後悔・16

 

 

 

 ボンゴレ本邸の幹部通用口で少し、待たされた。それはほんの数分間だったけれど珍しいことだった。そうして金の跳ね馬は気がつく。ああ、今日はそういえば、月のついたちだったな、と。

 毎月、その日はかつての御曹司・ザンザスが養父であった九代目を見舞いに来る。万が一にも、それと行き会わないように待たされているのだろうと分かった。

 それは気配り。政略結婚に乗じて恋人を引き取った男と、政略結婚のために愛人と別れた男とが顔を会わせないように。二人だけでなくスクアーロ自身もザンザスとはなるべく会わないよう、会わないように仕向けられている。ジッリョネロファミリーに対する義理がある。

 それはほんの数分間。すぐに、車は駐車場に招き入れられる。降りると同時に通路区の奥から銀色の鮫が姿を現した。珍しいことだった。

「……」

 その姿を。

 見ただけで、金の跳ね馬には分かった。特に酷い顔をしているとかではない。むしろ逆、幹部用駐車場の、白々とした蛍光灯の光を弾くような頬の肌理と唇の艶やかさは健康的でさえある。年増のというと語弊があるが、若い頃にはなかった婀娜っぽさが全身から香りたつようだった。

 銀色の鮫が何かを言おうと唇を開く。けれど跳ね馬の表情に、察知されていることを悟って口を閉じる。そう、金の跳ね馬はその姿だけで察した。切れ長の目尻の端まで艶めいているその、姿は。

「ごめん」

 謝られる。俯いた睫の長さに、金の跳ね馬の理性は千切れた。それは情事の翌朝の顔。男に愛されて尽くされて、溜まった澱を吐き出して新しい蜜を注がれ新陳代謝が済んだ、清々とした、実に美しい姿。

「……スクアーロ」

 跳ね馬の声が震える。車に乗ったままのお供は何事かと、心配そうに二人の方を見ている。

「わりぃ」

 答える喉の動きさえ美しい。久しぶりにこんなに艶めているのを見た。最近は自分が抱いてもなかなかこうはならない。イキ果ててびくびく痙攣するまで抱きつくしてやっても、可愛がっても、翌朝は少し疲れた風なのがせいぜい。美味いのを腹いっぱい、昨夜たっぷり食いました、という様子には、ならない。

「浮気……、したのか?」

「おー」

 隠せないと思って、昼に帰ってこられたのを幸い、山本とあわせるより先に自白して自分が殴られてしまおうと銀色の鮫は思った。ボンゴレ十代目の双璧がザンザスの応対に追われている隙に一人で、金色の跳ね馬の前に出てきた。

「誰だ……?」

「まぁそりゃ措いてだなぁ」

「……スクアーロ」

 金の跳ね馬の声が震える。殴られるつもりで銀色の鮫は奥歯を噛み締めたが、それどころではなさそう。

「なん、で……?」

「ちょっと、色々」

 色々なんだ。そんな言葉で誤魔化されると思っているのか。いったいどういうつもりなんだ。そう責めたいけれど舌が痺れてうまく動かない。

「ヤマモト、だな?」

 それだけを辛うじて尋ねる。

「黙秘する」

「冗談に笑ってやれる気分じゃねぇぜ、今」

「俺が悪かったんだぁ」

「オマエの意思で浮気をしたってことか?」

「まぁ……、かな……」

 違う。本当は違う。けれど長い説明を、銀色の鮫はしなかった。自分間の油断だ。相手はガキどもだ。自業自得だ。だから、ガキどもに責任を転嫁するつもりはなかった。

「わるかった。ごめん」

「……山本武で間違いないな?」

 今朝の状況を、内線電話での会話を思い出しながら金の跳ね馬が尋ねる。その手は上着の下に隠した愛用のムチに無意識に触れていた。

「黙秘するって言ってるだろ。おい、待て跳ね馬、そうだって言ってねぇぞ俺ぁッ」

「言っているのと同じだッ」

 怒鳴りながら金の跳ね馬が歩き出す。早足だ。銀色の鮫は止めようと前に回りこんだが、阻もうとする恋人を押しやりながら、跳ね馬はボンゴレ本邸の奥へと進んでいく。

「ちょ、待て。これ以上は行かせねぇぞッ」

 不貞を犯してしまった恋人としてではなくボンゴレ本邸の警備責任者として、銀色の鮫が中庭へ続く回廊ので具土地でその長い腕を広げる。

「十代目は来客応接中だぁ。それ以上、一歩でも入りやがるんなら、抜くぜ」

 それは真っ当な警告だった。ボンゴレ本邸の警備責任者としての職務を適正に果たしただけの言葉。けれど。

「……すくあーろ……」

 頭に血の上った男には別の意味に聞こえた。来客がザンザスだと分かっていたからだ。認識が混濁していく。ぶれる。そう、浮気の相手が山本ではなくザンザスで、銀色の鮫があの男を庇っているような錯覚。

 以前にもあった。同じことがあった。十四の時に無法に恋人を奪われた。自分を裏切った恋人はしらっとした表情で、あまり悪いと思っている様子もなく、もうオマエとは終わりだと一方的な三行半を投げてきた。あの衝撃。天が墜ち地が割れるような。あの裏切りをまた繰り返すつもりなのか。

「……スクアーロッ」

 大声で、威嚇的に怒鳴りつけられて。

「なンだよ」

 銀色の鮫が凄みをきかせて反問したのは仕方がない反応。圧力を受け腰が引けるようではマフィアの男などやっていない。

「退け。ザンザスと話をつける」

「はぁ?なに寝言ほざいてんだてめぇ。ボスは関係ないだろうがよ、死んどけぇ」

 銀色の鮫の罵り文句は確かに過激だった。長い年月、守りぬいてきたたった一人に関することだったから。

「退け」

「っ、てめッ」

 もみ合う二人の間に背後から影が差して。

「おいおい、なに揉めてんだこんなところで」

 跳ね馬の声を聞きつけて沢田綱吉の居間から出てきた獄寺は狡猾だった。激昂する金ね跳ね馬ではなく銀色の鮫に近づき、腕をとって拘束する。そうされて金の跳ね馬はまるで自分が押さえつけられたように動きを止めた。

「でけぇ声出すな、聞こえちまう」

 それが誰になのか獄寺は言わなかった。けれど金の跳ね馬には分かった。思わず口を閉ざす。そして、そのまま、獄寺はずるずる、腕を掴んだ銀色の鮫を別室へ引き摺っていった。自分ごと中へ入る。跳ね馬もついて来る。磁石で繋がっているような健気さは、けっこう捨てたモンじゃねぇなと、アッシュグレーの頭のいい若者は金髪の男を再評価した。

「事情はだいたい分かってっけどよ」

 分かっていて当たり前。仕掛けたのは獄寺自身だから。それでいて白々しく、まるで公正な仲裁者のような口をきく。

「今、騒ぐのはカンベンしてくれ。アイツに聞こえていらねー騒ぎになっちまうのはご免だぜ。ジッリョネロの反対派もウチとの同盟をやっと納得しかけてんのによ、いまんなってザンザスの気が変わるのは困るぜ」

「……なに言ってんだぁ、てめぇ」

 さすがに銀色の鮫が口を挟んだが語尾は弱い。弱いはずで、来客はこの銀色の人生最大の弱み。

「いーオンナが虐められてっとヤローは無駄に盛り上がるからな。ザンザスのヤローに心変わりされて、アンタと駆け落ちとかはされたくねー」

「するかぁ」

「分かんねーぜ。あんたキレーだからよー」

「はぁ?」

 十歳近く年下のガキにそう言われて銀色の鮫は右の眉を吊り上げ心から嫌そうな顔をした。金の跳ね馬は黙っている。獄寺の立場は巧妙だった。世間であれば『女友達』の位置、オトコにとってなかなか厄介な立場を一瞬でキープした。

 そんな可愛らしいモノではないというのに。

「夜にまた、出直してくれねーか跳ね馬。今日これから十代目は、『九代目』と一緒に先祖の墓参り、それから年寄り連中と茶会だ。騒ぎ起こさねーでくれ」

 本物の九代目は植物状態に近く、一緒に行動するのは杖をついた影。その影を実の祖父のように労わりながらボンゴレ代々の墓地に花を供え、それから干物になりかけた年寄りたちと会合を行うのが月のついたちの行事。

「……山本は?」

「今は、会わせらんねーよ」

「おい。俺はなんにも答えてねぇぞぉ」

「オマエが教えてくれないから本人に確認するまでだ」

「やめろ。恥かかせんな。殴るなら俺にしとけ」

「そこらへんもコミで、夜に仕切りなおそうぜ」

 な、と、獄寺隼人が金銀の二人を宥める。

「ドン・キャバッローネのお怒りももっともだが、その別嬪はウチにも賓客だ。ことと次第によっちゃ十代目の判断を仰ぐことになる。保留しといてくれ」

「……」

 金の跳ね馬が唇を噛み締める。口惜しそうだ。ボンゴレ十代目の名前を出されてそれ以上は押せない自分の立場を口惜しくおもっている。

「……わかった」

 低い声で答える。ほんの数分、短い時間に傷ついて、ひどくやつれた表情には普段ないオトコの色香が漂う。獄寺の鼻先にまでその哀愁に似た魅惑が流れてきた。ましてや真正面から。

「スクアーロ……」

 殴られるのではなくそっと抱きしめられ、肩に殆ど、縋るような位置で額を押し付けられて。

「……、ぁ……」

 悲しみに大きく喘がれる銀色の鮫にはいっそう沁みる可愛げだろう。震える大きな肩を、生身の右手で撫でながら。

「……ワリィ」

 そうとしか答えてやれないことを悲しそうな、優しいオンナに獄寺は内心で食欲を感じていた。