いで通してるくせに、わざわざ拾って連れてきた理由が知りたい」
「…昔馴染みだから、かな」
 答えた俺を甥っ子はじっと見つめる。
「あの医者と?叔父上、以前からお気に入りだよね」
「それだけじゃないが」
 皇后の脚のことはこの子には言えない。
「ふぅん。ま、拾っちゃったものは仕方ない。有効に使うさ。オストラコンだけに帝国の宮廷を牛耳らせるのは癪だと思ってたとこ」
 ジェラシュの台詞を俺は聞き流す。この子がティスティーに対抗心を持つのはいつもの事だ。逆にいうとティスティーはこの子からライバル視されるほど有能な政治家。殆どの君主や諸侯を、この子は鼻にもひっかけない。
「そのへんのことは任せる。お前は俺より百万倍くらい政治家だからな、ジェラ」
「政治家なんて誰にだって出来るよ。気持ちを殺せばいいんだ。損得だけで物を考えればいい。簡単さ」
「出来る奴は滅多に居ない。俺には出来ない」
「あなたに出来ないことなんかあるもんか。しないだけ。あなたは格好つけたいんだ」
「かもしれないな」
「ともかく、今は時期を待つことだね。帝都の世論がオルロフ公支持の間は動けない。失策を待つさ。そのうちぼろが出るよ」
「出るかな」
「出させる手段はいくらでもあるさ。それに重要事項の一つ、皇太子の弱年は時が解決してくれる。彼が成人する頃までに状況を作り上げるさ。それまでは、」
「俺が預かる」
 俺は言葉尻を奪う。
 あの母子を人質扱いするのは可哀想だった。
「……まただ、格好つけちゃってさ」
 ジェラシュは皮肉な目をする。
「女子供に甘いの、悪い癖だね。義兄の私生児を押しつけられて、正妻あつかいしてた女に利用されて棄てられて、まだ懲りないの」
 その言い草に、俺は思わず笑ってしまう。その通りだと思った。

 昔、俺がまだブラタルの人食い虎のなんのと呼ばれだす前、ほんのガキの頃。俺の所に赤ん坊を、いきなり持ち込んだ男が居た。
 赤ん坊は生まれたばかりだった。略章とはいえナカータ領主一族にしか許されない紋を染めた布にくるまれて弱々しく泣いていた。泣く赤子を揺らしながら、祖父という老人は俺に、顔色を変えて乞うた。
『名を、この子に名前をつけてやって下さい』
 ナカータの習慣では、子は生まれて最初の乳を飲んでから最初の眠りを迎える前に血縁者によって名付けられる。名付ける権利があるのは父。でなければそれに準じる血縁者。
『母親が早産で死んでしまったのです。生憎、名付け親の資格を持つ者がおりません。母方の私が名付ければこの子は、ナカータの領主一族とは縁なしになってしまう』
 赤子は基本的に母親に属するもの。父方とは名付けることによって繋がる。
弟君がブラタルにおいでだったのを思い出してようやくここへ辿り着きました。名前を』
 事情が分かって俺は慌てた。赤子は今にも眠ってしまいそうだ。最初の眠りに入る前に名付けた名で読んでやらなければ子は永遠に名無しになる。
『男の子か、女の子か』
『……男の子ですッ』
『じゃあ、ジェラシュ』
 その時、俺は天体と暦の本を読んでいた。星の運行の知識は船乗りにとって必須のものだ。たまたま開いていたページは日食に関する場所で。
『金環食のことだ。暗天を覆って輝く光。この子の将来が光に満ちたものであるように』
『よいお名です』
 赤子の祖父にあたる男は嬉しそうに笑った。
『ジェラシュ様、叔父上によいお名を戴きましたな』
 赤ん坊は目を閉じた。すーっと、眠ったようだった。生まれ立ての赤ん坊からはいい匂いがした。若葉のような、本当にいい匂いが。
『この子は父親は?』
 腹違いの兄は十二人も居る。
『申し訳ございません事情もお話しせずご無礼を。アケト様です』
『あぁ、あいつ』
 その時点では会ったことはなかった。でも噂は聞いていた。女好きで手が早くて節操がなくて。
『いい男だそうだな』
 知っていた唯一の長所を言っておく。
『きっとこの子も美形に育つだろう』
『そう言っていただけると……。弟君に、この子の将来を言祝いで戴けるとは思いませんでした』
 娘を亡くしたばかりの老人はとうとう涙をこぼす。俺はそれどころではなかった。抱いた子供が暖かかった。可愛かった。手放したくなくなった。
『この子の将来、何か決まっているのか』
『いいえ、なにも。アケト様は娘が身籠もったと知らされて、出産費用と産着用の布は送ってくださいましたが、ご本人はお忙しく、一度も見舞いには』
 紋つきの産着を送ったというなら庶子として略式に認めたことになるが、肝心の母親が死んで、この子の将来はひどく不安定だ。
 考えるとたまらなく可哀想になった。俺にも母親が居ない。それでも俺は記憶を持っている。この子は何も知らないのだ。知らずにただ、安らかに眠っている。
『俺が預かろうか。そうすれば父方との縁も途切れないだろう。兄には、俺から話しておこう』
『そうしていただるのですか』
 老人はうれしそうに笑った。

「条件一つ、出していい?」
 ジェラシュの声に、俺は回想を中断。
「皇后と寝ないで」
「お前まで何を言い出す」
 オストラコン王女と死んだ廃皇子を『食った』俺は、色魔・色悪という事になってる。世間では、そういう事になってる。けれど。
「俺が評判倒れだって事、お前はよく知っているだろう」
 実際は俺の方が二人ともに、『食われた』。
「そう?心配だよ。あなた案外、馬鹿な年増を好きだし。とりあえず皇后陛下はそういうことで、あの医者は、手元に置くよ。帝都の情勢、分析する人間が欲しいから」
「好きにしろ」
 あの医師は謀略好きだ。喜んで協力するだろう。
「じゃあ、またな」
 用を済ませて立ち上がる俺を、
「泊まっていってくれないの」
 ジェラシュは半分諦め顔で引き留める。俺はナカータ領主の館に長居した事はない。昔も、今も。
 ブラタル海峡とナカータ公領の関係は一昔前に比べるとずいぶん改善された。が、ナカータで俺の評判は芳しくない。実力で父を追っていながら戦争終結と同時に領主の職務を放り出して故郷に引っ込んだ俺は、
『田舎の犬のように自分の穴でしか吠えない』
 なんて言われて、でもそれは本当の事。俺は海の上でしか生きていけない男だ。
 ジェラシュがナカータの新領主として無難に受け入れられたのはこの子が異母兄の子供だったから。もし俺の実子なら排斥運動くらいは起こっていただろう。
「ところで、アケトどうしてる」
 そこでようやく、俺はもう一つの用事を思い出す。
「監禁してるよ」
 間髪いれずに答えてジェラシュは薄く笑う。
「知ってんだろ?あなたのことだから」
「なんでまた」
「あいつの自業自得。変に鋭くて」
「そりゃ鈍くはなかろう」
 あんな風でも、この子の父親なのだ。
「でもあんなのは反則。侮ってた相手に足元を掬われるのはいい気分じゃない。腹が立ったから幽閉してる」
「何処に」
「別荘。ひどい目にはあわせてないよ。叔父上がつけてくれた後見だからね」
「どうしてもあいつとは駄目か」
「駄目さ」
 断言されて俺はため息。この子を説得する自信などなかったが、
「あいつでも、お前を愛してんだぞ」
 一応の努力はしてみる。
「あいつが父親を裏切って俺の側についたのは結局、お前の横に俺が居たからだ」
「知ったことじゃないよ」
「俺はあいつに恩がある。引き取ってもいいな?」
「引き取ってどうするの?」
「好きにさせる」
 多分、側近に加わってもらうことになるだろう。ニヤケた遊び人のふりをして、いや実際にタラシでもあるが、あの異母兄は結構な切れ者。見た目ほど放蕩でもなくて、放蕩どころか、かなり勤勉なところもある。
「いいなぁ。あいつあなたの側に居られるんだね」
 ジェラシュは細いため息。

 執司の案内で俺はナカータ領主が郊外に持っている別荘の一つへ。
「元気そうじゃないか、アケト」
 異母兄は部屋の扉に鍵を掛けられ、窓に鉄格子のはまった部屋に閉じ込められていた。部屋の手前にも鉄格子が仮設され檻みたいになってる。でも顔色は悪くなくって、
「助けに来るのが遅いんだよッ」
 俺に文句を言う元気さえあった。
「海の上に居たからなぁ。途中で色々あったし。にしてもらしくねぇ。女の機嫌とんのは得意技なのにこうまで怒らせて」
 掌で俺は仮設の鉄格子を叩く。幽閉というからには軟禁されてるだろうと思ってた。が、これでは監禁だ。庭にも出れない。
「……俺は、そんなに不誠実だったか」
 苦い表情で異母兄は呻く。俺よりずいぶん男くさい、女の本能をそそりそうな顔立ち。
「結婚しないでセックスすんのが、そんなに不誠実だったのか」
「訊くなよ、ンな事オトートに」
「俺は俺なりに女たちを愛してたし、愛してる。ガキが出来た時もちゃんと認知するつもりで、そりゃ確かに出産には立ち会わなかったけど」
「複数形の罰当たりを除ばあんたはいい男さ。西国境戦争の時も、戦場に行くって言い出したのは兄弟であんただけだったし」
 執司が鉄格子の鍵を開ける。他人が居たから俺たちは言葉を選びながら話した。
「でもジェラシュはあんたの女じゃない、子供にゃ女とは違う評価がある。あんた父親としては落第点かもな」
「……畜生」
「いいから来いよ。ブラタルに行くぞ。あんたナカータ公領を追放されたんだ」
「俺ぁ親父に同情するぜ。自分のガキに幽閉されるなんて、無茶苦茶情けねぇ」
「同情しないぞ。先に棄てたんだからな、あんな可愛い子を」
「棄ててやしねぇ。そんなつもりは、少しもなかったんだ」
「同じことさ」

 俺が皇太子の後見に立った知らせは帝都を大騒ぎさせた。なかでも軍が動揺した。俺の名前は国籍問わず軍人たちには憧れをもって語られている、らしい。
 帝位を狙っていた公爵にとってもかなりの痛手だった。公爵は母子をオストラコンに逃げ込ませたかったのだ。逃げ込ませて、 『やはりあの母子は異国人なのだ』
 と国民に納得させるつもりだった。が、国境線ぎりぎりとはいえナカータはオストラコンではない。『踏み止まった』という印象を、帝国の人間に与えた。

 俺は母子をブラタルの港から離れた、郊外の館に住ませた。ジェラシュの言葉を気にした訳じゃないが近くに置いておくと醜聞のもとだと思った。皇后は滅多に館から出る事はなかった。けれど皇太子は館に居着かず、母親が実家から呼び寄せた家庭教師を振り切って港や、俺の館にやって来た。
「母上からお迎えが来ていますよ」
 皇后から抗議が来るたびにレイクは言ったが、無理に戻そうとはしなかった。
「男の子に何かを禁じることは逆効果だと、サティ様でよく存じております」
 懐いてくれた皇太子とは裏腹に、皇后と俺の関係はしっくりいかなかった。彼女は俺が息子を懐柔しようとしていると思ったらしい。俺は彼女の寂しさを理解しながらも、子供を側から追い払わなかった。
 十二歳の男の子に、友達も刺激もない、シケた暮らしの中でおとなしくしていろと言うのは可哀想だ。俺の館や港には活気と、やや年齢は上だが同じ『男』がごろごろしている。俺は子供を連れて海峡警備にも行ったし書類整理を手伝わせもした。パソコンも教えた。
 そうして一月もたったころ。
「海軍幼年学校に……」
 入りたい、と言われて俺は少し考える。
「あそこ全寮生だぞ」
「知ってるよ。寮に入るよ」
「一応一人部屋だけど、掃除も着替えも、自分でしなきゃならないんだぞ」
「するよそれくらい」
「したことあるのか」
「ないけど出来ると思う。みんなしてる事だろ。それとも僕には出来そうもないくらい難しいこと?」
 真顔で尋ねられて、俺は困った。聡い子供だ。嘘は通用しない。
「あそこは、軍事学校だ」
「だから?」
「将来、軍人になるのを育てるとこなんだ」
 国土が狭く人口が少なく、農地に恵まれないブラタルが栄えていくには貿易しかない。そして国際貿易を振興させるには強大な軍事力が不可欠。国策として軍関係者は優遇されている。
 軍関係の学校も同様。衣食住が保障され学費は不要、かつ下士官並の給与を支給されながら勉強することが出来る。対象年齢は十二歳から十五歳までの三年間。ブラタル・ナカータのみならず、東方諸国各国から優秀な少年が集まる。レベルは、高い。
「お前は帝国の皇帝になるんだろう?」
「皇帝が軍人じゃいけないの。ブラタルの軍学校のレベルの高さは帝国でも聞いてた。せっかくここに居るんだ、入りたい」
「まぁ、あそこ卒業すりゃ軍人たちには支持されるだろうが」
「僕を入れるの、嫌なの」
 まっすぐ尋ねられ、
「あぁ」
 俺は仕方なく告白。そこまでこの子を俺の懐深く入れるのはどうかと思う。亡命中の皇太子の教育は、将来の歴史を左右しかねない重大事。
「帝国の思惑とか、お袋さんの考えとか。……お袋さんはなんて言ってるんだ」
「駄目。あの人古くさいもん。話にならない」 その言い方に俺は眉を寄せる。
「お前、仮にも母親をそんな風に」
「だって皇族の教育は家庭教師がするものだなんて戯言をいってるんだよ。文化も財力も民間の方がずっと活力が高いこの時代に。学問だって、絶対そうだよ。いい教師はきっと民間に居る。学会で研究発表しながら弟子を育ててる。金で雇われて家庭教師する学者なんて時代後れの三流ばかりだ」
 大した演説だった。俺を説得したのだから本当に大したもの。
「僕は学校で本当の教育を受けたいんだ。亡くなった父上みたいに世間知らずのまんま古い知識だけ詰め込まれて、廷臣たちに馬鹿にされるのなんか嫌だ」
 それでも俺はその日、考えさせろと言って子供を母親の許に帰した。夕食後、レイクに相談すると、
「いいのではありませんか」
 子供に甘いレイクは言う。ちなみにこの男は軍の幼年学校・士官学校の理事でもある。
「一般校よりかえって便利でしょう。警備体制はしっかりしていますし教官のレベルも高い。私から彼らには重々言っておきます。預かり者の皇太子を丁重に扱えと」
 レイクは皇太子の希望を中心に考えてそう言ったが、
「母親が寂しがらないかな」
 俺が思い切りれないのは彼女のこと。
「お気持ちがすっきりしない理由はそれですか。でしたら通学させるようにしましょう。時折、居ますよ。家族が病気とかの理由で寮に入らないで通う子」
 妥協点がみつかったところで、
「……なんて名前だったっけ、あいつ」
 俺は別のことを言い出す。
「誰ですか?」
「西国境戦争の、大将の弟」
 同盟の保障として人質みたいに俺の許へ送られてきた。一応は国費留学生という形で士官学校へ入り、卒業したのは二三年前。卒業時には並み居る秀才を抑えて答辞を読んだ。一般大学の教育課程と実務期間を経て、現在は軍学校の教官をしている。
「ラバーバ・ラシードです。普通はシドって呼んでます。彼がどうか?」
「幼年学校からは締め出せ」
 俺が何を心配しているかようやく分かった表情で、
「ご希望とあらば。……しかし、彼は優秀な人材ですよ?」
 俺の老婆心をいたわるようにレイクは笑った。皇太子は幼年学校に入学し、同じ年齢の同級生たちと机を並べ始めた。俺は相変わらず海に出て、異母兄は仕方なく俺の側近になった。
 皇后は館をほとんど出ずに過ごし、俺は時々贈り物を届け、それには丁寧な礼状をもらったが滅多に会うことはなく、年月は流れた。  皇太子が亡命してきて二年目の夏。
 俺はやけに忙しかった。東方諸国のあちこちで軍事演習が行なわれた。同盟軍の質の向上は俺としても他人ごとではなくて、俺はかなり真面目に演習に付き合った。
 もうすぐ皇太子は十四歳になる。同盟国の面々は俺の肚を知りたがってる。成人した皇子様を担いで帝国に攻め込む気があるのか、どうか。
 結論から言えば俺にその気はない。というよりも、その時期を決めるのは俺ではない。ジェラシュは俺に何も言ってこない。つまりまだ、時期ではないのだ。

 共同演習から帰った港で俺は不審物を見つけた。舳綱を結びつけている少年。幼年学校の制服を着ている。
 幼年学校の課程に操舵・操船があるから制服姿の少年が軍港に居るのは不思議でもなんでもない。短く切った黒髪に引き締まった背中、日に焼けた肌。
 俺につられてレイクも足を止める。俺が見ている方を向く。でも何も発見できず、
「何を見ておられるのですか?」
 質問に俺は応えず少年の方に歩き出した。足音を聞いてぎくりと少年は肩を揺らす。それで、俺は確信を持った。
「アレキサンドリア」
 名前を呼ぶ。
 その名は特別な名前。亡命中の、帝国の皇太子の名前。
「アレク……」
 繰り返し呼ぶと、少年は観念したように振り向く。鼻筋と目尻が印象的な端正な容貌だが、顔立ちそのものより少年らしい明るい表情がずっと魅力的。その表情でバツ悪げに、悪戯を見つかった子供のように笑う。
「……お帰り、サティ」
「なにやってんだお前、その髪どうした」
「ちょっとね」
「阿呆」
 思わず前髪を鷲掴みにすると、
「痛い、痛いってば、サティ」
 大げさな大声を上げる。
「この馬鹿、染めたな。馬鹿野郎ッ」
「だって蜂蜜色なんか流行んないよッ。染めてる奴いっぱいいんのにどうして僕だけ怒るんだよッ」
「しかもこんなざくざくに切りやがって。お袋さんになんて言い訳するつもりだ」
「あんな長いの格好悪いよ。動きにくいし、誰も仲間に入れてくれないし」
 最後の言葉に俺は掴んでいた手の力を抜く。確かに肩まで届く長い髪はブラタルでは異質だ。一目で普通と違うことが分かる。
 黒髪に染めるのはブラタルの流行り。というのも、『ナカータの人食い虎』が黒髪の若い男ということは大陸中の港に知られていてるから、人食い虎の一統らしくしてみたいらしい。多分、その方が女にもてるんだろう。本人の俺は茶色に染めてるが。
「皇后陛下、なんて言った。嘆いただろう」
「別になんにも。諦めたんじゃない?」
「嘆いてるに決まってる。ひどい真似をするなよ。張りつめて暮らしてる彼女には、お前が皇太子だってコトだけが支えなんだ」
 クラーク帝国の皇族の証である蜂蜜色の髪。肩まである長さは式典で髪を結う為。自慢の息子が下種な(と、彼女は思うだろう)黒髪に染めて、水夫みたいな短髪にしたのを見て彼女はどんなに悲しかったか。
「切ってしまったのは仕方ないが、せめて色なともとに戻せ」
 アレクは反発したげに俺の手を振り払う。
「髪が短くっても黒くっても僕には変わりないだろ。こんなので泣いたり嘆いたりする方がおかしいんだよ」
「そうだ。大した事じゃない。だからこそもとに戻せ。コマゴマ反発していると、ここ一番って時にインパクトなくなるぞ」
「……分かった」
 少年らしいきつい目でアレクは俺を見る。
「でも覚えていて。いうこときくのはどうでもいい事だからだ。本当に譲れないことは譲らないから」
「いい子だ。なんか譲れないことがあるのか」
 笑って頭を撫でた俺に、
「よしてよ、子供じゃない」
 避けるそぶりで、でもそばからは離れない。
「いい子だ」
 もう一度、頭を撫でてやりたくて手を伸ばす。皇太子は、今度は避けなかった。身体をぶつけるようにしてくるから、応じて抱きしめてやる。
「どれくらい陸に居るの」
「二週間くらいは。仕事溜めてるからな」
「今夜、遊びに行っていい?」
「今夜は駄目だ。館に帰ったら寝ちまう」
「明日は?」
「いいとも。おいで」
 約束して、離れる。背後で控えていたレイクが皇太子に黙礼し、皇太子は笑って答える。
「殿下の、幼年学校の成績は優秀だそうです」
 車の中でレイクはそんなことを話した。
「友達も多くて教授たちにも好かれています。サティ様もお気に入りですね」
「子供はみんな可愛いさ」
 じきに子供じゃくなくって懐から飛び立つ。分かっていても、どうしても可愛い。
「後ろ姿だけでよく気づかれましたね。わたしは分かりませんでした」
「そうか?」
「抱き合ってお二人、キスするのかと思いましたよ」
「父親が居なくて寂しいんだろ」
「まさか。男が触りたがるのは抱きたい相手だけです」
「ありゃまだ男の子だ」
「そう思われるのですか、本当に?」
「何が言いたいんだよ、レイク」
 やや厳しい声を出す。しかしレイクは、そんなことでは怯まない。
「……オストラコンの」
「ティスティーのことは言うな」
 ぴしりと言った。レイクは黙る。でも目が俺を責める。いつまでも未練がましくするなと。
 戦争が終わってナカータ領主の地位を甥に譲ってすぐ、俺はティスティーと別れた。それから五年近く、ずっと独りで居る。
 別れた理由は誰にも話してない。家族みたいなレイクも。誰にも話すつもりはなくて、それはティスティーも同様。仲睦まじかった俺たちの破局は一時、政界を騒然とさせたが、俺と彼女は沈黙を押し通した。

 翌日、俺は珍しく正装した。
 年に一度、気の張る客が来る。ブラタルが貿易協定を結んでいる国や団体は七十余。協定は年に一度書き替えられる。大抵は側近らに任せるが、いくつかの大物は俺が直接、折衝をすることになっている。
 なかでも今日の相手はもっとも油断ならない。サラブからの使節。潜在的な仮想敵国。
 執務室で、俺は使節の到着を待つ。使節を連れてきた秘書官の顔を見るなり俺は眉を寄せた。が、秘書官は澄ました表情で茶菓の給仕をして俺の印章を取り出す。そして壁ぎわに下がり、邪魔にならないよう控えた。
 協定の更新はごく尋常に行なわれた。これでとりあえず今後一年、サラブとの戦はない。ブラタルとサラブとの通商協定は休戦協定でもある。仕事が終わった世間話の中で、
「ところで、珍しい雛鳥を捕えられたとか」 使節は微妙なことを言い出す。
「飼っておられるそうですが、見せてはいただけないでしょうね」
「気になるのか?」
「なりますよ。あなたが手塩に掛けた一人目があれですから」
「俺が育てたこととジェラシュが利け者なのは無関係だ。あれは生得、聡い奴だった」
「どうでしょうね。果たして二人目はどんな風なのか、大変に興味があります」
 俺が育てたくらいで変わるものか。子供は自分の好みに応じて好きなように大きくなる。影響を敢えて探すなら、俺が手一つ上げきれない甘い親代わりってことか。うちの子供は自分が好きなように大きくなってる。
「ぜひお会いしたいです。未来の帝国皇帝に」
「値踏みする気か?止めておけ。雛でも嘴は鋭い。突かれると痛いぜ」
「海峡主殿にそう言わせるほど傑物ならば、なおさらお会いしたい」
「お前が値踏みされるのがオチなんだけどな……」
 俺がそう呟くと、控えていた秘書官は壁ぎわからすっと離れた。笑みを口元にためながら俺の隣に立つ。
「?」
 不審気に使節は首を傾げた。
「アレキサンドル・クラーク。皇子様らしい名前だろ?俺が後見してる皇太子だ」
「初めまして」
 にこやかに手を出す子供の、手を使節が握り返せたのは数秒後だった。

「あまり大人をからかうな。目を白黒させてたぞ」
「そう?僕はなんにもしてないよ。ただお客様をご案内しただけ」
「秘書官の服を着込んで?」
「格好いいよね。一回着てみたかったんだ」
 アレクは笑う。俺はため息をつく。甘やかし過ぎただろうかと後悔するのはこんな時。だいたい周囲も悪い。アレクに秘書官の服を貸したのは誰だ。八つ当たりしたい気分になったが、それがわかっても文句は言えない。したがることは好きにさせてやれと言ったのは俺だ。
 せめてもの不快の表現として中庭を見る。そこに使節とそのお供らがたまっている。噴水が珍しいらしい。中央で水が噴き上げてるだけじゃない、多重構造の水のデコレーションケーキみたいになってるから、余計に。
 乾燥地帯の多いサラブで水は美しさそのもの。池のある庭を持つことは権勢の象徴、なんだそうだ。人の身丈より高く水を吹き上げる噴水は夢のように見えると以前、別の使節に言われた。
 ふと思いついて、俺は卓上の内線をオンにする。
「庭に茶、届けてやれ。サラブの連中がたむろしてる。あと噴水に芸させろ」
 中庭に音楽が流れ出す。メロディーにあわせて噴水が、踊るように跳ねる。おぉっとサラブの使節たちがざわめく。二重ガラスの遮られた俺の耳には聞こえないが雰囲気で分かる。中には我慢しきれず、子供みたいに水に触る男も居た。
「これ献上品?開けていい?」
 使節が目録とは別に置いていった包みをアレクは指さす。個人的な贈り物。
「気に入ったら持っていってもいいぞ」
「本当?……あ、絨毯だよ」
「だろうな。さっきのはベルチスタン部族の長だ」
 手織り絨毯の本場。優れた工芸品を産するサラブで最も人気のある商品が絨毯で、細い糸で織りあげたそれはずいぶんな高値を呼ぶ。無論、流通はブラタルを通して行なわれる。
「懐かしいなぁ、帝国の王宮にも沢山あったよ。玉座の前には大人が十人くらい座れる」
「一緒にするなよ、そんなのと」
 横目で眺める絨毯は艶やかで彩りも良く、織り手の熟練を思わせる。帝国の宮廷で見た粗雑な機械織りと一緒にするのは気の毒だ。 「そんなのってどういう意味。玉座の前にあったのなんか、値段がつけられないくらい高価だって話で」
「悪い商人に騙されたな。ありゃ機械織りだぜ」
 俺は見たことないが、ジェラシュはそう言っていた。安易な機械織り絨毯を玉座の前に麗々しく敷く、それだけで帝国の底の浅さが分かるよと笑ってた。
 不審げな皇太子に近づき俺は絨毯を手にとる。光線を受けて輝く絹の極上品。普通は羊毛で織るのだが、張り込んだものだ。
 端をぺらりと捲る。無数の小さな結び目が現れる。ノットと呼ぶこの結び目の密度がそのまま絨毯の、質をあらわす単位にもなっている。
 百ノットは一平方センチに百個の結び目があるということ。百でかなり高級な絨毯。百三十あれば極上。ざっと数えると、これは一センチあたり十二の結び目が並んでいる。面積あたりでは二乗して百四十四。超高級品。単位面積当たりの結び目が多いというとは、それだけ糸が細いということであり、一つ一つの結び目を作る作業も格段に難しくなる。
「まぁ商人の気持ちも分かるか。いいモノはそれが分かる奴のトコに持っていきたいモンだ。手織りと機械織りの区別もつかない客は、騙されても仕方ないかもな」
「それってつまり、皇帝はなめられていたっていう、こと?」
 皇太子は低く呟く。
「だろうな」
 俺がたとえば物知らずで、この絨毯の価値が分からない男だったとしても使節は偽物を持ってこなかっただろう。そうだとバレた時が恐ろしいから。
 絨毯は広げてみるとダブルベットくらい。
「持っていけ。ナカータ帝国皇太子が使うのに相応しい品だ」
「これって買ったら幾らくらい?」
「値段なんかつくか、特注品だ。高価過ぎて商品にならない。皇族とか王宮とかが使うのに相応しいのはそんなもんなんだ」
 そんな事を話しているうちに時計は七時の時報。俺はレイクを呼んだ。子供を送ってもらう為に。
「泊まっちゃ駄目?」
「泊まってどうするんだ」
「どうもしない。ただ泊まりたいだけ。いつも時間切れで追い出されるから、一回くらい」
「駄目だ」
 俺はアレクに外泊はさせない。俺が陸で暮らすあいだじゅう、毎日のように学校帰りに寄るこの子を、いつも七時には母親のもとに送り届けている。
「ケチ。じゃあせめて玄関まで送って」
 やれやれと思いつつ俺は立ち上がった。嬉しそうにアレクは俺と並ぶ。俺の住まいである奥と、執務機関である表は広い中庭で区切られている。中庭の敷石を踏んで細い門を通り抜け、表の正面玄関まで、ゆっくり歩けば十分ほど。
「ね、十四歳の誕生日にはあなた、お祝いをくれるよね」
「あぁ」
「何くれる?」
「とりあえず子羊とフォーク」
 言うとアレクは笑い出した。
 幼年学校の生徒は在学中に十四の誕生日を迎える。誕生日には、俺から子羊の丸焼きを贈っている。紋つきの銀のフォークをつけて。
 以前は子豚だった。しかしサラブの留学生を受け入れて以来、羊に変更した。サラブの連中は豚を食べない。食べないどころが穢れた動物として嫌う。俺にはよく分からないが、嫌がるものを無理に食わせることもない。
「そのフォークに背肉の一番旨い部分を差して、好きな女の子の家に届けさせるのが流行ってんだよ。知ってた?」
「いや」
「あなたってけっこう優しいよね。何処が人食い虎なのか聞きたいよ」
「呼ばれはじめは、捕虜を虐殺したことだった。七百人ばかり」
 皇太子が足を止めた。
 奴らは海賊で奴隷商人だった。その後、ながく俺の宿敵となるサラブの。
「荒らされたのが、海ならまだよかった」
 海の上に居るのは軍船にしろ商船にしろ武装した男だ。でも連中は沿岸を襲って住人をさらった。
「船倉が牢屋になってて、さらってきた女や子供を押し込んで、弱ると海に棄てて。遺体が海岸に流れ着いて、身内を攫われた親族が一つ一つ、母じゃないか妻じゃないかとたどって歩くんだ……」
 思い出しても辛い記憶。
「昔の話だ。十年以上前。あの頃は俺もガキだったし、ブラタルもシケた貨物集積港で。今じゃンな真似したら海峡の両岸の砲台から狙い撃ちだけど、その頃は巡回艇もろくになくって。……なめられたんだ」
「あなたにそんな頃があったなんて、信じられないよ」
 皇太子はまじまじと俺を見る。
「あなたは最初から強かったと思ってた」
 俺は思わず苦笑する。強くなかった、とは言うまい。実質的な初陣で、俺はド派手な戦果をあげた。陸専用の無反動砲を小型高速艇に積み込んでの射撃即逃亡。
 砲台のない港の迎撃法として今では常套になっている戦術を考え出したのは十歳の俺。
「結果的には十日でほぼ全滅させたがそれまでに、殺された女子供は二百人……。逃げようとして溺死した者も多い。交戦中、舟腹から砲の位置を味方に教えてなぶり殺された子供も居た」
 戦勝後、捕虜交換の申し入れはあったが、俺は奴らを生かして帰す気にならなかった。
「手足を縛って肩まで海岸の砂浜に埋めた。身内を殺された連中がつきでた頭を踏んでまわって、でも五日間、生きていたのも居たそうだ。そういう訳で、俺はサラブの連中には目の仇だ」
「こんな高価な献上品貰ってるのに?」
「それとこれとは話が別だ。……嫌いになったか?」
 子供の頬が強ばっている。
「ううん。少し驚いただけ。あなたがそんな残酷なこと出来るなんて信じられない。ただ処刑するだけじゃいけなかったの?」
「お前もなってみれば分かるけどな、アレク。領主にとって領地を荒らされることはレイプと同じだ。屈辱的で悔しくて、腹が煮える。首を切り落としただけじゃ、足りなかった」
「鷹揚なあなたを見慣れてると想像つかないけど、戦争の時って人が変わるもの?」
「……戦争はろくでもないぜ」
 それだけが、俺が知っている真実。
 アレクは暫く俺を見ていたが、やがて口を開き、
「誕生日に、欲しいものがあるんだ」
 言った言葉は、脈絡がなかった。
「すぐ用意できるものか?」
 アレクは返事もしないで歩く。車に乗り込みぎわ、
「あなたって鈍いの、それともずるいの」
 睨む寸前の強い目線で俺を見た。ドアが閉まって車は走り出す。見送りながら、
「……ずるいんだ」
 聞こえないのを承知で、答えを教えてやる。夏の陽は長くて、周囲はまだ薄明るい。戻る途中の回廊で、俺は珍しい男と会った。外国使節を歓待する為の、豪奢な建物の前。
 浅黒い肌、彫りの深い顔立ち。凛々しく引き締まった口元。
「……お」
 ラバーバ・ラシード。サラブから差し出された人質。俺が死地に追い込んだ侵略軍大将の、弟。歳は俺より二つほど下で、二十歳。
 向こうも俺に気づいて足を止めた。深々と頭を下げて俺が通り過ぎるのを待つ。
 こいつがここに居るのは不思議じゃない。ブラタルに滞在してる外国人は、母国からの使節が来た時は自由に面会していい決まりがある。手紙をことずけたり土産を預けたり預かったり、色々あるから。
 俺が不審に思ったのはなぜもっと早く来ないのかということ。こんな日暮れ時に……。
 数歩歩いたところで、俺は理由を思いついた。遠慮したのだろう。アレクが俺の所に居たから。西国境線総で宿敵同士だった二人を、俺は引き離そうとしてた。引き離されたことに気づいて、自分から遠慮したのだ。
 サラブの男は、いじらしい。
 亡命中の皇太子があまりにものびのびしてるから、余計にそう思った。

 翌日は日曜日。
 朝早くからアレクはやって来たらしい。
 俺はまだ眠っていた。レイクを相手に学校の宿題なんかして時間を潰して、昼食の時間になった。
 俺はまだ眠っていた。皇太子に昼食が届けられる。日曜は厨房の出勤者が少ないから、昼食は各人ごとにプレートが配られる。アレクとレイクは同じものを食べて、ただ食べ盛りのアレクの為にもう一枚、余分にプレートは用意されていたらしい。
 食事を終えたレイクは用事があって中座した。残されたの昼食のプレートを、アレクはふと思いついて、俺の寝室に運んだ。
 俺はまだ眠っていた。
 アレクと一緒に飯を食ったことはなかった。だから、俺の事情を知らなかった。
 そして、俺は激痛に目覚める。
「……誰かッ」
 アレクの悲鳴を聞きながら。

 口の中に押し込まれた食べ物を床に吐き散らして、それでも身体の痙攣は止まない。手足をぎゅっと縮め腹を抑える。痛みのたびに、背中は波打った。
「サティ。嘘、なに、しっかりしてッ」
「皇太子、こちらへ」
「毒が入ってたの?プレートの料理だったんだよ。僕、毒なんか盛ってないよ」
「分かっています。毒物中毒ではありません」
 モルヒネが打たれる。がちがちに強ばっていた筋肉がよくやく弛緩する。それでも吐き気と胃の痙攣は止まない。看護夫が腕をとり脈を測ろうとする。キャスターのかすかな音とともに、運ばれてきたのは医療用の器具。
「……殿下、こちらへ」
 レイクがアレクを促す声が聞こえてきた。アレクの答えはないが、嫌がったらしい。
「これから胃を洗います。サティ様は、殿下に見られたくないと思うのです」
 その通りだ。いやもう、今更だが。腹に入ってた固形物も液体も散々吐いてそれでも止まなくて、背を痙攣させて酸っぱい胃液を吐き散らす。
「サティ、ごめん、ごめんね」
 不意に抱きしめられた。
「ごめんなさい」
 涙声。
「……分かってる」
 暖かな腕に圧迫されて吐き気は多少和らいだ。おかげでよくやく口をきける。
「お前は知らなかったんだ。怒ってない」
 昔、ティスティーに不意討ちでもの喰わされたときも同じ破目になった。その後でティスティーが怒らないでと泣いていたのを思い出して言う。かなり無理して笑ってやると、アレクはようやく泣き顔を緩めた。それでも腕は離れない。
「殿下、手当を」
「しろよ。支えとくから」
 アレクは離すつもりはなさそう。俺も本当は離されたくはない。楽になったのだ何故か。アレクに抱きしめられた瞬間。
 俺は自分で支えていた腕の力を緩めた。背中から支え起こした姿勢のアレクの、まだ細い腕に身体を委ねる。気持ちが良かった。アレクは一瞬だけ戸惑い、やがて意外なほど力強く俺を抱き返す。
 それを見てレイクはもう何も言わなかった。温め薄められた生理食塩水がチューブで食道に導かれる。胃を圧迫して吐く。毒物を飲んだ訳でもない腹を洗ってみたところで出てくるものは何もない。分かっているが気休めも大切。もともとこれは精神的な、神経性の胃痙攣。
「……もういい」
 三度目を俺は拒んだ。咒がきいて、内臓のひきつる痛みは徐々に治まってきた。
「最後にうがいを」
 レイクが水を差し出す。吐いた後はよくうがいしとかないと口の粘膜が胃液に冒されてぼろぼろになんのを、俺は体験的に知っていた。
 チューブではなくコップだったから飲みにくかった。ガラスに歯が当たって固い音がする。見兼ねたのかアレクはコップを奪い取ろうとして、させまいと俺は抗う。力の抜けた身体では無駄なことだった。
 唇にコップの縁が当てられる。口移しされるかと思って動揺した自分が急に恥ずかしくなって、照れ隠しに噎せないよう舌を出した。冷たい水が舌の上を流れていく。奥まで何度か導いて、最後の液体を洗面器に吐く。
 そのまま俺は眠ってしまったらしい。モルヒネのせいだ。汚したシャツを替えられて、別のベットに移されたのをぼんやり覚えている。その時に、
「足は僕が持つ」
 アレクの声を俺は夢うつつに聞いた。俺にはきかせたことのない、固くて低い男の声だった。

「あまりご自分をお責めになりませんよう」
 レイクの声が聞こえる。そっと優しく、誰かを慰めている。
「みんなそうなのですよ。一度はやってしまう。オストラコンの王女もアケトも、私も。無理に食べさせようとしました。二度とはしませんでしたが」
「病気なの、この人」
「そうです。でも子供の頃より随分とマシになられました。昔はきっかけもなく不意に胃痙攣を起こされていました」
 その通りだ。人前で吐くのが嫌で人と会わなきゃいけない時はよく食事をぬいてた。そんなんじゃ大きくなれませんよとレイクに怒られながら。
 レイクの言うことは当たった。男女とわず長身な、体躯に恵まれた一族の中で俺だけ中背なのは子供の頃の栄養が悪かったせい。
「知らなかった、そんなの」
「隠しておられましたから」
「どうして教えてくれなかったんだろう」
「格好のいいことではありませんからね。弱みでもありますし」
 アレクの返事はない。ただ近づいてくる気配。レイクは止める様子はなくてカチャカチャと、何かを片づけてる。
 ベットのわきに立たれたのが分かった。頬に触れてくる手指。止せと言いたいが声は出ない。目も開かない。意識だけが目覚めて、身体はまだ、モルヒネに弛緩してる。
 指の腹は固い。二年間、幼年学校とはいえ軍で鍛えられりゃ嫌でも皮膚は厚くなる。死んだ男の指は柔らかかったことを、唐突に俺は思い出した。
 固い指が頬を辿り、額に触れ前髪をかきあげる。そして。
「行きますよ」
 顔の上に屈み込まれる寸前、絶妙のタイミングでレイクは声を掛けた。アレクは無念そうな舌打ち。それも、俺には見せたことの無い仕種。
「意地が悪いよ君は」
「最大限に協力していますよ、これでも」
 そんな会話を交わしながら二人は遠ざかる。俺はなんともいえない腹立たしい気分。
 勝手なことを言いやがる二人とも。
 人の気も知らずにだ、そう。
 腹立たしさのうちの一欠片は、止めたレイクに向いていた。

「母とその娘犯すことあれば穢らわしきこと、父とその息子に犯されることあれば穢らわしきこと……?」
 数日後には、アレクは何もなかった顔で俺の執務室へやって来た。俺はためていた書類に目を通しながら、アレクが課題を解く相手も務める。
「言っておくがそれ、自分の息子や娘のことじゃないぞ」
 放っておいたら誤解されそうで、俺は口を挟む。
 ブラタル海軍軍規の冒頭は、軍規というより海の女神への誓約じみた、宗教色の強い文章が並んでいる。女神に対して『自分はこういうことをしていません』という宣誓。
「親父と寝たことある、母親以外の女とも寝ちゃいけないって意味だ」
「ふぅん。ブラタルの習俗って難しいね。兄弟の寡婦はなるべく娶れってことになってるのに」
「航海技術が今ほど発達してなかった頃は海難事故が多かったから、それは未亡人対策だ。あと、財産分与の問題も絡んでるが」
「嫂と、父親の妾と、大した違いはない気がするんだけど」
「ブラタルじゃ大違いなのさ。母子結婚は神様にだけに許されたことだから。……俺が例えば、アケトの女寝取っても」
「アケトって側近の?あの人がなに」
「俺の兄貴。所詮民事で、アケトと決闘して勝ちさえすりゃいいが、レイクの」
「もしかして彼もお兄さん?」
「義理の親父だ。お袋の再婚相手。レイクの女と寝ちまったら、それは姦通罪なんだ。船乗りたちの支持を失って、二度と海には出られなくなる」
「結婚してない人とでも?」
「セックスした時点で因縁は成立する」
 皇太子は興味津々に俺を見る。俺の口から性に関する話をさせるのが楽しいらしい。無視して、俺は続けた。
「結婚にこだわらない分、うちじゃセックスそのものが重要でな。したかしてないかは、挙式とか戸籍とかよりずっと重大な事だ」
 同じ寝床に入れば、それは永遠に拘束される契り。一度きりでも一生を支配する。未来永劫、他人にはなれない。
「迷信だね」
「その通りだ。でも禁忌って、大抵そうだろ」
「タブー、侵したこと、ある?」
 問われて俺は答えなかった。俺自身は、ない。でも自分のことを清浄と宣誓するのは気が引けた。何故なら俺は、密通を知っている。その一角を、担ったことがある。