男が車に乗り込む。ルッスーリアはドアを閉め運転席へ。そのほんの短い、車内という空間で一人だけの時間に半生が廻った。男の頭の中でぐるり、と。
本当は、こんな人生を送る身の上ではなかった。
娼婦だった母親がいきずりの客に孕まされた、結果としてこの世に生を受けた。市井の路地裏の私生児。なのに『養父』に用事に引き取られ名門マフィアの跡取りとして育った。豪奢な暮らしの中で威張りながら生きてきた。
自意識はその間で揺さぶられ、自分自身に絶望しかけたことも二度三度。自意識は何度も破綻しかけた。しかけたけれど決定的な崩壊は見ないまま、無格好ながらなんとか繋がって、生き延びることが出来た。
繋げたのはあれが居たから。時間の断絶も立場の変化にも無頓着、何年だってもかわり映えのしない、変わらない態度でずっと隣に居た。居て、くれた。あの髪が蜘蛛の糸。地獄へ滑り落ちそうな自分を細く、でも、確かにずっと、繋ぎつづけて、『くれた』。
この自分が、ボンゴレよりも。
あれを自分が、愛しているかもしれない、という、
今度の破綻も、あの髪なら繋いでくれそうな気もする。愛人よりもボンゴレが最強であることを選ぶ自分だと思っていた。決断を迫られた時点では確かにそうだった。けれど、変わってきたかもしれない。
あの銀色が愛しい。
人間は永遠には生きない。うまれた以上、死は訪れる。昼間にあの銀色が嘆いた言葉が耳の奥で響く。時間が流れていくことを嘆いていた。眠っていたのと八年という時の流れを久しぶりに思い出す。同じ時間が別々に流れた後で、今度もあれが自分を待っているという保障は何処にもない。
今ならまだ、たぶん間に合う。昼間、腕を引いたらイヤとは言わなかった。唇を重ねたら大人しく開いた。腕で抱いたら全身を委ねてきた。八年後にも同じようにするとは限らない。別の男に馴染んで、マフィアを引退して外国で、気候のいい街に家を買ってあの跳ね馬と一緒に暮らすかもしれない。
……そんなことは、許さない。
連れて逃げるか。逃げ切れず連れ戻されたとしても、この馬鹿な茶番を終わらせることは出来る。『妻』に恥をかかせとジッリョネロファミリーは怒り、結婚と同盟は解消されるだろう。別れることは出来る。
いちど決めたことだと昼間に銀色は言った。言って、ついては来なかった。それでも腕を掴んで連れて、逃げればついては来るだろう。逃げおおせる必要はない。二人で逃げたという事実で十分、既成事実になる。処刑は多分、有り得ない。
行かないでくれと繰り返し告げた生意気なジャポーネは、ジッリョネロファミリーよりは自分を選ぶだろう。そんな気がした。
いちど決めたことを覆すことを、男はなんとも思っていなかった。気が変わったのだ。よくあることだ、自分には。
「ボス、出します」
運転席に乗り込みエンジンを掛けたルッスーリアが言う。声は静かで男の気持ちを刺激するまいとしている。揺れる、ゆれる。無心では有り得ない。下町の私生児だった自分を名門マフィアという異質な存在に変えたジジイがこの世から消える。
……戻るか。
それもいい。いっそ市井の路地に戻っても。マフィアを辞めて一般人に、なるとしたら自分に優先権がある筈。ボンゴレの血を引いて生まれついた沢田綱吉より、弱小だったとはいえマフィアの跡取り息子に生まれてきた金の跳ね馬より。
死んでいくジジイに昔、路地裏で拾われた。
拾われた路地に、戻るか。
戻れる気がした。昔の町へ。自分のまま、平然と帰れる。
あれさえ連れて行けるなら。