寄生生物・2

 

 

 

『おかしいわ、あの男』

 俺にそんな風に、言ったのはリザだ。いつだったかは覚えていない。多分、いつかの電話の後で、いつものように妻子の自慢たらたらの電話を寄越したあいつに、俺が少し、落ち込んでいたとき。

『大切さや可愛さを他人に押し付けようとする、あれはかなり、歪んで不純な愛情よ。まるで何かの代償みたい。彼氏や夫の学歴や収入を、声高に自慢する女みたい』

 場所はベッドの中だったはずだ。リザは容赦ない口をきくが発言の場所は選ぶ。二人きり、多分裸で抱き合っているとき。そういう時には俺の頭を優しく撫でるような、そんな言葉を、かけてくれる女。

『黒いくせに白いふりをしようとして、それできっと、あんな風に女房子供に、すがり付いてるのよ。バカな男。妻と娘が天使みたいに純真でも、自分がその仲間に、なれる訳じゃないのに』

 リザの言葉は、いつも俺に、呼吸をさせてくれる。塞がった胸に隙間をあけて、風を通してくれる優しい女、もっと言ってくれ。あいつに悪気はないんだと。自分の妻を、昔抱いてた俺に向かって、優しいとか美しいとか、そんな風に褒めちぎる、あいつの電話を聞くのは辛いんだ。まるで、『お前と違って』って、罵られるようで。

『あれは相当、たちの悪いストレスが溜まっているわ。ねぇロイ、そう思わない?あの男は、おかしい』

 そうだよ。あいつはおかしかった。強すぎておかしかった。頭が良くておかしかった。格好をつけすぎておかしかった。潔癖でワガママで高慢で、なんでか俺に、酷いまねばかりした。

「本当に、優しいお婿様だったのよ……」

 俺もおかしい。あいつの死を嘆く女の声を、聞くのがこんなに気持ちがいいなんておかしい。目の前のこの、上品な老婦人も。まるで自分の夫が亡くなったように、あいつの死を、身も世もなく嘆いてる。

「私によく、花をくれたの。綺麗な大きな花束を抱いてね。呼び鈴が鳴って覗き窓を覗いても、彼が花を抱いて立っていることは絶対にない、なんて信じられないわ……」

 俺は今日、セントラルで一番高い店のケーキを買って来ていた。次には花を抱えてこなければなるまい。そんなことを思っていた。

 老婦人の嘆きは止まらない。あいつを褒め、あいつの悲運を嘆き、そして最後には自分を不幸だと訴える。あなに優しい娘婿にこんなに早く先立たれて、私も娘も孫娘も、どうすればいいのかしら、と。

 夫の立場がないな、と、俺は内心で思った。この人の夫は南方司令部の司令官で、相当の地位と権勢の持ち主だが、家庭内では重要視されていないらしい。気の毒に。でもそんなものかもしれない。

「あの家もね、買ったばかりで、グレイシアはあそこを処分すると言うの。思い出がありすぎるし、第一、恩給と遺族年金だけでは支払いが苦しくて、そう、しなければならないのだけど、でも、せっかく買った、素敵なお家なのに……」

 そうかもしれない。不動産のローンというのは未来の収入を当てにして、右肩上がりに増えていくものだ。准将に二階級特進したヒューズの恩給と遺族年金は、物価スライド以外の増額はない。そんなことを、老婦人は、俺に長々と訴える。金利や、ローンの残高と評価額との差額や、販売損とかは、俺にはよくわからない。ただ、なにを待たれているかはよく分かった。

 婦人の話し相手を二時間もした後で、俺は南方司令部の司令官宅を辞去する。あいつの娘が呼ばれて、祖母に抱かれて俺を見送ってくれる。亜麻色の髪の幼女にあいつの面影はあまり見えない。敢えて言うなら唇のへんが、よくよく見れば似ているような気もする。気のせいかもしれない。

「さようなら、ロイ。また来てね」

 姿を見せない娘の代わりに、何も分からない孫娘を使って、俺にそう言わせる祖母の狡さも知らないで、幼女は無邪気に、俺に笑いかける。あいつにさぞ可愛がられてきたんだろう、曇りのない明るさが、正視出来ないほどまぶしい。

 小さな淑女に礼儀正しくご挨拶をして、辞去することが、俺の習慣だったが。

「エリシアちゃん、お願いがあるんだ」

 言うと、幼女はきょとんとした表情。

「お母さんに、お話しがありますって、伝えてくれないかな。お庭で待っています、って」

「エリシアちゃん、ママに伝えて上げなさい」

 祖母に言われて幼女は頷いた。そうして屋敷の奥へ戻っていく。

「どうぞ。お庭に、お茶を運ばせますわ」

 老婦人は笑った。俺が思い通りの申し出をしたから悦んでる。さっきまでは泣いていたのに、どっちが嘘だろう。

 庭に出て、東屋の端に腰をおろす。長く待つことは分かっていた。司令官の公舎らしく堂々とした構えの公舎の、カーテンを引いたどこかの窓の内側では今ごろ、老婦人が自分より早く未亡人になった娘を説得にかかっている。俺の政略結婚の相手はまだ、俺との再婚を承知していない、どころか、そんなつもりはないと言わんばかりに、訪問しても姿さえ見せずに俺に会うことを拒み続けている。

 彼女が中庭に現れたのは、二時間ほど後、日暮れ時。母親の説得に負けたのか、かえる様子のない俺にうんざりしたか、幼女が眠くて、ぐずり出したのかもしれない。

「……お久しぶりです」

 あいつの葬儀以来だったから、そう声を掛けた。彼女は会釈を、俺にしただけだった。口は開かない。

「お痩せになりましたね」

 もともと細身の人だが、今はそれだけじゃなく窶れが目立つ。心労の、原因は俺かもしれないが。

「母上から、ご自宅を手放される予定と伺いました。本当ですか」

 返事はない。あなたには関係がないことでしょうと、意思は言葉ではなく、目も合わせようとしない彼女の、雰囲気から伝わって来る。

「考え直されませんか。経済的な援助なら、私にも出来ると思います」

「いいえ。結構です」

「そう仰るだろうとは思いましたが、お嬢様にとっては育った家でしょう。それを取り上げてしまうのは、どうだろうかと」

 俺の言葉は意外だったらしい。初めて彼女は、顔を上げて俺を見た。黄昏時で、逆光でもあって、俺からは彼女の、表情はよく見えなかったが。

「思ったのです。……差し出がましいことを申し上げました」

 頭を下げて彼女のもとを辞去する。彼女は背後で、なにか尋ねたそうだった。どうして俺が彼女の娘ことまで心配するのかと、聞きたかったのかも知れない。でも俺はさっさと屋敷から立ち去った。それ以上は、俺の神経がもたなかった。

 彼女と会うのが、俺には凄く辛い。彼女の娘はヒあいつに似ていないからそれほどじゃないが、それでもやっぱり、辛くないことはない。老婦人とだけ普通に話せるのは、多分、婦人が語る優しい娘婿の思い出が、俺が知ってるあいつとは違い過ぎて。別人のことみたいだからだと、思う。

 長く待たせた車をホテルに廻させる。疲れた。本当に、疲れ果てていた。ホテルの部屋にチェックインして、ネクタイを緩め、枕もとの電話を取り上げて。

「……私だ。すまない、眠っていたか?」

 なるべく優しい声を出す。俺どころではなく本当に優しい相手は、いいえと笑いながら返事。

 どうしました?今どこに居ます?メシは食いましたか?

「あぁ」

 食事は済んだと嘘をついた。食欲はなかった。食べていないと答えると心配させるから言わなかった。精神的な理由で食欲を失うのは、遠い昔の、東の戦場以来。……、辛い……。

『何を食べました?』

 優しいけど厳しい声が俺を追及する。咄嗟に答えられなくて、俺の嘘はあっけなくバレてしまう。

『もう、ウソツキなんだから。あんた最近、痩せましたよ。中尉も心配してました。今何処に居るの?』

 ホテルの部屋をとってる。そう答えると、相手は黙り込んだ。受話器を持ったままベッドの上に転がり、手足を伸ばしながら、待った。

『……今から行っていい?』

 俺に甘い男がそう言うのを。

『キスしに行って、いいですか?』

 来い、今すぐ。そう言って電話を切る。目を閉じて横向く。……疲れた。

 早く来い。そうして抱き締めて癒してくれ。お前に過酷なことを要求してるのは分かっている。でも止められない。あれの『家族』に会うのは本当に苦しい。泣き出したいくらい。

 待っている時間は長くて、気を紛らわすためにゆっくり服を脱いだ。「大佐、お待たせ……、って、あれ、鍵、かかってない。危ないですよ。……大佐?」

呼び出した相手がようやくやって来る。何処ですか、と、俺を呼びながら二間続きのホテルの部屋の、手前のリビングを通り抜けて、奥の寝室へ。ドアを開けるなり驚いて立ち尽くす。俺が半裸で、ベッドの上に居たから。

 気のきいた誘い文句も、思いつかなくて。

「……」

 自分が寝てる、隣を掌で叩く。……来い。

 男は黙って近づいて、ベッドサイドで服を脱ぎ、俺に重なってくる。受け止めてキスをした。男のカラダと体温と、俺にキスされて嬉しそうに笑う柔らかさが、俺の苦しみを癒して行く。

「……ねぇ、大佐」

 唇が離れると、今度は男からのキス。その合間に男が声を出す。掌を、俺の下肢へ向けて滑りこませながら。

「ん……ッ」

「俺ね、あんたの決めた、ことだから逆らわなかったけど……。あんたがこんなに、苦しそうなのは、見てて……」

 俺も辛いと、嘆いてくれる、お前は本当に優しい。

「今日、鋼の大将が来ましたよ。俺を殴って、帰ってきました。出世の為に政略結婚なんか、するほど腐ってるとは思わなかった、そうです。……俺はね、いいんですよ。腐ってようが汚かろうが、あんたが選んだことなら。……でも……」

「ふ……、ぅ、ン……」

「ブレダよりフェリーより、鋼の大将より、あんたが苦しそうだ。ねぇ、大佐、これは、俺があんたに結婚させたくなくて、言うんじゃないですよ?」

「……、ソコ……。……、い、ィ……」

「結婚すんの、止めにしませんか。せめて、相手、別のにしませんか。そりゃ年回りとか勢力地図とか、色々あるんでしょうけど」

「……、ダロ……」

「え?」

「俺みたいな、評判の悪い男に……、親が生娘を、差し出す訳がない、だろ……」

「あんたが壊れそうなのが怖いんです」

 よりにもよってあの男の未亡人を選ぶ必要はないでしょうと、こいつが言うのは、もっともだった。俺とあいつがガキの頃、セックスしてたのを知っている人間は多い。もしかしたら未亡人の耳にそれを囁いた、余計な世話やきが居るのかもしれない。未亡人のあの、大人げないほど頑なな態度も、そうだとすると、納得できる話だ。

「あいつに近づくと、あんたぐちゃぐちゃになってく。あいつの未亡人と結婚して生活なんか、はじめたらきっと、動けなくなりますよ」

 かもしれないな。もう動けない。でも。

「心配、なんです……」

 でも、いいんだ。もうすぐ、俺は俺じゃなくなるから。

 彼女もきっと、そのうちに馴染んで心を開くだろう。俺でなくなった俺になら。

 心配してるのは俺の方だ。お前とリザには、さすがに悪いと、心から思ってる。俺が居なくなった後も二人で、仲睦まじく、助け合って幸福に生きててくれ。お前たちを本当に大好きで、感謝しているよ。

「愛して、ます……。あんたに、幸せに、なって欲しい、って」

「……、ン……」

「思って、ます」

「、あぁ、ン、ん、ァ、ン……」

 優しく慰めるようなセックスに、俺は積極的に応えて腰を振った。

「……、大佐……、愛して……、あい……」

 男の声が途切れ出す。

俺もだ。

 信じられないかもしれないけど、お前とリザのことも、俺は心から愛してる。俺はもうじき居なくなるけれど、俺のどこかがリザに孕まれて育って、お前たちのそばに、居れるなら……、嬉しい。

「なんでも、するから……、幸せ、に……」

 なってと俺に、願い続ける、お前は優しいよ。でも。

 俺の幸せはおかしいんだ。お前とリザは、赦してくれるだろうか。

 醜く歪んで、もう目も当てられないほど、撓んで捩れた、俺の望みを……、赦して……。