男たちに事情の説明を求める。

「テロリスト、のようだ」

 ずいと身を乗り出して俺が答える。

「乗っていた車を狙われた。幸い被害はなかったが。こいつらは俺の警護の者たちだ」

「貴殿の名は?」

「アクナテン・サトメアン」

 俺の名乗りを少尉は聞き咎める。

「なんですって?」

「ナカータの前領主だ」

 補足の一言に少尉はぽかんと口を開け、まじまじと俺の顔を見た。

「東方の黄斑……?」

 呼び名に俺は苦笑を漏らす。それは帝国の戦史記録書が俺につけた、すかしたふたつ名。

黄斑というのは虎のこと。結局はサラブにつけられた仇名と同じ意味。

「正直に言ってくれて構わない。ナカータの人食い虎と」

 船乗りなのになんで虎なのか、俺にはいまだに理解できないが。

「前ナカータ公ですか、本当にッ」

 少尉の叫びに背後の警備隊員もざわめく。慌てた仕種で少尉は胸ポケットから白手袋を取り出しはめて、ピッと敬礼をした。

隊員たちもそれに習う。ゆったりと俺は、中指と人差指を重ねるナカータ独特の返礼。

「失礼いたしましたッ。わたくしは第十六警備隊所属、第七小隊長のオラニエ・ライデンと申します。

爆発音ありという市民からの通報を受け、出動いたしました」

「騒がせて済まないな」

「とんでもありません。むしろ帝都にてテロリストを横行させた不始末をお許し下さい」

「犯人は警護の者が追ったが逃がしてしまった。じき追っていった連中が戻ってくる。奴らから事情を聞いてくれるか」

「ご協力感謝します。犯人検挙に向けて全力で努力しますッ」

 ちからいっぱい答える少尉の目には憧れと感動があった。少尉だけではない。

警備隊員全員が俺を憧憬の眼差しで見つめている。少年が花形スポーツ選手を眺める時のような。

 俺はよくよく、軍人にもてるらしい。隊員が日誌を持ってくる。受け取って少尉は、

「サインを戴けないでしょうか。西国境戦争の英雄にお会いできた記念に」

「大袈裟すぎるようだが、騒がせた詫に署名はしていこう」

 日誌のページに名前を記す。そして。

「連れが居るんだ。もう行っていいか」

「あ、はい、あの、サインをありがとうございましたッ」

 俺が専用車に近づくと後部座席のドアは内側から開けられた。そのドアに手を掛け隙間を体で隠しながら俺は、

「一人で帰れ」

 残酷な言葉を投げる。

「俺は今夜は暇がない」

「犯人の始末つけるの。僕も同席する権利はあるよ。一緒に狙われたんだから」

「ナカータ公邸に行くんだぜ。あそこ治外法権だぞ」

「行くよ。何処にでも行く」

「ジェラシュが主人なんだぜ?俺ぁお前の安全に責任持てねぇよ」

 ジェラシュと母太后は仲が悪い。

アレクが皇帝に即位した後、情け容赦なく利権をむしりとったジェラシュは帝国の受けが悪いし、

ジェラシュ自身、母太后とアレクを何だか毛嫌いしてる。俺から見ると不思議なくらい。

 ふだんのあいつなら、もっとアレクを上手く手駒にすると思うのだが。

「離れたくないんだ」

「俺をそんなに困らせるなよ。皇帝陛下が行方不明になったら大騒ぎだ」

「帰らない」

 強情に皇帝は言い張る。

「アレクサンドル」

「いつまで滞在予定なの」

 声の調子が変わった。哀願から威嚇へ。

「野暮用で来たんだ。すんだらすぐ帰る」

「用って、なに」

「ちょっとな」

 俺がこんな風に誤魔化す時、決して答えないことを知っているアレクは唇を噛む。沈黙は、長い。

「……さっきの話、終わってないよ。明日、晩餐会があるんだ」

「俺に宮廷の広間で飯食えって言うのか」

「部屋で待っててくれればいいよ。来てくれなかったら僕も晩餐会に欠席して、ナカータ公邸の前で大声あげるから」

「無茶言うな」

「脅しじゃないからね」

「分かった。明日、行く」

「泊まってくれるね?」

「あぁ。……宮廷の道を知らない。誰かに案内させてくれ」

 アレクはようやく納得し頷く。そして。

「上着貸して。あなたの代わりに抱いて寝る」

 俺はさっと脱いでシャツ姿になる。体温の残るそれをアレクの膝に投げてた。

 車を見送って向き直ると、陥没地点では検証が始まっていて、警備隊員たちは犯人手配の為に現場を離れている。そして。

「ご災難でしたね、サティ様」

「かすり傷ひとつなしかよ。悪運強ぇなぁ」

 影のように立っているのは俺の側近中の側近。酒場に迎えに来ていたレイクとアケト。

「犯人は公邸に運び込んであります。ジェラシュ様が尋問を申し出て下さいましたので、お任せしてあります」

「いそがねぇと蹴り殺されちまうぜ」

 ジェラシュの名前を聞いて気が重くなる。

「行きましょう」

 レイクに背中を押すようにされて、俺はようやく歩き出す。

 

 そして、翌日。

 ナカータ公邸は郊外の高台にある。広々とした敷地と瀟洒な幾つかの建物。

最新のセキュリティ・システムに守られたそこには常時、二百名近い護衛の軍人が待機する。

 奥行きのある本殿の最奥。噴水のある中庭に面した寝室の扉が叩かれた日暮れ時。俺はまだ、泥のような眠りの中に居た。

 俺の返事を待たず側近たちは扉を開ける。

「起きろよ、サティ」

「夕方ですよ。今夜の晩餐会に出席されるんでしょう?招待状が来ています」

「あーあ、服着たまんまじゃねぇか。疲れとれねぇぞ」

「女官らが苛々してますよ」

 代わる代わる寝台を揺すったり蹴飛ばしたり。それでも反応しない俺に業を煮やして、蒲団を剥ぐかとアケトが腕捲りした瞬間、

「寝かせておこう」

 開け放した扉から声が掛かる。そっと薄目を開けて見ると、立っているのは公邸の主人。

「昨日は誘拐されかけて、ミサイルで撃ち殺されそうになって、犯人尋問して、

おまけに夜明けまで国許と連絡を取んてたんだもの。疲れているんだよ。寝かせておくさ」

「ご領主、しかし」

「妬くな、ジェラシュ」

 きつい口調のアケトに、ジェラシュはむっとした表情。

「呼び捨てにするな。臣下のくせに。僕を呼び捨てていいのはこの世で叔父上だけだ」

「そっちこそ威張るな。この世に生まれてこれたのは誰のお陰と思ってる」

「どっかの誰かがたった十五で、どっかの女に夜這いかけたせい」

「分かってるなら父親を敬え」

「父親ってなんだよ。胤まいただけで父親ぶる気なら勘弁だ。僕の父上はそこに寝てる人だ。拾って育てて、ナカータをくれた」

「お前なぁ」

「アケト、口を慎め。ジェラシュ様はナカータのご領主だ。お前は後見役を、既に罷免されている」

 レイクがジェラシュの肩を持ち、アケトが反発して更に大声を出す。

喚き声に目を覚ましたふりで、俺はゆらりと起き上がる。俺が起きると言い合いはピタリと止まった。

 浴室に向かう途中でジェラシュに笑ってやる。すらりと背が伸びたジェラは異母兄によく似た、瞳の印象的な顔を伏せる。

 

 ネクタイを結んでいると、

「オストラコン王女から電話がありました。車が故障したから途中から同乗させて欲しいそうです。……どうします?」

 レイクが小声で、そっと伺いをたてる。

「放っておけ」

 俺は答えた。

 オストラコン王国の公邸に替えの車は山ほどある。車の故障を口実に、俺に何の用だ?

 着替えを終えて、公邸を出ようという時、

「正門前に、王女様待ち伏せしてるぜ」

 アケトが知らせに来る。

「ジェラシュは?」

「お前が行くっていうから奥でふてくされてる。今夜の晩餐会も欠席するとさ」

「大丈夫ですよサティ様。ここは帝都です。ご領主も無茶はなさらないでしょう」

「裏口に車を……」

 いいかけてふと、俺は気が変わった。

 

 ナカータ公邸の正門前に、まるで喧嘩を売るようにピタリとつけられた車。後部座席のドアが開き女が姿を見せる。

「サティ……」

 晩餐会用の、デコレーションケーキのような量感のあるドレスを纏った美女。懐かしくってつい、俺は口元を緩める。

 門扉が開き、美女はドレスの裾をつまみあげ俺の乗った車の後部座席へ。

内側から身体を乗り出して俺は彼女の為にドアを開けてやる。身軽な仕種で彼女は俺の横にぴたりと腰をおろした。

「久しぶりね。少し痩せた?」

「……そうか?」

「会いたかったわ」

 ため息のような呟き。

 レイクとアケト、どちらの判断か、運転席との仕切が下りる。余計なことをと思う間も無く、女の腕が肩に絡んでくる。

「よせ」

 言ってふりほどこうとしたのは、女の裸の腕の感触があんまり気持ちが良かったから。

絹じみた肌理と柔らかな弾力と暖かさ。この腕に抱かれることが幸福だった頃を思い出す。

 女は笑って腕を引いた。暖かな記憶だけ俺に残して。ねぇ、と、柔らかそうな唇が動く。

「わたしまだあなたを愛してるわ」

 俺は返事をしない。俺も愛してるような気もしたし、それは昔の記憶みたいな気もした。

「あなたがわたしより領主を選んだ時は憎んだけど。恋人より養子って可愛いもの?」

「あの子に俺は苦労を押しつけた。置いて他国に婿入りは出来ない」

「進歩のない男。昔と同じ台詞を吐くのね。状況は日々変わっているのに。あなたの養子はもう立派すぎるほど大人よ」

「そうだな」

 言って、俺は王女の手をとる。持ち上げて額に押し当てた。

「……なに?」

「写真をくれないか」

「写真?どうして?」

「長い航海に出るんだ。写真が欲しい。お前と、子供の」

「嫌よ」

 勝ち誇った表情で王女は手を取り戻す。

「わたしまだあなたを許してないわ」

「そうか」

「女にとってホントの敵は男でも女でもない、子供よ。それも余所の女が産んだ子供。

わたしは今なら、あなたを毒殺しようとした女たちの気持ちが分かるわ。

他の女の子供に男をとられることは、男の心変わりよりはるかに我慢できない。絶望は愛情より強いのね」

 他人ごとのような口調でティスティーは言う。それが彼女の結論らしい。おれは黙って彼女の結論を受け入れた。

「ところで、話があるのだけど……」

 言いかけてふとティスティーは顔を上げる。車窓の景色は王宮のある丘ではなく陰欝な森。

「何処に向かっているの、あなた。王宮に行くんじゃないの?」

「行くけど途中で、墓参り」

 俺が言うなり、ティスティーは美しい眉を逆立てる。

「一緒に来るか?」

「まさか、冗談でしょ」

 俺は一人で車を降りた。車の中からの、

「色男の皇帝陛下にあれだけ執着されても満足できないの?別の男が居るくせに昔の男に花を供える、節操のない『女』ね」

 捨て台詞に背中を押され、歩き出す。

 

 墓所を囲む花園。風にそよぐの花の色も既によく分からない夕暮れ時。

前もって知らせていたせいで司祭が出迎えた。廟の一つに案内される。

 滅多な人間が立ち入れない廟の最奥、安置された棺の中で死んだ男は生前の姿を保っていた。

最後の審判の日に蘇る為に防腐措置された遺体に近づく。ガラスの棺に手を掛ける。

賄賂の額がものを言って、司祭は見て見ぬふりをする。

 享年は二十八歳。今の俺より二つ年上。

「このお若さで、さぞご無念でしょう」

 司祭の言葉に俺はうなずけない。十六で死ぬ予定だった彼は、余生を時々持て余す。

 棺の蓋を開けるとひんやりとした冷気。司祭は数歩、俺から離れた。

花束を遺体の横に置く為に屈むふりをしてキスした。冷たい唇。 本当の目的はキスではない。

髪に指を絡めること。何度も髪をすいてやり、俺は遺体から離れ待たせていた車へ戻った。

「如何でしたか?」

 ドアを開けながらそっとレイクが問う。

「本物、のように見えたが、分からない」

 指に絡んだ数本の髪を俺はレイクに渡した。

「大至急、DNA鑑定を行ないます」

 レイクの言葉に俺は頷く。薄闇に影絵のように浮かぶ墓地の向こうで、死んだ男が、笑ってる気がする。

 

 王宮の車寄せで、

「じゃあな」

 俺はティスティーと別れようとした。

「晩餐会に出席するのではないの?」

「まさか」

「皇帝の寝室に行くの?愛しているの、彼を」

「それなりに」

 ティスティーの顔が青ざめる。唇がめくれる。かなり悲壮な、微笑み。

「そう。じゃ、いい事を教えてあげる。あなたの来訪、母太后にばれていてよ」

 歩きかけていた俺の足が止まる。

「どういう手筈になっているか知らないけれど、奥にはきっと、罠が張ってある。

相変わらず馬鹿ねサティ。わたしの絡み方、唐突だとは思わなかった?あなたを暗殺する計画があるのよ」

 俺は踵を返しティスティーの前に戻る。優しい女のティスティーが伸びて俺の後頭部を抱いた。

俺は屈んでむきだしの肩にそっと、額を寄せる。

「他の女に殺させやしないわ……」

 ため息のような呟き。

「写真をくれよ」

「あなたはわたしよりナカータの領主が大切なのでしょ」

「比べられない。ただ、責任があった」

「わたしにはなかったって言うの?最初の時、わたしをベットに誘ってくれたのはあなたよ。忘れてしまったの?」

 まさか、覚えている。昨日のことのようにはっきりと。

 

 俺が十四になった時、まだブラタルは辺境の小領地だった。

しかし俺はサラブの連中を相手に、既に八戦八勝くらいしていた。

成人式の祝いに来たのは軍人が多くて、右も左も無骨な野郎どもの中、

肩と背中を剥き出しにしたドレス姿のティスティーが、輝くように美しかったのを覚えてる。

 幼馴染みで仲が良かった俺の成人をティスティーは喜んでくれた。俺に、素敵な殿方だわと、と言って笑った。

式が終わって宴会が終わって、最後の賓客を送り出すまでティスティーは残って、俺のサポートをしてくれた。

何処の誰で、どの程度の相手か、となりで囁いてくれ続けた。

 そして。

 じゃあ帰るわとティスティーは、結い上げていた髪からピンを抜きながら言った。

そのピンが青い花模様だった事まで、俺はよく覚えてる。

 帰るのか、と俺は尋ねた。

 ええそうよ遅いものとティスティーは答えた。多分本当に、彼女は意味が分からなかったのだ。

一部では年下の俺を誘惑した淫婦。みたいに思われてるティスティーだが実はウブかった。王家の女ってのはそんなもんだ。

 でも俺は違った。軍隊育ちで、そのうえ男だった。しなやかで美人できつくって、そのくせ俺にだけ優しい彼女を、食いたかった。

 帰るのか、ともう一度聞くと不思議そうに立ち止まる。怖じ気も恥じらいもない明るい瞳を見て、こりゃ駄目だなと俺は思った。
鈍い。何も気づいてない。

 ムードのなんのと構っちゃいられない。真っ直ぐ言わなきゃ、この女には伝わらない。

『帰るな。泊まっていけ』

『……え?』

『俺の部屋にさ。俺大人になったろ?』

『え、あの、サティ』

『二年も待たせて悪かったな』

 ティスティーは俺より二年前に成人式を済ませていて、縁談は降るほどあることを俺は知っていた。

 俺はこの女を他人に渡すつもりはなかった。俺のものだと、最初から思っていた。

『……本気?いいの?』

 そして女もそのつもりだった。当然だ。俺たちはガキの頃から仲が良かった。

『あたしきっと面白くないわよ。なんにも知らないもの』

 俺が差し出した手にティスティーは指を乗せる。

『俺もだ』

 と言ったのは、嘘。知識はあった。男なら当然の興味と好奇心で、俺はなにをどうするかってコトは、とおの昔に知っていた。

 その場にはティスティーの侍女も居たし警護の騎士も居た。騎士の中にはティスティーの婿候補も居た。彼らが目を剥いたから、

『走るぞ』

 俺はティスティーの手を引いて俺の寝室に走った。

ティスティーはドレスの裾をたくしあげて、お転婆姫らしくけっこうな駿足でついてきた。

扉の前で、それでも床入りらしく俺はティスティーの膝を掬って抱き上げた。

ティスティーは悲鳴に似た声をあげる。俺はそうして、人が来るのを待った。

『明朝、迎えに来い』

 追いかけて来てたティスティーの従者と俺の近親、親代わりのレイクなんかの顔が見えたところで言って、

ドアを閉める。片手で鍵を掛けて寝台におろした。ティスティーはびっくりした顔をした。

『驚いたわ。わたしを抱き上げれるのね、あなた』

 心底感嘆している顔が可愛くて嬉しくて、当たり前だろと俺は胸を張る。

女としてはかなり長身のティスティーは、鍛えてる分けっこう重くて、ドアから寝室までが精一杯だったことは隠した。

二年後には帝国王宮の長い回廊を平気で歩けるようになってたが、当時、背丈はまだ俺が低かった。

 小犬同士みたいに俺たちはじゃれあって、なるようになった。

扉の向こうからは暫く騒ぎが聞こえていたが、二人とも、それどころではなかった。

 

「サティ。あなたって本当に、可愛がってる相手にはこう……」

 十二年前と変わらない美貌で女は微笑み、掌を耳の横に立てる。

「なるのね」

 視野が狭い、という意味か。

「あのナカータ領主はあなたが思ってるよりずっとキツイ男よ。残酷なこともあくどいことも平気。

そしてあなたに、ずいぶん執着しているわ」

「そうか?」

「そうよ。他人に渡すくらいなら殺してやる、って風な自棄さがわたしには恐い。

わたし負けてるわ口惜しいけど。あなたを助けに来てしまったものね……」

 呟きの意味を考える間も無く、

「ご先代、こちらです」

 例の宮廷医師が歩み寄り、袖を引く。引かれるまま歩き出した俺をティスティーは、皮肉な目で見送った。

 

 一時間後。

 俺は宮廷の中を歩いている。服装は宮廷書記官のもの。文書の束を抱えていればたいていの場所には出入りできる。

医者は回廊の途中で置き去りにした。通りがかりの書記官を失神させて服を剥ぎ、入れ代わるのは簡単な事だった。

 皇帝の私室がある奥宮から庭を挟んで回廊で結ばれた館。距離は歩きで十五分ほど。見張りは居ない。

遠隔警備システムは作動しているが空き家らしいのは荒れた庭の感じで分かる。

 警備システムのカメラに俺は左手の指輪を押しつけようとした。その前に警備装置に瞬かれてしまう。

しまったと思う間も無くロックは解除され、開かれる扉。

 何が起こったのか一瞬、分からなかった。俺は後ろに飛びすざった。

警備システムの網膜登録が生きていたのだと、思いつくまでに七秒くらい必要だった。そういや昔、登録された事があった。

 開いた扉の招くまま奥へ歩く。廊下の最奥、死んだ男の寝室。

 二度と来ることはないと思ってた部屋。

 しんと静まった空間。でも空気は新しい。少なくとも、何年も閉め切られた部屋の匂いじゃない。

人が時々は歩き回っている感じ。 記憶通りの部屋だった。二間続きで手前が居間と書斎を兼ねた一室。

奥に寝室、右手に浴室がある。ただし家具は簡素で実用本位だ。奥の寝室の寝台に垂れ幕はない。

 クローゼットを開いた。並んだ服は上品なスーツと軍服とコート。机の上には写真立て。

中身の写真はなくて、枠だけ不自然に放置されていた。

 引き出しを開けてみる。あったのは便箋と羽根ペン。便箋は半月ほど前に受け取ったものと同じ。

一番上のを千切って透かし見る。ペンを走らせた痕跡が残っていた。

「……化けて出たか、廃王子」

 呟く声が不覚にも震えた。

「九年もたって、なんで今頃?」

 返事はない。でも居るはずだ、そこに。カーテンの向こう側。人の気配がする。

「きっとお前に未練があって、よ」

 聞こえた声は女の声。

 真っ白い繊手がカーテンを退ける。思わず俺は手伝ってしまった。厚手の緞帳に手首が折れそうだったから。

こんな細い指した女を他に知らない。形よく磨かれた爪も。

 ナカータ帝国の母太后。アレクの母親。そして死んだ男と密通していた、女。

 紳士的に振舞う俺を母太后はちらりと見た。だまされないわ、という風に。

「あんたはなんで俺をそう嫌うんだ」

 母太后は背中に右手を隠したまま俯く。

「嫌ってはいないわ。憎んでいるだけ」

「余計、悪い」

「あなたも好かれては迷惑でしょう?」

「愛してくれて構わないけどな」

「演技はもう、止めにしてちょうだい」

 母太后の口元は皮肉に緩んでいる。

「あなたがわたくしに好意を持っている筈がないでしょ」

「どうして勝手に決めつける。俺のことがあんたに分かる訳ないだろ。俺はあんたを好きなんだぜ」

「嘘ばっかり」

「本当だ」

「言い張るなら理由を言いなさいよ。できないでしょ」

「尊敬してんだよ」

 母太后は笑ったが俺は真面目だった。左手の甲を彼女の前にかざす。

「見えるかい?薄い傷があるだろ。昔、俺のお袋は俺の手の甲に傷が残るほど俺の手を握って死んだ。

そん時、俺は四つ五つで。お袋はさぞ死にたくなかっただろうって、自分がガキを育ててみて思った」

 母親と子供の話で母太后の顔色はほんの少し柔らぐ。

「だからあんたがアレクを連れて逃げてきたとき、あんたを尊敬したよ。女の身で子連れの帝都脱出は大変だったろう。

母親ってのは神様だと思った。俺が帝都を奪還したのなんか、それに比べりゃなんでもないことだ」

「大人ね、あなたは」

 女は笑う。毒のある笑み。それでも俺の方を向いた。

「わたしたちはもっと以前に、とんでもない出会い方をしてた筈よ」

「あれは、とんでもなかったな」

 せいぜい遺憾そうな顔つきと声で、もっともらしく眉間に皺なんか寄せてみる。

「とんだもない男だったぜ、あいつ」

「ひどい人だったわ……」

 女の声の、細い呟き。

「皇子はわたくしの心と体と、正直さや真実、純粋で真っ新な全てのものを、奪った。

そしてあなたは皇子より遙にひどい人。あなたは私から皇子を奪った」

「まさか」

 母太后の言い草を俺は笑い飛ばす。

「俺はあいつに利用されただけだ。あんたも」

「不義だったけど子までなしたの、あたくしたちは。そしてあなたはわたくしの息子まで奪った。わたくしは、あなたを許せないわ」

 銃を構える母太后。

「……淫売」

 指が震えている。でも目線はひたりと俺を捕えている。

「わたくしは皇子だけだった。愛したのは皇子一人だった。だから淫売と、罵られるのはわたくしでなくあなたでなければならない」

「俺だって複数同時進行させた事はない」

「あなたは皇子の恋人だった。なのにあたくしの息子まで。あたくしと皇子の息子にまで」

「父子両天秤かけたのはあんたが先輩だ」

「いいえ」

 女の唇は血の気が引いて青い。

「わたくしは夫からは愛されなかった。夫のことを愛してもいなかった。あなたは皇子と私の息子と、両方に愛されて」

「アレクサンドルのことは、あんたとそのうち、話し合わなきゃならないと思ってた」

「皇子はあなたに譲ってあげる。だけど息子はあたくしのものよ。あなたは皇子のところへ行きなさい」

 女の指に力が入った瞬間、俺は床を蹴った。低く構えて女の膝を抱え倒す。女はあわてて引き金を引く。

弾丸は肩をかすった。けど、悲鳴は女の口から上がる。

 俺が手首をひねりあげたから。掴んで床に押し伏せる。拳銃が床を滑っていった。

「自棄になるなよ。どんなに俺が気に入らないとしても、こんな風に自分で手ぇ下すもんじゃないぜ」

「お前のことをずっと嫌いだったわ。お前はわたくしの大切な人ばかり奪っていく」

「俺もアレクも、あんたを殺人未遂で刑事告訴なんざしやしねぇよ」

「離して、離しなさいッ、無礼ものッ」

「一つ尋ねたい。あいつはあんたにも連絡してきたのか」

「なんの事よ、それよりもこの手を」

「俺のとこに奴の幽霊が出たんだ」

 女は抵抗の動きを止め目を見開く。まじまじと俺の顔を眺め、俺が真顔で、ごく真剣だということを悟るなり。

 じんわりと、しみ出してくる涙。

 潤んだ瞳は美しい。そして赤い唇から発される、まがまがしいほど高い笑い声。

「あはは、は……。……どうして悲しいのかしら。あの人が私よりあなたを愛していた事、わたくしとおに承知していたのに」

 涙は泉のように溢れる。

「それは、違う。お前より俺に利用価値があっただけだ」

 俺はごく冷静に呟く。

「あいつは誰も愛していなかった。俺もあんたも、あいつに利用されただけだ」

「違うわ」

「だから俺はあんたを他人とは思えなかった」「皇子がわたくしを愛していた時はあったのよ。だからわたくしはあの子を産んだの」

「まだ信じてるのか、あの男のことを」

「あなたは信じていないの?いい気味だわ、クラシカル。今際の際に会いたがった相手に信じて貰えずに」

「……なんだ、それは」

「そう、あなたは知らないのだったわね」

 破れかぶれになった女の強さを見せて、潤んだ目のまま母太后は微笑む。

「あの人の死に目にあなたは会っていない」

「海賊討伐で海の上だったから」

「あの人はあなたに会いに行こうとしたのよ。もう一人ではろくに歩けなくなった時期の深夜。

腹心の医師に手伝わせて帝都を抜け出そうとしたわ。

除籍された皇族は勝手に帝都を出ることができないから、あの人は見つかって連れ戻された。

父帝とわたくしの前であの人、なんて言ったと思う?」

 涙をまきちらしながら、甲高い笑い声。

「わたくしの前で、わたくしの前で言ったのよ。死ぬ前にあなたに会いたいと。最後だから見逃してくれと。

廃皇子の称号さえ剥奪されてもいいと言ったわ。

皇籍を剥奪されて以来、父親に柔らかな態度をとらなかったあの男が、頭を下げて哀願した。

あなたの為に、わたくしの目の前でッ」

「その話なら、知ってる」

 女が泣くから、俺はかえって冷静になる。

「直接会って俺に、どんな話があったんだろうって思ってた。……あんたとアレクを見て分かった。

アレクがあいつのタネだって事くらい顔みりゃ分かるから。廃皇子はきっと、アレクが自分の息子だと、俺に明かして」

「……違うわ」

「アレクのことを俺に頼みたかったんだろう」

「違う。あの人はアレクサンドルのことを愛してはいなかったわ」

「泣かないでくれ」

 母太后の涙を拭ってみる。

「あんたに泣かれると俺まで悲しくなる」

「あなたはいいじゃない、悲しむことはないじゃない。皇子に愛されて、私の息子にまであんなに愛されて」

「初めて会ったとき、あんたは不安で仕方ない顔をしてた。ホントは信じ切れなくて苦しいのに、

無理矢理信じて精一杯、あいつを庇おうとしてた。あんたは俺だよ。俺と同じだ。あんたの痛みが他人事に思えなかった」

「しかもあなたは若いわ。私より遙に。あの人を惑わして私の息子を狂わせておいて」

「あんたは、多分、信じないだろうが」

「あなたなんか、あなたなんか」

「俺はあんたが大事なんだ。ずっと前から」

「わたくしにも誰もが振り向く頃はあったのよ。あの人が振り向いてくれたこともあった。

父帝の寝室に侍るわたくしを想像すると嫉妬で眠れないって、言ってくれたことも、あったの……」

「いまでもあんたは大した美女だ。最近少し、疲れていたけどな」

 しゃくりあげる母太后は俺の腕を拒んでいない。大人しく抱きしめられている。

「……ねぇ」

 静かな声で、彼女は語りかける。

「本当よ。本当に、あの人はわたくしを愛してた事があったの」

「かもしれないな」

 俺は逆らわない。優しく髪を撫でてやる。女は甘ったるくすすり泣く。

「アレクの、ことだけどな」

 だっこしてやりながら、俺は肝心の話しをした。

「用が済んだら俺は帝都を出る。二度と来ない。だから俺を狙わせることは止めろ」

「あの子が追うかもしれないわ。あの子はあなたを好きなのよ」

「追ってこれないところに行くんだ。遠くに。それで、あんたのことだけどな。……隠棲するのは厭か?」

「厭よ。わたしはまだそんな歳ではないわ」

「それが一番いい手段なんだ。あんたは聡い。分かるだろ?どうせアレクが結婚すれば、王宮の女主はその花嫁になる」

「させないわ。ここはわたくしの帝国」

「このままじゃアレクは母親を追放したって悪名を背負う。俺が親父をそうしたのとは訳が違うぜ。

親父は俺を嫌ったがあんたはあの子の恩人だ。しかも、あの子は男色に溺れてっていう不名誉のおまけつきだ」

「もっと実際的な解決法も、あるわよ」

「俺を暗殺するか?ブラタルの海峡主はあんたに殺されるような男じゃねぇ。

それに万一、成功でもしたら、あの子は母親殺しの悪名を背負うことになる」

「自惚れているのね」

「好きな男、居ないのか。いっそ再婚しちまえばあんたは母太后じゃなくなる。

あの子に半分流れてる外国人の血も薄まって、統治もしやすくなるだろう」

「……不思議ね。話を聞いているとまるで、お前はあの子の為を考えてるみたい」

 考えているとも。

「あんたも我が子が可愛いならここは思案どころだ。

……あんたが可愛いのは息子か、それとも母太后として帝国に君臨できる地位か」

「嫌なことを言うのは相変わらずね。でもその口車にわたしは乗らないわ」

「俺は口だけの男じゃない。ちなみにあんたに、選択権はないんだ」

 ドレスの裾を捲り上げる。下着はオストラコン風の、古風なガーターで留めるタイプ。

このテのは脱がし慣れてる。甲高い悲鳴が耳元であがった。

「止めて、止めなさい、無礼ものッ」

「あんたのことを好きだよ」

「嘘つきッ」

 断言されて心外だった。

「嘘なんかつく男か、俺が」

 ぼやきながら、でも脱がせる手は止めない。

「ずっと大事に思ってた。なんせあんただけ、俺の仲間だから」

「なんの話、気でも狂ったの」

「あの悪魔が悪党だって、知ってて惚れちまった仲間。あいつの誠意や愛情が欲しかったこともあった。大昔だけどな」

 俺を罵る赤い唇が息を呑んで、震える。俺の台詞は彼女を口説く為だが嘘じゃない。嘘で口説かれる鈍い女は居ない。

「俺は恥をかいたよ。身近な奴らをずいぶん傷つけたり、心配させたりした。

そうなるって分かってたくせにあの頃、あの悪党を信じた。信じたかったからさ。俺だけ特別だと思いたかった。

……賭け事から抜け出せない気持ちと似てるかな。どう思う?」

「知る、ものですか」

 女の言葉は震えていた。動揺してる。彼女も思い出しているのだろう。結末は破綻だと知っててハマッてく、あの戦慄と快楽。

「俺の不幸は俺の責任だ。あんたの苦労も。誰に強制されたんじゃない、あの男を愛したのは俺たち自身だから。

それでも好きにならずにいられなかった、あの気持ちわかってくれるのあんただけさ」

 毒も蜜も、同じ杯から啜ったこの女を、

「愛してるんだ。他人とは思えない」

「……ティスティーに言いつけるわよ」

 いましがた別れたばかりの女の名を出され、俺は苦笑。

「随分まえに別れたんだぜ、俺たち」

「お前はアレクを愛しているのでしょ」

「そう。だから傷つけないうちに上手く別れたい。協力してくれないか」

「自分勝手だわ」

「みんなそう言うよ」

「なんて性悪な奴」

「うん。……俺は、あんたが本当に権勢にしがみついてるとは思えない。なんかの代わりじゃないのか、それ」

「やめて」

「あの男は死んだ」

 たぶん、と、俺は心の中でつけ加える。そうじゃない可能性を殺してハッタリをかけるのは慣れてる。

戦場で何度もやってきたから。

「もう帰ってきやしねぇ。という訳で、アレクの為に生きようぜ俺たち。結婚しないか」

 手はとおに止めていた。母太后が冷静になっていたから。

どんなに激昂していても身体に浸食されかけるとパッと頭が醒めるのが女。男とは逆の生き物。

「わたくしとお前が?何の冗談よ」

「形式だけでいい。俺はじき、長い航海に出る。そん時のブラタルがちょいと心配なんだ。油断ならない奴らばかりだから」

 アレク、ティスティー、そしてジェラシュ。みな俺に敵意を見せたことはないが、俺が居なけりゃどうなるか分からない。

「留守番していて欲しい訳だ。母親が居る処をアレクが侵略する訳にもいかないし、逆にあんたが攻撃されれば助けに来るだろう」

 帝国を相手に色気出すほど、ジェラシュもティスティーも馬鹿じゃない筈。

「三竦みさせておこうって訳?本当にずるい男ね。わたくしが帝国軍を手引きしたらどうするつもり」

「そうなればナカータとオストラコン王国が黙っちゃいない。

地の利がある上に俺の子供が旗頭なら、ブラタルの住人はみんなそっちにつく。ブラタルをオストラコンとナカータにやるか?

帝国は、苦しいことになるだろうよ」

 三国が連合すれば東方諸国の支持も得られる。大陸帝国逆征服も不可能ではない。

「あんただって息子から追放されるより、俺と再婚の方がずっといいだろ?贅沢させてやるぜ、俺が居ない間」

「ティスティーとアレクに恨まれるわ」

「ホントにここは思案のしどころなんだ。お前を追ったらアレクは悪者になっちまう。

その前に身を引けよ。重臣をアレクに残してやれ。その代償は俺が支払う。アレクじゃなくって俺を代わりにしろよ」

「お前では役者不足よ」

「あんたの好みじゃないかい?」

「代わりの息子なんて誰にも出来ないわ」

「息子じゃないってのはいい事もあるぜ」

 証拠の為に俺は彼女にキスした。

「……こういうのは止めてちょうだい」

 震えながら、母太后は俺を押し戻す。

「あなたはあたくしを、売女みたいに思ってるかもしれないけど」

「思ってねぇよ」

「本当は臆病なのよ。男の人は恐いの。セックスは嫌なの」

「貞淑な女さあんたは」

 母太后は俯いていた顔を上げる。目にはみるみる、涙が盛り上がる。

「そうよ、その通りよ」

 震える声。俺が差し伸ばした腕に彼女は今度は、自分から入ってきた。

「考えさせてちょうだい」

「何をいまさら。あんただってもう気づいてるだろ?

大きくなった息子は母親の懐から、離れるもんなんだよ。引き際を外してあんた、どうしたらいいか分からなかったんだろ?」

「……その通りよ。あなたの申し出は渡りに船、みたいな気もするわ。都合がよすぎて、なんだか信じられない」

「男運悪かったんだな、あんた」

「あなたの世話になるかもしれない。でも結婚は遠慮させてちょうだい。わたしはそんなことはできないわ」

「分かってるよ。あんたが純情だって事は、俺がよく分かってる」

 言いながら俺が彼女のガーターをはめてやる。腕の中の彼女に、

「ねぇ幽霊って、なに?」

 尋ねられ、俺が滑った口を呪いながら、どうやって誤魔化そうかと思案した時。

 室内ロックが強制解除される。

「サティッ」

 駆け込んできたのはアレク。振り向く俺の無事を確認し安堵の息をつく。

「よかった」

 しかし俺が腕に抱いている人影を見て顔色を変える。俺の肩に顔を埋めるように、息子の視線を避けて俯く女は、母親。

「……何があったの」

 そんなの、見れば分かりそうなもんだ。

 俺が何をしようとしてたかは明白。理由が分からなくてアレクは尖った声を出す。

「何があったかって聞いてるんだよッ」

 床に放り出された女物の銃。肩を負傷している俺。そして、ドレスの裾を慌てて直す母太后。

「……賊が、居て」

「どこに?」

 きつい口調の反問。

「嘘つき。ここにはあなたと母上しか居なかったじゃない。だいいちなんで、あなたと母上がこんな所に居るの」

「俺がもみ合っていたから、母太后は援護しようとして発砲してくれた。運が悪くて、弾丸は俺に被弾したが……、不可抗力の事故だ」

「あなたは案外、嘘つくのが下手だよ。聞いてもないのに事故なんて言う、それが本当の筈がない。

それとも自信があるだけ?自分が言えば嘘も本当になるって?」

 アレクはぐい、と力ずくで俺の腕から母親を取り出す。怯えたような目をした彼女に、

「お疲れなのではないですか母上。少し田舎で療養されるがいい」

 冷たい声で言った。

 それは宮廷から追放するという宣言。母太后は答えず俯いたまま部屋を出る。

何か言ってやりたかったが、アレクの気配がびんびんに尖ってて言えなかった。下手に優しい言葉をかけると逆効果になる。

 彼女の背中を見送る俺に、

「傷、見せて」

 何を見てるの、という感じでアレクが話しかける。

「掠り傷だ」

「医者に手当を」

「必要ない」

 医師を呼ぼうとするアレクを俺は止めた。王宮内で狙撃事件なんて、表沙汰にする訳にはいかない。

「あなたと母上って、昔、噂になったことがあったね」

 止血の為に俺の肩に布を、巻いてくれながらアレクは言う。

「あれ僕は嘘だと思ってた。母は僕の後見を頼んでおきながらあなたに冷淡だったし、あなたは母を避けようとしていたし。

でも本当はどうなの。あなたの態度が僕にはよく分からないよ。どうして彼女を、こんなに庇うの」

「他人と思えないから、かな」

「あの人とここで逢引してた訳じゃないよね」

「まさか」

「じゃあなんでこんな所に居るの。だいたいこの部屋、なんなの」

 問われて怯んだのは俺らしくない失敗。

「ここ、誰の部屋なの。まさか。死んだあの男のじゃ、ないよね」

 違うと言い切れず俺は目をそらす。まずい反応だと自分で分かっていたが、どうしようもなかった。

 乱暴に床に押しつけられる。

「アレクサンドル……、ちょ、待て」

 うつ伏せに頭を押さえつけられ、頬に床の固い感触を感じながら言う。アレクは手を止めた。

奥歯が鳴るほど興奮してるくせに、律儀に。

「これが最後な」

「まだそんな寝言いってんの」

「お前は結婚するんだろ」

「しないよなに言ってんの。したって無駄なんだよ、僕は。子種がない」

 いきなり言われて俺はつい、膝から力を抜いてしまう。隙を見逃さず膝を割られた。この体勢だと、もう勝ち目はない。

 俺にアレクを傷つける気持ちがない以上。

「子供の時に高熱出したって言っただろ。その時にさ。だからいいんだ、好きな人と一緒に居て」

「それ、母太后は」

「知らないよ。なんで知らせなきゃいけないの」

 至近距離から、アレクは俺をすくいあげる。

「医者以外に教えたのは、今あなたにだけだよ。あなたが僕の恋人だからさ。そうだろ?」

「……アレキサンドル」

「なに」

「だからって自棄になんな」

 それは俺なりの、慰めというか精一杯の励ましだったのだが。

「自棄ってなんだよ。女に子供孕ませらんないからあなたに走ってるとでも言いたい訳?冗談じゃないよ」

 アレクは妙に怒った。

「愛してるんだよ。なんで分かってくれないの。あなたは僕のもんだ。だって、僕があなたのもんだから」

「……そうだな」

 本当にそうだったから俺は頷く。俺は確かにこの子が可愛い。他の大事な誰よりも。

「だったらどうして死んだ男の墓陵に参るの。遺体にキスなんかしたの」

 俺の素直さ大人しさが、ふたたびアレクの気に触ったらしい。

「母太后をしつこく庇うの。言ってみろよ」

 床と身体の隙間で男の手が乱暴に動く。衣服を剥がれる。シャツのボタンがとんだ。

指の腹で乳首が潰れるほどきつく擦られて、俺は顎をあげる。かぶりを振った首に歯をたてられ思わず悲鳴をあげる。

「……言って、みろよ」

 低く凄んだ声がなんだか、恐かった。別人のようで。

 痛みを感じるほど性急に一度いかされて、上向かされた瞬間、俺は目を見開いた。

身体が強ばる。薄暗い視界にぼんやり映る天井の木組み。古い記憶のなかの、一番忘れたい悪夢が蘇る。

 俺は目を閉じ横向こうとする。男の手は無論、そんな勝手を許さない。

「やだ、……イヤ。はなせ……」

「どうしていまさらそんな事を言う」

「ここは、いや」

「昔の男の部屋だから?罪悪感が湧く?」

 意地悪に言ってアレクは脚の間に身体を進めた。俺の体はびくっと竦む。

「勝手だよ、あなたは」

「ヤッ……、アッ」

 男の熱に晒されて泳ぐ腰を捕われる。必要以上の力で固定され、湿らされ入れられる。ひどいセックスだった。荒れ狂っている。

「名前呼び間違ったら、殺すよ」

 真顔の脅し文句。

 

 雨の音が、うるさい。

 

 うとうと、していた。

 体がだるい。力が入らない。でも気分はそう悪くはない。悪いどころか安らかだ。時折かすかに揺れが伝わる。

似た感覚をついこの間、味わった。車の中で抱きしめられて。

「大丈夫だよ」

 目覚めたのが分かったのか、俺を抱く腕に力が入る。

「公邸に向かってるから。すぐに着くから。大丈夫だから」

 そう言いながら腕は震えている。俺の方こそ大丈夫だと言ってやりたくて、でも口は動かない。目も開かない。

おかしいな、とぼんやり考え、また眠くなった。

 車が止まる。

 ドアが開かれ数人の屈強な男たちが車を取り巻いた。身体をぐいと差し入れたのはレイク。

目を閉じていてもこいつの気配は分かる。

「……なぜ来られたのですか」

 小声の囁きはアレクに向けられたもの。

「今がどんな時期かお分かりでしょうに、人目にでもついたら。サティ様をこちらへ。陛