の性交のせい。二晩続けてあんな無茶すりゃ、身体もあちこちガタがきて当然。
 左足は動かなかった。皇帝の寝台に繋がれていた。電子錠の手錠はちょっとやそっとでは開かない。
 上半身を起こした瞬間、足首に痛みが走る。布をめくってみると踝のまわりの皮膚が裂け血が滲んでる。
 そういや暴れたような気がする。よく覚えてないが。
「触らないで」
 骨に異状がないかどうか確認しようとした時、そう声がとんでようやく、俺は部屋の隅に立つ男に気づいた。
「触らないで下さい。昼に陛下がお戻りになったら手当して差し上げますから、それまで」
 部屋の隅には医師。ドアを閉めないままでこっちを見てる。
「近づくなと命令されているんです。弱っていてもあなたは危険な人だから。随分可愛がられたようですね。満足しましたか?」
「……お前、無事か」
 医師は笑い出した。何処か病的な感じもする声で。
「悪霊にとり殺されたとでも?大笑いだ。あなたは本当に古くさくて迷信深い。そんな物が本当に居ると思ってるんですか」
 悪意を隠そうともしない口調。
「皇子が嘆いておられましたよ。恐がって怯えるばかりで、ろくに話も出来なかったと。
話したいことが沢山おありだったそうです。……いったい何をお話しになるつもりだったのでしょう」
「お前、あれ知ってるのか」
「知っていますとも」
 勝ち誇ったように頷く。
「廃王子が死去される前に、私は皇太子の侍医にされました。皇太子は重い水疱瘡にかかっていた。
でもそんな病気には医者が出来ることはない。戻して欲しいと何度も言いましたが、聞き入れられませんでした」
 そう、不思議に思っていた。
 死んだ男の臨終の時、立ち会ったのはあの老人一人。いつも離れずそばにいた医師が居なかった。
「宮廷の権力者にはうんざりです。とくに母太后は勝手だ。密通相手が臨終近いというのに、わたしを息子の横に侍らせた」
「育児中の女が男の言うこと、きいてくれないのは仕方ないことだ」
 ティスティー・オストラコン、あの世界で一番俺に優しい女さえ、子供の為に俺を棄てた。
「それに癌なら尚更、医者いてもいなくても一緒だろ」
「皇子を看取る権利はわたしにあった筈です。わたしは皇子にわたし自身を差し上げていました。
あなたや母太后は結局、自分の方が可愛かったんでしょう。
皇子はわたしの手を握って、わたしに生涯を懺悔して、わたしの腕の中で死ぬべきだったのです」
「……それで?」
 俺は先を促した。医師の言葉を聞いていたくなかった。どうせ分かる話しなら、さっさと聞いてしまいたかった。
 医師は笑う。昔、一度だけ見たことのある例の、月夜の狼みたいな笑み。
「脳移植をしましたよ」
 一番聞きたくない言葉だった。左手の掌を額に当てる。それで支えきれず、ずるりと、俺はうなだれた。最悪の台詞だった。
 医師は笑う。今度は声を出して。俺が落ち込む様子がよっぽどおかしかったらしい。
 笑われたところで腹は立たない。それどころじゃない。なんてこった。
 胸が痛む。比喩でなくて本当に、体感的な痛み。きりきり、ずきずきする。アレク。アレキサンドル。
 愛していたのに。あんなにも愛していたのに、偽物だったなんて。
「わたしはずっとあなたを被害者だと思っていた。廃皇子は癖の悪い方でしたから」
 ゆっくり医師は近づいて、随分てまえで足を止めた。
「でもあなたはそんなこと、とおにご承知でしたね。あなたは廃皇子に欺かれたことは一瞬もなかった。
あの方の嘘を承知していながらだまされた、ふりをしていた理由はなんですか。彼を愛していたからですか?」
 俺は答えない。それはもう終わったことで、今更、愛したことがあった事実を検証しても、何にもなりゃしない。
「そんなあなたが健気に見えて、わたしは母太后よりあなたの味方のつもりでした。
廃皇子から出来る限り、庇って差し上げたいと思っていました。……でも、途中で自信がなくなってきたんです」
 なんの、と、俺は問わない。興味がない。医師の動く口元を見つめる。
「あなたは本当は加害者かもしれないと。廃皇子は、もしかしたら本当に、あなたを愛しているのではないかと」
「お前そういや、あの男に惚れてたな」
 うっすら、意地悪く俺は口元を歪めた。
「復讐したかっただけです。わたしは誰も愛したりしませんよ。宦官ですからね」
「タタないからって愛情がなくなる訳じゃないだろう。役に立たなくなった年寄りが、孫のような娘を可愛がるのはよくある話だ」
「わたしを人間扱いするのはあなただけです。それをわたしが、ひどく嫌だったのをご存じでしたか」
「薄々は」
 繋がれた左の足首に苦労しながら俺は寝台の上で起き上がる。
「俺は宦官だからって特別扱いするつもりはないぜ。切り落としたくらいたで俗世から解脱出来るとは、思えないからな」
「わたしには特別扱いをされる権利があります。その為に切り落としたのですから」
「醜悪だ」
「ナカータ前領主。……あなたは高慢だ」
「地方領主ってのは大概がそうだろ。正直に言えよ。お前が俺を気に入らないのは俺が宦官を嫌いだからでも自信満々だからでもない。
あの男が俺に執着したからさ」
 違うと医師は言わなかった。
「愛しておられました。廃皇子は、あなたを」
 医師の言葉に俺は笑ってしまう。本人から聞かされてさえ信じられないそんな台詞を、この医師までもが口にしたのがおかしくて。
「本当です。ただあの方は擦れ過ぎていて、気づくのが遅かったのです。そして気づいた時は手遅れだった。
あのあとどれほど後悔されたか、見せて差し上げたいほどでした」
「煙草を取ってくれないか」
 言われて医師は上着からシガレットケースを取り出して投げた。俺の手足の届く範囲には近づかない。
「廃皇子があなたに宛てた手紙を、握り潰すのは快感でした。それはわたしの復讐だったのです。
けれどあなたとアレクサンドル殿下が愛しあったときは落ち込みましたよ。私がした事は何だったのかと。
身体を換えても尚、魅かれあうあなた方が疎ましかった」
 ケースから煙草を取り出す。一本くわえて、火をつけて。それから、緑の内張りをめくる。
 出てきたのは冷たい光を放つプラチナのリング。
「あなたはけれど、殿下を手放しましたね。そして手を切ろうとした。殿下はひどく苦しまれた。
 そしてわたしはもう一度、思ったのですよ。あなたは加害者だと」
 二本のリングを俺は左手の薬指にはめる。噛み合わせをカチリといわせ、信号を発した。緊急救助要請。
「同じ結末は見たくなかった。だから皇子を起こしたのです。あなたも母太后もぎりぎりで皇子を棄てた。
今度はあなたが飽きるまで繋がれて、棄てられる番です」
「ごめんだな」
 指輪を押しつける。電子ロックが青に変色し解除される。身動きすると傷に痛みが走って顔をしかめる。そして、医師の方を向いた。
 顔色を変え踵を返して逃れようとする医師。その後頭部に、俺が投げた重いクリスタルガラスの灰皿がぶちあたる。
「うー……」
 煙草に火をつけ、一息吸い込んでから俺は医師に近づいた。呻きながら逃れようとする。逃す俺ではない。
「暴れるな。折るぞ。脅しじゃない」
 腕をねじあげる。ごく無造作に、自由を拘束する。
「文官相手に暴力は本意じゃないけどな、今は折りたい気分なんだ。挑発するなよ」
「わたしが憎いですか、ご先代」
 俺に脅されて医師は嬉しそう。度胸に関して、こいつはいつも素晴らしい。覚悟が決まってるというより単なる自棄。破れかぶれの強さ。
「満足です。この上なく。ずっとわたしはあなたが嫌いでした」
「好きって言ったくせに」
「嘘ですよ。当たり前でしょう。わたしは政治家ですから嘘つきです。本当は大嫌いでした。あなたのことも、母太后のことも。
あなたたちは贅沢で高慢だ。ちょっと利用されたくらいなんです。情人の為に便宜をはかってやるくらい、して当たり前じゃないですか」
 アレクには、そういえば尽くしてやった。死んだ男にそうしてやる気になれなかったのは、先に打算が匂ったから。
「暇潰しの玩具で、愛人でさえなかったわたしに比べればあなたがたはマシだった。
なのに母太后は皇子より息子を選び、あなたは皇子より自分を選んだ。あなたの罪は重い」
「だとしてもお前に裁く権利はない」
「わたしは取り上げたかった。吠え面かかせてみたかった。母太后からは子供を、あなたからは自分を。
心から愛して尽くした年下の情人が、偽物だった気分は如何です」
「最悪だ」
 それは聞かれるまでもない。
「最高の気分ですよ」
 医師はうっとり呟く。
「あなたにやっと、勝てた」
「まだだ」
「勝ちましたよ。たとえ今殺されたとしても、私のこの勝利は永遠です」
「賭けようか」
 うつ伏せに押さえつけたまま、俺は医師の衣服をはだける。帝国の宮廷服はどこでどうなっているかよく分からず、手間取る。
「役に立ったら俺の勝ち。立たなかったら、お前の勝ち」
「あなたがわたしを?面白い冗談だ」
「俺とあいつとどっちがよかったか、後で教えろ」
 一瞬だけ医師は怯んだ、ように見えたが。
「出来るものならやってみなさい」
 余裕を見せて身体の力を抜く。
「できるものですか。昨日の今日で」
「他人を貶めて愉しいか。俺も母太后もお前に危害を加えたことはない。お前の不幸は俺たちじゃなくて、あの男のせいだった筈だ」
「……愉しいんですよ。卑しい心根だと分かっています。でも本当に愉しいんです。忘れてた感覚が蘇りそうなくらい」
「船乗りの三大条件、知ってるか」
 食いだめ寝だめしだめができること。俺は全部できる。禁欲を続けることはそうつらくはない。
 が、一週間さかりっぱなしでいることも、出来る。
「後悔するなよ。仕掛けたのはお前だ。泣き言はきかない」

 

 王宮に雪崩れ込んでくるナカータの側近たち。先頭に立っているのは側近二人と、顔を隠した小柄な人物。
「叔父上ッ」
 医師をアレクに渡してあいた腕に、ナカータ領主はとびついてくる。
「大丈夫、怪我はない?ひどい目にあわされなかった?」
「お前まで来たのか」
「だから言ったじゃないあのタイプは危ないって。サドだと思ったんだよ、絶対」
「そいつを預ける」
 俺は顎先で医師を示す。
「まかせて。何もかも吐かせてやるさ」
「そうじゃない。丁寧に扱え。俺の寝床に放り込んどいてくれ」
「……いいけど、あなたどうするの」
「車を取ってくる」
「危ないよ」
「誰に言ってんだ」
「それもそうだね。はい」
 ナカータ領主は俺に銃を渡す。オートマチックは本当は好きじゃない。標準が曖昧になるから。でも弾数が多くて便利だ。
 遊底をスライドさせる。これで引き金を引けば即座に弾が出る。
「丁寧に扱えよ」
 念を押すと医師は顔を上げ俺を見た。軽く頷き、俺は車庫へ向かった。
 

 広い駐車場。主人を待つ風情の車に俺は乗り込む。洞窟のような空間に足音。駐車場の照明がおちる。
 通路に現れた人影は男。
 俺はキーをまわす。低いエンジン音と上向きに照らされるライト。眩しそうに目を細め、でも顔は背けないで男は俺を見る。
 威嚇のようにアクセルを踏み込みエンジンの回転数をあげた。男はびくりとも動かない。
 俺も男も、口はきかなかった。
 男の腕が上がる。伸ばされる。前ではなく左右に。身体をはって行かせない、という仕種。
 俺はタイヤを軋ませて急発車。駐車場を乱暴にまわる。
 ギアを最速にいれる。運転は得意だ。滅多に自分でハンドルを握ることはないが。
「……、」
 男が何か言いかける。聞きたくなくて、更にアクセルを踏み込んだ。爆走する。真っ直ぐに、一つしかない通路に突っ込んでいく。
 男は唇を噛んだ。でも動こうとはしない。広げた指に力を入れて正面を見る。凶暴な車は皇帝をごく無造作にひき殺すかに見えたが。
 俺は片輪ドラフトさせた。男と壁の間を擦り抜ける。
 その瞬間だけは目を閉じていた男が振り向いて何かを言う間もなく、俺はカーブの向こう側に逃げ込む。

 

 自棄じみた速度でバイパスを走り抜ける。ナカータ公邸に通じるバイパスは封鎖されて臨戦状態のよう。
 路上には警戒の為の人数が詰めていて、その真中に、俺の車は到着。とびだしてきたレイクに、
「戦闘準備はとけ。ここは帝都だ。俺の戦争には狭すぎる」
「はい」
「母太后に連絡をとれ。俺が、話があるって伝えろ。それと、ジェラシュ」
「なに」
「皇帝に会いに行け」
「なんて言えばいいの?」
「告訴の用意がある、と」
 俺は裾をまくって足首を見せる。布は巻かれていたが暴れたせいで血が滲んでいる。それを写真に、とらせた。

 

「……嘆かれますよ、沢山の人が」
 医師の言葉に俺は手を止める。さっきから何度もそうやって中断している。
 明かりを消した部屋。庭の照明だけが窓からぼんやりはいってくるだけの、暗闇に近い室内。
「こんな風に、あなたにベットの中に、連れ込まれたい人は沢山居るでしょうに。男も女も、もっと相応しい人が」
 医師の声が途切れるまで、俺は頭を撫でてやる。三日つづけた荒淫は俺を、ひどく淫乱な気分にさせていた。
 だんだん調子が出てきた気さえする。少しだけ腹筋が痛かったが。
 優しく触れてやる。触れるのを嫌がらない場所に。それがじわじわ、広がっていって、夜半には背中まで許した。
「おかしな、方だ……」
 医師が笑う。もう一度、俺は手を止める。喋ってる間は言葉を聞く。会話というより独言が多くて、返事の要らない俺は聞いているだけ。
「棄てていけば良かったのに、あのまま」
 俺と契って魂がとんだままのお前を、あいつの寝室に?
「公邸にまで連れ込んで。いろんな人にばれましたよ、これで。皇子とか、皇后陛下とか、オストラコンの王女様とか」
「ばれたら困るか」
 問うと医師はくすくす笑う。さっきまでの壊れた笑みじゃない。俺を馬鹿にした気配は相変わらずだったが。
「わたしは困りませんよ。あなたのこと。どうして王女様のところ逃げ込まなかったんです。前の時は彼女に庇われたでしょう?
あの王女がさっとあなたを囲い込んだから、皇子は手出しできかねて苦しんでいた。だからまず彼女を籠絡しようとしたんですよ……」
「女はもう、いいんだ」
 本音だった。
「それはまたどうして」
「女は男より子供が大事なんだよ」
 それは単に本能。でも男の俺には辛いこと。
「俺の母親も俺を孕んだ後は親父を棄てた。母親の選択は間違っちゃいなかった。おかげで俺は一時とは言えナカータの領主になった。
……今でも、実質はそうだ」
 家臣だ許可がと俺が誤魔化しても、みんな分かってる。俺が言い張るからつきあっているだけ。つきあってくれない奴も居る。
「女は恐い。恐すぎる。自分の子の為に別の子供を殺せって言える生きものだ。俺の手には余る」
「だからわたしで代用ですか?安易な人だ」
 医師は俺の手から逃れ、起き上がり身繕いを始める。俺は外された手を不本意に眺めたが服を整えるのを手伝ってやる。
 髪もすいて、背中で纏めて結ぶ。前髪を掻き上げて額にキスしてやると医師は手を伸ばしてきた。
「エル・サトメアン……、わたしは」
 何かをいいかけた、その唇を、
「カタがつきしだい、俺はブラタルに戻る」
 俺は言葉で塞いだ。
「お前も一緒だ。大抵のものはブラタルで揃えられるが、どうしても必要なものがあるなら明日とってきてやる」
「わたしが?ブラタルへ?」
 顔を上げてこっちを見る、瞳は痛々しいほど澄み切っている。
「人質ですか?役には立ちませんよ。陛下にとって、わたしは……」
「部屋の鍵をやる。略奪した女は正妻にするのが決まりだが」
「なにをふざけておられるんですか」
「そういう訳にもいかないな。残念だが」
 頬に触れた。いい感触だ。目を見て笑ってやった。医師はかすかに動揺し、そっと目を伏せた。
「代わりに奥宮全部やる。噴水ごとお前のものだ。お前が気に入らない奴は出入り禁止にしていい」
「なにを言っているんです、あなたは」
「勿論、俺を含めてだ。お前の機嫌を損ねたら車の中で寝るよ」
「何を言っているんですッ」
 医師は叫ぶ。大した大声で。
「お前を好きだよ」
 部屋着を羽織る。医師は震えている。
「キスしたことあったよな大昔。あの頃から気に入ってた」
「嘘です。わたしはずっと、あなたの敵方に居たのに」
「敵の方がきっと、俺を分かってくれると思うんだ。いつも。……お前、酒は飲めるか?」
 内線で食事の用意をさせる。この医者がいけるくちかどうか知らなかったから尋ねた。
「ブラタルじゃ俺は神様ってことになってるが、サラブの連中からは悪魔扱いだ。今でも。お前は俺をどっちだと思う?」
 医師の答えを待たず、
「俺は悪魔だと思う」
 自分の確信を告げる。何故かというと、
「欲が深いから」
「みんなそうです。誰もが」
「俺は特別に深い。無欲と勘違いされちまうほど。何もかも欲しいんだ本当は。
 ブラタルもナカータもオストラコンも、パルスも、……サラブも」
 ティスティーもレイクもアケトもジェラシュも。この医師も母太后も。
「俺を手伝え。俺は気前がいい。俺の掌の中に居る限り、欲しいのがあったら何だってやるぞ」
 それは、やったことにはならないのかもしれないけど。
「アレクが欲しいならやる。簡単なことさ、俺が言えばいい。お前が気に入ったからアレクとはさよならだって。
あいつはきっとお前を恨む。気持ち良いだろ?アレクからお前、俺を寝取れるんだ」
「エル・サトメアン。あなたが何を言っているのか、わたしは」
「今更退くなよ。最初に言ったろ、後悔するなって。挑発したのはお前だ。後戻りはきかねぇぞ。
誰にも聞かせたことない真実を、お前は今、俺の口から聞いたんだ」
 医師を見据える。医師はごくりと唾を飲む。それで腹は座ったらしい。度胸のよさが最初から気になっていた。
「とりあえずカタつけようぜ。俺とお前の間の邪魔なモノを。
……ホントの事を言えよ。お前はアレクを大嫌いなんだ。俺や母太后に八つ当たりしてもイマイチだろ。やっぱ本体に復讐しないとな」
「……エル・サトメアン」
「代用品で誤魔化すな。痛みを恐がるなよ。それが望みだって昔、言っていたじゃないか。
手伝ってやる。あいつをここに棄てて、二人でブラタルへ帰ろう」
「あなたは帝国も欲しいのではありませんか」
「この国は辺境になる。俺がサラブを攻略してしまえば、いずれ衰退して滅びる。朽ちた大木ほど厄介なものはない。放っておくに限る」
「皇子を愛しているからじゃありませんか」
「朽ち木くらいはやってもいいと思ってた。俺には要らないものだから」
「あなたと皇子はよくお似合いですよ。あなたの隣で皇子はお幸せそうに笑われます。皇子は本当に。あなたのことを」
「俺はお前の方がいい」
 断言すると、医師は黙った。
「……わたしが便利だからですか」
「顔が好みで度胸があるからだ」
「手札を使い尽くして、もうあなたを傷つけることが出来ないから?いつもあなたはわたしより一枚上のカードを隠してる」
「お前の切り札はあの男だったろ。俺の方がきれるのは当たり前さ。そういや答えを聞いてなかったな。あいつと俺と、どっちがよかった?」
 口説くのが面倒になってきた俺は結論を求める。医師は即座に答えた。
「勝てない賭をしない人ですよ、あなたは」
 その通りだ。
「本当に皇子に伝えてくれますね。皇子よりわたしを選んだのだと」
「自意識過剰な子供の扱いには慣れてるんだよ、俺は。連中は面の皮が厚い。何を言っても肌を撫でていくだけだ」
 そういうガキに一番効くのは、
「置き去りにしてやろうぜ」
 十年前にも使った手段。
「一つだけお願いがあるんです。きいてくれますか」
「断るわけにはいかないな。なんだ?」
「煙草を止めてください」
 さすがにきつい条件を出される。
「いつも気になっていました。あなたはただでさえ食物摂取が少ない。喫煙は想像以上にカロリーを消費します。早死にしますよ」
 俺は、くわえていた煙草を肺にいっぱい、吸い込んだ。そして火が着いたままを医師に渡す。
 受け取って医師は灰皿でもみ消した。
「エル・サトメアン……、あなたを愛しています」
 言葉はまるで、罪の告白のように苦い。
「あなたのことを、ずっと前から」
 告白を、こんどは唇で途切らせた。それは言わなくていいこと。聞かなくていいこと。とおの昔に知っていたこと。
 目を閉じて口づけを受けた医師は、そっと俺の肩に手をかけた。まるで壊れやすい、幻に触れるような頼りなさで俺の背を撫でる。
「……愛して、います」
 くちづけの合間の告白。
「苦しそうに言うな」
 安心しろ、俺はあの男とは違う。愛することは弱みを渡すことにはならない。捧げられた愛情を利用しようとは思わない。
 長いキスを交わしている間に、続き間に食事の用意が出来たらしい。鈴を鳴らして、でも俺が答えないから、給仕は黙って出ていった。
「飯は?」
「食欲がありません」
「なら今日は寝てろ。疲れたろ。俺はまだ仕事が残ってるが、気になるなら別の部屋へ行く」
「わたしに聞きたいことがあるんじゃないですか」
「後でいい」
 寝間着を着せて掛け布を被せて、俺は書類を持って別室に行こうとした。部屋の明かりを消そうとしたところで、
「待って」
 声がかかる。
「……そばに、いてください。明かりを点けていていいから」
 言われて俺は戻った。机ではなく寝台。腰掛けて報告書を読む。
 医師はしばらく緊張し、呼吸の音さえひそめていたが、やがてそっと頭を、俺のひざに触れさせる。
「お休み」
 タイミングを逃さず言うと暗示のようになって、医師はまもなく寝息をたてはじめた。

 

 翌日、俺は朝寝した。目覚めると、部屋にはきちんと衣服を整えた医師が俺の起きるのを待っていた。
「……朝飯食ったか?」
 おはようも言わずに問うと、医師は笑った。
「何時だ」
「十一時、二十七分です。あと三分待って、お目覚めにならなかったら起こそうと思っていました。ご領主と昼食の約束でしょう?」
「その後で王宮に行く。取ってくるもの本当にないか?研究資料とか」
「あるけど、いいです。完成したのは発表してあるし、未発表のは完成していないし。心残りの研究資料は陛下だけですから」
「あいつ実験動物だったのか」
 思わず笑う。そんな場合じゃないとわかっていたが。俺は少し、壊れかけてる。
「知りたかったんです。心はどこにあるのか。愛情は記憶が消えても残るのか。魂は、死んだら何処へ行くのか。
あなたは気になりませんか?」
「考えたこともないな」
「でしょうね。あなたは強いから。わたしは知りたかった。胸の中で起こる嵐の正体を暴いて納得したかった。
私は金銭と引き換えに、貧しい母親の手によって宦官にさせられ、宮廷に売られました。
知能が高かったせいで後宮用の医師として生きていくことが出来ましたが、それはわたしの望みではなかった」
「それで、実験の結果はどうだったんだ?皇帝は……、廃皇子か。どっちでもいいが、どうなってると思う?」
 ベットの上で起き上がりながら、尋ねる。
「さぁ……」
 医師は眼鏡を外した。
「あの方がどんな状況にあるのか、わたしにも分かりません。
廃皇子の記憶と意識が表層に現れたからといって『アレクサンドル』が消えてしまったとは限らない。
共存しているか、統合してしまったか、それとも生存競争を繰り広げているか……」
「死んだ男を起こした、って言ってたな。どうやって?」
「暗示をかけていたんです。だっていきなり十歳の子供の中に二十八歳の男が現れたら、不審に思われてしまいますから」
「ナンかまた、お前には馬鹿にされそうだが」
 道徳観念がアナクロだ、とかなんとか。
「心痛まなかったのか。十歳の子供を、お前らは殺した」
 それも、不義のとはいえ実の息子を。
「俺には理解できない。俺にも子供はいるが」
 養子のジェラシュと、もう一人。
「やつらを殺すくらいなら死んだ方がマシだ」
「己を可哀想がっている人間は他人に同情しにないものですよ」
「そんなもんか」
 やっぱり俺は納得できない。
「で、それ、何時だ」
「つい先日です。お車の中であなたが陛下に別れ話を持ち出したでしょう、あの後。……どうしました、サティ様。何か?」
 考え込む俺の顔を、覗き込む医師。
「なんでもない。ところで、なんだ。二重人格みたいになってる可能性もあるのか」
「あります。ありとあらゆる可能性があります。わたしにとっても彼は初めての症例です」「ふーん……」
 医師が近づく。屈んでくる顎に手を添えて、唇が重なる瞬間、ノックもなしに、扉は再び開かれた。
 立っていたのは、ジェラシュ。険しい顔をしてる。
「ジェ……、おい」
 裸とキスを見られて慌てたのは、俺。
「ご機嫌如何ですか、ご領主」
 落ち着いて向き直り、膝をついて挨拶をしたのは医師。医師の挨拶にジェラシュは答えない。
 つかつかと歩み寄る。医師の、肩に手を掛けて引き起こす。そしていきなり、医師の股間に手を差し入れた。
「……、」
 医師の背中が揺れる。それでも歯を食いしばり、声はあげず耐える。
「ジェラシュ、止めろ」
 きつく止めるとジェラシュは、チラッと俺に皮肉な笑みを見せてから、手を引いた。
「女の人だったの。……やられたよ」
 恐い声で呟く。
「叔父上の寝間を狙う雌猫は何匹も居た。みんな追い払ってきたのに、まんまとやられたな。叔父上が手をつけた後じゃ追放も出来やしない」
「女性ではありませんよ、わたしは」
 うっすらと医師も笑う。俺からは見えないが声で分かった。
 向き合う二人の間の空気が張りつめるのを、俺はベットの上でパンツ一枚という、間抜けな姿でびびりながら見守る。
「せいぜい貞淑に仕えておくんだね。叔父上を手こずらせたり手間取らせたりしたら、許さないから」
「ご領主、宦官というものをご存じですか」
「知らないな」
 ジェラシュは策謀家だが嘘はつかない。本当に知らないらしい。博識な奴だがその知識は偏ってる。
「宮廷に仕える、去勢された男という意味ですよ」
「……なに?」
 真面目な話しらしいのに気づいてジェラシュは眉を寄せる。
「わたしはそれです。男でも女でもない。孕みませんから、大丈夫。ご領主が不安に思われる必要は少しもない」
 一瞬の後、ジェラシュは不意に笑い出した。
「なるほど、なるほどね」
 無邪気と言っていいような明るい声。
「どうりで肌がきれいだと思ってた。妙な色気があるし。叔父上が気に入る筈だ。薄幸なのに弱いから。
叔父上が君を選んだのは君に恋してるからじゃない。君が叔父上のツボにはまっただけ。それは分かってる?」
「重々」
「ならいいや。どれくらいのつきあいになるか知らないけど、とりあえず君は身内だ」
 ジェラシュは手を差し出す。
「失礼なことをしてしまって、すまなかった」
「いいえ、少しも」
「へぇ、怒っていないのか。心が広いの、それとも節操がないのかな」
「あなたがご自身で手を下されたからですよ。人を傷つける時も堂々としておられるからです。
それにわたしはご領主のことを、以前から身近に思っていました」
「それは知らなかった。なんで?」
「苦しんでおられるからです。わたしと同じことで」
 すらりと医師が言った台詞に、ジェラシュはぐっと息を飲む。凍りついた表情のまま俺の方を向いて責める目つき。
 俺は首を横に振った。バラしていない。
 俺から目線を外したジェラシュがゆっくり、医師に向き合う。
「わたしの本業は医者です。それも後宮関係の。だから、目利きなのですよ」
 ぴくり、ジェラシュの眉が動く。
「だったら手術、出来る?」
 静かな声で、ジェラシュは問う。
「この身体を女の子じゃなくすること、出来る?」
「ジェド、お前」
 ジェラシュの言葉に呆然とする俺を後目に、
「女性で居るの、辛いことですか」
 二人の会話は続く。
「辛くはないけど腹立たしい」
「月並みですがそんなにお奇麗なのに」
 医師の言葉にジェラシュは噴き出した。
「君の口からそんな言葉を聞くなんて」
「単に事実を申し上げています。私が知っている貴婦人の中にもご領主ほどの美女は居ない。
唯一人、張り合えそうなのはお若い頃の皇后陛下ですが、あなたの方が知的で、引力がある」
「外見なんかはどうでもいいんだよ」
「ならば尚更、どうして不自然に変えたいと思われるのです。女性だからといってご領主に、なにか不利があるとは思えませんが」
「不利はないけど腹が立つのさ」
 ジェラシュはうっすら笑う。
「何にそうご立腹なのです」
「何もかもに。子を孕ませておきながら名もつけなかった父にも、そんな男を受け入れて孕んだ母にも。
娘が領主の縁に繋がる子を産んだことを利用したくて赤子を男と偽った祖父にも」
 医師は目を伏せた。共感している。でも同情を軽々しく表には出さない節度で黙り込む。
 俺も医師と同じような顔をしていただろう。聞いているのが辛かった。
 血縁者に対する憎しみがジェラシュの瞳に満ちていて、憎悪は俺にも向けられている。実際俺も悪かった。
 性別をもっとこの子が幼い時に、気づいてやるべきだったのだ。
「ご領主を愛しておられるこの方は?」
 俺はそうとう情けないツラをしていたらしい。医師が見かねて口を出す。
「あぁそう、その人にが一番」
 冷たい目でジェラシュは俺を見る。
「女の子だって分かった途端、部屋に入れてくれなくなった人。他の女や、男と寝る為に寝台から追い出した人。
愛してることを分かってるくせに、何もしてくれないしさせてくれない、人」
 聞いてるうちに、俺は泣きたい気分になった。呪いの言葉には慣れてる。けどこの子からのは特別に効く。
 この子から、何時からか、憎まれてることは分かってた。理由もなんか、薄々は。でも俺に何ができた。
「つまり僕は嫌いなんだよ。女の子の自分を」
「なるほど。お話はよく分かりました。ところでご領主、一つ確認しておきたいのですが、処女でいらっしゃいますか」
「……そうだけど」
「一度男と、してみませんか」
 医師の提案にジェラシュは眉を寄せる。
「なに、どういう意味」
「女性であることでご領主が生きけないほどお辛いなら手術は出来ます。それは治療、ですから。
けれどもしかして別の衝動が動機なら、取り返しがつきません」
「別の衝動?成熟拒否ってコト?」
「若しくは逆説で、女性としての成熟を望んでおられるのかも。もっと単純にこの人を、脅かしたいだけかも」
「そんな事ないって、いっても無駄なんだろうね。医者ってやつは患者の言葉を信じない」
「職業病ですね。患者は自分の悪いところを認めたくないものです。
 職業病ついでに要らぬ忠告を申し上げますがもし、恋が辛くて手術をお望みならば無駄なことですよ」
「やってみなきゃ分からないだろ」
「無駄です。愛情も欲望も根源は、生殖器ではありません。わたしはそのことをよく知っています」
「……ふぅん」
 頷き、ジェラシュは俺に近づいた。
「嘘だよ、叔父上」
 微笑むジェラシュは確かに絶世の美女。他人の容姿に滅多に言及しない医師が、月並みと断わりをいれつつ誉めずにはおられなかったほど。
 父親に似た目もとの艶やかさは男心に直下型の揺さぶりをかける。
 顔立ちは好みの問題としても、女としての存在感ではティスティーでさえ一歩を譲るだろう。
 本来なら今頃、求婚者の群れに囲まれていた筈の女。タラシで知られた義兄の血をうけて、華やかな彩りに満ちた季節を遅れる筈だった、花。
「復讐したいなんて嘘。大好きだよ。ただちょっと意地悪したかっただけ」
「それも嘘なんだろ?」
「うん、嘘。……本当。もうよく分からない」
 ジェラシュはベットに膝を乗せる。俺の胸に手を置く。
「お前を抱いてはやれないぞ」
 それははっきり言っておく。
「分かってる。でも抱っこくらいいいんじゃない?」
 請われて抱きしめる。ため息つきたいのを我慢した。柔らかでしなやかな、十八歳の娘に触れるのは億劫だ。気持ち良さ過ぎて。
「……失礼、よろしいですか」
 開けっぱなしのドアをノックして、入ってきたのはレイク。医師は会釈して場所をあける。俺はジェラシュの身体を抱いたまま。
「お電話が入っています。皇帝陛下から」
「回線を隣にまわせ」
 俺は立ち上がる。ジェラシュは追ってこようとしたが、掛け布を外した俺がパンツ一枚なのを見て諦める。生娘は、こういうところが可愛い。
 電話に出ると、
『サティ、よかった電話出てくれた。あのままブラタルに帰られてたら、どうしようかと思った』
 聞こえてきたのはアレクの声。俺はうんざりした。そんなことだろうと思った。
『聞いてよサティ、昨日のこと。覚えてるけどあれ僕じゃないよ。僕は……』
 言い訳を聞くのが辛くて電話を切る。
 回線は便利だ、指先一つで千切れる。恋も愛情も執着も、愛した記憶も肉の契りも、こんな風に千切れたらどんなにいいだろう。
 そんなことを考えながらもとの部屋に戻る。何かを聞きたそうな二人に、
「着替えろ。飯食いに行くぞ」
 言うと、二人とも追求はしなかった。
「何処行くの、例の商人のホテル?」
 そうだ。俺は帝都で、他に安心して飯を食えるところがない。
「わたしは着替えを持っていませんが」
「用意しています」
 医師に答えたのはレイク。
「お車をまわしておきます」
「着替えて来ようっと」
「医師殿、こちらへ」
「ありがとう」
「叔父上、花柄のシャツはやめてよ恥ずかしいから。そんなの着た人とは一緒にご飯食べないからね」
「そうですか?わたしはサティ様の派手なシャツ姿、けっこう好きですが」
「趣味悪ぅ」
「よくお似合いですよ。そう思われませんか」
「似合うから困るんじゃない」
 勝手なことを喋りながら、二人仲良く歩いていく。

 

 その日の夕刻、ナカータの若い領主は宮廷に出仕した。
「先日来の風邪で、建国式典の儀式に参列出来なかったことをお詫いたします」
 辞を低くした挨拶。皇帝はいやと適当に答えた。この領主が風邪なんかひいていなかったことは皇帝もよく知っている。
「隠居はどうしてる?詫なら、あいつを寄越せ」
「困りましたね。うちの先代は陛下にとって、大恩人のはずですよ」
 言いながら領主は懐から数枚の写真。左手にかけられた手錠と無惨な傷跡。
「なのに、こんな真似をなさって」
「即位功労者を粛正した例は多い」
「功労者が増長した場合は。うちの隠居がなに増長しましたか」
「母太后に不埒な真似をした」
「どっちか誘ったか、わかるものですか。うちのは色男です」
 さすがに負けてはいない。
「陛下とうちの先代は情人関係と思ってました。だから先代が宮廷で行方不明になっても野暮を言うつもりはなかった。
でも拘束のあとがありましたね」
 皇帝は黙り込んでいる。ナカータ領主は得々と喋る。
「うちの先代は僕の臣下であなたのじゃない。あなたがうちのを罰したいと思うなら、まず僕を通すのがルールです。
勝手に傷つける権利はない。違いますか。先代の今回の負傷について、わたしには告訴の用意があります。
ご存じですか、夫婦間でも性交の強制は犯罪なんですよ」
「具合はどうなんだ?」
「生きています。死んだら大変だ」
「夜になったら、見舞いに行く」
「お断わりします」
「ナカータ領主……、寝返ったな」
 低く、恨みのこもった声。
「一度はサティを僕に売ったくせに」
「人聞きの悪い。先代の出発を阻止したかっただけです。今は後悔してます。やっぱり下手と、組むのは止すべきだった」
「今夜、会わせろ。でなきゃばらすぞ。共謀を、サティに」
「もうバレていますよ」
 いっそさばさばした口調でジェラシュは左手を持ち上げる。指輪にかすかな、光。
「盗聴器です。この会話も全部きかれてます」
 つかつかと、足音。皇帝が玉座を降りて近づいた気配。
「聞こえてるのか、サティ。ナカータ領主は預かった。帰して欲しけりゃ、迎えに来い」
 予想していた事態だった。俺は通信を切る。そして別の回線を母太后に繋ぐ。
「ご希望通り、人質を送り込んだぜ。ナカータ領主だ文句はないだろ。……あぁ。確認がとれたらまた連絡を」
 回線が切れて、俺は受話器を卓上へ戻す。
「信じるでしょうか、母太后は」
 医師の疑問に、
「たぶん」
 短く答える。根拠はないが自信はあった。俺は信頼される男だ。誰も彼もが俺を信じていると言う。それで安心出来るなら好きにすればいい。
 絶対に信じられるものなんてこの世に何一つないって、分かっているのに何故かみんな、無闇に誰かを信じたがる。
 うまく騙せる存在を神様と呼ぶんなら、俺には呼ばれる資格があるかもしれない。俺は最高の詐欺師だ。
 何故ならまだ、嘘をついたことがないから。

 

 二時間後、俺は正装して王宮の正門に立つ。門が上がっても動かなかった。人質を渡されるまでは。
 待ち兼ねた皇帝が自らジェラシュを連れてきて、俺は入れ替わって王宮の門を潜る。
「……叔父上」
 自分の役目を知らないジェラシュが泣き出しそうな顔で俺を見た。
 俺は笑いかけてやる。ジェラシュは立ち尽くし俺を見送る。泣いていたかも知れない。
「サトメアン……ッ」
 皇帝が俺の肩を抱き、もたれるように抱いてくる。馬鹿な奴だと思った。まだ俺をだませるつもりらしい。

 

「……いつもこうだな、色事師」
 皇帝の私室に入るなり服を脱がされそうになって、俺は心底、呆れた声を出す。
「他に手段を思いつかないか。身体と心が混じるほど、もうガキじゃねぇぞ俺は」
「お前の匂いが好きだ」
 獣が懐くみたいに皇帝は俺の肩口に顔を埋める。幸せそうな顔をして。
「お前とこうしていたくて、俺は冥府から」
「もともとあんた俺の理解を超えた男だったけど今はもう、宇宙人みたいだな」
 肩に感じる体温は同じでも、それはもう、溶け合うことのない暖かさ。
「息子を殺して手に入れた皇帝の座は心地いいか。我が子を殺してまでそんなものを欲しがるお前が、俺には理解できない」
「諦めろ。お前は帝国皇帝の情婦になるんだ」
「死んだ方がマシだな」
「強情をはるな。勝負はもうついていると言ったろう。あのガキをお前が愛した時点で俺の勝ちだったんだ」
「名演技だったぜ……」
 ため息をつく。俺はアレクを愛していた。それは否定しようのない事実だ。
「かなりヤバイ賭けだった。記憶障害とか意識障害とか。だが、俺は賭けに勝った。自我をこうして取り戻した。お前にどうしても会いたかった」
「俺に?」
「そうだ」
 肩を抱かれ口づけられる。
「お前に会いたかった。あのままでは死んでも死に切れなかった。
余命がないから会いに来てくれと、何度も言って寄越したのにお前は振り向きもしなかったな」
 男の責める口調。でも俺に罪悪感はない。裏切ったのはそっちが先だった。俺は、俺に出来る最大の譲歩をした。
 殺さずに、見逃してやった。
「恨み言を言っていたら百年かかっても言い尽くせない。お前はひどい事をした。今際の際の願いを拒んだ。恨んでいる。
でも、忘れてやる。愛しているから」
「命惜しさに息子を殺しちまうような男の愛情が、何ほどのものだ」
「息子を棄てる父親なんて掃いて捨てるほど居る。お前やわたしの父親のように」
「あんたは俺を利用しただけだ。皇帝になる為に」
「ひとの話を聞かない奴だ相変わらず。死ねなかったのは皇帝になる為じゃない。お前に会いたかったから」
「そういう理由の方が医者をだましやすかったから、だろ」
「やけにこだわるな。医師が何か、つまらないことを言ったか?」
「言いつけられたら困ることばかりだろ」
「本気にするなよ、サティ。聞いたかもしれないが、あの医師とは昔、ちょっと遊んだことがあって」
「うまいよな、あいつ」
 俺の台詞に皇帝は眉を寄せる。不審を感じたらしい。
「昔のことなんだろ?未練はないんだろう?だったら俺が貰っても文句はないよな」
「……寝たのかお前」
 皇帝の目が吊り上がる。手を上げて俺の頬を殴ろうとする。馬鹿めと、俺はもう一度思った。
 不貞を犯した妻を殴るように、俺が殴られなきゃならない理由は何処にもない。無造作に身体を沈めて避け、ついでに膝を蹴りつける。
 皇帝は無様に倒れる。襟首を掴んで腹に一蹴りくれてやると呻いて床に伸びた。