日暮れ近くにボンゴレ本部の警備責任者は、その恋人の車に乗って帰着した。恋人はそれからどうしても片付けなければならない仕事があってキャバッローネの本部へ出勤した。幹部の数人だけが使える本邸内部の駐車場、人目のないそこで銀色の恋人にくちづけを繰り返してから。

「四十歳になったら引退する」

 半日一緒に居て疲れ果てた様子の恋人を抱きしめ耳元に囁く。何度も繰り返してきた言葉を。

「そうしたら刺青も消える。お前も楽になれる。一緒に何処かに行って仲良く暮らそう。どこでもいいから。お前が好きなところで、なんでもお前の言うことをきいてやるから」

 ドン・キャバッローネの腕の中で銀色は大人しく聞いている。だがその未来図に頷いたことは一度もない。イヤなのかと問いかけられて返事ができないのは想像が出来ないから。マフィアを引退して気候のいい異国に家を買って、犬を飼って穏やかに暮らしている自分を思い浮かべることが出来なかった。

「そんなに遠い未来じゃないんだぜ。俺らが会ってからの時間よりずっと短い。オレの個人財産は全部お前のものだスクアーロ。正妻だから、当たり前だけどな」

 ちゅ、っとまた、音をたてて唇を重ねられる。

「オレの次が、甥っ子が、一人前になったら引退するから。お前が気に入ってくれていたヘナチョコに戻るから、だから、もうちょっとだけ待っててくれ」

 銀色は黙って聞いているが言葉を全く信じてはいない。そう簡単に跳ね馬からヘナチョコに戻れるとは思えない。夢を語っているだけだと思っている。

「信じてくれないのか?」

「……今疲れてて、よく分かんねぇ」

 自分の語る将来をまともに聞いてくれない恋人の態度に金ね跳ね馬はまた傷つく。長い髪を撫でながらの情熱的なくちづけで寂しさを紛らわして、やがて腕の中の細いカラダを開放。腕を離されて銀色は車から降りた。

「帰りは遅くなる。先に眠っていてくれ」

「おう」

 関心がなさそうに、それでもひらっと手を振って銀色は恋人を見送った。ランボルギーニ・カウンタックが見えなくなって、ほっとしたように息を吐く。やっと終わった、それが正直な気持ち。夜までは少し休めるだろう。

 本邸の奥へと続く通用口へ歩く。そこへ。

「お帰り」

 声を掛けられても驚きはしなかった。この駐車場にも監視カメラはある。それ以前に殆ど山一つ分の敷地内に入った瞬間から人や車は動向を監視される。

「相変わらず凄腕だなぁ、アンタ。あの跳ね馬があんだけコロコロ、転がってンのは初めて見たぜ」

 壁に背中を預けてタバコに火を点けるのは獄寺隼人。その態度は出迎え、というにはややふてぶてしかったが、奥の執務室から出てきた時点で心配していた内心はバレバレ。

「四十で引退かぁ。そーゆーこと言うヤローのそばにゃ居ねー方がいいんじゃねぇかぁ?老けちまうぜ?」

 口説き文句を立ち聞きしていたらしい。喉の奥でおかしそうに笑うガキに口元だけで答えて、銀色の鮫は奥へと通ろうとした。そこに煙草を差し出される。

「……」

 銀色の鮫は喫煙者ではない。が、酔うと欲しくなることがないでもない。他にも仕事で徹夜の資料整理、というような時には眠気覚ましに吸うこともある。

 獄寺隼人がそれを差し出したのは話をしようぜという誘い。銀色はそれを受け、箱からとびだした一本に指をかけ引き抜く。咥えたところへ獄寺が火を点けた。ドクロの刻まれた銀のライターから発せられたオレンジの光が薄暗い交換の一部だけを照らし、二人の長い睫を輝かせる。

「ヨリ、戻しちまうのか?跳ね馬と?」

「……騒いで悪かったな」

「気に入んなかったのかよ、山本は。けっこーヨかっただろ?オレにはよく分かんねーけど時々、夜の街を歩いてっと遊んでくれたことある娼婦に纏わりつかれてっから、悪かねぇんだろ」

 金は要らないから、あたしが奢るから飲みに行きましょうよと誘われるたびに山本は丁寧にそれを断る。マフィアは女に貢がれて一人前。彼女たちに絡みつかれるのは悪いことではない。

「乗り換えろよ。引退考えてるジジィと付き合ってっと錆がついちまうぜ。あいつはそのつもりだし、十代目はどっちでもいいよってお考えだし、跳ね馬がギャンギャン言ったらオレが叩き出してやるぜ?」

「山本は?どうしてる?」

「謹慎中だ。反省文百枚書くまで懲罰室から出さねぇ。誤字脱字なしで、な」

 その罰を与えたのは獄寺自身だった。ボンゴレ本邸の警備責任者は銀色の鮫だが人事権は側近筆頭の獄寺が握っている。本邸内部での乱闘の罰として謹慎は寛大な処置に入る。相手のディーノをボンゴレが処罰できない以上、片方だけに重い処置をすることも出来なかったから。

「オレの処罰は?」

「バカ二人を止めてくれてありがとうよ。礼にメシでもどーだ?ウチの厨房製で、俺の部屋でだけどな」

 ニッ、と笑う獄寺隼人の目元には悪童と呼ばれた頃のしたたかさが浮かぶ。薄暗い空間の中でそれはひどく明るく見えた。

「願い下げだぁ。ナニ食わされるか、分かったもんじゃねぇ」

「疑い深いな。ナンにも盛ってねぇぜ?」

「ふん」

 信じていない表情で銀色は煙草の煙を吸い込む。相手を責めているというより自分の油断を恥じている、そんな顔つきをしている。

ファミリーの最深部、ボンゴレ十代目の周囲は平和というか和気藹々というか、まだ学生気分の抜けないガキたちの家族ごっこのような雰囲気があった。もっともそれはボンゴレだけではない。マフィア組織の中枢は生活をともにするからどうしても家族じみてしまう。業界最高峰といわれるヴァリアーでさえ例外ではなく。

その雰囲気に、銀色の鮫はつい馴染んでしまった。会議室という名のたまり場になっている部屋のワインクーラーに、自身の嗜好品、フルボディの赤ワインを持ち込み冷蔵庫にはゴルゴンゾーラチーズ、棚にはクラッカーを常備するようになるのに時間はかからなかった。時々は雲の守護者がそのワインを勝手に飲み、十代目が倍返しで弁済するということもあった。

ガキと馴れ合ってわいわいやっている様子にベルフェゴールが皮肉交じりに、精神年齢が同じくらいの証拠だと皮肉を言ったこともあった。確かに居心地は悪くなかった。たった一つ、仕事を終えると帰ってくる、金の跳ね馬のことを覗いては。

「てめぇの部屋にも、俺は出入り禁止だ」

「そんなのは跳ね馬が決めることじゃねぇ。あんたウチの警備責任者だ。いつでも何処でも踏み込んで、ナカを確認していいんだぜ?」

「そのうちな」

 銀色は言って、獄寺が差し出す携帯灰皿に吸殻を捨てる。そのまま奥へ歩いていこうとした。背中を獄寺が追う。

「じゃあよ、居間に用意させっから一緒にメシ食おうぜ。今夜も懲罰室から出て来れない山本に乾杯だ」

「ご期待にそえる面白い話はねぇぞぉ」

「あいつとヤったんだろ?どーだった?教えろよ」

 アッシュグレイのさらさの前髪を揺らしながら、尋ねてくる獄寺隼人のハシバミ色の瞳に邪気はない。自分の男を寝取られた嫌味ではなく本当に知りたがっている。

「あいつってさぁ、どーだった?」

 好きな相手のことを知りたいという当然の欲求があるだけ。

 

 

 

 

 

 二日前の、同じような時刻。

 夕日の差し込む山本の部屋で、銀色の鮫はアッシュグレイの青年と出くわした。

「……」

 思わず硬直してしまったのは銀色の方。刀のガキはこの青年の、正式な相手。その私室に勝手に入っているところを見つかって思わず怯んだ。そのへんの常識はわりとノーマル、普通人のようなところがないでもない銀色だった。

「よーぉ」

 恋人の部屋に別の美形が居て勝手に戸棚を開けているのを目撃しても獄寺は落ち着いたもの。片手を上げて挨拶し、自分はさっさと冷蔵庫へ。そこから取り出して、座り込んだ行儀の悪い姿勢のままで口をつけたのはビールではなくチェリーコーク。

 スーツの上着は脱ぎ捨て、ネクタイは外している。勤務時間ではないらしい。十代目は仕事で外へ出ていて、そっちには山本武がお供している。主人の外出中は緊急の呼び出しに備えて酒を飲まない自律は立派だった。

「ナポレターニか?美味そうだな。ちょっとくれよ」

 その獄寺に気楽に手を出され、やっと銀色は硬直を解いて戸棚から取り出しかけていた瓶の中身を、白くて品のいい掌の上に乗せてやる。

ナッツたっぷりの焼き菓子はヴァリアーのルッスーリアが焼いて定期的に届けてくれるもので、銀色の鮫の好物。他にもゆで卵の黄身で作ったぽろぽろのストーレーサ、トウモロコシ粉を使用したクルミーリ、ココナツ風味たっぷりのロッシュディココ、などがガラスの瓶に詰められて戸棚に納められている。中身がなくなったら瓶をヴァリアーに送れば数日後には一掴みはある大きなガラス瓶の口のギリギリまで詰め込まれてかえって来る。下宿している息子に好物を送ってやる母親のような愛情。

それを銀色は自室ではなく山本に部屋に置いている。正確に言えば預かってもらっている。

ちょっとした休憩や休息の時に自室ではなくここに来ることが多いから。ここには金の跳ね馬が踏み込まないから見つかることがないから。銀色の鮫の周囲にヴァリアーの気配がするのを、新しい恋人はひどく嫌がった。もっと美味いのを買ってきてやるといわれて、実際、政治家への贈答に使われるバカ高い店の焼き菓子の詰め合わせを贈られたが、それは殆ど口をつけられないまま、ボンゴレ警備員たちの詰め所にそっと下げ渡された。

ルッスーリアが届けてくれるセミドライトマトのオリーブオイル漬けも、山本武の部屋の冷蔵庫に納められている。その冷蔵庫は他所の部屋に常設されているものの三倍は大きな業務用で、中には銀色の鮫が預けているタッパー類の他にも、獄寺隼人の好物のコーク類が多く詰め込まれている。獄寺自身は部屋をスマートに見せるために冷蔵庫はごく小型のものを脱衣所においてあるだけで、ストックは全て山本が管理している。

「うめぇ。やっぱクッキーは手作りに限るな」

 クッキーをガリガリと齧りコークを飲み干して、また仕事に戻ろうとしていた獄寺のポケットで携帯が鳴る。隠そうという様子も見せず獄寺は銀色の前で電話に出た。

「おぅ、オレだ、どうした?」

相手は山本武。マフィア組織同士の懇談会が長引き、今夜は外泊する、という知らせ。

「まだ食ってねぇ。あ?居るぜ、目の前に。ちょーどてめぇの部屋でハチ合わせたとこだ。メシの用意?冷蔵庫の中?冷蔵庫の何処だよ、野菜室の鍋?」

獄寺が山本と話しているうちに銀色の鮫の携帯も鳴る。それは金の跳ね馬からで、今夜は帰れないという内容。十代目・沢田綱吉と同じ会議に出ている。

「ってことで、オレもアンタもヒマだな?」

 ニ、っと、アッシュグレイの青年が笑う。その笑顔につられて銀色の鮫が笑い返してしまったのは、もと悪童の笑みがあまりにも魅力的だったから。少し目元に険のある美貌だが、その険が笑うと物凄い艶っぽさに変わる。同性にも異性にも等しくアピールする引力。

「山本がおでん作ってんだ。一緒に食っといてくれってさ。おでんって知ってっかぁ?ジャポネのポトフでよぉ、串に刺してあっから片手で食えるぜ」

 引き出し式の野菜室からうんしょと取り出された鍋は大きく、重い様子だったが、獄寺隼人はそれを部屋の隅のミニキッチンへ運びカセットコンロの火を点ける。

「けっこー美味いんだぜ。あっためてやっから、あんた酒、出してくれよ。雲雀がこの前、気に入って飲み散らかしてったアレ、俺も飲んでみてぇ」

 その振る舞いやあしらいはヴァリアーの奥で仲間たちとじゃれあっていた時に似た雰囲気だった。たかられることに慣れている銀色は思わず居間のワインクーラーからとっておきを出して来た。食事は居間でするつもりだった。が。

「スーツ脱ぎてぇんだ。オレの部屋で飲まもうぜ。たまには底まで飲みつくしてえよ。あんたも着替えてくれば。泊まっちまえる格好でさ」

 鍋を抱えた獄寺隼人に自室に招かれた。特に疑いもせず、勧めに従った。私服に着替えて長い髪を纏め、酔いつぶれてもそのまま眠れる部屋着で、招かれた立場上、花束の代わりにアマローネを三本ほど抱えて。獄寺も自室の棚から秘蔵の黒糖焼酎を出してきた。