隔離されてんのは怪我とは違う理由でか?」
庇って怪我をしたのは藤原拓海の『恋人』ということになっている。なっているのに右腕を吊って、ピットをうろつくわけにはいかないのだろう。
「レースの世界はどろどろしてて大嫌いだって、その嘘つきな口から聞いた覚えがあるんだが」
「俺は大嘘つきだ」
いっそ堂々と涼介は答える。確かにと京一は頷き、
「一匹狼気取った挙句、いいのだけ抜き取って遠征チーム作った男だったな、おめぇは。レースのキタナさが嫌とか言っといて、頂点に嵐呼ぶのはお手の物って訳だ」
呆れるのを通り越して感心する。それでこそ高橋涼介、のような気がする。惚れ惚れと眺める。しかし。
「マネージャーじゃなくって恋人ってことにしたのは、やりすぎだったんじゃねぇか?」
お陰でドラマは盛り上がり、藤原拓海は一躍、人気者となったが。
「それは、俺の指示じゃない」
「藤原のブラフかよ」
ヒュウ、と軽い口笛を吹く京一。
「相変わらず意外性に富んだ奴だぜ。それともガキがつい、本音を漏らしちまっただけか?」
可愛がってるのか、という問いかけに、
「お前には関係ないだろう」
涼介の返事はキツイ。おや、と京一は思った。この男にしては余裕のない答えだ。寝ているにしろいないにしろ、もっと余裕綽々に、思わせぶりに性悪な筈だが。
「……惚れたか?」
真面目に尋ねたら凄まじい目で睨まれた。それにかまわず、
「どーりで弟、足元がふらついてたと思ったぜ」
「啓介と会ったのか。どうしてた?」
「気になるなら呼べばいいだろ。伝言してやろうか?」
今年の正月、日本で、二人が決裂したことを京一は知っている。けれどそのことには触れない。兄弟の葛藤からは一歩を引いて、この男は涼介を、この男なりに愛してきた。
「そうだな。今日のレースで、啓介が負けたら」
「負けたらかよ。普通は逆だろ?」
「負けたらでいい。伝えてくれ。来いって。夜中に裏から」
「へいへい。相変わらずらしいな」
この二人の微妙な関係を承知している男は肩を竦め、
「気をつけろよ」
それでも老婆心の忠告。
「なにを」
「頭が良すぎる人間は自分が掘った穴に入りやすいからな」
「それは俺に教えてくれてるのか、それとも自分の体験談か?」
「おめぇはあのオトートにベタ惚れなんだ。ちゃんと自覚してろよ」
「それだけじゃダメたってことに最近、気づいたよ」
神をも恐れぬ美貌が仇っぽく微笑む。
「自分で掘った墓穴は気持ちがよくってつい、長居しすぎた。それじゃダメなんだよな」
「どーした。らしくもなくしおらしいじゃねぇか」
「俺が悪かったのさ」
「怖ぇんだよな、お前の反省は。続きがあるんだろ」
京一の言葉に微笑みで答える。笑えばそれ以上の追求はしてこない甘い男。
幸せになりたい訳ではなかった。そんなものが欲しかったなら最初から、弟なんかに腕は伸ばさなかった。でなければ決裂した時点でこの男の腕に入っていた。そうしなかったのは入ったが最後、二度と出て来れない気がして怖かったから。この愛情は自分が欲しいカタチとは違う。頑丈で大らかで優しくて、上物だけど、欲しいものとは違う。
「京一、俺が怖かったことはあるか?」
唐突な問いかけに、
「ないと思うのかよ」
間を置かず答えはかえってくる。
「何時、何処が、どんな風に」
「言うか、馬鹿。弱みになるじゃねぇか」
「弱みなのか?」
「怖いってのは大概がそうだぜ。時々は好きと同じ意味だ」
「……」
藤原拓海が、怖い。昔から、ずっと、今も。
奴に魅力を感じて、いるから。
ロケットスタートを決めた藤原拓海は、そのままの勢いで周回を重ねた。
ヨーロッパ勢の意気は上がらぬまま、最終的に、総合一位と二位のレーサーに抜かれたが、F1参戦6戦目にして、彼は三位に、入賞を果たした。
「……おめでとう」
シャンパンの嵐。フラッシュの光の渦の中で。
後輩の快挙を祝福しにやって来た高橋啓介に、藤原拓海はニッと笑ってみせる。
シャンパンの雫を滴らせながら、
「全部あの人のお陰です」
ひとこと告げて、去っていく。背中を高橋啓介は戦慄とともに見送る。
早い、強い。
上り調子だ。波に乗ってる。総合順位は辛うじてまだ上に居るが、日本人二人目の表彰台は持っていかれた。日本GP以外での日本人初表彰台も。
そうだ、あの人は。
レーサーを勝負に乗せるのがうまい。
敵にまわしたことはなかったけれど。
怖い人なのはよく分かってる。
今はそう、敵なのだ。そのことを今日、嫌というほど思い知る。
レース場に彼は居なかった。でも藤原拓海を勝たせたのは明らかに、この場には居ないあの美貌の持ち主。
今日で決定的に、高橋啓介は遅れをとった。同じ日本人とはいえ、日本のチームに属していない藤原は日本のメディアに登場する事がいままで、少なかった。今では逆に、それが藤原を印象付けている。大リーグに飛び込んだ野茂選手みたいに、一人ぼっちのヒーローって感じで。
ホテルに戻ったら伝言が来ていた。郊外の病院の名前と病室と時間。
メモを掴んで部屋を出た。車を拾って繁華街の、細い通りに入った。見当つけて入った店は時間幾らで慰めてくれる女たちが、気だるげに客を物色している飲み屋。
スパニッシュ系の一人が気になった。肌の色が少し違うけど、潤んだような黒い大きな瞳があの人を思い出させて。身なりのいい若い男に秋波を送られて女はかすかに笑い返す。唇の緩め方がますます似ていると、思ったのは、酔ってきたからだろう。
近づく。英語で話し掛ける。カタコトのそれが返ってくる。もともと大して語彙の要ることではない。
食事に行かないか。いいえ、空腹ではないの。じゃあ飲みに。そうね、少しだけ。
さっさと商売をすませて数をこなしたいらしい女に、朝まで付き合ってくれないかと貸切を持ちかける。女は何だという顔をした。こっちにその分の金銭を払う用意があるのなら、食事でも酒でも付き合うわよ、という態度で。
同僚の女に一言、残して席を立つ。柔らかく絡みつく腕。見上げた柱時計はちょうど、彼の指定した時刻だった。
ごめんな、行けないよ。
どうしても勇気が出ないんだ。
あんたを上手に抱ける気がしない。それに今日は、藤原拓海にはお祭りの夜だろう?
万が一、俺より先に奴があんたの、部屋に居たりしたら。
俺は、二度と立ち直れないだろう。
あの人の代わりにあの人に似た、本当はどうだか分からないけれど、似てることにした女を抱く。
商売用の嬌声が、少し耳についた。
商売用の嬌声が、少し耳についた。