問いに俺は、右の中指と人差指をたてて唇にあてた。

「……それは」

 レイクと軍医は顔を見合わせる。俺が欲しいと言ったのはただの煙草ではない。覚醒成分の入ったハッシェ。

普段は禁制の麻薬だが戦場では必要に応じて医師が処方する。

「一本くらいでしたらよろしいかと。それでご領主が、楽におなりでしたら」

 軍医の判断で火のついたそれが口に持ってこられる。灰皿がわりにレイクが掌を差し出す。

肺に煙を深く吸い込むと、ようやく血が全身に巡り始めた気がした。

 吸い終わった頃には顔色もずいぶん回復していた筈だ。呼吸も楽になって、俺は仰向けにシーツに転がった。

「兄上に同行していただけばよかったでね」

 吸殻を片づけながらレイクが言う。

「お身内の立場で帝国側に抗議して戴けたでしょう」

 俺は答えなかった。奴がここに居たところで抗議できたとは思えない。

俺は職業軍人だから、戦場で戦闘継続中に同盟を揺すぶるような行動はとれない。俄総帥の廃皇子とは違って。

 それきりレイクは黙った。医者も。二人とも何があったのかは尋ねない。まぁ聞かなくても察しはついたろう。

それでも、心配りを有り難く思った。

 何があったか、俺は答えたくなかった。思い出したくさえなかった。

「……腹減った」

 現実的な事を言うと、

「ご用意していますよ」

 嬉しそうにレイクは言う。心得て医者は下がる。レイクに給仕してもらい食事をする。

シャワーを浴びて新しい寝間着に着替え、医者が置いていった睡眠薬を噛りかけた時、廊下から声が聞こえてくる。

 押し問答、のようだった。

「いかにもと皇族の身分といえど、帝国軍と諸国連合は対等の同盟。その一方の長を、かほどに愚弄めされてよいものか」

 珍しいレイクの大声だ。語尾が怒りで震えている。

「……、…」

 答える声の、内容は聞き取れない。

 俺は睡眠薬をテーブルの上に戻した。

「我々が黙っているのは交戦中だからです。下手に騒げば利敵行為になる。けれどこの屈辱は忘れません。戦が終われば、告訴します」

「それはナカータ領主の考えか」

 廃王子の声も大きくなる。

「我々の総意と思っていただきます」

「俺は」

 聞き慣れない一人称。

「領主に会いに来た。部下とこれ以上、話すつもりはない。そこを退け」

「退きません。殺されるまで、動きません」

「わたくしも」

 医者の声まで聞こえてきて、俺は苦笑した。廃王子の答えは聞こえてこない。困惑している気配だけが伝わる。

 ここぞという時のレイクの粘り腰はしぶとい。俺を自分の弟か息子みたいに思ってるから捨て身で庇う。

「ティ、サティ、サトメアン」

 業を煮やした廃皇子の声が俺を呼ぶ。

「聞こえているだろう。顔を見せろ」

 落ち着いた声音。でも内心の動揺が俺の耳には届いた。

「サトメアンー」

 二度呼ばれてようやく動き出す。ドアを開けると廃皇子はレイクの肩越しに、露骨にほっとした表情。

「仮病だったか、やっぱり」

 廃皇子が近づく。俺を背中に庇おうとするレイク。その肩を俺は掴んで横にやった。

庇われるのは好きじゃない。それがたとえ、育ての親同然の男でも。

「そんなところだ。見舞いは要らない」

「見舞いに来た訳じゃない」

 思わせぶりに指が伸ばされる。俺は避けなかった。俺が動かないからレイクも動けず困ってる。

廃皇子の指は俺の胸の上に置かれ、そのまま押され、俺は部屋へ戻された。

 暗い室内。尻餅をつく格好で押し込まれた俺の目にドアの隙間から俯くレイクが一瞬だけ見えた。

途端、罪悪感がわいて部屋を出ようとしたが、遅かった。

 男の手に捕えられる。関節の伸びた大きな手。でも指先は柔らかい。ハンドルにも引き金にも触れたことのない指。

 オートロックの音が暗闇に響いて、それは荒淫の始まりを告げる音。

 闇の中、廃王子に抱き込まれた肩から下へ、身体の線を辿られる。座り込む俺の位置に合わせて男も膝をつく気配。

片手は喉から顎を伝って唇へ。もう一方は胸元を経て、下肢へ。 何も見えない。聞こえない。

暗闇の中の接触は神殿で神と交わる巫女の気分を、俺に味あわせた。

抵抗を許されない腕に閉じ込められる、マゾヒティックな快感は俺が知らないものだった。

 引き据えられる。床に仰向けに。腰に股がって服を脱ぐ気配。素肌の感触が寝間着越しに伝わる。

押しつけられる。無意識に拒む。でも更に侵略を許してしまう。

 手が忍び込む。暴き出される。深く、深く、……深い。

 

「おい……、ライト、どこだ」

 さっきからドア近くの壁を探っていた廃皇子がとうとう尋ねてくる。意地悪く黙っていた俺は指を一つ鳴らした。

反応して天井の明かりが灯る。目を痛めないように最初はぼんやりと、そして徐々に明るく。

 驚いた廃皇子の顔が見えたあたりでもう一度指を鳴らすと明度の上昇が止まる。

俺は上半身を起こし、伸びをしてから起き上がり、廃皇子の前を通って寝室へ向かった。

 手前の居間の床の上で俺たちは二時間ばかりを過ごしていた。

「おい」

 通り過ぎようとする俺の腕を廃皇子が掴む。後ろに引かれる。

「なんとか、言え」

「……なんて」

 交わす言葉は思いつかない。俺の頭は動いていない。今はただベットで眠りたいだけ。

「素っ気無い奴。こっちは二日間、心配で眠れなかったってのに」

 廃皇子の口調は砕けている。表情は満足そうに緩んでにやついてる。

 こういう男だったのかと、俺は男の口元をまじまじと眺めた。じっと見つめると廃王子は口を閉じ目をそらす。

おなじみの反応に、思わず笑ってしまう。

「仮病が心配でか」

 笑ったついでにくちをきく。

「仮病使っても会いたくないくらい気に入らなかったのかと思って」

 話題がそっちへいって、俺は黙った。

 気に入ったとか気に入らなかったとかではない。俺の側には選択をするゆとりはなかった。ただ翻弄されただけ。かき回されただけ。

暴かれて侵されて引き摺り回された。完璧な敗北。この男にじゃない。俺は肉欲に負けた。

 廃船の中でも俺は脳乱した。抱いてたこの男に分からない筈はなのに。

 ティスティーとは何度も寝てたが俺たちは童貞と処女のまま触れあってた。俺には、快楽に対する免疫がなかった。

 俺の脳乱にこの男も引き摺られ、最後にはもう、何故何のためにそうしているか、分からなくなってしまった。ついさっきも。

「仮病だったって嘘だろ。弱ってる。力がない。本当に寝込んでたのか」

 聞いたことのない声だ。寝間で女に囁く男の声。すがりつきたくなるくらい優しい。

「知恵熱で」

 答えるといきなり抱き上げられる。

「わ……」

 思わず声がでたほど衝撃的だった。俺は抱き上げられたことがない。父にも母にも、誰にも。

自分の足元が浮いて、自分を支えているのが他人の腕だけという不安定さ。不安定な陶酔。

思わずしつがみついた俺を、男はぎゅっと力を入れて抱きしめる。

 ベットに運ばれる。冷えたシーツに俯せる。男が膝を乗せてくる。

ウォーターベットのマットごし、俺は男の膝を、まるで自分に乗せられたようにリアルに感じた。

「恐がるな……」

 囁く男の、吐息混じりの声。

「繋がってる時はあんなに柔らかく絡みつくくせに、身体を離した途端どうして、他人みたいな顔をする」

「他人じゃなかったか?」

「可愛い強がり言う口はこの口か」

 唇が塞がれる。そっと隙間をあけさせて、舌が滑り込んでくる。目を閉じて感触を貪る。まるでセックスそのもののような深さ。

「……呆れるうまさだ、色事師」

 唇が離れた途端の俺の台詞はからかい半分、賞賛半分だった。なのに廃皇子の表情は固まる。血の気さえ引いていくのを見て、

「なに……」

 なんだ、と、尋ねる事さえできなかった。

「ちょ、止め、……、おいッ」

「煩い」

 短い一言。とりつくしまもない。それきり廃皇子は黙り込み、再び口を開いたのは、

「……たい、イタ……」

 俺が泣き出した後。

「もう一遍言ってみろ。誰が色事師だ?」

「気に障ったのか……。冗談だ」

「何が色事師。欲得づくと思ってたのか。お前が悦ぶようにしてたの全部、計算づくと思ってたのか。……答えろ」

 嵩にかかって責め立てられ、

「興奮するな、図星さされたからって」

 俺は我慢しきれず反撃した。

「うまくはめたと、思ってるだろ」

 そのくらい俺にも分かっていた。廃皇子の怒りは動揺を隠す為だ。

肉の欲望に溺れ込む悦楽の淵の深さと、この男の誠意とは何の関連もない。

 俺は快楽の甘さと相手の男のことは区別してた。こいつは俺を愛してる訳じゃない。裏切らない保障に身体を籠絡しただけ。

それがうまくいったからいい気になってやがる。

「ちょろいもんだって思ってる。やっぱりガキだ扱いやすいって」

「……そんなことは」

 ない、と言いかけた男の、動く口元を俺はじっと見た。嘘を言えるもんなら言ってみろ、という気分で。

喉元に刃をつきつれられたように男の言葉は途切れる。ふん。

 なめるな。

 俺が身体の下から抜けてもなお、廃皇子は動かなかった。

 呆然としてる。魂が抜けたみたいに。俺は構わずローブを羽織り、ベットサイド下の小さな冷蔵庫から飲物を抜き出す。

よく冷えた鉱泉水。喉を鳴らして飲み干す。廃皇子のわきにも置いてみたが、見向きもしなかった。

「悪かったよ……」

 沈黙の後で、謝ったのは何故か俺の方。

「台詞がきついの、癖なんだ。悪かった」

「……打算だけじゃない」

 やっと喋ったと思ったら今度は額に手を当てて俯く。

「だから、俺が悪かったって」

「謝らなくていい。お前のせいじゃない。浮かれすぎた。悦んでくれたから好かれたと錯覚したわたしが悪かった」

 帰ると廃皇子は言い、見送りがてら俺は甲板へ出る。別れ際、

「風邪ひくなよ」

 他に言葉を思いつかなかったから言っただけなのに、振り向いた廃皇子は物凄く驚いていた。

無言で俺の背後に控えたレイクからも驚愕が伝わる。俺が優しい事を言うのがそんなに珍しいか?

 妙に静かな月夜、夜の波の音だけが聞こえてくる。振り向いた廃王子は笑った。満月を背景に。安心した、うれしそうな顔で。

 その夜の月を、俺は後々、長く恨んだ。

 

第四幕・再会

 

 戦には、勝った。本当は引き分けだが侵略軍を撃退したのは確かで、無理すりゃ勝ちといえないこともない。

戦場での事後処理を放り出して、俺は古巣のブラタルへ帰り、そのまま動かなかった。

「おかしな方だ。どうしてそう不機嫌なのですか」

 無論、世間は俺を放っておいてはくれなかった。繰り返し追手がかかる。何人かは追い返したがこいつはそうできない。

連合軍の面々ではなく廃王子からの使いだ。

「大戦で、激戦で、大勝利だったのに」

 誉めあげられても一向に浮かれる様子のない俺に使いの医師は首を傾げる。

帝国軍将校の面々さえ遠巻きにする俺に向かって対等の口をきくとは実にいい度胸だ。

 俺は度胸のいい奴は嫌いじゃない。もっともこいつは医者である以上に、廃皇子の私的幕僚の匂いが濃い。

あいつの策謀の片棒を担いでる気配がする。

 返事もせずに俺は銃を構える。無論、医師に向けてではない。20フィフスほど前の的に向けて。引き金を引く。六連射。

医師は耳元を押さえて苦情を喚く。硝煙を吸い込むまいと顔を背ける。鼓膜が痛いのも肺が汚れるのも俺の知ったことじゃない。

ここは俺の専用射撃場。そこへのこのこ、現れたのが悪い。 俺はますます不機嫌になる。銃声の重なり方が気に喰わない。

海の上で過ごしているうちに腕がなまった。

 以前の俺の六連射はもっと滑らかで、六つの音は重複し、きれいに響いたものだった。眉を寄せる俺。

的の中央にあいた一つの穴を見て医師が意地悪そうに笑う。

「なんだ、一発しか当たらないんですか」

 全弾命中だと教えるのも面倒で俺は返事をしなかった。だいたい、動かない的を相手に打ち抜く練習をしやしない。

的の上部に電光表示されるコンマ63という数字は最初の着弾から最後の着弾までの時間なんだとか、

素人に講釈したってナンにもなりゃしない。

 空薬挾を抜いて新しい弾を詰めると、医師は顔色を変えた。

「ちょっと、止めてくださいよ。戦傷の療養を言い訳に引っ込んでるあなたの顔をたてて私が使者として来たのに。

少しは病人らしくしていたらどうです」

「重病人だぜ、枕もあがらねぇ」

 白々しくも俺は言い、銃を構える。引き金は引かず懐のホルスターへ。

両手をわきにたらしておいてもう一度、グリップを握り構える。もう一度戻す。

「早抜きなんか練習して何になるんです」

 さすがに医師は気づいたが皮肉な表情は変わらなかった。

「海を埋め尽くす艦隊を持ってるくせに」

「陸につれてはいけないから」

 俺の一言で医師は顔色を変える。

「……全快は、いつ頃になる予定ですか」

 医師の問いかけに、

「腕の落ちたのが元に戻るまで」

 俺は答える。姿勢を低くして銃星を標準の中央に置きながら。持ち上げた瞬間、ほんの一瞬だけだが手元がふらつく。

 ぴたりとこれが一発で定まって微動もしなくなるまで、俺は帝都へは行かない。

自分の腕に万全の自信がなきゃ、敵地に乗り込むようなヤバイ真似はできない。

「あなたは帝都を敵地みたいに思っていますね。危害を加えたりしませんよ、誰も。大勝利の殊勲者であるあなたに」

「大勝利か……。素人目にはそうかもな」

 俺の歯切れが悪いのは理由がある。敵の大将を殺し損ねた。おかげで俺も命は助かった。

消耗戦の結末は旗艦をぶつけあって肉弾戦に持ち込んでの心中と、決まっていたのに俺の相手は寸前で逃げた。

 差し違える覚悟もないのに俺の敵方にまわった、その性根の貧弱さが憎い。

逃げた大将は敵前逃亡の罪で処刑されたらしいが、そう聞いても俺の心は晴れない。

味方の鍋で煮られた奴が腹立たしくも哀れで。いっそ俺の手で滅びた方が、やつも本望だっただろう。

「空振りした覚悟が虚しいですか。でも生きているのは良いことですよ。違いますか?」

「生きてると、雑務がな……」

 死にたかった訳じゃない。でもそれを前提に動いてたから後始末が大変だ。どうせ死ぬと思って乱発した空手形の償還を皆が迫る。

ティスティーからは婿入り、ナカータからは正式な継承式。

ブラタルの古巣で養子は何処にも行くなと泣き、廃皇子からは矢継ぎ早に、上洛の催促。

「帝都では廃皇子がお待ちかねですよ。あなたを迎える準備の為に、一足先に戻ったようなものですのに」

「皇籍復帰の手続きの為だろ」

「皇族としてあなたを迎えたいのだそうです。皇太子としてね」

 俺はため息をつく。それは確かに決戦前夜、約束をした事だったのだが……。

 

『オストラコンの王女と別れろ』

 言われた時はなに寝言いってやがる、と思った。ティスティーはとおに国に帰していた。

『そうじゃない。切れろって言ってるんだ。後ろ楯が欲しいなら俺がなってやる。お前は、俺のだ』

 俺は頭を横に振った。

『違うのか?じゃあ誰のだって言う気だ』

 誰のものでもない。敢えて言えば、俺は俺自身の。

『馬鹿。そんなことがある訳がない。誰も自分の主にはなれない。自分で自分を抱き上げられないようにな』

 なんだか納得して、納得ついでに俺は頷いた。帝都に一緒に戻ろうと言う誘いに。

幾夜か同じベットで眠った相手に、形見のつもりの、空手形。

『勝って帰れば皇籍復帰する。皇太子だ。お前にもいいめをみせてやれる』

 俺を口説くというよりも自分の夢を語っているような廃皇子が可愛かった。夢が叶えばいいと思った。

その隣に俺が居ることなんて想像も出来なかったけど。

 

「廃皇子のことはともかく、帝都へ戦勝報告に行かれる事は悪い事じゃないでしょう。

連合軍のあなた以外の連中は、とおに帝都に陣取ってあなたの登場を待っていますよ」

 分かってる。だからこそ行きたくない。

「ティスティーが行ってるだろ。廃皇子と適当に話し合って……」

「駄目ですよ。それは無理です」

 医師は断言する。

「反目してんのか、二人」

 おや、という表情をする医師。

「あなたのような大物でも」

「鈍いって言っていいんだぜ」

「その程度のことはお気づきな訳ですね。……その通りです。現在、大袈裟にいって一触即発の危機です」

 医師の表現を大袈裟とは思わなかった。あのティスティーと廃皇子が睨みあって、間に散るのが花火程度ですむ訳がない。

想像するだけでうんざりだ。

「仕方ありませんね。お二人とも切れ者で野心家で欲が深い。

それだけでも反目の材料は揃っているのに間にあなたのような方が挟まれば、喧嘩にならないのが不思議です」

「一体なんで絡んでるんだ、二人」

「いろいろな事で。一言では申し上げられません。でもご領主は廃皇子の味方でしょう?」

「そうとも限らないぜ」

「またそんな強がりを仰る」

 医師は笑ったが、俺は本音だった。

 俺はティスティーと別れた訳じゃない。廃皇子を選んだ訳でもない。

「ご領主が来られなければ決着はつきませんよ。廃皇子も王女も、あなたに遠慮して決定的な対立を避けている。

パリスのリンゴはあなたの掌の中。いつまでも知らぬ顔は出来ないでしょう。帝都に来てどちらか選びなさい」

「俺が顔を出すと余計エキサイトしないか?」

「嫁と姑の戦いを避ける婿のような言い草です。コトは家庭内問題とは違います」

「どこがどう違う」

「曖昧なままではすまされない。カタをつけなければ、どんな形であっても。……東方諸国同盟の面々も、困っておられます」

 それを言われると俺は弱い。

戦争準備中から四カ月間、息子か孫のような年齢の俺に累代の臣下みたいに仕えてくれた奴らの望みを無下にできない。

ティスティーと廃皇子は、放っておいてもどうにかなるだろうが。

 俺の顔色を読んだらしい医師が笑う。

「優しい人ですねご領主は。他人の気持ちなんか鼻にも引っかけないかと思いましたよ」

「引っかけないぜ、基本的に」

「そうですか?けっこうお人好しな所があると睨みましたがね。今だって迷っておられるのはどちらも選びたいくないからでしょう」

「ところだけなら誰にでもあるだろ」

 俺の言葉に医師は笑うだけ。

「ご領主がどちらを選ばれるか、愉しみです」 俺は、いっそ今夜のうちに頓死しちまえないか、なんて考えた。

 

 中庭で一緒に茶を飲んでから医師は帰った。見送って振り向くと、甥っ子が立っていた。

「いまの誰?」

 責めるような目で詰問する。

「帝国からの使者。宮廷医師」

「恋人にするの?」

「なんでそうなる」

「きれいな顔してたから。準備は終わったけど、帝都に行く?」

「行かなきゃならないだろうな、近々」

 憂鬱なため息をつくと、

「代わりに行ってあげようか」

 甥っ子は真顔でそんなことを言う。

「あなたに戦後処理なんて、無理だよ」

 全くだ、と俺は心の中で同意した。

「ついてってあげる。心配だから」

「そうだな。一緒に来るか」

 帝都で俺は正式にナカータ領主として認められるだろう。その時、この子を一緒に跡取りとして紹介しちまえば面倒はない。

「俺が出発したら二日後に出発しろ」

「同じ船じゃいけないの」

「駄目だ。領主と跡継ぎが一緒に死んじまったら、みんな困るだろう?」

「叔父上はいつもそうだね。自分が死んだ後のことばっかり心配してる」

「船乗りだからな」

 それはもう、習性。

 

 俺の乗った鑑は帝国の領海に入るなり前後を帝国の艦で囲まれた。士官らは無礼に憤りふだん無表情なレイクさえ顔をしかめたが、

「構うな」

 俺は騒がせなかった。

 入港が許されたのは帝都の表玄関であるメゾン港ではなく、そこからやや離れた海軍の軍港。

余所の港に入る場合の礼儀として艦長である俺が甲板にたつなり、凪ぎの海面が波立つほどの歓声。

港に繋がれた軍艦からも陸からも、軍服を着た男たちが群がり出る。

「……」

 何が起こっているのか理解できず棒立ちになる俺の背中を押すように、

「舳へ行って、手でもふったらどうです」

 医師が囁く。

「あなたは大した人気者なのですよ。救国の英雄で天才的な指揮官。しかも美少年。大騒ぎになるのも当然でしょう」

「それがあいつには面白くない訳だ」

 視線を港に据えたまま言うと、医師は俺の背後で噴き出した。

「あなたは本当に面白い。ナカータのご領主。実は何もかもをお見通しなのですね」

「いや……」

 俺の目に映ったのは港の桟橋に乗り付けられた派手な高級車。そしてそこから降りてくる男。

俺に何かが分かったのはその男の顔を見た瞬間。

「サトメアン」

 廃皇子は笑ってる。俺は気持ちが悪くなった。嘘笑いだったから。

「待ちかねた。早く降りてこい」

「……サティ様」

 医師を押し退けてレイクが背後に来る。

「お前たちはナカータ公邸に行っていろ。二日後の船の二人も、そっちに滞在させておけ」

「お気をつけて」

 俺は頷いた。

 

 連れていかれたのは宮廷の、廃皇子のベットの中。重なっていた身体が離れて服を着る気配。

鎧戸を下ろした部屋は暗く、時刻は分からない。

 俺はサイドランプのペンダントを掴んで引っ張った。明かりが灯る。手探りでネクタイを締めていた廃皇子は驚いた顔で振り向く。

「起きてたのか」

 近寄ってきて、キス。

「用があるから少し出かけてくる。すぐに戻るから、ゆっくり眠っていろ」

「冗談、俺は公邸に」

「下手に出歩くと危ないぞ。ここは宮廷で、魑魅魍魎の住処だ」

「脅す気か?」

 顔を上げた俺の前髪を廃皇子は掻き上げる。

「まさか。心配だから手元に置きたいだけだ。お前は殊勲者だから妬まれている」

「一番危ない檻みたいな気がするがな……」

 ぼやくと廃皇子はくすくす笑った。冗談と思ったのかもしれない。

「手続きの関係で祝賀会は五日後だ。それまでゆっくりしていろ。式典が始まれば忙しくなる。今のうちに可愛がってやるよ」

 廃皇子の口調は恋人じみてたが冷静に考えてこれは軟禁だ。戦場で幾度かの既成事実があったから誤魔化されそうになるだけで。

 軟禁するくらいなら、どうして俺を帝都に呼んだ?

「会いたかったからだ」

 廃皇子は鼻歌まじりの上機嫌。

「呼んでおいて閉じ込める目的は、下手な相手と接触しないように?俺を、誰と会わせたくない」

「可愛い顔で白々しいことを言う。それとももう忘れたか?『あの女とは、別れろ』」

 言い捨てて廃皇子は出ていく。薄暗い部屋に俺は一人で残された。

 

 宮廷は広い。だだっぴろい。

敷地の中にはさまざまな役所、外国の大使館や属領の公邸、有力貴族の住処に軍隊の宿舎

、牧場に狩猟場まであって一つの都市を構成している。

 俺が軟禁された廃皇子の屋敷は宮廷の南西の角近くで、皇帝の住む奥宮のすぐ裏手。奥宮へは歩いていける距離だ。

 廃皇子は朝早く出かけ、夜遅く帰ってくる。その合間に俺をちょっと可愛がって、俺達の接触はそれだけ。

 滞在三日目の昼さがり、

「ご退屈ではありませんか?」

 医師の見舞いに俺は片頬だけで答える。

「まぁ我慢して下さい。廃皇子はよほどあなたを人に会わせたくないらしい。気持ちは分かりますがね。

皆が気になってならないんですよ。殊勲の天才、しかも世紀の美少年。是非お近づきになりたい、とね」

「みすみす駒を取られる訳にはいかないか」

「それもあります」

「政治問題を情事にすり替えようとしてるな、お前らは。俺を寝床で可愛がってることと俺が廃皇子の側につくこととは別問題だぞ」

 ベットの中で、奴は世紀の色男だ。甘い快楽を慈雨のように降らせる。

肌に染みる陶酔を貪りながら、俺の気持ちは苦みがますばかりだ。

「王公貴族の性はぬきがたく政治と繋がっています。御存じない訳ではありますまい」

「そういう場合があることは知ってるさ」

 王族や貴族が同盟や従属の証に身体で判を押すことはままある。

たとえば俺とティスティーの関係も、ブラタル海峡とオストラコン王国の絆を強めることに役だった。

「でも俺たちは、そうじゃないだろ」

 始まりは廃皇子の不審。そして今度は俺の方が、あの男のことを信じられないでいる。

「愛しあっておられるのではないのですか」

「気持ち悪いことを言うなよ」

「では何故おとなしくここにおられるのです」

「やつが色男だから」

 俺の答えに医師は笑った。冗談と思ったのかも知れない。

 


 暗い室内。夕暮れに包まれる部屋。見張りの医師とともに黙りこくって時が過ぎるのを待つ。

 突然ドアが開く。灯がつく。驚いて俺は腰を浮かした。手を懐に突っ込む。そうして銃を取り上げられていたことを思い出す。

「なんだ、二人して明かりもつけずに。景気悪い顔して」

 廃皇子が笑っている。俺は笑えないまま、それでも挨拶は出来た。

「お帰り」

「待ってたか?今日は早かっただろう?」

「そうだな。待ってた」

 口先だけの愛想だったが廃皇子は嬉しそうに近づいて腕を伸ばす。力強い拘束。女とも部下とも違う。

対等かそれ以上の、男の。

 医師が出ていく。扉が閉まる。俺は目を閉じた。信じてもいない相手の腕の中、不安を誤魔化しながら、安らぎを求めて。

 

 俺の安息は長くは続かなかった。帝都で再会した瞬間の不吉な印象は当たった。

廃王子は政争に巻き込まれて、苛ついていたし不安定にもなっていた。

「何考えてるんだか、皇帝陛下は」

 廃王子は低く呟く。政争が嫌で逃げ込んだ廃王子の懐で、俺は耳元に囁かれる言葉に耐えていた。

「勝って帰れば皇籍復帰を叶えると言い出したのは、もともと陛下の方。

倫言汗の如しという。一度だしたら引っ込められないものと決まっているのに」

 約束は空手形だった訳だ。やつあたりみたいに俺の髪を掻き上げる廃王子。

「廷臣たちが反対したんだろ」

 俺はそんなことを言ってみる。皇帝を庇った訳ではないが息子に罵られて気の毒だった。

空手形に関しては俺にも身に覚えがある。

たぶん皇帝は息子が戦場で死ぬと思って、生きてるうちに悦ばせたくて嬉しがらせを言ったのだろう。

 実際戦死していたら、特恩で皇籍復帰していた公算は高い。墓碑銘に国名を刻み込まれるだけの意味。

「そんなのは最初から分かっていたことだ。それでも約束は約束だ」

「実権あんのか、皇帝に。廷臣たちの結論を覆せるような?」

 帝国の皇帝が象徴的な存在であることくらい俺でも知っている。

王権が軍事・警察・司法の頂点に立つオストラコン王国や、俺の独裁下にあるブラタルなんかとは違う。

「できないこと求めても気の毒だぜ」

「黙れ。お前に分かるものか」

 それはその通りだったから俺は口を噤む。実際、俺には分からない。

この男がどうしてあんなお飾りの、皇帝なんて代物になりたがるのか。

「だが父上に分からない筈はない。この帝国を変えられるのはわたしだけだ。

己が家の臣下たちに実権を奪われ勅すら意のままにならぬ皇家の現状を、変えられるのはわたしだけなのだ」

 ぽり、と俺は頭をかく。そのへんの話はティスティーなら面白がるかもしれないが俺には管轄外。

帝国の実権を巡る廷臣と廃王子との対立なんて、聞くだけで勘弁、という気分。

「お前からも口添えしてくれないか」

 俺の気持ちに気づかないまま、廃王子はおかしなことを言い出す。

「大勝して帰ってきたわりに報奨が少ないのはお前の評判に喰われてしまったからだ。お前は派手すぎるからな。十六歳の若さで」

「七になった」

「おめでとう。とにかくその若さで東方諸国連合を纏めて」

「纏めたのはティスティーだ。俺は旗頭に担ぎ上げられただけで」

「勤まるのだから大したものだいちいち混ぜ返すな。とにかく、功績は若ければ若いほど派手に光る。

お前の日陰でわたしはかなり損をしている」

「だから?」

「功績復帰に協力してくれ」

 内心俺は深いため息をついた。政治音痴の俺にもその申し出の重大さと、こんな風に申し出る男のずるさはよく分かった。

「返事は?」

 と、促されても、抱き合いキスを交わしながらする返事ではない。

「待ってくれ。他の者にも相談しないと」

「らしくないことを言うな。即断即決が信条のくせに」

「そりゃ俺の守備範囲ではの話で……」

 誰よりも正しい判断を出来る自信があるなら一人で決めてしまう。

が、帝都の政治勢力地図を殆ど知らない今、約束をすることは取り返しようのないミスを招く。

もっとも口約束なんざ、いくらでも反故にできるといえば出来るんだが……。

 これ以上空手形を背負い込みたくなかった。返事に困る俺を救うように、

「失礼いたします、皇子」

 執司が部屋のドアを叩く。反射的に身体を離そうとしたが、男の腕は俺を抱き止め固く拘束した。

「取り込み中だ。そこで話せ」

「はい、その……。奥宮から、急なお招きの使者が」

 執司の言葉を聞きながら俺は目を閉じた。重ねた唇からも俺の背中をひたりと捕えていた掌からも力が抜けていく。

「……行けよ。政治絡みなんだろ」

 促すとほっとしたように離れた。

「続きは、後でな」

「あぁ」

 適当に答えて部屋を出る男の背中を見送る。心がひどく苦いのはなんのせいか……。

 考えたくは、なかった。

 

 翌朝、目覚めると廃王子は居なかった。中庭へ出ようと俺は廊下を歩く。

「これは、ナカータ領主殿」

「皇子はいかがなさっておられますか。ご様子は?」

 途中で廷臣たちに捕まる。廃王子を『皇子』と呼んでいることで知れるように、こいつらは反体制側の少数派。

廃王子を旗頭に、一部の廷臣がのさぼる現状を打破し皇帝親政を取り戻す、とかなんとか言っているらしいが、どうだか……。

 理屈はどうとでもこねれる。大義名分は口がありゃついてくる。俺から見ると連中は、冷遇されてひがんでる、ようにしか見えない。

「さぁな」

 答えず通り過ぎると後ろで囁きが生じる。

思い上がっている、皇子の寵愛を得たからといって一介の地方領主が何様のつもりだ、と。

何様と言われても俺はもともとこういう奴。無愛想には定評がある男だ。

 嫌な感じがした。

 俺は廃王子の取り巻きたちと寵愛の競い合いをするつもりはない。誰かと何かを奪い合うのは性にあわない。

だから父親の愛情を兄弟たちと争わなかった。

 足下が固くない。こんなのは気持ちが悪い。望まない方向にズルズルいっちまってる気がする。

政争なんざナカータ領主になった時だけで十分だ。あれも最後は暴力に訴えた。だから半刻でカタがついた。

兄貴たちを一人一人、懐柔してたら爺になっちまってたろう。

 俺は誰とも横に並ばない順番は守らない。後でと言われて待っているようなのは俺じゃない。

後回しにされるくらいならいっそ拒まれたい。

 ずかずか歩いて行く途中、侍女や執司とすれ違う。彼らは丁寧に会釈して、俺は彼らを無視した。が。

「ナカータご領主」

 中庭で声をかけられる。立ってた奴を見て驚いた。

「なンだお前。なンでこんな所に居る」

 ブラタル海峡を本拠地にする大商人の息子。火薬をサラブに横流しさせた、あの利け者の跡取り。

垂れ目の優しい目尻からは想像しにくいが鼻のきく男で、一筋縄ではいかない。でも親父同様、俺には昔から便宜をはかってくれていた。

「それはこちらの台詞です。ご領主と帝都でお会いするとは思いませんでした。

ましてやこの屋敷で。政治は嫌いとか仰っていた記憶があるのですが、好みが変わられたのですか」

「嫌いだぜ、今でも」

「では何故ここにおいでなのです。魑魅魍魎の住処ですよ、ここは」

 さりげなく責める口調。

「差し金はレイクか、それともティイか」

「あなたの側近や余所の王女の為にこんな、危ない橋を渡りゃしません」

 俺は商人の言葉に違和感を感じて首を傾げる。大げさすぎないか?

「ここに入るのに随分、金とコネを使いました。廃皇子は本気でご領主を囲い込もうとしています。逃げましょう、今のうちに。

これはナカータ公邸の、ジェラシュ様の意志です」

「あいつ無事に着いたか」

「ええ。ご領主のご帰邸をお待ちかねです」

「……もう少し様子を見る」

「廃王子そんなにいい男ですか。妬けますね」

「馬鹿言うな。そんなんじゃなくてナンか、ちょっと」

「ちょっと?」

「ちょっとな」

 きっかけが足りない。

「あなたにしては未練がましいことだ。……父が帝都にホテルを新築しました。最上階のインぺリアルスイートはまだ未使用です。

いらっしゃいませんか。警備にも秘密厳守にも自信があります。ここより絶対に居心地はいいです」

「そのうちな」

 時間切れが近いことを俺は感じていた。ここを出るべき時は近い。でも、思い切るにはもう一押しが必要だった。

 

「ご領主、ご領主おられまかッ」

 結局ふて寝を決め込んだ居間に、医師があわくってやって来る。

「よかった、間に合った。……昼食に行きましょう。いい店にご案内しますよ」

「気持ちだけもらっておく。今は腹、減ってないから」

「なな、なら、散歩に行きましょう」

 腕を掴まれる。立ち上がるふりをして俺は医師の襟首を掴んだ。医師は息を飲む。キスされるとでも思ったのか、そんな感じで。

 期待を裏切るのも悪い気がして唇を寄せてやる。医師の腰が引ける。

押さえ込んだ瞬間、俺の身のうちには雄の力が蘇った。脾腹を殴りつける。医師はあっけなく失神した。

出ていったふりをする為にサッシを開ける。停滞にも怠惰にも、そろそろ飽きがきていた。

 何かが起るなら起こればいい。崩れ落ちるならそれでもいい。そんな気分だった。

 

「ほら、誰もいないだろう」

 廃皇子は言う。優しい口調。

 苛立たしい足音。女の、律動的なハイヒールの音。こんな事だろうとは思った。

「でも、囲っているって、あなたが。戦場で仲良くなった美貌の少年を」

「奇麗な顔してたが、噂だ」

「じゃあ何故、あたくしを避けていたの。あなたの無事をずっと祈っていたのに」

「大事な時期だったからだ。疑いを抱かせる真似は出来なかった。あんたの為にだ」

「あたしの為?こんなにあたしを苦しめるのがあたしの為だったって言うの?」

 女の声が甲高く尖る。

「苦しかったのはこちらもだ。それでも、あんたの為だった」

「会いたかった、会いたかったわ」

「それはこちらも同じこと」

 男と女が絡み合う気配。ソファーの後ろに隠れていた俺の足下に女の、放り出されたハイヒールが転がる。

「愛しているの、愛しているのよ」

 女は男にしがみつく。男の手が女のタイトスカートをめくる。白い脚。奇麗な肌だ。

顔は見えないが、声や気配からすると年齢は三十過ぎというところか。

 女の嬌声に失神していた医師が目覚める。身じろぎするのを覆い被さって押さえた。

医師はぎくりと身体を強ばらせ、やがて状況を悟ったらしい。息をつめて視線だけ巡らし、嫌だ、という風に頭を振った。

音がしないようにそっと。俺は腕を緩めない。医師の頭を胸に、強く抱き込む。

 

「……ひどいことを、されますね」

 男と女が出ていった後の部屋。ようやく起き上がって、医師はため息混じりの恨み言。陽は西におちかけている。

「どうして、こんな……」

「ことをしたか、か?」

 聞いていなけりゃならない気がしたから。抱かれる女の嬌声と男の最後の呻き声は他人事じゃない。

俺達の身にも起こってる現実。

「お前が俺と同じだからさ。立てるか」

 腹を押さえる医師をソファーに座らせてやる。俯く横顔をまじまじと眺めた。

「薄幸そうな顔してるな。最初に会ったときも思った。寂しそうな顔だ。そんな顔にもなるよな。情事の手引きばっかりさせられちゃ」「いいえ」

 医師の否定は強い。

「仕事ですから。高貴な方の秘め事には私のような者がつきものなのです。私のような……、宦官が」

 医師の言葉を俺は顔色も変えずに聞いた。

「驚かれないのですね。切り札のつもりだったのに。何時からお気づきでした?」

「サラブの奴らと接触が多いから」

 連中には後宮に女を溜める癖があり、その運営のための宦官も多い。彼(?)らは独特の気配がある。息が静かで体臭がない。

「寂しくないですよ、私は。ご領主はお寂しいのですか?」

 同じって、俺が言ったのはそういう意味でじゃない。

「あいつの女だろ、お前も」

 俺は俺の切り札を出した。医師の顔色が変わる。

「いつ、から」

「気づいたのか?いつだったかな。まぁ、お前はあいつに態度でかいし、俺には時々、意地が悪かったし」

「本当に何もかもご存じだった訳ですね。……どうされるおつもりですか」

「べつにどうも」

 しようとは思わない。

「廃王子とのことは?」

「きれるさ」

 ようゆくついた、思い切り。

「それだけですか。復讐は?」

「なんだそれ」

「私や今夜の女性や廃王子に、思い知らせてやろうとは思われませんか。傷つかれたでしょう?」

「お前はしたいのか」

「ええ」

 青ざめた顔色のまま医師は笑った。

「男はだます、ずるい。女はだまされた後で復讐する。私はそのために、廃王子のお側を離れません」

「マゾだな」

「マゾです」

「あの女、誰だ」

「ご存じないのですか?彼女は、」

 そこで唐突に、医師の胸元で携帯のベル。

「はい。ええ、一緒に居ます」

 何処にか、医師は言わなかった。

「これから?それは……」

 珍しく戸惑った声。

「どうした?」

 俺はわざと大きめの声で聞いた。

「廃王子からのお招きです。内宮でお茶を差し上げたいと」

 内宮というのは宮廷の奥深く、皇帝とその家族が住む場所。

「珍しいこともあるもんだ」

 俺の口調はどうしても皮肉になる。

「どうしましょう?」

 尋ねながら医師は首を横に振る。『行くな』という警告。

「行く」

 警告を、俺は無視した。破れかぶれな気分で、どうにでもなれと思った。

 

 それはごく正式な晩餐会だった。出席者も、内容も。茶を飲むだけと気楽に考えていた俺はまず、ラフな服装で恥をかく。

天井の高い広間。全員が息を飲む声。それでも悪意の囁きは聞こえない。帝都の貴族はナカータの親族どもより、さすがに行儀がいい。

 俺は主賓の席に座らされた。対面は皇后。斜め前に廃皇子。二三人置いた先にはティスティーの顔も見える。困った。

 なんだってこんなことになる。

 晩餐会における主賓は食事の進行を支配する。

主賓がスプーンを取り上げた瞬間からデザート用のケーキナイフを置くまで、相伴の客たちは主賓の速度に倣う。

 シャンパンがグラスに注がれる。取り上げて乾杯。そこまではいい。

 ティスティーの視線を感じる。はらはらした、かなり心配そうな表情で俺を見てる。

廃王子は何を考えてるのか、俺と視線を合わせようとしない。

 広間に給仕がやって来る。スープの皿にスープを満たしてまわる。スプーンを持ち上げようとしない俺に向かって、

「どうぞ、召し上がって」

 晩餐会の主催者、帝国の皇后は微笑む。三十歳過ぎの美人。廃王子にとっては継母にあたる女。

 彼女の声を聞いた途端、俺の疑問は氷解する。聞いた声だ。ついさっき、廃王子の館の居間で。

 なんてこった。

 継母と密通した、男。

 年若い義理の息子と不倫した上、息子の身辺に目を光らせる、女。

 男と女の間に投げ込まれた俺。

「毒なんて入っていませんわよ、さぁ」

 毒々しいほど赤い唇の片端が吊り上がる。笑うふりした、目には敵意がある。俺を恋仇と思っているのか。

 俺は廃皇子を見た。奴は頑なに目を合わせない。皇后の機嫌を損ねないよう、俺を窮地におとし込んでおいて。

「さぁ」

 残酷にスープをすすめられ、度胸を決めて恥をかくかと、俺はスプーンを取り上げた。飲めば見苦しい事になる。

勢揃いした淑女たちの前で胃液を吐きまくる醜態をさらすのは勇気が要る。けどまぁ、それが快楽の代償なら仕方がない。

 薄茶色の液体を唇に流し込もうとした瞬間、

「……あ」

 貧血を起こした女が卒倒するようにティスティーはひっくり返った。ご丁寧に、テーブルクロスを右手に固く掴んで。

 上等の食器が床に落ちて割れる音がダイニング・ルームに響く。

ドレスアップした淑女たちが上等のサテンの汚点に悲鳴をあげる頃、俺は倒れた女の身体を抱えていた。首を支え、額に手を当ててやる。

「貧血のようだ。休ませる部屋を」

「……いいえ」

 喘ぎ声に近いティスティーの台詞。俺の肩に顔を埋めながら。

「気持ち悪いの。我慢できないわ。お願い、連れて帰って」

 ぎゅっと俺にしがみつく腕の力は貧血を起こした女のものではない。助けてくれたことを俺は察した。

ティスティーを抱き上げる。 廃王子は目を剥いて俺をみていた。

「大変に申し訳ないのですが、こういう訳で、