後悔・15
泊まったホテルで早めの朝食を済ませ、キャバッローネの本社へ出勤するべく車に乗り込んだ。出勤前に恋人の顔を見たくてボンゴレの本邸に寄った。
恋人との『同棲』の便宜のため、ボンゴレ本部の警備システム中、跳ね馬ディーノの網膜は準幹部クラスの登録をされている。非公式な訪問をするためだ。でなければ毎回毎日、正面玄関を開けられて主人である沢田綱吉かその名代が出迎えて、という大騒ぎになってしまう。裏門、といっても幹部専用のそれなりに立派な通用口からの出入りを許可してくれたのは沢田綱吉の好意だった。
恋人の居室まで、つまりは警備責任者が守っている最終防衛線までは出入りを許されている。勝手に入れない区画はボンゴレ守護者たちと佐田綱吉が起居する最奥の一角だけ。
「……」
さすがにお供は連れて入れない。駐車場から少し入った控え室に待たせておくことになる。顔だけ見て、おはようのキスをしてから出勤するつもりのディーノは恋人の私室に通って、そこで顔色を変えた。部屋はしんと静まって人の気配がない。居間を横切り奥の寝室へ通る。ベッドはカバーをかけたまま、使われた痕跡がなかった。
「……、スクアーロ」
名前を呼んでみる。当然、返事はない。嫌な予感がそくそくと背中を駆け上がる。外出はしていない筈だ。本邸の警備責任者というのは重い役目で、職務以外での外出や外泊は滅多に出来ない。看板として繋がれているといってもいい。それはディーノにとって嬉しいことだった。いつも居るという安心。
学生時代から気まぐれに数日、姿を消すことがあった。剣術に関しての武者修行、他流試合を渡り歩いているは当時からだった。ボンゴレの御曹司に寝取られてさらわれてからは、年に数回、視界の隅を通り過ぎる姿を見るだけがせいぜい。そんな風だったのが一定の場所に行けば、『戻れば』いつも会えるというのは素晴らしい安心感を、金の跳ね馬に与えた。
どうして部屋で眠っていないのか。夜勤は有り得ない。責任者という立場上、生活リズムは主人である沢田綱吉にあわせて動いている。夜半に沢田綱吉はここに帰ってきているが、守護者最強にして最凶の雲雀恭弥と一緒に居るときは基本的に放置プレイ。全くかまわれない。
「スクアーロ……」
もう一度呼ぶ。返事はない。奥歯をぎゅっと噛み締めて、金の跳ね馬は内線を手に取った。直通番号は教えてもらっていないが、邸内の交換を通せばボンゴレの幹部たちや次期十代目、待たせている部下たちに電話を取り次いで貰うことは出来る。まず最初に、繋いでくれと、言ったのは。
「雨の守護者、山本武の部屋に」
交換ははいと答えた。暫く待つ。やがて。
『たいへん申し訳ございません。電話には出ることが出来ない状態のようです』
不在か睡眠中か、そこまでは教えて貰えない。ぎゅ、っと、指先が白くなるほど耳に当てた受話器を握り締める。部屋に居るけれど出ないのかもしれない。一人ではない、のかも、しれない。
「じゃあ嵐の獄寺を頼むよ」
努力して平静な声を出す。ツナを起こすほどじゃないけど伝えておきたい用件があるんだ、という雰囲気を装って。また少し待たされた後で今度は、お繋ぎします、と声を掛けられ、海鮮が切り替わる。
『はよござい、まーす』
獄寺の部屋なのに、電話に出たのは山本武だった。
「よう。朝っぱらから、すまねぇな」
その瞬間、金の跳ね馬の表情が明るくなった。肩から力が抜て、受話器を避けて息をつく。なんだ、と、思った。
雨の守護者・山本武はディーノにとってザンザスに次ぐ要注意人物。獄寺という上玉を恋人にしているくせに自分の想い人にまで懐きたがる性質の悪い相手。また恋人が、あの銀色の鮫が、ひどく可愛がっているものだからいっそう憎らしい。
才能を見込んで居るのだろうとは思う。昔から剣術に人生の殆どを賭ける勢いでのめりこんでいたから、山本武の資質を見込んでの特別扱いだろうと思う。思いはするのだが、それでも面白くはない。山本が銀色の鮫を見る目には明らかに邪気がある。カラダと容姿に興味津々。そういうのは、見ていれば分かる。
だから警戒していた。でもその男が獄寺の部屋で眠っていたとすると、最悪の事態ではないということだ。昨夜、獄寺隼人と一緒に居たのなら山本が銀色の鮫に何を出来る筈もないと、そう思い込んでしまう金の跳ね馬には甘やかされたお坊ちゃんらしく、考えの甘いところが、確かにあった。
『いえ。起きてました』
「スクアーロが居ねーんだ。行く先を知らないかと思ってな」
『ああ……。居ます。寝てます。獄寺と』
その言葉を聞いて金の跳ね馬は心から安堵した。なんだ、と、思った。ふだんはなかなか呑めないが実は相当な上戸の獄寺だ。沢田綱吉の留守という機会に、酒の相手が欲しくなって銀色の鮫を誘ったのだろう。酒は好きだがそれほど強くはない銀色の鮫が酔いつぶされてそのまま泊まったのだろう、という。
金の跳ね馬の推測は正しい。事実としては正しいが肝心の認識が間違っている。獄寺隼人の性質を完全に見間違っている。確かに山本のオンナだが、だから大丈夫だと安心しきっている単純さがめでたい。オンナ同士の食い合いがあるということを、知識としては知っていても現実として想像しきれない、箱入り息子のような初々しさがあった。
「迷惑かけちまったな。迎えに行こうか?」
『うーん。獄寺とすげーひっついて寝てンすよね。気持ちよさそーなんで、もーちょっとこのまま、寝かしてやりてーんスけど』
「そうか、分かった。じゃあ俺は仕事に行く。昼に戻れそうだったら連絡するって、スクアーロが起きたら伝えて貰えるか?」
『あ、はい。分かりました』
年長者への礼儀を正しく守って山本は応対する。
「じゃあな」
『はい。あの、ディーノさん。ひとつ聞いてもいいですか?』
「なんだ?」
『スクアーロ……、さんのこと好き、ですか?』
「なんだよ、突然そんなこと」
好青年の声で金の跳ね馬は笑う。
「昨夜、なにか話したのか?」
『……少し』
「愛してるぜ」
昨夜、三人で宴会をしたとしか思っていない跳ね馬が正直な
本心を答える。
「昨日今日の付き合いじゃないんだ。ガキの頃から、ずっと愛してる」
『幸せになって欲しいですか?』
「幸せにしたいと思ってる」
『……自分が?』
「俺が。当たり前だろう?」
男の愛情と言うのはそういうもの。オンナにとって自分が中心でなければ満足できない。
「じゃあ、行く。起きたらよろしくな」
『はい』
尋常に回線を切った跳ね馬は知らない。踏み込まれたら応戦するつもりだった山本武が電話の向こう側で時雨金時を膝に置いていたこと。獄寺隼人と一緒に眠っている恋人が、裸の獄寺に懐かれる姿勢で裸で眠っていたこと。昨夜は確かに酔い潰されたのだが、その後にさらに一山、二山あったこと。
内線電話を切った山本が、眠る二人の髪に口付けて、それから部屋を出て行ったこと。出て行った先はボンゴレ十代目の寝室であったこと。などなどを。
なにも知らずに本社ビルに出勤し、職務に精励した。といっても比較的、仕事は暇な時期。高層ビル最上階の執務室から眼下の町並みを眺めながら恋人のことを思う余裕はあった。
「ボス」
その横顔に、そっと声をかけたのは先日、職務に復帰したばなりの眼鏡の側近、ロマーリオ。不始末があって二週間ほどの自宅謹慎、ということになっていたが、実際は主人の嫉妬を受け、一時は解雇を宣告されていた。
苦労人で人柄の練れたロマーリオは主人の恋人『たち』にも信頼されていた。華やかで優しいが掴みどころのない主人と違って親身に相談に乗ってくれるところがあって、今も、あまり構って貰えなくなった彼女たちの嘆きの電話がロマーリオ指名でかかってくる。その電話に時間をかけて付き合ってやる気長な優しさはマフィアの男には珍しいものだった。
相談を持ちかける依頼心が時々、横滑りして好意になってしまう女も居る。それらに対しては礼儀をあくまでも守ることで、ロマーリオはボスの女に手を触れるという禁忌から自分を守っていた。いつも、ずっと。
銀色の鮫に対しても同じようにしていた。けれど同じに出来ないことも会った。他の女たちとの一番の違いは、その銀色が主人の本命であるという事実。女たちを振り回すばかりだった主人が銀色の美形にだけは振り回されて一喜一憂している。
その恋自体に反対するつもりはロマーリオにはなかった。昔からの想い人なのを知っていた。キャバッローネに先代から仕えてきたロマーリオとしては金の跳ね馬にちゃんとした結婚をして子供を作って幸せな家庭を築いて欲しかったが、そんなものよりアレが欲しいと駄々をこねられて諦めた。
ファミリーの利益さえ犠牲にしかねない勢いで、一途に真っ直ぐ突っ走る男は盲目だ。こりゃムリだもう話にならねぇ、と、匙を投げるというか、見切りをつけたのは早かった。それよりこっちだ、と、交渉相手を愛された銀色に変えた。
それが間違いだったのだ。
いや、目の付け所は正しかった。ノエルから新年を親戚や組織幹部たちとでなく恋人と過ごすことを希望した金の跳ね馬を、リアリストかつ現実主義な銀の鮫はさくさく説得してくれた。というよりも、拒絶されたらそこで終わり、楽しい計画は根本から崩れる。寝言ほざくんじゃねぇよバァカ、と、罵られるためにため息をつきながら諦める様子は可哀想だったが、組織の運営に銀色鮫の協力は欠かせない要素だった。
主人にはでも、それが面白くなかった。主人の恋人との距離を馬頭寝の利け者は読み違った。それまでの愛人たちと同じように接してしまったのが間違い。直に口をきかれることさえ腹立たしく思うほど、主人が本命に対しては狭量な焼きもち焼きだということを認識していなかった。
マフィアの習慣に背骨まで漬かってその色に染まりきっている銀色の鮫は、同じ匂いのロマーリオに好意的だった。
子供の頃から現在に至るまでクラシックな路線のマフィアに対して否定的な跳ね馬と、十四になるまでマフィアとは何かも知らずに育ってきた次期ボンゴレとその周囲の中に埋まって、仲間が居なくて寂しかった、という要素もあっただろう。獄寺隼人と奇妙に仲がいいのも、イタリアマフィアの幹部の息子に生まれた獄寺とはなんとなく
時々自分から声を掛けることさえあって、そのたびに、主人が癇癪を我慢していることに、迂闊にも側近は気がつかなかった。
爆発は突然。アンタらお迎えのたびに駐車場で待機すんの大変だろ、通用口わきにお供用の部屋ひとつなんとかしてやろっかと、銀色が言い出した。寸暇を惜しんで、時には真夜中の数時間かぎりでもその銀色に会うためにボンゴレ本邸へ『帰る』と言い出すドン・キャバッローネに、確かに側近や警護の人間は振り回されて、疲れ気味だった。
ボンゴレ本邸の警備は厳しいがそう言い出したのが警備責任者だったこともあって、話はとんとん拍子に進んだ。ボンゴレの次期ドン、十代目沢田綱吉に内々の許可も得て、幹部用駐車場のわきに作られたのはプレハブの、本当に小さな部屋。
仮眠をとるためのベッドとコーヒーを煎れることが出来るポット、木製のテーブル、それだけの空間でもあるとないのでは天地ほど違う。水道工事は出来なくてトイレと洗面は相変わらず駐車場の隅の設備を拝借ということになったが、ロマーリオをはじめとする跳ね馬の側近たちはひどく喜び、感謝の気持ちを、ほんの小さな、プレゼントで現した。
冗談半分、街で見かけて購入したホオジロザメを象った大きなヘアクリップ。大きく開いた口がクリップの開きになっているデフォルメ化されたもので、本当に軽い気持ちで、ロマーリオの妻がふざけて結んでくれたピンクのリボンをかけてプレゼントした。
それが、うけた。
有り得ないほど受けた。ボンゴレ十代目や雨や嵐の守護者にまで受けた。普段は愛想のない雲の守護者まで見せてよと手を伸ばし指に『食いつかせて』遊んで面白がった。跳ね馬を迎えに来たロマーリオが待っている駐車場へ、銀色の鮫がわざわざ出てきて、使っているところを見せて礼を言ってくれた。
昔、似たのをルッスがくれてよぉ、すっげー便利だったんだけとここに来てから壊しちまって、あーゆーの何処で売ってんのか、俺よく分かんなくってなぁと、長い髪を纏めて捻ってクリップで留めて、肩に掛けながら礼を言われた。
また壊れたらすぐに言ってくれ今度はヨシキリザメを探してくるからと軽口を叩いた。銀色が笑いながら近づき、手を伸ばしてくる。避けなかった。髪に触れられた。髪飾り繋がりで、何かあるのかと思ったらそうではなく。
けっこう柔らかいんだな、と。
髪質のことを言われた。抱けと比べられているのか、大体分かったけれどノーコメントで通した。心の中ではうーんと唸っていた。あの天下のザンザスと、この銀色の心の中ででも、並べられる日が来るとは思わなかったなと、そんなことを考えながら。
遅れてやってきた金の跳ね馬は自分の恋人が自分を迎えに来た側近と話しているのを見て驚いていた。多分、銀色は跳ね馬を部屋に置いて仕事中で、警備システムでロマーリオの来訪を知って声を掛けるためにわざわざ、駐車場まで出てきてくれたのだろう。
あいつ最近冷たいんだ、という、主人の嘆きをロマーリオは聞いていた。俺がまだ部屋に居るのに仕事だって言って奥に行っちまうんだ、と。銀色の鮫の職場、『奥』とは要するにボンゴレ本邸警備システムの中枢。いくらディーノでもさすがに近づけない。
主人が出てきたのでロマーリオは会釈して銀色の鮫との会話を中断し後部座席のドアを開ける。鮫は上機嫌のまま、ひらっと手を振って見送ってくれた。ふり返して主人をキャバッローネの本社ビルへ送ったロマーリオに数分後、与えられたのは解雇通知だった。
それはなんとか撤回され、もうボンゴレへのお供を務めないという条件でロマーリオは復職。部下は気遣いが足りなかったことを詫び主人は自身の狭量を詫びて、最初はややぎこちなかったがここ数日、やっといつもどおりの雰囲気に戻ってきた。
そうして話しかけられる。ボス、と。
「昼はどうする?ボンゴレに行くなら用意させるぜ?」
気配りのいい側近に、金の跳ね馬は頼むと答えた。結局この側近が一番、ものごとをよく分かっている。主人のことも、その恋人のことも。
用意されたのは大きな丸パン、カンパーニュにたっぷりのローストビーフとレタスとドライトマトを挟み粒胡椒で仕上げたものが二つ、そして数種類のキノコのマリネにぷりぷりのエビのソテーをそれまたたっぷりと添えて、チーズクリームで味付けしたものを二つ。
デザートには新鮮なベリーの砂糖漬けと固めのカスタードクリームを包んだクレープ。大の男の昼食として十分な量だ。そうして質量と並んで大切なのは、全て片手であむあむと食べられる、ということ。
時計が正午を指すより三十分前にドン・キャバッローネは送迎の車に乗り込む。そうするとボンゴレ本邸に到着するのがちょうど正午頃になる。全てをのみこんで動いてくれる部下に感謝の目配せをして、スーツ姿の総帥は車中の人となった。