「まぁ、昔のことはどうでもいいけどさ」
 答えない俺をどう思ったのか、アレクはそんなことを言う。俺はでも、そうは思えない。過去は現在を支配していて、俺は自分が死んだ男に、思ってた以上に支配されてることを改めて気づいた。



第六幕・恋に堕ちる

 夜空の星が高くなる秋。
 皇太子の成人式典はブラタルで、滞りなく済んだ。帝都からは祝いの使者が来た。追われた子供は無事に大人になって、じき故郷を取り戻すだろう。
 母方の故郷であるオストラコンからも祝いの為に王女様が来ていた。式典の間中、何かを探しているように視線を漂わせていたと、式を主催したジェラシュから聞いた。俺は出席してなくて良かったと思った。俺はティスティーほど上手に嘘がつけない。
 ジェラシュが出ていくと入れ代わりに、正装したアレクが俺の私室にやって来る。帝国の礼装がよく似合っている。
「どうして列席してくれなかったの」
 おめでとうを言う前にそんな台詞をぶつけられてしまう。
「そんな身分じゃないからだ」
「東方きっての実力者のくせに、あなたはいつも隠れたがるね。黒幕に徹してる、ってほど老獪でもない。ただ隠れたがる」
「田舎者だからな」
 俺の言葉にアレクが笑う。本心を冗談と思われて、笑われるのは慣れてる。
 俺は卓上の鈴を鳴らした。
 菓子を持ってきた女と、酒を持ってきた女と茶を持ってきた女。三人ともタイプの違う美女。三人は俺からの成人祝い。
 アレクは意味に気づいた。戸惑い、困った顔をする。三人の女がテーブルの上に品物を置いて去っても、どれにも手を伸ばさない。
「どれにする?」
 俺はさりげなく尋ねた。 「驚いた。あなたでもこんな真似、するんだ」
 茶にも酒にも手を出さないまま、平気なふりをして話す、語尾がかすかに震えている。
「成人式の続きだ。そろそろ要るかと思ったんだが、気が進まないならやめとくか」
「……彼女たちじゃ、嫌だ」
「我儘いうな。このみがうるさいのは施政者としてはマイナスだぜ。まぁあいい、最初だからきいてやろう。どんなのがいい」
「あ、」
「言っとくが女だぞ」
 アレクは黙り込む。火のつきそうな顔で俺を見てる。ずるずるの衣装の裾を蹴りながら近づく。こけないのはさすがに育ちだと、俺は妙なことを考えていた。
 襟首を掴まれるかと思ったが、顔が間近に来ただけだった。ほら見ろと、俺はサラブの使節に言ってやりたくなる。
 アレクは俺と似ていない。我慢強い。
「なに、笑ってんの」
 それでも声は怒りに掠れてる。
「前に聞いた事あったよね。あなた鈍いのか、それともずるいのかって。今、分かった。あなたはずるいんだ」
 その通り。
「僕はずっと言いたいことがあった。あなたは僕に言わせたいの。言わせたくないの」
「言わせたくないかな」
「……どうして」
「言われちまったらそれまでだから」
「断る準備は出来ているって訳?」
「あぁ」
「聞きたく、ないの」
「聞いたら断らなきゃいけなくなるな。そしてお前をそばには置けなくなる」
「脅し文句だね」
 アレクの顔がぐいと近づいてきて、俺は顎をそらした。キスを避けた。
「駄目なの。どうして。僕が気に入らない?男だから?まだあなたより背が低いから?それとも僕が亡命中の皇太子だから?」
「どうかな」
「アクナテン・サトメアン……、なんでも言うことをききます」
 アレクの声は掠れて聞き取りにくい。多分、口の中はかにらからに乾いてるだろう。緊張と体熱が伝わってくる。
「今夜、あなたの部屋に泊めてください」
 勇気をふり絞った台詞だった。俺は返事をしなかった。沈黙の時だけが流れる。アレクは辛抱強く、俺の返事を待っている。
 時計が七時の時報を鳴らす。俺は卓上のインターホン端末に手を伸ばし、音声をオンにして、言った。
「皇太子殿下はお帰りだ。車を」


 アレクを送っていったレイクが戻って来たとき、俺は氷嚢で頬を冷やしていた。
「あまり挑発するものではありませんよ。まだ純粋でお若い皇子なのに、可哀想です」
 俺に氷嚢を外させて腫れ具合を見ながら、やんわりした口調でレイクはアレクを庇う。
「優しくして上げればいいのに」
「お前アレクの味方かよ」
「まさか。わたしはいつでもサティ様の為を考えています。そうした方がサティ様が楽だと思うんです。皇太子殿下をお気に入りでしょう」
「だからってどうにもならないだろ」
「どうにでも出来ます。あなたに出来ないことなど一つもありません」
「まさか」
 俺は氷嚢をごみ箱に投げ捨てた。
「恋人が嫌なら情人でも。慰みものでも」
「帝国の皇太子だぞ」
「サティ様の掌の中の小鳥です。好きになさればいい。……本当は、誰か女を、気に入ってくださればいいんですが」
 殴られた方の頬にレイクは指を添える。
「お好みをどうこうは申しますまい」
「しつこい」
「心配なんです。酒と薬より、セックスの方がどれだけマシか知れない」
「あいつのことも考えてやれ。ありゃ将来、帝国皇帝になる予定のガキだ」
「あなたは相手のことを考え過ぎです。もっと自分のしたいようするべきです」
「あと半年の命しかないって分かってて、お前を娶った女みたいにか」
 俺の台詞はきつい挑発だった。
「十歳以上も年上の女と、ほんのちょっとの新婚生活のせいで、一生再婚できなくって。別の男のガキの面倒みらされてお前、それで満足なのかよ」
「……そうです」
 レイクはそれでも、頷く。
「幸せですよ。この上なく」
「マゾ奴」
「愛していたんですよ。わたしは、母上を。だから母上に拘束されることは嬉しい。彼女を恨んでいるとしたらあまりにも早すぎる死だけ。それもあなたを形見に残していって下さいましたから」
 許せるのか。それでいいのか。
「お前はそれでいいかもしれないけどさ、お袋は後悔してるかもしれないぜ、あの世で」
 俺なら絶対にしている。
「悪いことしたなって」
「恐いんですか?心弱いことだ」
 レイクは顔を寄せる。内緒ごとをささやく時の癖。
「構うことはない。思い通りにしてしまいなさい。それで彼が不幸になったとしても、それは彼自身の責任です。彼はあなたを愛しているのだから」
「……無茶言うな」


 翌日、アレクは俺の館に来なかった。
「士官学校にも出席していないようです」
 レイクに告げられ、気にはなったがそのままにしていた。翌々日も、その次も。
 四日目、心配になって電話を掛けてみたが繋がらなかった。待たされた挙げ句に不在を伝えられ、俺は電話を切った。
 その夜。


 ガラスがひび割れる音で俺は目覚めた。ベットから跳ね起きた瞬間、館全体を震わせる非常警報十秒、鳴り終えた頃には宿直の軍人たちが中庭につめかけ、賊を捕えた合図の発光弾。
 ガウンを纏って中庭へ降りると筋骨隆々たる軍人のただ中、
「……ごめんなさい」
 両手を頭上高く上げ、降参のポーズでこっちを向いたのはアレク。
「窓、防弾だとおもったんだ。昼間に電話くれたって、夜中になってから侍女が耳打ちしてくれたから。……ごめんなさい」
 もちろん防弾だ。四重構造になっていて、衝撃を受けると一番外側が蜘蛛の巣状に細かくひび割れて内部が見えなくなる。
「盗人捕えてみれば、だな。皆ご苦労だった」
 苦笑して俺は解散を指示する。宿直の中の数人はアレクと顔見知りで、擦れ違い様に背中や肩を叩いていった。
「騒ぎにならないようにそっと来たんだけど、かえって大騒ぎになっちゃったね」
「まったくだ。何のためにID持たせてると思う。元気だったか?」
 俺が尋ねたのはアレクの顔がやつれて見えたから。照明のせいだけではあるまい。
「身体は。ショックなこときいて心は寝込んでたけど、寝てるのにも飽きたから確かめていい?エル・サトメアン。あなた兄上の恋人だったって……、本当?」
 咄嗟に俺は答えられなかった。
 アレがどういう事だったか、俺にはよく分からないままで別れた。はっきりしてるのは痛手だけ。
「本当だったの……、凄い、ショック」
 答える前に俺の顔色からアレクは答えを読んでしまう。そしてゆっくり、その場にしゃがみこんだ。
「アレクサンドル?」
「ごめん、気にしないで」
「具合悪いのか」
「目が回るだけ」
「中に入ろう。手をかすから、ほら」
 掴んだ手はひどく冷たかった。女が時々こんな手をしている。血が足りない時に。
「病気だったのか?無理するからだ。抱えていってやるから、腕」
「それより聞かせて。兄上のこと愛してたの」
「そうしがみつくなよ抱きにくい」
「兄上と、……寝た事あったの」
「あぁ」
 それは事実だったから答えられた。
「いつから?どれくらい?」
「興味あんのかそんな事に。大戦中と戦後に、何回か」
「ホントに寝たの。悪戯とか慰めあったんじゃなくて本当に本番したの」
「一通りのことはしたみたいだな」
 答えると、それまできつくしがみついていた腕がほどける。慌てて支えてやると、
「……嘘だろ」
 この子のものとは思えない暗い呟き。
「僕のことは拒んだくせに、なんであなた、どうして……」
「泣いてんのか?どうした?」
「気にしないで、放っといてくれよ」
「気持ち悪いのか、吐きそうか?」
「気にすんなって言ってるだろ。あなたが男と寝たことあるって思うと泣きたいんだ。泣かせろよッ」
 自棄のように泣いて少し落ち着いた子供を部屋に連れてくる。暖かい飲物を持たせると黙って飲んだが雰囲気はまだ荒れている。
「……義兄を愛していたの」
 しかも、しつこい。
「忘れられないの。だから俺に優しくしてくれたの。僕は兄上の代わりだったの」
「まさか。何をぼけてる。誰から聞いたのか知らないが、そいつはこうも教えてくれなかったか?俺と廃皇子は派手に決裂したんだぜ。帝都で市街戦やらかして、大騒ぎだった」
 俺の言葉に子供は顔を上げる。
「その責任をとって俺は領主を辞めたんだ。以来、奴が死ぬまで会ってない」
「決裂って、なんで」
「二股かけられてたんだ」
 そう言うと子供はぽかんと口を開けた。
「あなたを二股?嘘だろ」
「その上、俺の女まで寝取ろうとしてくれた」
「ちょっと、待ってよ。あなたも二股かけてたの?」
「そうなるかな」
「なるかなじゃないよ、なるよ。嘘だろ、もう信じられない。なんでそんな……、安易に寝ちゃうんだよ」
「あんまり安易でもなかった。最初は戦場で、盟約の保障に身体で判を押したんだ」
「え?」
 言葉の意味が分からなかったらしい。アレクは説明を求める表情で俺を見る。俺は目をそらした。解説してやるほど親切ではない。
「無理矢理、だったの?」
 そっと囁くような問いに、
「同意はした」
 微妙な表現で答える。 「……」
 アレクは何かを考えていたが、
「騒いで、ごめん」
 謝る頃にはいつものこの子に戻っていた。
「心の準備出来てなかったんだ。あなたみたいな人に過去がないはず、ないのにね。あなたふだん、身辺清潔だから」
 俺は笑った。確かに殺風景だ。ティスティーと事情があって別れてからずっと一人寝が続いている。情人くらいつくればいいのにとよく勧められるが、なんとなくその気になれない。一人でいるのは特に苦痛でもない。この子とこうしているのに比べれば。
 好きな相手の隣で、手出しを我慢するのに比べれば。
「でも、あなた義兄を好きだったんだね。自分にも女は居たのに二股かけられてたのが、そんなにショックだったなら」
「どうかな。自分勝手なだけかもな」
「喧嘩別れしてそれっきりだったの?」
「あぁ」
「今はもう愛してない?」
「顔もろくに覚えてないくらいだ」
「顔、僕も覚えてないんだ。可愛がってもらったって母は言うんだけど、十歳くらいの時に高熱出して、記憶障害っていうの?兄上のことたぜけじゃなくて、人とか出来事とか、ポコポコ抜け落ちてて」
「お前らしい」
「ひどいな……。でもその通り。肝心なことが最後になったけど、あなたを」
「飲んだら帰れ。送っていってやる」
「言わせてくれない理由は兄上のせい?死んだ人なんか関係ないじゃない」
「それが誰にも知られていなくて、お前が皇太子じゃなければな」
「よくある事だろ、ブラタルでは。死んだ兄弟の恋人引き取ること。嫂とは、別にいいんだろ?」
「俺が女で、未亡人なら世間の同情もかえるってことだ」
「誰になんて言われたって僕は平気だよ」
「俺が嫌だ」
「どうして」
「お前を愛してるから」
 ぎくり、アレクの表情が身体ごと強ばる。自棄じみた勢いで、俺は言葉を続ける。
「だから触れないんだ。俺は条件、悪すぎるからな」
「そんな、サティ、僕は、僕も」
「行くぞ」
 腕を掴んで立ち上がらせると、動揺しきったアレクは人形のようについて来た。


 アレクを郊外の皇后の住む館へ送っていく。門前で下ろして帰ろうとしたが、執司が出てきて俺を引き留めた。一階の広間で夜明け近い時刻、皇后と茶を飲む。寡婦らしい薄幸そうな青白い頬が俺の気をひいた。
「あの子はもう、わたしの息子ではなくなってしまったわ……」
 細い呟き。気弱な嘆きを聞かせる相手が俺しか居ない彼女は気の毒だ。
「わたしの言うことなんか耳に入りもしない。泣いても頼んでもこっちを向きもしないで、いうことを聞くのはお前だけ」
「あのくらいの歳の男はみんなそうだ」
 顔を上げた女が息をのむ。俺が優しいのがそんなに驚きらしい。
「そしてあんたくらいの母親はみんな、息子が分からないと言って嘆くのさ。もう少したてば母親にも優しくなる。気にせず、気楽にしておいたがいい」
「……普通の反発ならね」
 皇后の言葉の意味が俺を射貫く。俺たちは昔、一人の男を挟んで対立した。
「わたしの息子はお前を好きなのよ。お前はどうするつもりなの」
「どうもしない」
 俺の答えに彼女は首を傾げる。
「母親に反発してるガキの色恋なんて三日で醒める麻疹みたいなモンだ。まともに相手してると馬鹿を見る。あんたも心配しない方がいい。そのうち、飽きる」
「……そうかしら」
 皇后は悽愴に笑った。ぞっとするほど陰気な笑いだったが、陰りのある美貌とあいまってなんともいえない雰囲気を生じた。俺は、こういうのは嫌いじゃない。
「わたしにはそうは思えないけれど、あなたがそう言うなら今はそういう事にしておきましょうか。一つだけお願いしてもよくて?」
「なんなりと」
「あの子を傷つけないいで」
 俺は思わず苦笑を漏らした。さすが帝国の皇后陛下は、ひどく難しいことを言い出す。


 同室の礼儀としてドアは開けられていた。部屋を辞す時、ドアを閉める。ドアの後ろにはアレクが立っていた。
「……」
 一瞥だけして俺は歩きだす。アレクは俺の後ろについて来る。
「僕にも味方くらい居るんだよ。あなたが母上と一緒って聞いて来たんだ」  俺は答えない。ずかずか歩いて行く。アレクは駆け足になったが遅れはしない。二年前から、ずいぶん背は伸びた。
「あなた物騒なんだもの。母上にもう会うなって言われたら、そうするって答えてしまいそうでさ」
 いっそそれなら簡単だったのに。
「世間の評判なんか気にしないよ。あなたを、好きです」
 俺は黙殺した。歩いていく俺の視界に一瞬、鏡のようになったガラスの表面にぼんやりにじんた、自分の姿が写る。二十二歳の男の。 そりゃ多少、ツラはいいかもしれない。軍人どもの間では細腰がたまらないとかなんとか話題になってんのも知ってる。きつい上目遣いが相手によっては、神様以上の効果をもたらす事も。
 ブラタル住人からの熱狂的な支持の何割かはこの顔のおかげだ。レイクがお袋に死なれた後もずっと俺のそばに居るのにいろんな噂があることを、知ってはいるのだが。
 でも、それにしても。
 ティスティーと並んで双子の美少女に見られていたのは大昔のことだ。大戦時、あの男に可愛がられた時期の話。あれから背丈は十センチも伸びたし歳相応に骨っぽくもなった。
 十四歳の少年に、惚れられるのは不自然だ。
 アレクは俺を追ってくる。俺は車に乗り込んだ。運転手は連れていなかった。助手席に乗り込むアレクの、胸元をどんと押し返す。
 力任せの仕種にアレクは目を見開く。俺はそれまでこの子にそんな、乱暴な真似をした事はなかった。しなかったのはこの子が子供だったからだ。今はもう違う。
 ドアを閉じようと手を伸ばす。アレクは身体でそれを阻止した。
「なに怖がってんの」
 助手席に乗り上げながら、抗議。
「麻疹なんかじゃないのはあなたも知ってるくせに、ねぇ」
 間近で見上げる顔が可愛い。レイクに言われるまでもなく、俺はこの子をお気に入りだ。俺はアレクをじっと見る。どういう意味と思ったのか、アレクは何やら必死に言い募る。俺はろくに、聞いていなかった。ただ一心に、顔を見つめていた。
 不意にアレクの言葉は途切れる。途切れ筈だ。口が塞がれてる。塞いだのは俺。唇を、重ねるだけのキス。
「……おやすみ」
 石化して動けないのをいいことに、俺はアレクを押し出してドアを閉めた。窓に顔をへばりつけてアレクは、
「待つから」
 そんなことを言い出す。
「僕は真剣だよ。あなたが信じてくれるまで待つから」
 夜明けの、青灰色の空を眺めながら俺は館へ戻った。そしてますます、海に出るようになった。


「……喧嘩?アレクが?」
 連絡を受けて俺は眉を寄せる。電話の相手は例の医師で、俺に助けを求めていた。
「仲裁?俺に?なんで俺が」
『原因がご先代だからですよッ。とにかく、早く来てください。怪我でもなさったら』
「そんなにひどいのか」
『そうです。止められるのは、ご先代だけです』
 夜更けだった。
 訪れた館はしんと静まっていたが、なんだか殺伐とした雰囲気。医師に迎えられ護衛は門前に残し、一人で建物内に入る。
 一階の広間。以前、茶をご馳走になったことのあるそこで、呆然と座り込んでいたのは。
「……皇后陛下」
 なるべく優しく聞こえるように、そおっと声をかける。
 割れた花瓶、散らばった花。転がるティーカップ。床に落ちたクッション。女らしい小物が散らばった部屋の真中、皇后はぺたんと、子供みたいに座り込んでいる。俺が入ってきても無反応。呆然自失。
「暴れたのは、アレクか」
「そうです」
「あのガキ……。何処に居る」
 説教くれてやらなきゃ気がすまない。
「二階の自室に。その前に、皇后陛下を」
「俺にどうしろって言うんだ」
「どうにかして下さい。責任がおありでしょう?アレク殿下はあなたのことで、大暴れされたのですから」
 よく意味が分からないまま、それでも俺は、
「まさか手ぇあげてないだろうな」
 皇后に近づき、膝を折る。あの子が案外手が早いことを、俺は体験的に知っている。
「母親を殴るようには、育てた覚え……」
 台詞を俺は最後まで言えなかった。
 不意討ちに、皇后が繊手を閃かす。
「……ってぇ……」
 喋ってた途中だったせいで口の中が切れる。
「どうしてよけないの」
 ぎらぎらした目で俺を見ながら彼女は呻いた。息が荒い。虚脱状態から一転、興奮状態。
「あんたティスティーの、なんだったっけ。従姉妹?」
「また従姉妹よ」
 てきぱき答えるその声は、お高くとまって言葉を惜しむ普段の彼女とは別人のようだ。
「殴り方似てるな。情け容赦ない。俺は女に殴られるの慣れてんだ」
「そういえばティティから聞いたことあったわ、あなたの事」
 ティスティーをティティと呼ぶ、オストラコン風の愛称が可愛い。
「絶対によけないし殴り返さないんですってね。馬鹿にしてるって、ティティは言ってた」
「何度も怒られたよ」
 俺は女には全面降伏する。それが気に入らない女も居る。
「恐いんだ。母親も姉妹も身近に居なかったから、女の人は、すぐ壊れそうで恐い」
「……ふん」
 本当のことを正直に言ったのに軽蔑した顔で笑われて、俺は少しだけ落ち込む。
「何があったんだ?」
「あなたには関係ないことよ」
「俺はアレクを諭した方がいいか」
「放っておいてちょうだい。あなたには関係ないって言ったでしょうッ」
 彼女は顔を覆って泣き出す。困って立ち尽くす俺に、
「ご先代、こちらへ」
 医師は俺を連れていこうとする。去りぎわ、俺は上着を脱いで皇后の肩に掛けた。声を忍んで嗚咽するたびに震える肩が寒そうで。医師は皮肉な顔をした。
 次に案内されたのはアレクの部屋。
「おい開けろ、このガキ、アレクッ」
 アレクに対して俺は遠慮がない。部屋の扉をがんがん叩いた。
「自分の母親にあんな、脅すみたいにもの投げて、どういう了見か俺に説明してみろッ」
 怒鳴ると応じて扉が派手に開く。泣き顔を慌てて拭ったと分かるアレクに、
「……サティ」
 縋り付くようにしがみつかれても、今日ばっかりは優しくしてやれない。
「お前は元服したんだぞ。一人前の男ってことだ。なのに何だよ、この為体。ガキめッ」
「……どうしよう、どうし……」
「あぁ、なにがだッ」
「……助け……」
 同情した訳じゃない。でも泣き崩れるのを医師に見せるのもマズイと思って、俺はともかく乱暴にアレクを部屋に突き入れて、自分も入り、ドアを閉めた。


「……何があったんだ」
 俺に突きとばされ床に転んだ姿勢のまま、仰向けにアレクは頭を抱えて泣く。声を殺した泣き方。
「お袋さんになんか言われたのか」
「なんでもない。……きっと、嘘だ」
 俺は立ったまま床に転がるアレクを見下ろす。男の目線にあわせてやる趣味はない。
「嘘だ。嘘にきまってる。あの女」
「母親のことそんな風に言うな」
「あの女、嘘ついてんだ。そんな事ある訳ない。僕があなたを好きのが気に入らなくて、それで、きっと……」
 なんなのか、俺には見当がついたから追求をやめた。
 それがかえって、ヤバかったらしい。
「サティ。……まさか、あなた、もしかして」
 アレクは顔を覆った手を外す。見上げてくる目を、俺は見返せない。
「知ってるの。……まさか、違うよね」
「何のことだ」
「知ってるんだ。あなたまで……」
 アレクの表情が絶望に翳っていく。
「じゃあ本当のことなの。もしかして、みんな知ってるの。それで、僕を、笑っていたの。あれは、」
「アレク」
「密通の子だって。穢れた庶子だって。僕は死んだ兄上の、本当は、弟じゃなくて、む」
「言うな」
 聞きたくない言葉だった。
 言葉とともに息をのみ、アレクは床に拳を叩き付ける。
「ひどいよ。今更、そんなの」
 確かにそうだ。ひどすぎる。
 どうして今更ばらすんだ。なんで黙っておいてやらなかった?
 せっかくこの子は知らなかったのに。
「だからあなたは僕を寝床に入れてくれなかったの」
 アレクの奥歯で、絶望が軋む。
「……いい男だったぜ、廃王子」
 ひどく悲しい顔をして黙り込むアレクに、他に掛ける言葉がみつからなくて、知っている事実を伝えてみる。
「俺とはうまくいかなかったが、客観的に言って文句のつけようのない男だった。顔も頭も、身体も上等で」
 誠実とか優しさとかは足りなかったけれど、それは言わなくていいこと。
「ひと通り何でも出来る男だった。皇帝陛下ってパッとしない爺だったんだろ?かえってそっちよりマシだったって、」
「思えないよ」
「そうか」
 他に言ってやれる言葉も持たないまま、黙り込む俺の足元でアレクはゆっくり立ち上がる。腕を差し伸べてやると、倒れ込むみたいに崩れてきた。
「……誰も知らない。世間では、誰も」
 廃王子が継母と密通していたこと、そして、この子がその結果であろうことも。
「あなたは知ってるじゃないか」
「俺は廃王子の情人だった時に偶然知ったんだ。お前は忘れろ。聞かなかったことにして忘れてしまえ」
「あなたが知ってるんなら同じだよ。だから僕のこと拒んでたんだろ」
 そのまま抱き続ける俺の胸元に、
「父とその子に犯されるは穢らわしきこと?
」 零れてくる。痛みそのもののような言葉。
「まぁな」
 どん、と胸元を叩かれる。痛かった。拳で撃たれた、その奥が。
「……アレキサンドル」
 穢らわしくても俺は平気だと、それは言えないこと。言ってはいけないこと。罪は最初から承知の上で、それでもお前が愛しいのだと、告白することは許されない罪悪。
「お前は立派な皇太子だ。逆境の中、誰にも恨み言をいわなかった」
「そんなこと聞きたいんじゃないんだ」
「忘れろよ。お袋さんは嘘を言ったのさ。お前が俺と仲いいから、妬いて」
「あなたは忘れてくれるの?」
「お前がそうして欲しいなら」
「泊まっていってくれる?」
 まさか、そんなことは出来ない。
「どうして」
「お前が可愛くて、大事だから」
「あなたって時々、物凄く馬鹿なこと言うね。女の子じゃないよ僕は。繊細でも奇麗でもない。なに大事がってんの」
 アレクの掌が俺の首を抱く。後ろ髪を撫でられる。気持ちがいい。
「姦淫したよあなたと。とおの昔に、夢の中で。あなたを床に押さえ込んで、こんな風に」
 言いながらアレクは俺の手首を束ねて掴んだ。手の甲にキスされる。その延長みたいな感じだったから、肩紐で縛られても抵抗はしなかった。
「服を脱がせて、身体じゅうにキスして。裸にした足首掴んで、捻って膝を開かせて。怪我させたくないし、でもあなたの中にクリームとか入れたくないから、舐めて、濡らして」
 リアルな言葉に俺は動揺する。束ねられた手首を引こうとする。指ごと掌を握り込んでアレクはそれを許さない。ひたり、目線を据えられる。覚悟を決めた表情。肉食獣に狙われた気がして、……恐い。
「泣いても縋っても許してあげない。焦らされた分は復讐する。失神しても揺すって起こして、朝まで眠らせない」
 無意識に、俺は頭を横に振る。
「可愛がるのも忘れない。身体じゅう舐めて擦り上げて。朝が来て服を着ても忘れられないくらい。二度と僕から離れられないくらい。……させて」
「駄目だ」 「あなたがいいって言えない気持ちも、分かるよ。でもレイプしたくないんだ。愛してるから。だから言って。一言でいい」
「駄目だ。離せ」
「頷くだけでもいいから」
「だ……」
「じゃあ順番にいこうか。まずキスさして」
 肩を抱き込まれる。
「キス、さして。いいね?」
 俺は答えなかった。いいと言う度胸はなく、嫌というほど嘘つきになれなくて。でも唇が重なる寸前、耐えきれなくて顔をそらす。するのとされるのとじゃ、衝撃が違う。
「……サティ」
 咎めるように名を呼ばれ、きつく目をつむる。アレクの顔を見たくなかった。俺の顔を見られたくもなかった。頑なな俺に何かをいいきかせるように、アレクの腕が背中を撫でていく。目眩がするほど甘い仕種。
 もう片方で背けた前髪に触れられる。額の生え際にキスされて、揺れた身体を腕に抱き込まれる。耳から頬、そしてもう一度ねらわれる唇。
「アレクサンドル」
「黙って」
「一つ聞きたいんだ」
 はねのけるのは簡単な事だった。手首を縛られてるとはいえ、それはママゴトみたいな拘束。俺に与えられた言い訳。でもそれは無駄なこと。縛られてたから抵抗できなかったなんて、自分さえだませない白々しさ。
「俺が生娘でもお前、こんな真似をしたか」
 拒むのは簡単だ。でもそれじゃ意味がない。同じことが繰り返されて、いつかは俺が欲望に負ける。今でさえ、かなり危ない。
「俺がお前の……、兄貴の」
 この子の方から手を引かせなきゃならない。
「お古じゃなくてもこういう口説きをしたか」
 身体で優しく責められるのは切ない。甘くて崩れそうになる。崩れたらさぞ気持ちがいいだろう。そうして後で、きっと後悔する。
 アレクの腕が揺れる。俺の耳元でため息。
「きくなぁ、あなたの台詞って。力抜けるよ。ひとが一生懸命、忘れようとしてることを」
「お前と俺が忘れても世間は忘れないさ」
「どうして思い出させるの」
「それが事実だから」
「あなたはいったい、僕をどうしたいの」
「手をほどいてくれ」
 手首をアレクの目の前に差し出す。
「それで?」
「さよなら」
 他に何の言いようもなかった。
「お前の側に居るのは苦しい」
「……冗談じゃないよ」
 アレクは拳を、俺の顔の横に叩きつける。
「冗談じゃない、そんなの、冗談じゃ」
「アレ、」
「ヤッちまうよチクショウ」
 項に噛みつかれる。膝を広げられて、間に身体を擦り寄せられ俺は息をのむ。腰からズキンと脳髄を通って、脳天まで貫く快感。
「離れらんなくしてやる。一晩だって一人で居られないくらい」
「お前の、兄貴がそうしたみたいにか」
 アレクの手がピタリ、止まった。
「薬や酒の中毒とおんなじで、振り切るの苦労したんだ。何回寝床に玄人呼ぼうと思ったか知れない。若かったからなんとかなったけどな」
「……サティ」
「もう一回あの地獄から、這い上がりきれる自信はない」
「なんの話ししてるの。僕はあなたを好きだって言ってるんだよ」
「そうか?お前俺をさ、身体で堕とそうとしてないか?」
「違う、そんなの」
「堕とされそうだよ俺は。違うなら、手ぇほどいてくれ」


 部屋の外に出てから、乱れた襟や前髪をなで付ける。  階段をおりると広間では医師と皇后が割れたカップや花瓶を片づけているところ。侍女は遠ざけられている。医師はてきぱきと立ち働き、皇后は時々手を止めぼおっとしている。
「なんでばらした。泣いてるぞ、あいつ」
 黙っていられなくて尋ねる。本当に不思議だった。彼女はどうして明かしたのだろう。密通の罪を、最も隠すべき我が子に。
「間違った道にあの子が踏み込まないように」
「妬いてんのかあんた」
「わたしはオストラコン王室の女よ。『父の犯せる女抱くは穢らわしきこと』違う?」
「自分はしたくせに」
 言いながら俺もシャツの袖を捲り上げる。
「わたしはいいのよ、もう。でもあの子はまだまっさらなの。あなたの手指で汚されたくないわ」
「……その通りだ」
 俺だって汚したくはない。限界をこえた我慢にガクガク震えながら、それでも俺の上を退いた、あんな素直な子を。
 医師は聞こえないふりを続け、俺たちは黙々と荒れた部屋を片づけた。


 その夜以来、俺はアレクと距離を置いた。はっきり言うと、遠ざけた。俺の館に出入り自由のIDカードは取り上げたし、あっちこっちに連れてあるくのも止めた。
 アレクは最初は腹をたて、次に哀訴し、どうしても俺が聞き入れないのを見て諦めた。最近は面会を求める間隔も遠いし、会っても事務的な話で終始する。


 軍の幼年学校を卒業したアレクが、士官学校の寮に入りたいと俺に言ってきたのは翌年の春。
「反抗期も大概にしておけ。母上を、お前が守ってやらなくてどうする」
 きつい口調で俺は諭す。
「そう言われると思ってたよ」
 元服して半年。背丈も態度も随分おとなびたアレクは苦しげに笑う。
「でも駄目なんだ、僕、母上が」
「駄目とかいいとかじゃないだろ、母親なんだから大事に」
「駄目だよ」
 きつく、アレクは首を振る。頭が良くて優しいこの子が、母親絡みだとやけに聞き分けがない。
「あの人とはいっしょに暮らせない」
「なんで」
「恨み言を言ってしまいそうになる」
 アレクは笑う。見てるこっちの胸が痛くなるような大人びた微笑み。
「彼女を恨んでるよ」
 いつからこんな風に笑うようになったのか。泣き喚く代わりに笑うようになったのは、
「俺のせいか?」
 問うと、俯き気味だった顔を上げた。
「違うよ」
 アレクの否定を俺は信用できない。
「母上も、僕が寮に入るのに反対はしてない。お互いの為に一番、いい手段だと思うんだ」
「お袋さんに確認をとるぞ。許可を出すのはそれからだ」
「いいよ」
 皇后は細い声で本人の好きなようにと言い、その場でアレクの入寮は決まった。
「ありがとう」
 礼を言ってアレクは部屋を出ていく。背中が傷ついてる。何があったのか知りたい。でもそれはできない。心の中には踏み込まないと決めた。踏み込ませないから。
 俺は執務室の机に突っ伏す。傷つけたいわけじゃない。でも他に手段を思いつかない。アレクには将来がある。いずれ皇帝として帝都に返り咲く。醜聞は、マズイ。
 正気になれと自分に言い聞かせる。あんな子供に、俺は何を考えてる。キスしたいとかして欲しいとか、抱きしめられたいとか……、ひどい妄想。
 寂しいんだろうかと自分に問いかける。俺は男に抱かれたいのか。雄が恋しいのか。昔の記憶が重なって、それでこう、アレクが愛しいのか。
 それも少しはあるだろう。俺は女で、処女じゃない。男とどうしてどうなるか知ってる。恋と欲望のさかいが曖昧で、よく分からない。
 灰色は黒と判断するのが戦略の大前提。俺はたぶん、あの子のことを……、喰いたい。
「喰ってしまえばいいのに」
 煙草と酒の量が増えた俺を心配して、レイクはそんなことを言う。
「兄に喰われた分、弟を喰ってもいいと、わたしは思いますよ」
「無茶言うな。喰われる奴の身にもなれ」
「そんなことを仰るあなたは、ずいぶんあの子供を愛しておられるんだなと思います」


 翌日、宮廷医師がやって来た。母太后の代理で入寮手続きの為に。うちの士官学校には国外からの留学生が多く規律は厳しい。
 父親同士が宿敵なんて同級生も居るから、かならず親または庇護者に一札、いれさせている。寮内で政治活動をしないこと、もめ事を起こさないこと、学業に専念し世間の事情を学内へ持ち込まないこと、等々。
 医師が誓約書に代理署名するのを、俺はじっと眺めていた。会うのはずいぶん久しぶりだ。この医師はブラタルとナカータを行ったり来たりしてる。ブラタルに居る時は休暇じみてゆっくり過ごし、ナカータのジェラシュのもとで帝都への政治工作に日々従事してる。
「なにか?」
 俺の視線に気づいた医師が首を傾げる。
「年とらないなお前。幾つなんだ?」
「さぁ、幾つでしょう」
 署名を終えて医師が差し出す誓約書を、俺は受け取り、隣に署名した。
「反対しなかったのか、アレクに」
「しませんでした」
「ふん……。俺が父親なら許さないな」
 独りぼっちの母親を捨てて出ていくなんて。 署名を終え顔を上げると医師は静かに、けれど凄味のある顔で笑っていた。唇の両端を吊り上げて、月夜の狼みたいな凶悪な笑み。今にも端がぺらりと捲れて、鋭い犬歯が見えそうな。
「母親が、おられないからですよご先代。あなたがそんな、ことを言えるのは」
「そうかな」
「そうです」
 断言されて、入寮手続きは完了した。


 そして、海の荒れた日暮れ。
 悪い知らせは唐突に訪れる。
「……え?」
 咄嗟に俺は意味が分からなかった。分かりたくなかったからかもしれない。ブラタル海峡から北東に1000ノウスほど行ったパミュラ海域、別名は魔の三角海域。岩礁の多い船の難所。そこで海兵学校の実習艇が消息を断った、なんて。
「乗組員は教官を入れて二十八名。捜索隊は差し向けましたが、悪天候で難行しています」「……俺も行く」
 やりかけの仕事はそのまま、俺は車を飛ばして港へ走った。個人所有の十数隻のうち、俺が選んだのはクルージング用の中型船。諸外国の賓客の接待や、ジェラシュが遊びに来た時、一緒に海へ出たりする。船体には不相応なほど強力なエンジンを積んで、タフな馬力を持つから。
「何やってたんだ、パミュラなんかで」
「海図作成の実習とか」
「測量か……。西に向かえ」
 岩礁が多く点在する海域を俺は指定した。といっても、パミュラ海域は広い。海兵学校の実習艇を見つけることが出来るか、どうか。陽は暮れていく。気温は下がる。海は荒れる。海の上で俺は、初めて自分から奇跡を望んだ。
 奇跡は、起こった。磁場のせいで使い物にならないレーダーの代わりに見開いた俺の目が船影を捕えた瞬間、
「……尊きかな、女神よ……」
 俺の口からは賛美歌の文句が出る。
 甲板で懸命に錨を巻き上げようとする士官学校の生徒たち。誰かが気づいて歓声をあげる。こっちの船からも応える。俺は接触しないよう接近するのに神経を使っていて、ずぶ濡れの生徒たちが合唱する『ブラタル海峡海戦』(古い軍歌で、海兵学校の校歌みたいになっている)を聞いている余裕もなかった。
 波浪の中、3メートルと離れず接近・停船することに成功した俺に、生徒たちから口笛と喝采があがる。俺はそれに応えるどころではない。梯子が渡されるのも待たず、
「アレクは?」
 甲板から乗り出して大声をあげてしまう。
「アレク、アレキサンドル。無事かッ」
 生徒たちから押し出されるようにアレクが前に来る。戸惑った顔のアレクが梯子を渡ってきた途端、俺はアレクを抱きしめていた。
「……サティ?」
 腕の中でアレクが困ったように呟く。
「よぉし全員こっちへ移れ」
「急げ。でも走るなよ。班ごとに集合、点呼。揃ったら報告」
「サトメアン、あの」
 困って離れようとするアレクを、俺はきつく抱きしめて離さなかった。


 嵐を避けて緊急避難した湾内。最奥の港は誘導照明設備のない小規模なものだったから、大事をとって俺たちは湾内に停泊した。
 生徒たちはそれぞれ、好きな部屋を使わせている。二十数室ある部屋は、休暇を過ごす為の遊覧船だから豪奢な調度が置いてある。物珍しげに探検する少年たちのざわめきが、俺の部屋までかすかに聞こえていた。
 俺の向かいにはアレク。俺の服に着替えて、居心地悪そうに茶を飲んでいる。生徒たちの歓声が聞こえるたびに肩を揺らして、まるで群れに戻りたがる野生動物。
「……」
 俺は戻したくなかった。そばから離せなかった。何度目か、俺はアレクに手を伸ばす。指がアレクの髪に触れる。そっと抱きしめかけた時、
「いい加減に、してよ」
 押し殺した声で、苦情。
「なんのつもりだよ今更」
 俺にはなんのつもりもない。ただ無事を確認したいだけ。触って、確かめたい。
「触るな。どうせすぐ突き放すんだろ。抱いちゃ駄目ならそばに来ないでよ」
 俺は抱きしめようとする。アレクは俺から逃げる。軽いいさかい。もちろん本気じゃない。本気じゃないとはいえアレクに押し負けて床に仰向けに張り付けられて、驚いた。
 大きくなったものだ。
 初めて会った時は俺の胸くらいまでしかない子供だったのに、そういえば甲板で抱きしめた時、背丈は同じくらいだった。そんなことを考えながら間近のアレクをじっと見る。アレクはふっと、目をそらした。
 俺は身体の力を抜く。キスを待つつもりで目を閉じる。アレクは一瞬だけ動揺したが、無言のまま、俺の上から退いた。
 俺を床に棄てたままアレクは立ち上がり、部屋を横切る。鼻先でとりあげられる餌に、そんな何度も食いつきゃしないよ、という意地が背中に見える。でも意地ならば俺も負けない。
 追わず振り向かず、俺は立ち上がり部屋の壁に手を掛けた。
 カタンと軽い音がしてて壁が折れる。内側は隠し部屋。いや部屋というスペースはない。ベットが置いてあるだけの空間。同行者から離れて休息をとる為の。
 アレクがドアに手を掛ける。逃がすか、という気分で俺はドアに、脱いだ靴を投げつける。大きな音がして、さすがにアレクはびびったらしい。振り向く。見えないが、そんな気配がした。
 俺は背中を向けたままベットに膝をついて靴を脱いだ。着ていたシャツの、ボタンを外しながら。
「鍵かけて、こい」
 背中をそらしてアレクを見て、言った。流し目はわざとだ。アレクが息を飲む音。
 ガチャガチャ、部屋の鍵をいじる音。焦りすぎてうまくかからないらしい。無視して俺は服を脱ぎ続ける。ようやくカチリと錠がおり、物凄い勢いでアレクは戻ってきた。
 背中に触れる、若いしなやかな肢体。ベットにうつ伏せられ項に歯をたてられる。たしかな重さと暖かさ。
 身体をかえされ仰向けにされ腹に乗り上げられて、ようやく俺はアレクが生きていたことを実感する。凍りついていた顔の筋肉が緩