寄生生物・8

 

 

 

唄が聞える、女の高い、澄んだ声。あいつが好きだった歌手。

『ロイー、レコード、も一回廻してくれー』

 アルバムが終わってプレーヤーの針が流れ、無声の音響を破ってヒューズの声が響く。

 ……あぁ。

 ……そんなことが、あった。

 昔、むかし。俺たちがまだ若くて、仲睦まじかった頃だ。卒業と同時の前にお前は、一緒に住むアパートもう決めてきたぜって、俺に地図と見取り図を渡した。少しだけ、翳りが俺の心を過ぎったのは、多分、一言の相談もされなかったせい。でも嬉しくないことはなかった。俺はあいつを、まだ好きだった。

 引越しは簡単に終わって、まだ荷物のダンボールを解かないまま、あいつはさっさと風呂に入った。寮では入浴時間が決まっていて、短く、バスタブの中で寛ぐことなど出来なかった。それだけが不満だったと、鼻唄を歌いながら、浴室に篭って。

 上機嫌だった。俺はあいつの機嫌がいいなら、それでよかった。段ボールに腰掛けてぼんやり、ヒューズが風呂から上がるのを待った。夕食のために既に着替えて、空腹だったけど。

 回転盤の中央に流れた針を拾って、丁寧に円盤の外縁へおろす。やがて女の声の歌が響き出す。俺は空腹を我慢しながら、じっと待っていた。飼い犬が飼い主の気が向いて、相手をしてくれるのを待つように。

 まっているうちについ、うとうと、してしまった俺を。

『……ロイ』

 いつの間に上がったのか、石鹸の匂いを漂わせた男が、タオルを首に掛けたまま抱き締めてくれた。外出用のシャツが濡れた。でもそんなことは、少しも気にならなかった。

 俺からも腕を廻して、抱き合って、キス。これからずっと、こういう真似もしたい放題なんだと思うと、ムネにじんわり、熱が沸いてきたのを覚えてる。全寮制の士官学校を卒業して、女が周囲にいくらでも居る環境になるのに、当たり前のように俺を同じ部屋に住ませてくれた、あいつを好きだった。

 選ばれた、ような気がした。それはほんの短い時間の、幸福な錯覚だったけど。

 キスを繰り返す、途中でレコードの唄が終わる。あいつは立ち上がり、また針を落す。女の歌声を聞きながら着替える背中に、俺は言った。随分とご贔屓だな、と。

 俺とのキスを中断して、歌声を聞きたいくらい?

 それは一種の、俺の媚だった。俺が嫉妬を見せるのをあいつは嫌がらなかった。むしろ喜んで、いい気になって悠々と、馬鹿をいうなとかなんとか、俺を諭して、優しく叱った。

 その時きっと、あいつは特別に機嫌が良かったんだろう。

 おかしなことを、言った。まるで俺の、機嫌をとるみたいに。

『気付かないか、自分じゃ』

『……?』

『お前の声に似てる。鳴き声と、そっくりだ』

 そんな筈は、ない。馬鹿馬鹿しい、ありえない。歌手は女性で、綺麗なソプラノで、唄は異国語だ。その場しのぎの、軽い冗談を、俺はまだ覚えてる。

 懐かしい、唄。

「……、ロイ」

 懐かしい、声。

 優しい声で名前を呼ばれるのが好きだった。大好きだった。お前を愛してた。愛し合いたかった。

 若すぎてなんだかわからないまま、先にセックス、ばかりを繰り返した、ツケだったかもしれない。お前の前に立ちたかった。なのに、膝にしか、置いてもらえなくて悲しかった。

 なぁ、ヒューズ。……マース。

 お前を愛してた。

「ロイ」

 呼ばれてぼんやり、目を開ける。目の前にマースが居た。ちょっと目尻の下がった、つられて眉まで、下げた優しい顔をして。

 抱き締め、られる。

 そっと抱き返した。多分、これは、夢か幻。だから壊さないように。

 大好きだよ。お前に抱き締められると、身体が浮き上がるみたいな気がする。気持ちが良すぎて幸福すぎて、切ない。髪を撫でられる。これが日常だった頃があった。

「ごめん」

 なに、が。

 問い返そうとした。出来なかった。唇が塞がれる。柔らかなキス。舌を触れ合わせながら、俺は目を開けて笑った。幸福、だった素晴らしく。これが消滅の夢なら、死というのも、悪くは、ない。

 そう、思いながらゆっくり目を閉じる。

 永遠の一秒。

 身体から力を抜いて何もかもを、解き放つ。

 最後には、愛情が残った。

 

 

 

 胸に、水滴が落ちる。

 冷たくて、『目覚め』た。

 ぼんやりした視界に見慣れた天井が映る。俺の居間だ。明りが絞られた部屋の片隅で何かが光って、視線を向けると金色の少年が。

「二十七秒。我ながらすげぇ。縁もゆかりもない身体に、定着ってぇより憑依か。よくもったなぁ」

 銀時計を眺めながらの、独り言。

 足元に倒れているのはリザか?どうしたんだ。

「ごめんなさい……ッ」

 胸の上で声がする。また水が落ちる。なにかとそっちを、改めて見ると、俺の可愛い番犬が泣いてる。

 どうした、ハボック。何を悲しんでる。誰かに苛められたのか?

「ごめんなさい。准将、いらっしゃいません……。ごめんなさい……ッ」

 マースが、どうした。

 あいつは死んだ。居なくて当たり前だろう。

「騙したな、大将ッ」

 泣きながら番犬が金色の少年を糾弾する。

「馬鹿いえよ、最初に言っただろ。一つの肉体には一つの魂しか存在できない、って。少尉の身体なんだから、少尉の魂の方が強いの、当たり前だろうが」

 ……何の話をしてる?

「大佐は時間と手間かけてチャンネルを繋げて呼び戻した。しかもセックス、してた体にだろ?アレってけっこうスゲェことでさ、魂の情報も伝わんだぜ。じゃなきゃ、子供が出来るわきゃねぇけど」

 言いながら銀時計の蓋をパチリと閉め、私の方へ、歩いてきて。

「大佐、気分どう?苦しかったり、痛かったり、してない?」

 優しい声で尋ねてくる。どうした、鋼の。やけに親切だね。

「寂しがって泣くなよ。俺が居てやっから」

 どうしたんだ。君の口から、そんなに優しい言葉が零れてくると、嬉しくて笑ってしまうじゃないか。

「触んなッ」

 俺を抱き締めた、番犬が少年に牙を剥く。宥めようとしたが、おかしい。体に力が入らない。手足が、うまく動かせなくて。

「けっこう長く、あんたカラダ留守にしてたみたいだから、馴染むのにちょっと時間、かかるかも。暫くそばで護ってやるよ。……毒食らや皿までだ」

 番犬の胸に抱き込まれた俺の、背中にそっと、少年が頬を当てる。今日は本当にどうしたんだ、二人とも。

「俺、あんたのこと好きだよ。だから、死なないでよ」

 なにを、言ってる。そりよりリザをは?どうして床に寝てる?

 起こしてくれ。顔色が悪い。どうしたんだ。

「……、ん……」

 俺の番犬が動くより先に、リザは自分で起き上がった。名前を呼ぶと、大きく目を、見開いて。

「……ロイ?」

 俺を呼ぶ。どうした、リザ。顔色が悪い。具合が悪いのか?

「ロイ、ロイ。……ロイ……ッ」

 跳ね起きた女は真っ直ぐ、俺の胸に来た。前後の男たちは難なく跳ねられて、俺はうまく動かない腕を一生懸命、動かしてリザの頬に掌を当てた。熱はない、ようだが。

「……ロイぃ……」

 名前を呼ばれる。何度も繰り返し。

「死なないで。居なくならないでぇ」

 顔中をぐしゃぐしゃにして、縋りつかれて、肩口で泣きじゃくられて。

 俺はようやく、自分が随分な罪を犯しかけた、ことを思い出す。

「……すまない」

 他に言葉は、思いつかなかった。

「すまなかった」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ごめん。