あの日あの時、なくした君を・6

 

 VIP扱いの病人だったから、夜中に怪我人を連れて戻って、救急セットを持ってこさせても文句は出なかった。持ってきた医者は追い返して、照明を落とした部屋で傷だらけの顔を拭っていく。

 子供の頃を思い出す。怪我の痛みは平気なくせに、治療となると怖がる困ったガキだった。見せてると嫌がるから部屋を暗くしてオキシフルを塗ってやったりしてものだ。あの頃は可愛かった。

「……見にくくねぇ?」

 それが弟の第一声。

「見にくいさ」

「明かり、点けたら?」

「逃げないか?」

 頷くのを確かめてベッドサイドのライトだけつける。あんまり明るくする気にはならなかった。俺自身、この弟の怪我を見るのは得意じゃなかったから。検体や患者を切り裂くのは平気でもこの皮膚が裂けているのは怖い。自分自身の怪我より。多分、自分の痛覚より深いところで繋がっているから。

 意識ではなく、神経でなく。心という曖昧な存在。いっそ魂と言ってしまえれば、感動的だがその代わり輪郭はぼやける。こんなにぴったり、よりそった実感がなくなる。

「あんたの怪我は?」

 薄闇の中、弟が俺の右腕を気にする。

「抜糸もとおにすんだ」

「大丈夫?」

「お前を抱き上げたりは、まだ出来ないけどな」

 けっこう抵抗したのだろう。打撲の痕跡が多い。馬鹿め。

 かなわないと思ったら大人しくしておくものだ。それは恥でもなんでもない。

 効果的な反撃の機会を伺うためなら。

「ごめん」

 俯いて見えない口元からこぼれる小さな声。

「ごめん、迷惑かけて」

「慣れてる」

それでけでは正直じゃない気がして、

「お前に手が掛かるのは楽しいよ」

 もう一言を言っておく。

 呼び出しをすっぽかされた事も、寝入りばなを起された不機嫌も、この弟にかまう楽しさにはかなわない。アッシー志願二人を放り出した罪悪感は、もともとない。

「オンナ、扱いしちまって」

「お前のオンナだ。十年前から」

 俺がそう言っのが意外だったらしい。驚きに弟は顔を上げる。俺はそれより、肩口の傷を見ていた。

「縫った方がいいが、目立つ場所だし。癒着テープでなんとかするから、暫く濡らすな」

「なぁ、日本で病院から逃げて何処に居たの」

「その話をするとヤバイのはお前の方じゃないか?」

「俺がどれだけ心配したと思ってるんだよ」

「お前こそ」

 テープを唇で千切る。横筋の入ったそれは、簡単に千切れる。

「おれがどれだけ怒っていたと思う」

「だからって、居なくなるなんて卑怯だぜ」

「お前に俺を責める資格は無い」

 決め付けると口惜しそうに唇を噛む。けど反論はしてこない。

なぁ、と、それでも諦めず、

「じゃあさ、なんで、あんた今、優しいのさ」

 俺の気持ちを知ろうとする。そっと指先を伸ばして硬度と熱を、確かめようとしてる。

「俺、酷いことしたよ。赦してもらえなくって当たり前だよ。でもあんた、俺を迎えに来たのはどうしてだよ」

「お前が俺のものだから」

 今度こそ、本当に驚いて弟は顔を上げる。

「今日はシャワーは無理だ。もう眠れ」

じきに夜は明ける時刻。二時間前まで俺が寝ていたベッドの、シーツを剥いで促すと弟は、ゆっくり立ち上がり横になろうとする。動きがキツそうだったから手伝った。肋骨の五枚目にヒビが入っている感じ。でも肋骨にはギプスがつけられない。大人しくして癒着を待つしかない。

俺が隣に来ると思ったのかベッドの奥に身体をずらした弟を、無視して救急箱を片付ける。立ち上がると同時に腕が伸びてきて腰を掴まれた。ずるり、引き摺り寄せられる。無理な姿勢で、傷が痛んだだろうに。

「彼女には」

 掴んだ腕がびくっと竦む。

「乗れなかったのか?」

「キスもしてねぇよ」

 思い出したくも無い、という風に吐き捨てる声。いつか俺のことも。

「支配したがる女ってサイッテー。足首触れとか舐めろとか、指図されながらセックスなんざ、やってられっかよ」

「啓介」

その、名前を呼んだのは、随分ひさしぶりだった。

「踵にキスしろ」

 お前に触れられるために、つるつるに磨いて柔らかくしたそこに。

「……」

「お前を支配したい」

「はあ?」

 聞こえているくせに、分かっているくせに、弟は訳がわからない、という風な声を出す。

「俺の言うことをきかせたい」

 でも俺は、もう、許してはやらなかった。

「仕えさせたいんだ、俺に」

「ちょ、待てよ。なに言っているんだよ」

「踵の次は膝の裏」

「話聞けよ。待てって言ってるだろ」

「それから、アソ……」

「待てって言ってるだろ」

 顎を掴まれ、間近で向き合う。

「オトコを支配したがらないオンナなんか居ないさ。オンナを服従させたいオトコが居ないように」

「冗談。俺は、ンなのは大嫌いなんだよ」

「知ってる」

 お前のオンナの好みくらい、とぉに。

「生娘が好きだもんな、お前、。脅えて震えて竦むのを、思い通りにするのが」

「そこまで、あくどいつもりでもねぇけど」

「けど、俺はお前が嫌いなタイプのオンナなんだよ」

 追撃の手は緩めない。

 一度口火を切った以上、中途半端では、俺は引き返さない。

 なぜならば、俺は。

「どうする?」

 可愛いいとおしい弟のオンナだ。けれど高橋涼介という名前のオトコでもあって。

牙にかけたい。爪で抉りたい。性感と同居したその欲求が、俺に。

ない訳じゃないんだぜ?

覚悟してるか?

俺に喰われる覚悟を。

「どう、って」

 弟の手が俺の手首を捉えてる。五指で掴んで離さない。すがっているように、見える。

「捨てるか、俺を」

「なに言ってンだよ。逃げようとしてたのは、いつもあんたじゃないか」

「お前に捨てられる前に、な。怖かったから。でも今ならいい」

「捨てる気かよ、俺を」

「逆だ。お前に捨てられる覚悟が出来ただけ」

 それでも俺はお前を愛し続けるという、覚悟が。

 牙を研いで爪を磨き上げて、お前を手にかける覚悟が。

「どうする?俺に、支配されるのはイヤか?」

「イヤってゆーか、それ違うんじゃねぇかよ」

「俺はお前を思い通りにするのが気持ちがいい。分かっているだろう、もう」

 何度も、そのために抱かせた。

 言葉も明かりもなくて。俺しか分からなくして、お前に。

 俺はそうやって、お前を。

「支配するのがキモチイイタイプなんだ、俺は」

「……」

「お前がそれでいいなら抱けよ。抱いてくれ」

「……」

「厭でも最後に、一度だけ」

 答えずに腕を絡める弟の、ずるさを。

 責める気にはなれない。俺はもっと、ずるい。

 勝算のある賭けしかしない男だ、俺は。これは予定通り。きっかけを待ってた。

 この弟を奥深く、取り込むためのきっかけを。

 愛しているよ。

 身体より神経より、心より、深い。

 自己認識が朧になるほど、強く。

 藤原拓海に負けて、俺に拾われて傷ついたお前の傷口から潜って、おまえ自身になりたいくらい、深く。

「……、あ、あぁ、…ン」

 焦らされるのは好きだから。

先に進もうとする頭を胸元に抱えて、そのままそこを、舐めさせる。

焦れた男が歯をたてる。そこを起点に頭からつま先まで貫く衝撃に息を呑む。

震えた隙に男の舌は下腹を辿り、俺の弱みにたどり着く。

「ン……、ハ」

腰が震える。ピクピクッと、過剰な期待と、もしかしたらの、絶望に。

これが最後の可能性は、それでも、ゼロじゃないから。

「す、ケ、……、啓介」

「ナニ」

「酷く、し、……ンーッ」

言い終わらないうちに後ろを抉られた。

まだ指先。だけど二本、束ねて無造作に。渇いたままの爪が、

「ア……、タ、イヤ、ヤ。まだ、イタ……」

「ひでぇことされてーんだろ?」

 わざとだ、絶対。

 前に舌を、絡めながら喋られて。

 俺は息も出来ないくらいかんじた。

 でも昂ぶりは弾けない。根元をキツく掴まれて。焦らすというより嬲りにかかってる。

「ン、フッ……、あ、ケイッ」

「……、してるぜ、あんたが」

「指、外し……、チガッ」

「しろっていうとおり」

前じゃなく後ろの指を引き抜かれ。

 乞う前に、また挿しいれられる。

 今度は爪を、露骨に粘膜にたてながら。

「ヒッ……、ン、アァ」

「言うことなんでも、きく弟が欲しいのかよ」

 ……、そう。

「猿回しのサルみたいに、あんたの指示通りに動く人形かよ」

 ちがう。

「答えろッ」

「言う、から。……、っと、とめ、て」

 齧られそうにきつく扱かれて、いつでも歯をたてる用意をしながら、男は動きを止めた。

 なぁ、愛してるから。

 イエス以外を思いつかないくらい、俺を大事にして。

他のオンナには目もくれないで。

お前を、俺が独占したいんだ。

愛している、から。

「俺のものに、なれよ」

「イヤだってったらどうするつもり」

「息の根、止めてやる」

「させるか。あんたに自殺なんか、二度と」

「お前の、」

息の根を止めてやる。

言うと男は、うっすら、笑った。

「あんたに出来るの、そんなこと」

……出来るさ。

 だからお前は、俺を抱きながらそれでも、俺を『敵』だと認識していたろう?

 お前は正しいよ。俺は多分、お前の最大の、それ。

 お前を包んで絞って閉じ込める。それしか望みのない生き物。

 目蓋を上げて、男を見た。笑うと男は、絶えかねたように挑んできて、

「や、マダッ」

 無茶苦茶に俺を犯す。

「好きにさせろよ。……最後だ」

 え?。

「あんたにもう、二度と触れねぇ。あんたに勝てるまで」

 え……。

「昨日、藤原のあと追って分かった。あいつ、あんただ」

 無様に羽ばたく真似はしないで。

 翼を広げて上昇気流を捕らえ、舞い上がり、滑空する。

 見覚えのある、あのやり方は。何より欲しくて執着を覚えた、あの白い車の残像。

 殺したはずのこの人の、あの白い翼がもう一度、この人に宿った。

 また連れて行くつもりなのか。

 そんな事は……、させない。

「俺は、レーサーじゃない」

「でもあんただった」 

藤原拓海でもあって、二対一。ひどく分の悪い勝負だ。

けれど。

「俺は、あんたに勝ちたいんだよ」

 それだけはどうしても譲れない願い。

「勝ちたい」

 子供のように言い募る。クスクス、美貌は、優しくほころんだ。

「なぁ、啓介」

「ナニ」

「お前、自分が、俺に勝てると、本気で思ってるのか……?」

 キツイ挑発だ。いままでされたことかないような。

 白い身体も同様に、体重を男にかけないよう気をつけながら、男の腰を跨ぐ。

「やってみなきゃ分からねぇだろ」

 乱れた互いの髪を掻き揚げて、白い美貌が自分からくちづけた。

「啓介」

「ん?」

「愛しているぜ……」

 俺もだと、言わずにキスに答える。

 甘くて、猛毒の、それでもひどく美しい、花に。

「待ってろよ。絶対、勝ってやるから」

「お前には、無理だ」

「出来るさ。あんたがそうして欲しいなら」

「泣き言を漏らしに来い。助けてくれって、俺に泣きつけ」

「必ず、あんたを迎えに来る」

 

 いつかなくした、お互いを。

再び強く抱き締めるために。

再会のための別離。

捜したいのは、均衡の力点。反感も浸食もなしに愛しあえる、カタチ。

 

愛しているよ、呟きがシーツに吸い込まれる。

愛しているよ、お前を、あんたを。

他には何も、誰も欲しくはないくらい。

 

自分自身と錯覚しそうに、深く。