『混沌』

 

 

 足元でポキッと木の枝の折れる音がした。うすく積もった新雪の下に枯れ枝があったらしい。もう一歩を踏み出す。またポキッ。もう間違いない。

「居るな」

 改めて周囲を見回せば谷へ続くこの小道の両脇、立ち木の下枝は相当に刈られている。鉈で一息に切り落とされた切り口はメノウの表面に似てすべらか。

「居ますね」

 手負いの人食いクマが追われて逃げ込んだ峰。幸いそこに定住者はおらず、夏の間に山間の田畑を耕すための出作り小屋と炭焼き小屋があるだけ。どちらも厳寒期のこの時期は空き家だ。

 そのうちの一つ、板壁草葺の小屋へ向かう川沿いの小道は獣道でもある。それを通らなければ谷底の小屋には近づけない。

「クマより怖いヒトが居らっしゃいますね」

 視界を確保するために雑木林の木の下枝を払う、そんな作業の切り口さえ、並ぶ者なく鮮やかな。

「歌でも歌うか」

 肩にライフル、腰には大型の鉈とナイフ。背中に大きなリュックを背負った二人連れは立ち止まった。テンの皮で作った防寒帽子は額から首、肩まで覆い尽くすもので、更に厳寒地用のタートルネックシャツの襟を鼻の頭まで引き上げて、外気に晒されているのは目元だけ。

 足元は天然ゴム底、外側に牛革、内張りにウサギの毛を使った贅沢な安全靴。ズボンは当然、綿入りのレザーで裾の長い上着も同様。そのままごろり、雪だまりに転がって一夜を明かしても凍死から免れそうな完全防寒。

 手袋だけが小鹿の皮製で薄手、物を握りやすい品物だった。二人とも刀を腰に差しているが柄に油紙を張って風雪を防いでいる。もっとも油紙は薄く、とっさの時にはそのまま引き破れる。

「フエ持ってきてます。吹きます」

 後ろから歩いていた一人がポケットからボールペンほどの大きさの笛を取り出して鳴らす。スポーツの試合に使うホイッスルではない。響きの鋭い、旧幕吏らが捕り物の合図に使っていた呼子。足元の積雪は膝までで深いが今日はいい天気。小鳥の姿さえ途絶えた真冬の青空を、呼子の高い音色は切り裂いて響いた。

 やがて。

 ガタン、と、小屋の板戸が横にずれる。現れたのは、暗闇への入り口。周囲が明るいので室内は真っ暗にしか見えない。その手前、左手に刀を持ちながら、立っているのは白ずくめの衣装を身に纏った若い男。この地方の猟師たちがよく使う藁で編み布を張り獣の脂防水加工したカンジキを穿いて、白い皮のコートを羽織っているが、外の二人に比べれば明らかに軽装だ。手袋も、左はしているが右手は素手。

「……なんで居るンだよ」

 目つきは悪いが顔立ちのいい彼はもと真選組一番隊長にして、現在は函館の日本人租界の顔役。年齢は二十歳を超えたが口元にはまだ少年の気配が残る、茶髪の美青年。

「オマエが帰ってこなかったからだ」

「会館でいいコで待ってろって、俺ぁいいましたよね」

「言われたかな。聞いていなかったかもしれない」

「帰れよ。勝手なことすンな」

「帰れないな。傷跡が痛くてもう歩けない」

「……」

 ここまでスタスタ、昔どおりの健脚で歩いてきたことを知っている山崎は口を噤んだ。しかし小屋の前に立つ青年は山崎より純なのか懲りないのか、惚れた弱みか、そんな見え見えの嘘にだまされて心配そうな顔をする。

 いや、もしかしたら、嘘だと分かってそれでも尚、愛しさが止まらないのかもしれない。

「麓の町に戻ったら夜になるし。途中でクマに襲われて俺が食い殺されてもいいのかお前。食い散らかされた残骸は埋められて、地面からにょきって、オマエがよく舐める俺の踵だけ出ていたりするんだぜ?いーのか?」

「……アンタのこと食いたいケダモノならここにも居るンですがね」

「そりゃよかった。雪道に悪戦苦闘しながら探し当てた甲斐があるってもんだ」

「でも今は食えないンだよ。なのにそこ立ってられると、眼の毒すぎて、腹が立ってくんだけど」

「ザキ」

「へいへい、そと見張ってます。荷物だけ降ろさせてくださいよ」

「一時間ぐらいで終わる」

「どっちみち、日暮れまでは俺が見張りに立ちます。土方さん、夜目は利きましたね」

「目なら任せろ。他の穴グマにも気をつけろよ。まぁ、この雪の後だ。イイコでネンネしてくれてるとは思うが」

「了解です」

「ち……ッ」

 自分を外してさっさと進んでいく打合せに若者が苛ついた声を出そうとした、瞬間。

「そう怒るな、総悟。会いたかったんだ」

 背中に目があるような絶妙のタイミングで黒髪の美形が振り向き、鼻の頭まで引き上げていたもこもこのタートルネックの襟を喉へ引きおろした。

「……」

かつて江戸での日々、役者のようだと賞された美男っぷりは極北の地でも健在。否、凍てつく空気の中、呼気が睫の先端に氷結して昼下がりの陽光を浴びてきらめき、目尻の艶は、もう、どうにでもしてくれていう感じ。

「ちゃんとイイコに待ってたぜ函館で。なのにおめぇ、戻って来なかったじゃねぇか」

「……」

 それは嘘だ。イイコに待っていたのなんか、半日も持たなかった。江差と函館を結ぶ山路での人食い熊の被害が看過できなくなって、函館の邦人会と商工会から正式な要請が来て、もと真選組の中でも山慣れした選りすぐりが十余人、二股口に着いたか着かないかのうちにもう、追うことを考え地図を揃えて装備を整えだした。

 季節は春。しかし北国の三月はまだ雪に閉ざされている。この時期になっても穴に篭って冬眠していることが出来くなった穴なしクマは、冬季の餌のない山を捨て麓の集落に出没し、農作物や家畜、あるいは人間そのものを食べ物として狙い、多大な被害をもたらす。

「一緒に行った奴らだけ帰ってきて、沖田代行は約束の場所に戻られませんでした、ナンて聞かされた俺の気持ちになってみろよ」

「……」

 聞かされたとき、この美形は落ち着き払っていた。もう一度最初から詳しく、と顛末を報告させ、そりゃ死んでねぇなと結論づける。犠牲者を捜索して山岳地の集落周辺の山々を歩き回ること二日。残された遺体、というよりクマ『食い残し』を発見し、そこに待ち伏せを仕掛けて。

地面に埋めておいた『保存食』をクマが漁りに来たところを迎撃。作戦は成功したがクマの体力は一行の想像を絶していた。それもその筈、本土とはクマの種類が違う。本土のツキノワグマは成獣のオスでも体長175センチ、体重は100キロに満たない。山中で不幸な遭遇をしても山男が必死の反撃をすれば、運しだいだが、勝利もしくは撃退することも不可能ではない。が。

北海道に居るのは大陸系のヒグマ。同条件で体長は3メートル近くに達し、体重は300キロを越える。大物のオスは軽トラック並みの大きさで、立ち上がれば平屋の屋根に手が届く。猛獣、と呼ぶに相応しい生き物。

鉄砲傷と槍傷を負いつつクマは逃走し、血の跡を辿って追う地元のクマ専門の猟師数人に、追随できたのは抜群の身体能力と若さを誇る沖田総悟のみ。体力の限界を迎える前に集落へ引き返せ、と、沖田は部下に指示を出した。そして。

48時間たっても自分が集落へ帰らなければ下山して函館へいったん戻り、会館で留守を預かっている土方十四朗に指示を仰げ、と。

指図された、と、復命した隊士たちは苦渋の表情で告げた。けれどタバコを吸いながら足を高々と組んで、椅子にそっくり返りながら聞いていた美形は落ち着いたものだった。そうして最後に、そりゃ死んでねぇな、と。

断定した言葉は一瞬で隊内に浸透した。沖田代行は亡くなっていない。

 面倒だが助けに行ってやるか、と、美形がそう口にした瞬間、隊士たちの動揺はピタリと納まる。よく効く頓服の薬を飲んだように。

沖田や近藤にはここまでの統率力、否、殆ど支配力と呼んで相応しいちからはない。沖田は若すぎて近藤は人がよすぎて。

 切れ長の目をしたこの美形の判断力、読みの鋭さ、もしかしたらヤマカンと強がり、敵味方に対するブラフさえ含めた聡明さ、頭の良さに対する信頼は絶大。剣の実力や隊士たちへの人望と違う意味でギュ、っと、連中の心、誰かに適切な判断をしてもらいたい指示を受けたいという甘ったれた依頼心を掌に握りこんで離さない男。

 真選組の副長・土方十四朗というのが、そういう生き物だということを、山崎よりはるかに長い付き合いの沖田が知らないはずはない、のに。

「生きた心地がしなかった」

「……」

 ウソですよ。血よりも真っ赤なまるっと完璧なスゴイウソッ。

 と、山崎は沖田へ念を送る。けれど届かない。

「ドジ、踏んだんだ」

 人間は信じたいことだけしか信じない生き物。憂いを湛えて伏せられた睫の、いま思い出しても悲しいといった風情は甘くて、拒むことなどは出来ない。

「囲んだのに逃がしちまったのは俺だ。手負いにしちまった責任があるから、息の根止めるまでは追いかけるつもりで居たンでさぁ」

 若者の口調は釈明。さっきまでは糾弾していたのに。

手負いのクマは人畜に対して脅威となる。

「連絡、しなかったのは悪かったよ。けどアンタなら絶対、俺がヤられちゃいねぇって分かってくれると思ってた。……ホントは分かってたダロ?」

 おや。

「あぁ。でもそれと心配は別だ。無事で居るのを見るまで、今まで、息も苦しかった」

「ごめん」

 若者が謝る。申しわけなさそうに俯く。美形はさっきからさりげなく脇に挟んでいた右の手袋を外し、その若者の素手の右手を掴んだ。

 冷え切った指先を包む暖かさに若者が顔を上げる。すぐそこにあった大好きな顔に微笑まれる。ポキッ。

 何かの音がした。多分、若者の心の中の、扉のつっかえ棒が折れた音。

「一緒に居た猟師が襲われたのを、お前助けたってな」

 沖田と共に手負いの大グマを追った猟師は二手に別れたところを止め足を使ったクマに背後から襲われ怪我をした。沖田は手当をしてやったが猟師を麓へは送らなかった。手負いのクマを追いかけていた方がクマの意識を自分に向けさせることが出来る、抵抗力のない猟師が狙われる可能性が低い、と判断したから。

「あぁ……、うん。麓で聞いた?怪我どうだった?」

 数度の邂逅を経て、すでにクマは沖田の顔と匂いを覚えている。自分の仇敵として認識し、つけ狙っている。

「肩を十針くらい縫たが腕は落とさずに済んだ。お前の処置が適切だったおかげだ」

「ンなこたねぇよ。最初に俺がエゾヒグマなめてなきゃ、誰も怪我しなかったのに。ツキノワグマとは違うって知ってたのに、目の前で見るまではまさかあんなにでかいなんて、実感できなくって」

「仕方ない。はじめてのことだ」

 あぁまたこの人、ウソをついたよ、と山崎は呆れた。隊士たちの前では言わなかったものの、美形は若い沖田の調査不足、情報収集の欠如、準備の不備を罵っていたくせに。

「俺ぁ自分の、無知が情けねぇンでさぁ」

 優しくして、この強情者から自省の言葉を吐かせるのだから、すごい。

「ハセガワストアの焼き鳥弁当、買ってきてやったぞ。サガリとレバーの塩串も」

「ありがと。でも置いて帰ってくだせぇ。この勝負終わるまで、俺ぁあんた食えねぇんですよ」

 勝負や旅立ちの前には潔斎。前日に最中に、オンナをヤれば思わぬ不覚を取る。そういう一種の信仰が武門というか、武道にはあって、道場育ちの起きたの骨の髄にも染み込んでいる。だから出発直前の函館で、数ヶ月ぶりの再会をした時も抱かなかった。唇が腫れそうなキスと、前をはだけられた腰骨に噛み跡を残されただけで。

「なのに目の前に立ってられると、ジョーダン抜きで、マジ泣きしちまいそうなんでさぁ」

 それは嘘ではなさそうだった。本当に辛そう。嘆く若者に一歩の距離を詰めて、撫でてやる美形は目を閉じていた。でも、にんまり笑った口元からは本心がこぼれている。

 懐いてくるのが嬉しそうで、満足そうで、そして。

 ぺろり、と。

 舌なめずりの音がした。あんたを食いたいと嘆く若者ではなく、抱きしめようと手を伸ばす悪い大人の位置から。

「ダメでさ、ホント、やばい……。だめ……。触ンねェで……」

「お前の勝負の邪魔はしないさ。俺が抱きしめてやるよ」

 若者の耳元で囁く悪魔は美形なだけでなく美声。若者には、最初から勝ち目がない。

「オマエが無事で居てくれて嬉しいんだ。ちょっとだけ触らせろ。ちょっとだけだ。繋がりゃしねぇから」

「……、って……、ダメ……」

「安心しろ、ここは外地だ。八幡さまも目が届きゃしねぇ」

 武門の守り神、近藤勲の道場の神棚にも祀られていた神様のことをそんな風に言って。

「オマエに会いたかったんだよ、総悟」

 それはおそらく、嘘ではないだろう。

「食いつきゃしねぇ。ちょっとだけ舐めさせろ」

「ナンでオレ、こんなにちょろいンですかねぃ……」

「俺を愛しているからだ。なんだ、知らなかったのか?」

「……ううん」