後悔・21

 

 

 

 不安定な姿勢で腕の中から見上げてくる、切れ長の瞳が不安そうに揺れている。思いがけなく二人きりになって、動揺しているのが自分だけではないことを知って男は安心した。そして、笑った。

「……」

 銀色の鮫は動きを止める。ぴたりと凍りつく。昔からそうだ。男が笑うと、いつも。いつもと言うほど笑い掛けてやった回数は多くないけれど。

 黙ったまま膝の上に跨らせる。指先で促すと大人しく男の固い腿に腰を落ち着ける。それから抱きしめた。すぐに細長い腕が抱き返してくる。暫く、そのままでいた。腕に馴染む細い身体を全身で味わう。

 うなじに顔を埋める。さらさらの長い髪が頬に当たって少しくすぐったい。あまり汗をかかない銀色の鮫の首筋からは何の匂いもしなかった。

「……」

 苛められていないか、と。

 男は尋ねたい。けれどどう言えばいいのか分からない。黙って後ろ髪と背中をそっと撫でる。腕の中で細い身体が少し身じろぎする。なぁ、と、小さな声を出す。

「十代目が、来る、から……」

「……から?」

 だから離せと銀色は言いたかったのだろうが。

「……なんでもねぇ……」

 男に低く凄まれて大人しくなる。つまらないことを口にしてごめんと詫びるように抱き返すチカラを強くする。抱擁を交わす、この心地よさ。パタパタ世界が遠くから閉じていって、このままずっと、二人だけで小さな匣に納まってしまいたい。

「……」

 やがて男の指先が位置を変えた。頬に指先を当てられて銀色の鮫の、閉じられた瞼の先端でまつげがわななく。くちづけを与えてもらえるのかと期待して。2キロの山道を走ってもほぼ平常の心拍数が跳ね上がる。男に聞こえてしまいそうで恥ずかしい。緊張で背までふるわせた、結果は、形が良すぎて肉付きの薄い唇を指先で撫でられただけだったけれど。

「跳ね馬がよぉ……」

 銃を使う男の指は固い。引き金を引く右手の人差し指は特に固い。その表皮をびんかんな唇で味わいながら、銀色の鮫が口を開く。

「殺すか?」

 男は本気で正気だった。バカ言うなよと銀色に笑われてしまったが。

「そうじゃなくって、この前よぉ、言われたんだ。俺もあいつも、すぐ四十になる、ってぇ」

「すぐでも、ねぇだろ」

 人間は一年にひとつしか歳をとらない。あと八年ある。

「過ぎちまやすぐだろぉ。おまえ待ってた時間と同じだぁ。でよぉ、そん時、どーしてっかなって、ちょっと考えてよぉ」

「どうせ」

「んー?」

「ろくなことを考えつきもしねぇくせに」

「まぁなぁ。でも一個、絶対確実なのはよぉ、生きてりゃひとつずつ年取るってことで、そんときおまえまだ実質三十四で、お前の奥方は十六かぁ、って、思ったら、なんか辛かったぜぇ」

「……」

「なぁ、その頃はちゃんと『結婚』してガキなんか出来てっかもしんねーし、ジッリョネロの監視も緩んでっとしてもよ、さすがのお前も四十男なんか抱いてくれねーだろぉなぁ、とか、馬鹿なこと考えちまったぁ……」

「馬鹿だな」

「過ぎちまやすぐだ。待てねぇこたぁねぇ、って、思ってたんだぁ。でも俺ぁバカだったかなぁ」

「そうだ」

「残り、すくなかった、かも、って、思うとよぉ……」

 銀色の嘆きが男にはよく分からない。胸に響いてこなかった。何を言っているのかこの馬鹿は。歳を取って愛されなくなる未来を恐がっているらしいが、そんなことを正気で考えているのか?

 こんなに愛しいのに。

「……逃げるか?」

「しねぇ」

「なら泣くな」

「泣いてねぇ」

 銀色の言葉を確かめるために唇から離して頬を撫でた指先に、確かに涙の気配はなかったけれど。

「嘆くな」

 腕の中、胸の上で身体を震わせられて。

「ムチャ……、ザ……?」

 男の指先が熱を孕む。気づいて顔を上げた銀色は、次の瞬間、視界が回転する。

「……え」

 全身を委ねきっていた銀色はごくお手軽に床に転がされる。覆いかぶさる男の影を不思議そうに見上げる表情に警戒や恐れはなく、呆れるほどに無防備で幼く見える。

「お、DEいぃ……」

 男が自分のベルトを外す。何をしようとしているのか、実に分かりやすい伝達。銀色の鮫は震え上がる。絨毯の上で身体を捩じって逃れようとする。が。

「動くな」

 男の大きな掌に頭を抑えつけられる。掌はすぐに外れたが、押さえつけられた頭は自由になったあともその位置から動かない。動かせない。

「や……、んの、かぁ……?」

服従に馴れた銀色はおずおずとした口調で尋ねる。切れ長の目が見開かれ青灰色の光彩が不安そうに揺れる。

「嫌そうな顔をするな」

「いや、じゃ、ねぇけどよぉ……。俺はイヤじゃねぇけどよ、らしく、ねぇぜこんなのオマエらしく……」

「あぁ?」

「密通、とかって、似合わねぇよ……」

 いつでも堂々、高慢な男は。

「密通?」

 銀色の鮫の不安を鼻先で笑い飛ばす。

 自分のオンナを抱くだけだ。誰に咎められる筋合いもない。現在の持ち主は別に居ること、手離したのは自分の判断だったこと、そんな細かいことは気にかけない。世界は自分が中心で廻っている。自分の意思より尊重されるべきものはこの世にない。

「誰かが文句を言ったら俺に伝えろ。殺してやる」

 それは身勝手、かつ理不尽な台詞だったけれど。

「……」

男と同じ世界に、まだ住んでいる銀色の鮫には最高の告白に聞こえてしまう。朝晩、金の跳ね馬に囁かれる愛しているという告白など吹き飛ばすほどの。

「マ……、ジ、かぁ……?」

 震えながら尋ねる。冗談を言わない男は、俺が冗談を言うかと言う軽口さえ叩くことなく答えた。

「そうだ」

「ザン……、ざ、すぅ……」

 同じ重さの言葉を返したくて、でも見つけきれなくて、オンナは咄嗟に自分のベルトを外す。自分が欲しがるものを差し出そうとする素直かつ率直な行為に男が笑う。笑って、そして、そのまま顔を近づけ唇を寄せようと、したとき。

 

「「あ」」

 

 部屋のドアが開く。びく、っと、銀色の鮫が怯えた。怯えたように見えた。男にはそれが気に入らない。このオンナが恐がるのは自分だけでいいと思っている。

「……ッ!」

 構わず唇を重ねる。竦んだ肩に罰を与える激しさで。ドアを開けたボンゴレ十代目の右腕もその後ろに居る十代目当人にも、濡れた唾液と舌の絡まる音が聞こえるように。

「見逃して欲しい?」

 その、音に重なって、ドアの向こう側からの声が。

「やっぱりムリだった?スクアーロさんのことが好き?諦めきれないのか、ザンザス?」

 聞こえてきて、ゆっくりと、男は銀色を押さえ込んでいた上体を起こす。背中を銀色の両腕が追った。行かないでくれ離れないでくれと縋られ、その腕を首に巻きつけたまま。

「返してもらう」

 この男にしては礼儀正しいと言える口調での宣告。

「ダメだよ」

「許可をとってるわけじゃねぇ」

「だめだ。オマエは逃がさない、ザンザス」

「下がってください、十代目」

「逃げるとは言ってねぇ」

「オマエが愛人をヴァリアーに連れて帰ったらジッリョネロファミリーは激怒する。ディーノさんも怒り心頭で取り戻せって要求をしてくる。逃げるしかなくなるんだよ、ザンザス」

「文句を言うヤツが居たら俺のところに寄越せ」

「迎撃するつもり?凛々しいね。でもそれは俺が許さない。まあなんだ。早い話……」

 歴代最強と称されるボンゴレ十代目、沢田綱吉の瞳が瞬きの後でオレンジに変貌する。

「そうしたいなら、俺を倒してからだ」

「……」

 抱きつかせていた銀色を男が床に置こうとする。

「……、よそうぜ」

 男の首に絡めた腕を離さずにオンナが呟く。屈んだ男の前面にはりついたような姿は男を庇っているようにも見えた。

「いっぺんきめた、ことだぁ。なぁ、よそう、ぜぇ」

 言いながら頬を寄せる。男を宥めるように。

「ヘンなこと、言って悪かったなぁ。ごめん」

 謝る。何もかも自分が悪いことにして。

「愚痴ってよぉ、わるかったなぁ」

「なんの愚痴?」

 銀色と同じく庇おうとする獄寺を退けて、ボンゴレ十代目は有り得ない真似をした。部屋に踏み込み、屈んだザンザスと床に膝をついた姿勢でそれに縋る銀色にあわせて自分も絨毯に座り込む。子供やペットと対等に話そうとする優しい大人のように。たった今、チカラを誇示して従わせようとしたはせかりなのに。

「オレにも言って。出来るだけ善処するから。ディーノさんのセックスがしつこい?山本の求愛がうざい?ディーノさんは振っていいし山本は殴りつけていいよ。いいからここに居て。心からのお願い」

「なん、だぁ?」

 カチャカチャ、かすかな音を立てて自分と男のベルトを直した銀色が首をのけぞらせ、見た目は可愛いボンゴレ十代目に視線を流す。そのまなじは背中をゾクッとさせるほど艶で、なるほどオンナを抱いてる男が腕を離そうとしないのも、仕方がないなと思わせる蠱惑を呈している。哀願の言葉を不審そうにされて沢田綱吉は絨毯に膝をついた。

「あなたに居てもらわないと困るんだ。だってザンザスが何処かに行っちゃう。ねぇ、連れ出させないけど、今日だけなら見逃してあげるよ。ううんこれからも続けていい。だから何処にも行かないで」

「……あぁ?」

 沢田綱吉に向かって眉の寄せられた美貌の、細い顎を掌で包み込むようにして。

「よすのか?」

 自分の方を向かせた男が真顔で問いかける。銀色の鮫が目を細める。間近で眺める男が本当にハンサムで心から見惚れた。

 でも。

「ああ、よす。やめとく」

 駆け落ちをそんな言葉で断られ。

「……」

 分かったとも男は言わなかった。黙って立ち上がり、沢田綱吉の横を抜け、そして部屋から出て行く。

「十代目」

 身を避けてザンザスを通した獄寺隼人がさっと部屋に駆け込み主人のそばわらに膝をつき、何かを囁いた。

「ああ、うん、そうして。お見送りしてきて」

 主人の許可を得て獄寺が身を翻す。ツバメのように軽やか、生気に満ちた若々しい動きで。

 残された二人はしばらく遠ざかる足音を聞いていた。

 そして。

「どうして行かなかったの?」

 沢田綱吉が静かに尋ねる。

「……行くなって言ったなぁてめぇだろぉ」

 ゆっくり銀色の鮫は立ち上がった。自分の主人の前以外では猫でないことを証明するために、悲しみを隠して。

「ザンザスのことを愛してないの?ついて行きたいと思わなかった?」

「行って欲しかったのかぁ?」

「行かれたら困るよ。力ずくで止めた。でもやっぱり男としては、好きな人にはついてきて欲しいから。俺がザンザスだったらさ、いま傷ついたかも」

「アイツはそんなにヤワかねぇ」

「そうかな。でも男なんて、みんな同じじゃないのかな。好きな子に笑ってもらうために生きてる。他はつまんないことさ。ボンゴレとかマフィアとかを含めて」

「うたうな。マジでそんな寝言ゆってるやろぉが、あんな上玉、纏めて抱えてるわきゃねぇ」

 本邸の警備責任者をしていれば屋敷の主人の情事にも詳しくなる。雲の守護者・雲雀恭弥が本妻。強くて美しくて残酷で、ふるいつきたくなるようなボスのオンナ。

他に日本に二人、こちらは子供を産んでくれる本物の女が居る。どういうことになっているか分からないが、時々二人で連れ立ってイタリアへ遊びに来る。片方は某車メーカーの本社ビル受付、もう片方は国立大学研究室に所属する学者の卵。どちらも可愛らしく素直で優しそう。男を安らがせる柔らかな雰囲気を身に纏っている。

「えへ。褒めてくれるの?ありがとう」

 恋人たちを褒められて沢田綱吉はとても嬉しそうだ。

「でもホントだよ。ボンゴレとかジッリョネロとかジェッソとか、そういうのは全部、オレにとって外側の話だ。ヒバさんと京子ちゃんとハルはオレの内側に住んでる。基準が違うんだ。だって愛してるから」

「その寝言の基準でいけば、俺ぁ外側に居るぜ。じゃなきゃアイツを守れねぇ」

「あなたはオレに相談なんか、するべきじゃなかった」

 優しい、と称されることもある目を細め、沢田綱吉はそんなことを言い出す。

「オレはオレの都合が良いような返事をしただけだ。オレに聞いたことをあなた、後悔しているでしょう?」

「いいやぁ、少しもぉ」

 引き出されかけたシャツをなおし、スーツの上着を一旦脱いで着崩れを直しながら銀色の鮫は答える。

「ホントのことを教えてくれたぜぇ、感謝してる」

「つまんないな、あなたは。単純明快すぎてちっとも面白くない。ザンザスを好き、ザンザスのため、それ以外を考えたことがなさそう。ボクにはつまんないけどザンザスには嬉しいだろうね。羨ましいよ、ちょっと」

「てめぇにもちゃんとついてるじゃねぇか、そういうの」

 銀色の鮫が言ったとき、その胸ポケットで通信機が震える。携帯電話ではない。本邸に来てからの銀色は携帯を殆ど使わなくなった。盗聴の可能性があまりにも高いから。代わりに一定時間で自動で周波数を変える通信機を主だった面々に配布して使用させている。

「おー、何だぁ?あ?居るけどよ、どーしたぁ?」

 警備責任者としての声を出していた銀色の鮫が眉を寄せる。何事かと、沢田綱吉も緊張した。

「ちょっと待て、直接指示を仰げ。代わる」

 山本からだと言われて渡された通信機の向こうで。

『獄寺がさらわれた』

 山本武は事態をシンプルに、単純明快に告げる。

「……え?」

『見送りしてたザンザスに腕を掴まれて連れて行かれちまった。追いかけて、いいか』

 九代目は倒れて奥へ引き取ったがパーティーは続いている。幹部である山本武は当然ながら持ち場を任され、警備を担当している。それを放り出して追ってもいいかと、許可をとっているのだ。

「え?」

 話をまだ、うまく飲み込めない沢田綱吉に。

「見逃さなかったか。最近あのお坊ちゃん、一皮剥けて美味そうだったからな」

 よくよく理解できている銀色の鮫は、さもありなん、という様子で頷く。

「追わせた方がいいと思うぜぇ。アイツは癖が悪ぃ。ファミリー内部のオンナを寝取るぐれぇなんとも思ってねぇからなぁ」

「なにそれ、なに!ありえない!」

「ありえるさ。当たり前だろぉ?」

 にやっと、銀色の鮫は笑った。かなり露骨に嬉しそうな顔で。

「ヒトのオンナにエロイことした罰に自分のヤられるってのはよぉ、マフィアの世界じゃ、よくあることだぜぇ」