後悔・22
最近美味そうだ、と、銀色の鮫に評されたことも知らず。
「……」
お坊ちゃんこと獄寺隼人はザンザスの送迎車・リムジンの座席に押し込められていた。
「……」
フルストレッチ、七人乗りのシートはL字型。そのかどのところ、シートではなく床に尻をついて、シートに腰掛けたザンザスの長い脚をスーツの胸の上に乗せられている。
「……あの、よぉ」
恐いと思った相手には萎縮するより噛み付いてしまう気質の獄寺だ。しかし今回は噛み付く気配もなく、態度はふてぶてしいほど落ち着き払っている。
「煙草、吸いてーんだけど」
押し込められた最初、ザンザスは突き飛ばしただけで、獄寺は後部座席に移動してきた嵐の守護者に抑えられていた。ティアラの王子様が面白がって唇にナイフを押し当て、ふつりと切れた端から真っ赤な血が滴って、その役目はオカマの格闘家と交代になった。
笹川了平との関係でボンゴレ本邸に出入りが多く、獄寺とはかなり顔を合わせるルッスーリアは嬉々として獄寺をシートに押さえ込んだ。見た目よりいいカラダしてるわねぇと舌なめずりしながら。どーも、と気のない返事をした獄寺は背後から羽交い絞めにされても文句を言わず大人しくしていた。
が、運転を代わった王子様がカーブを曲がりきれずフロントを立ち木にぶつけ、そこから脱出しようとバックしてこんどはリアをガードレールにぶつけ、前後を凹ませてしまったおかげでムキムキマッチョの腕の中からは開放された。
結局、ルッスーリアが運転、王子様が助手席といういつもの配置に戻り、拉致してきたボンゴレ十代目の右腕はリムジンの床に転がされ、胸をザンザスの足に押さえられている。床にも絨毯が敷き詰められてふかふか、革靴の底で胸を踏まれているのに、妙に屈辱感がない。
「とっていいか?それとも咥えさしてくれっか?」
見上げるもとボンゴレの御曹司は既に後悔している表情で、押さえたいいものの言葉もかけずにそっぽを向いている。長い脚してやがるなぁと獄寺は少し感心する。そうして傷跡の残る横顔の、彫刻じみたハンサムさに少しだけ見惚れた。彫が鋭く苦味が強くて、小娘たちにきゃあきゃあ騒がれるタイプではないが、味の分かった女にはほれ込まれるだろう。
本人が好むシングルモルト・ウィスキーのように、味わうためには修練と適性が必要だが、それさえあれば、多分クセになる。
「ライター、尻のポケットに入ってっけど」
敵方とはいわないがかつて対立した暗殺集団、ヴァリアーに拉致されつつあるというのに獄寺に危機感はない。ボンゴレ十代目の右腕と言う自分の立場をよく招致している。殺される筈はない。考えられる最悪のパターンは寝床に侍らされて相手をせられるくらいだ。別に、それを、嫌とは思わなかった。
傷跡の残る横顔に奇妙な親近感を持った。あの銀色のイロだと思うと身内のような気さえする。あんたのオンナすっげー美味いなぁと、話しかけたくて唇がむずむずするのだ。したら多分、生きて帰れないだろうから黙っているけれど。
もしベッドに連れ込まれて二人きりになったら尋ねようと思った。銀色の鮫をどうやってあんなに奇麗に仕上げたのか。最初から才能があったのかそれともあんたの腕なのか。オレにもあんな風になれる可能性あるだろうか、と。
そんなことを思いながら見上げる男は少しも恐くなくて。
「……」
すっ、と、胸を踏みつけていた革靴が退けられた瞬間は軽い失望さえ感じた。
「どーも。起き上がっていいかー?」
ダメと言われなかったので勝手に上半身を起こす。絨毯の床に胡座をかいて胸ポケットから煙草、尻からライターを出して火を点ける。持ち歩いている携帯灰皿も。けれど吸殻がパンパンに詰まっていて。
「捨ててくれ」
言って助手席に投げる。器用に膝の上に落ちた銀色の缶の中身を、王子様は窓を少しだけあけて捨ててくれた。
「……」
眉間を狙って鋭くとんできた灰皿を受け取る。煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。愉快だった。あのザンザスの車の中で煙草の煙を吐き出している。
「なー、実はオレよー、腹、減ってんだけど」
調子に乗って言ってみる。でも嘘ではない。時刻は夜の九時。九代目が倒れたことで早めに終了したパーティーの来賓を見送っていた。中でも指折りの賓客が車に乗り込む時、預かっていた銃を返そうとして腕を引っ張られた。九代目の養子であるザンザスにボディチェックはしないが、自己申告で武器は預かっている。白い布の敷かれた盆から二丁拳銃を受け取ったザンサスの、その耳元に。
なんでヤってやんねーの、と、尋ねたことは、確かに無礼だった。何があってもボンゴレ本邸内なら揉み消せる。なかったことに出来る。ザルだった防諜も銀色の鮫のおかげで通常のマフィアのアジトくらいには秘密が守られるようになった。それに。
九代目の見舞いにこの男は毎月やって来る。九代目がこの男を会い指定目こと?世間に知られているから、倒れて心細くなった老人が養子をそばから離さなくても不思議ではない。泊まりさえ不可能ではない。
ドン・キャバッローネに関することが障害だが、そっちはいざとなったらお引取り願って、別の『男』を恋人にしてしまえばいい。獄寺隼人はそう思っていた。山本が最初にあの銀色を口説いた時の条件は秀逸だったと思っている。たまにザンザスに会わせてやるぜ、という誘惑。
その手段を獄寺も使う心算だった。なのに二人に二人して拒まれて、なんでだよと不思議に思った。あんなにぎゅっと抱きしめあったくせに。
「ヴァリアーでメシ出るのかー?昼も仕事しながらバニーニ齧っただけなんだ。なんか食わせてくれなきゃ飢え死にするぜー」
警護中は当然、食事などできないので空腹も限界。いつもはパーティーが終わった後で厨房か大皿で料理を出させてガツガツ食い漁る。だいたい人間、空腹の方が気が立っているから警備や護衛には向くが、それにしても限界だった。
「バルサミコ酢のステーキとポルチーニのリゾットが食いてぇ。リゾットはチーズ利かせてよぉ」
思いつくままを口にしていたるうちに悪戯を思いつく。
「跳ね馬のヤローが建てたホテルってよー、メシ、すっげー美味いらしーぜ。行ったことあっかぁー?」
キャバッローネファミリーが本拠地と資本をこの街に移すに当たって買収し改装して五つ星のすかしたホテルにした。飛ぶ鳥を落とす経済マフィア・キャバッローネの威信をかけたキラキラ豪華絢爛なそこに。
「……」
獄寺の台詞を聞き流していたザンザスが視線を向ける。吸い終えたタバコを揉み消しながら獄寺はニッと笑いかけた。眉を顰められたが、少しも怯まずに。
「あんたも腹へってんじゃねー?」
パーティーで食事に殆ど手をつけない男に言ってみる。
他所のマフィアの系列の店やホテルには出入りしないのが業界の常識だ。縄張りあらし、喧嘩を売ったと誤解されないために。もっともボンゴレとキャバッローネのような同盟関係にある場合は営業協力の形で利用しあうことも多い。
けれどもそれが暗殺部隊のボスというのは話が別。アポなしでのこの大物の来訪は歓迎されないだろう。でも追い出されることもない。そんなことをしたらかえって後で祟る。
フンと男は鼻先で笑ったが、そのまま視線をバックミラーごし、運転しているルッスーリアに向ける。ルッスーリアは何も言わすにハンドルを切った。
地域の社交場を担うホテルのダイニングの営業は深夜まで。幸い個室があいていてそこへ通されたから必要以上に目立つこともなかった。
「あー、食った食った」
滞在時刻は短かった。美形の風上にもおけない食欲で、獄寺はリゾットとステーキをばくばく食べ終えた。時間がかかるコースは頼まず酒も飲まなかったのでほんの三十分ほど。その間、向かいに座ったザンザスはローストビーフを抓みながらマッカランのダブルを二杯、チェイサーなしで飲みつくした。
「あんた、酒の飲み方、スクアーロに似てるな」
無口な男は殆ど喋らず、口を会話より食事に使っていた獄寺も同様だったが、ナプキンで唇を拭いながらそう言った時だけ、男は視線を獄寺隼人に向けた。
「この前よー、一緒に飲んだんだ。あっちは赤ワインだったけど、一つのツマミで飲み続けるとこ、似てる」
あっちはマグロのカルパッチョだったけどなと言って獄寺は笑った。ザンザスは笑い返さない。二人が部屋を出ると、個室の出口で警備していたルッスーリアが恭しく腰を屈め、そして。
「申し訳ありませんが、車が廻せません。駐車場までご足労願えませんか?」
丁寧な口調で願う。獄寺は気軽ク歩き出した。車で待機している王子様に運転させるとまたぶつけるから、高級車だらけの駐車場からホテルの正面玄関へ乗り付けられないのだろうと思っていた。違った。
「あー」
どん、という勢いで、明らかに喧嘩を売る角度で、リムジンの真後ろに別の車が停まっている。ティアラの王子様でなくても、それにぶつけなければどうしても動かせない位置に。
「わりー、迎えが来たみてー」
強引に腕を掴まれて拉致されたはずの獄寺は、まるで自分の意思でそうしたような口をきいた。そうしてごく自然な足取りで手前に止められた日本のスポーツカーに乗り込む。イマドキ珍しいロータリー、なつかしのRX7。山本が好きで好きで、わざわざ日本から運び込んだ車。
「……」
ハンドルの上で腕を組み、かなり剣呑な表情で一行を見ていた山本が、近づいてくる獄寺の為にドアのロックを解除する。すっと獄寺が助手席に乗り込んだ途端、ギュンッとタイヤを軋ませて車は発進した。
かなりタイトな軌跡で駐車場から出て行く車の、窓を下げて。
「ごちそーさん。おやすみー」
食事をたかっただけで逃げる女のような口調で獄寺は挨拶。流し目は、なかなか堂に入っていた。
それから、ほどもない。
「あぁー、よかったなぁー。おー、分かった。じゃーなぁー」
奪還成功の知らせを受けた時、銀色の鮫は自室に居た。来客を送り出し、十代目も奥に引き取ってやっと落ち着いたところだった。部屋に運ばせた夜食を片付け歯を磨き、風呂に入ってから練るか、朝シャワーを浴びるか考えていた。つまり、ザンザスによる拉致を、あまり深刻に考えてはいなかった。
「俺ぁ先に寝るぞー。おやすみー」
言って無線を切る。今日は疲れたから先に眠ろうと、心を決めて皮のブーツを脱ぐ。色々あった、本当に疲れ果てた。でも汗も流さずベッドに入ろうとしているのは疲労からではない。
今日は本当に疲れた。でも思いがけない嬉しいこともあった。抱擁の感触がまだ肌に残っている。褪せないうちに夢をみようと思った。『恋人』は最近仕事が忙しいらしく、日付が変わるころにそっとやって来ることが多い。それまでに一眠りして、夢を追いたかった。
ベッドにごろんと横たわった、瞬間。
無線機がまた鳴る。なんだよ、と思いながら、やや不機嫌に出た。もしもし?
『俺だ』
響きが低い、男の声が聞こえて。
「……ッ!」
銀色の鮫が息を呑む。