あの日あの時、なくした君を・5
「……もしもし」
言ってしまって気がついた。
「ハロゥ」
言い直しながら時計を見る。午前三時。こんな時間に電話をかけてきた非常識は誰だ。時差の計算を間違えた史裕からだったら、日本に帰ったら殺す。
『俺だ。機嫌悪ィな』
「こんな時間に俺の睦言を聞けると思ったのか、京一」
『名前呼ぶって事ぁオトート、隣に居ないんだな。やれやれ』
いつもの口調だが声は深い。涼介の意識がゆっくりと覚醒していく。神経が通常から危機管理モードに切り替わる。
「何があった?」
尋ねる頃には、完全に起きた。
『帰って来てねーんだよ』
「どこかに女とシケ込んでいるんだろう」
俺を待たせて、一人寝させておいて。
『さすがの洞察力。女のヒモから脅しの電話があって、今こっち、大騒ぎなんだ』
「こっちってどっちだ。お前、一体どこに居る」
『それは言いたくねぇ』
苦い口調と、
『高橋涼介さん?啓介のお兄さんね?』
受話器を奪い取ったらしい女の高い声。
『助けて、啓介の指が切り取られそうなの』
「脅しですよ」
かつて、高橋家では騒ぎの多い弟が居て。
喧嘩相手からの脅しの電話はしょっちゅうだった。暴走族にスプレー缶で塀に落書きをされたり猫の死体が投げ込まれたり。指を折るとか殺すとか、そんな脅迫には慣れっこだ。
「金さえ払えば無事に戻ります」
答えながら欠伸を一つ、もらす。指定時間を三秒過ぎた時点で来ないのは分かった。でもなかなか寝つけなくて、眠い。
「明日からまた尻を叩いて稼がせるんですね。それでは」
電話を切ろうとしたが、
『お金はもう用意したわ。でもそれだけじゃダメなのよ。あなたに持ってこさせろって言ってるの』
「はぁ?」
『そういう話らしいんだ』
「なんで、俺が」
『さぁ。どっかの不出来なオトートがヒモつき娼婦を怒らせでもしたんじゃねーか?俺の女の方が美人だ、とか言って。こじれると、女は意地になるからな』
「……」
『F1ドライバーって向こうにバレてんだ。ケースケ・タカハシの本命のオンナに持ってこらせろってさ。運転できるか?出来ないんなら迎えに行くが』
答えず涼介はサイドランプのペンダントを掴み、引いた。
途端。
「大変ですね」
ギャアッと、涼介は思わず、らしくない叫び声。
『オイッ、どうした、涼介』
彼が放り出した受話器から聞こえてくる京一の声。落ち着いた仕草でそれを拾い、
「車出します。何処に送ればいいですか?」
『「藤原」』
二人分の声がハモる。
三位入賞の殊勲者は、静かに受話器を置き裸の肩にシャツを羽織る。
深夜の、人気のないバイパス。
「どうして俺のベッドに居た」
「三位入賞の報告に行ったんですけどね、涼介さん、寝てたから」
「寝てたから、なんだ」
「起こすのも悪いと思って」
「理由になっていない」
「俺も眠くなって、つい」
「ひとの隣に、勝手に」
「すげぇいい気分でしたよ。涼介さんぐっすり寝てて、触っても気づかないし」
ひくっと、涼介の喉が強張る。
「髪に、ですよ?」
藤原拓海は人の悪い笑みを漏らす。
「服の中には触ってません。触る時はちゃんと、起きてるときに然るべき許可をとって触ります」
黙りこむ涼介は内心の口惜しさを隠し切れなかった。
ベッドにまで潜り込まれて、どうして目覚めなかったのか。いやその前に、部屋の鍵を掛けておくべきだった。あいつは来ないと分かっていたのに未練がましく、鍵をかけないで眠ってしまったのがそもそもの、不覚の原因。
「もしかして、けっこうショックだった?啓介さん以外の男とベッドに入ったの初めて?」
「……やかましい」
不機嫌な涼介と上機嫌の拓海を乗せた車は深夜の街をひた走る。
一人だけ、その娼館に招き入れられた涼介は部屋に入るなり、暗い廊下とのギャップが眩しく目を細める。
部屋には主人然とソファーにねそべる女が一人、彼女の左右に侍る男が二人。そして、片隅の床には腕を後ろに縛られて目元をガムテープで塞がれた人質。
「こりゃあ、また」
「すげぇ上玉が出てきたもんだな」
男二人は正直に涼介に見蕩れる。スパニッシュ系の男にとって艶やかな黒髪と白い肌は、とりわけ美しく見える。
「美人さんのお迎えだぜ」
「よかったな、色男」
涼介は転がされた弟を眺めた。思ったよりもマトモだが、頬に青痣と擦り傷が目立つ。不自然な姿勢で身体をひねっているのは腹をやられたからだろう。
アバラをやっていないといいけど。
「放してやれよ、納得したろ、アンジュ」
「そうね」
ソファーの上で女は涼介を見上げ、満足そうに微笑む。
「仕方がないわ。わたしの負けよ。こっちにいらして」
招かれるまま、涼介は女の身体に被さるように屈んだ。女が身動きすると、腿までスリットの入ったドレスが割れて、白い脚が見える。
「キスして」
言われる通りにした。肉付きのいい柔らかな唇。手首を掴まれ導かれるままに女の胸に触れる。生地の上から膨らみを辿って掌に包み込む。重ねた女の唇からクスクス笑みが漏れた。布ごしにその先端をキュッと摘むと、
「ア……、ン」
甘い声を漏らして女は喘ぐ。半分はふざけているけれどもう半分はマジ。もう一度、唇を重ねて音をたてキスをしてから、女は涼介を開放した。
「こっちの方がいい男でもあるわ」
そんな言葉で自分を怒らせた男を許してやる。離れ際に愛想のつもりで涼介は耳たぶを舐めた。くすぐったそうに女はふるり、身をよじる。
涼介は立ち上がり部屋のすみ、転がされた男に近づく。顔をそむけようとするのを前髪に指を差し入れて抑え、目元に貼られたガムテープを剥がす。
眩しくないよう、掌で照明から庇って、上着を脱いで汚れて破れたシャツの上から着せてやる。
「立てるか?」
後ろ手にされたガムテープも丁寧に剥いでやり問い掛ける。なんとか立ったがだいぶやられた事は立ち方で分かった。左肩をあげていたからそっちに廻り、肩を貸す。支えてやる。
「お気が向いたら明日もいらっしゃい」
優しい女の声に送られて男たちに左右のドアを押さえてもらって部屋を出る。そこまでは何とか強がって歩いた。が、背後でドアが閉まると同時に膝が崩れる。予想していたから支えてやれた。
「少し休んでいくか?」
尋ねると、俯いたままで顔を左右にふられる。
階段を一段ずつゆっくり、本当にゆっくり降りて行く。顔を上着で隠すように庇いながら、待たせていた車に近づく。
助手席で脚を組んでいた須藤京一はバックミラーで気づくと車から降りて、後部座席のドアを開けてやる。涼介はそれを無視して弟を、京一が降りた助手席に導いた。
「……」
その時点で京一は涼介の意図を察したらしい。携帯を取り出し何処かと連絡をとりだす。弟を助手席に座らせ、上着を掛け直してやった後、運転席にまわった涼介は、
「藤原」
「はい」
まだ何も分かっていない絶好調な藤原拓海に、
「降りてくれ」
残酷な引導を渡す。拒みようのない顔と表情で。
「え」
え、え、え、と全身で非道を訴える年下の青年を涼介は、無慈悲に車内から引きずり出す。助手席の弟は面目投げに俯いたまま、ガラス窓に額を押し付けるようにしている。もう一度、上着を直してやって涼介は車を発進させた。
去り際にウィンドウを下げて指先を振る挨拶を、しただけいつもよりマシと京一は思った。しかし。
「なに、これ。なんなんだよ」
藤原拓海はショックだったらしい。馴染みのない街の、夜の路傍に放り出されて。
「俺をなんだと思ってるの、あの人」
「あて馬だろ」
京一の短い台詞はあまりにも的を射ていて、藤原拓海は二の句が継げなかった。
「……乗ってやる」
怒りのままに、不穏な言葉を口走る。
「絶対乗ってやる。ずーっと一緒に居るんだから。貴会は俺にも、幾らだってあるんだから」
日本語で空に向かって叫ぶ拓海を通行人たちが怪訝に振り返る。
京一は手配した迎えの車に手を上げて合図し、
「乗れ。ホテルまで送ろう。F1表彰台にのぼった夜にトラになったなんて、週刊誌に書かれたくないだろう」
「そうだよ。俺、三位入賞したんですよ。日本人二人目、日本GP以外では初めてですよ」
「大したもんだぜ、お前は。一年目の新人だってぇのに」
京一は真面目に言って手を叩く。
「なのになんでこんな、ほっぽり出されなきゃいけないのさ」
「いいじゃねぇか。三位入賞して表彰台にのぼったんだから」
涼介の仕掛けに乗って、勝ちを得たのだから。
「フツーそういう時って楽しい夜がついてきませんか?」
「ひとつだけ言っておくぜ、藤原。あのオトートに関して涼介と関わると馬鹿を見る。あいつはオトートが世界で一番、大事なんだ」
もしかしたら世界でただ一つ。
藤原は向き直り、真っ直ぐ京一を見た。
「十年もそばに居て乗りそこなった人には何も、言われたくないです」
「十年も三ヶ月も、充分な時間って意味じゃ同じだな」
京一は懐から取り出したタバコに火をつける。強面がほんの一瞬、優しく和んで見えた。
「あんな上玉、滅多にゃ犯せねぇ。出来るのは上玉に惚れられた男だけさ」
「それが啓介さんだって言うんですか」
「あいつ以外に、居るか?」
「冗談じゃない。啓介さん、そんなのずる過ぎる。俺だって、ずっと好きだったんだから」
「さぁ、もういいから、乗れ」
「須藤さんだってそうでしょ?なのにこんなの、どうして我慢できるの」
「我慢してねぇよ。諦めたんだ」
十年間、付き合ううちには、色んなことがあった。
涼介が弟と揉めたのことも、関係を断とうとしたこともあった。そのたびに京一は利用される形で、それを敢えて、受け入れてきたけれど。
無理やりという訳ではなくて膝まで、ひらかせたことはある。最後の最後で拒まれた。啓介にバレる、と言って。当て馬にしてさんざん煽ってきたくせに、今更ばれるもないと思ったが。
啓介だけがどうしても好きだと、泣いた涼介を腹が立つ前に哀れだと思った。たぶん思った瞬間に、自分たちの関係は固定してしまったのだ。
均衡の力点で静止したまま。
たぶんこのまま、永遠にこのまま。
「俺は、絶対、諦めないんだから」
異国の夜に藤原拓海の、若い嗚咽がこぼれる。
「涼介さんが啓介さんを好きなのなんて、百も承知だったんだから。それでも俺はあの人を、好きなんだから」
承知することと思い知ることは違う。思い晒されることは、さらに。
「乗れよ、藤原」
もう一度、京一は促した。今度は素直に、藤原拓海は車に乗る。
「啓介さんずりぃよ。ずる過ぎる」
「誰をどういう風に、好きになろうが涼介の勝手だ。俺たちが俺たちの勝手みたいにな」
「好きなんだよぉ、涼介さん……」
顔を隠して嗚咽を漏らす拓海。運転手が助手席の京一に小声で、彼はどうしたのかと尋ねる。
「ふられたんだ。ひでぇ振られ方でな。勘弁してやってくれ」
大好きなんだ、という拓海の呟きを、聞くのはけっこう、京一には気持ちのいいことだった。
まるで自分の叫び声みたいで。