寄生生物・3
ひどい人なのは知ってた。
でもこれは、ヒドイって言うよりも、酷い。
俺の横では中尉が震えてる。握り締めた手の、指先が白い。多分、俺も震えていると思う。気が遠くなりかけて、よく分からないけど。
目の前で、男が女と、子供を抱き締めてる。混雑した駅の中、祭りの夜に、それは目立たなかった。やがて男は腕を解いて歩き出す。子供を抱いて、女を引き寄せるようにして。
「車を」
俺たちにそう告げる、男が誰なのか。
俺には分かった。多分、中尉にも。
「……」
無言で中尉が動き出す。引き摺られるように、俺も。公用車を駅前のロータリーにまわした。ロータリーは混雑していたが、軍の車だったから係員が他を除けて場所を作ってくれた。俺が運転で中尉が助手席、後ろに三人を乗せて渋滞の道を走る。後部座席の真ん中で、人波に疲れた子供が寝息をたてはじめる。
「この子が」
男が、自分の膝で眠ってしまった子供の髪を、そっと撫でながら子供の母親に告げる。
「迷子になって、君はそれを捜していた。……いいな?」
語尾は確認ではなく強要。母親は素直に頷く。そうしてじっと、男を眺める。自分と娘を動き掛けた列車の窓から、引きずり出してとり戻した男、を。
その目は何かを言いたそうだった。聡明そうな、若い未亡人。夫をなくして半年もたたないうちに起こった、政略的な再婚を拒んで、子供を連れて、何処かへ逃げようとしていた人。
彼女の母親から、連絡を受けるなり、『大佐』は駅に直行した。まるで前もって、何処に行こうとしているか知っているみたいにホームを目指した。祭りの前で人は多く、連休の最中で帰省客も多い。人波を掻き分けながら、『大佐』は必死に、未亡人とその娘を探していた。
司令部に居た俺と中尉もお供して、そして。
『……、シア……ッ』
すぐに、気付いた。
『グレイシア……ッ』
名前を呼ぶ声が、とても、俺が知ってる『大佐』の声じゃなかった。
『グレイシア、エリシア……ッ』
名前を呼ばせれば、名前の持ち主との関係はわかる。それは呼び慣れた響きで、呼ぶ声そのものに、愛情が篭められていて。
『エリシアッ』
声に呼応するように。
『パパ……ッ』
応えた、子供の声は高く、喧騒の中でもはっきりと耳に届く。
発車のベルが鳴り響く列車の窓から、身体を乗り出していた子供。
駆け寄ってきた姿に戸惑ったが、掌を差し出されてその手に、小さな掌を重ねて笑う。笑顔はすぐに驚きに変わった。窓から、子供は抱きかかえられて、
『荷物はいい。急げ』
通路側の籍に座っていたその母親は呆然と、俺の『大佐』を見て。
まじまじと、こんなに近くで、見たことはなかったけど。
茶色の髪と大きな目をした、肌の薄い、綺麗な人だ。喪服をキテいないと若さが匂い立つ。子連れの未亡人、とはいえ彼女は、俺より中尉より若い。
男が子供を片手に抱いたまま、身体を車窓に突っ込んで未亡人の腕を掴む。出発のベルは鳴り終えて、ゆっくりと、列車は動きかけている。未亡人は一瞬だけ抵抗したようにも見えたが強引さに引きずられ、ずるりと車窓から。
ワンピースの裾がまくれて白いふくらはぎが一瞬だけ見えた。すぐに、ホームに抱き下ろされた女を、『大佐』は暫く、抱き締めていて。
子供も大人しく、片腕に抱いていた。
『……、あ、の……』
未亡人が戸惑い、でも、抱擁は拒みきれずに困ってる。女は聡い。子供も同様に。気付いたのだろう、違和感。
そこに居たのは俺の大佐じゃない。求婚者として南方司令部の邸宅を訪れ、死んだ親友の未亡人に会うたびに疲れ果てて、ベッドに倒れ込んでいた俺の大佐じゃない。そこに、居たのは。
『無茶な真似をするな。帰るぞ』
俺の大佐じゃなくて、この未亡人と子供の。
『車を』
もう、そのことを俺たちに、隠そうという気もなさげに堂々と。
命令に従いながら、心の中は大嵐。よく事故らなかった。ひどい、ひどい。
……酷すぎる。
母子と男を南方司令部の司令官宅にお送りする。すぐに老婦人が出てきて泣き崩れた。未亡人がなにやら、母親に謝罪を。子供は眠って、男は笑って、場をとりなそうとしている。
俺はそれを正視できなかった。逃げるように、車を司令部に戻した。それから定時までの時間、なにをしていたか覚えてない、定時になる二十分くらい前にブレダが慌てた顔で。
「おい、中尉が倒れたってよ」
中隊の連中と打ち合わせしてた俺を呼びに来る。一緒に駆けつけると中尉はもう起き上がって、自分を囲む人波に向かって、大丈夫よと何度も繰り返していた。ごめんなさい、ただの立ちくらみ。ちょっと今日は体調が悪かったの。心配させてごめんなさい、と。
「……中尉」
その表情が、俺を見るなり、ちょっとだけだったけど崩れて。
「おい、ハボック、お前、連れて帰ってやれよ」
ブレダが言い出す。
「中尉の夜勤は、俺が代わっとく」
通しでするから、明日はシフ通りに休んでもらえと、俺に言うブレダは心の底から心配して、胸を痛めてる。中尉の顔色は本当に真っ白で、唇の色は青い。俺は頷き、中尉に手を差し出した。中尉は絨毯の敷かれた床に、座り込んだままだった。
「……立てないの……」
まだ目眩がして立ち上がることが出来ないと、俺に正直なことを言う、あなたを好きですよ。
屈んで抱き上げると、
「あの、僕、車まわしてきます」
フェリーが言う。大佐の送迎用じゃないが司令部の公用車。通用口で待っていると、
「ごめんなさい。もう大丈夫よ」
おろして、と、腕の中で声がしたけれど。
「いいから。このまんま、帰りましょ」
本当は、俺も限界で。
「……俺も帰りたいんです」
帰って来る『大佐』と顔をあわせる自信がなかった。
中尉は逆らわずに、大人しくじっとしてくれる。中尉の部屋の前でフェリーは帰り、中尉は、二階の部屋までの階段は自分で歩いた。俺は背中を支えてた。中尉が部屋の鍵を開ける。ブラハの気配はない。そういや、司令部に遊びに来てたっけ。まぁいい、フェリーが居るから、餌はやってくれるだろう。
一人暮らしのアパート。玄関は狭い。ドアを閉めるなり、壁にもたれて、崩れるようにして、中尉がまたしゃがみこむ。
俺も。
一緒に、部屋へ続く狭い廊下に、転がった。
立っていられなかった。ひどい。
「……」
中尉と、なんにも、話は、しなかった。
「……ッ」
ずっと羨ましかった肢体を抱く。小柄でしなやかで引き締まって、でも柔らかい、綺麗な女の体。これを欲しいって何度も思った。これを抱きたい訳じゃなく、こんなカラダをしていりゃあの人に、さぞ可愛がってもらえるんだろうな、って。
羨ましかったのはこれを抱いてるあの人じゃなく、あの人に可愛がられてるんだろうこのカラダ。男のくせに女を羨むほど、俺は完全にあの人にイカレてる、のに。
……約束してくれたのに。
ウソツキ。ずっと一緒だって言ったのに。あんたが結婚しちまえばセックスの回数は減るだろうけど、でも手は切らないって約束してくれたのに。中尉にあんたの子供を産んでもらって、その父親に俺がなって、それが俺たちとの『結婚』で、ずーっと死ぬまでそばに居させてくれるって、あんなにしっかり、約束したのに。
うそつき。
俺をだまして、裏切ったね。こんなにあんたのことを愛して信じてた、俺たちを裏切った。あんたに一途に従ってきたのに、こんなにあんたに何もかもあけ渡した、俺たちに、残酷すぎる仕打ち。
「……、さ、ない……」
俺の身体の舌で彼女がうめく。まるで自分が言ってんのかと錯覚するほど、俺の気持ちと、ぴったりの低い声。
「ゆるさない……、こんなこと……」
今、彼女に俺が、してるコトを言ってるんじゃない。
「ゆるさないわよ……、ロイ……」
俺も。
俺もゆるせない。どう考えたって許容範囲外。これは手酷い裏切りだ。俺たちはあの人の野心のために決断を受け入れて、自分たちの人生まで委ねたのに、あの人は野心よりあいつを選んだ、なんて。
酷すぎる。……ひどい……。
じゃあ、俺たちはナンだったの、さ……。
身体ごと、心も全部、あんたに差し出した俺たちは?
「ひど……、い……」
女の細い泣き声。自分の声みたいだ。もう本当に、涙も出てきやしない。ひどいよ。こんな風なのはひどい。
可愛がっといて棄てるのは、残酷な真似だ。
裏切りが深く、ふかくふかく、ふかく胸に響く。
痛い。