混沌・3
カリ、カリ。
港の雪の中で死に掛けていたところを拾われて会館で飼われ、皆に可愛がられている柴犬がドアを前足で掻く。爪が当る音がするけれどドアに傷はつかない。樫の一枚板を透明の強化プラスチックで覆って、中には鉄板も入っている。手榴弾を投げつけられても耐える扉だ。
「まこっちゃん、そこ今日は開かないぞぉー」
通りがかりのもと隊士が給湯室で熱闘を注いだ『長浜とんこつ』のカップラーメンを手にした姿勢で犬に声をかける。犬は自分が呼ばれたと分かったらしい。前足で扉を掻くことをやめ、声をかけてくれた隊士の顔を見上げる。
「沖田代行、帰って来たけどな、今日は、えーと、その、ダイジな、そう、大事な話し合いがあるんだ。まこっちゃん、今日は詰め所の方に来なよ。ストーブで一夜干し焼いてやるよ」
絨毯の敷かれた廊下を四肢で踏みしめる、柴犬は凛々しい。茶色の毛並みは艶々で、こげ茶の瞳は聡明そうに澄んでいる。頭がよさそうな犬だ。そうして器量よし。
犬は前足を扉から引いた。少し寂しそうにくぅんと鳴く。でもすぐ気を取り直して詰め所へ向う隊士の後をつける。犬猫はトンコツラーメンの汁が好きだ。骨髄だから、まぁ当たり前。
「あれ、まこっちゃん、トンコツラーメン食べたいの?残り汁だけでごめんなぁ」
「まこっちゃん、一夜干しも焼けたぜ。よく噛んで食えよ」
「あれ、牛乳とイカってどーだって、食い合わせかな?」
首輪だけ鎖はなしで部屋飼いされている柴犬は行儀がいい。ちょうど昼飯の食事時間で詰め所ではがやがや、当番・非番の隊士が昼メシを食べているが、床に置かれた皿の上に置かれたものが自分の分だと理解して、少し尾を振りながらはぐっと噛み付いた。
「牡蠣も焼けた」
そこには、犬が知らない人間が一人居た。けれど犬は気にせず、警戒心も見せない。同じにおいがしたから。
「はい、ありが……、ひッ」
「なんだ。俺の女装がそんなに珍しいか?」
片手に軍手を嵌め、殻つきの活き牡蠣をストーブで焼いて剥いてレモンを絞って、差し出してくれた相手に隊士は硬直。
「い、いえ、あ、あの、ど、う、も……ッ」
皿で受け取り、膝につきそうなほど深く下げて礼を言う隊士に、おかしなヤツだと笑いながら山崎は次々、牡蠣を焼いては剥いていく。こういうことをさせれば誰よりも上手な男。美味い焼き汁を一滴もこぼすことなく、絶妙のふっくら焼き加減。
「女が珍しいほどの新開地でもないだろうここは」
確かにそうだ。日本の中では僻地というより外地。だが海外貿易の拠点で、大門どおりと称される遊郭もある。けれどそこに日本の女は珍しい。特に、こんな、素人の、美女は。
地味な顔立ちたが睫が長く、目元がバチッとしている。だから化粧を施すとびっくりの美女に化ける。真撰組の監察時代から潜入捜査で、『美女』ばかり狙った誘拐組織にさらわれ潜り込むことに成功した上物。真っ黒な制服の真ん中、男所帯の中に紛れ込んだ牡丹の柄の着物姿は、隊士たちの目を楽しませたが居心地悪くもさせた。
「俺はこれから、ここに出入りする時はいつもこの姿だ。沖田さんお気に入りのデリバリー嬢ってことにしておくから、そのつもりでいろ」
「……は?」
「え?」
「山崎さん、函館に住まれることになったんですか?」
「連絡船の船員は辞められるんですか?」
「必要がなくなったからな。だが暫くは外で暮らす。……なにを泣いてる、お前たち」
「嬉しいんですよぉ〜」
「土方さんも復帰してくださるんですか?」
「そっちはちょっと、まだ分からない。外の方が身動き取れることもあるからな」
外、というのは会館の外という意味。函館の港と市場を仕切る強面の集団は市民や貿易商人らから『組の兄さんがた』と呼ばれ、怖れられてもいるが頼りにもされている。
「山崎さんに土方さんが帰ってきてくれたらもー怖いもの知らずだぁ。余所の連中にでかい顔させやしませんよ」
「江差まではもう、こん回の件でうちの勢力範囲だしな。次は長万部あたりに出張所作るかぁ。カニメシ食べ放題だぜぇ」
「それより松前を海岸ぞいに挟み込みてぇな。海岸線で密貿易してやがんの目障りじゃねぇか?あの城門にうちの旗、掲げてみたくねぇ?」
「密貿易っていや、松前より島だぜ島。奥尻が気になる。ウニも食い放題だし」
「お前ら、仕事熱心なのはいいが忘れるな。俺たちの目的は外国勢力と抗争して函館の利権を握ることじゃない。目指すところは別にある。……うっかり忘れるなよ」
山崎が静かに言う。口を開かない牡蠣の焼け具合を、焼き汁の煮える音だけで判断しようとする横顔は、地味だが意外と整っている。
「俺たちは侍だ。それだけは忘れるな」
「……はい」
「忘れません」
「勿論です」
「すいません、忘れてました」
「いま思い出しました」
「焼けた」
「ありがとうございます」
平たい側の殻を取り去られた、窪みにふっくらとした身が透明感のある色合いでぷりんと詰まった焼き牡蠣が差し出され、順番の隊士が皿を差し出して受け取る。その様子を、床にお座りの姿勢で柴犬がじっと眺めている。
「キミはもう少し待つんだ。よく焼かないと、おなかを壊してしまう」
優しく、山崎は誠ちゃんと名づけられたマスコット犬に声をかける。
「しかし見事な巻き尾だ。こんな純血の柴犬は函館には珍しいんじゃないかな」
「珍しいですよ。洋犬との雑種が多いですから」
「港で、雪に埋まりかけてるところを沖田さんが見つけられたんです。沖田さんが風呂に入れて助けました」
「主人に棄てられたのか、置いて行かれたのか。港ではぐれたんじゃないかって、みんなで言ってるんですけど」
「そうか。じゃあ春になったら本当の主人が帰って来るかもしれないな」
「えー。帰ってきても、まこっちゃんもうウチの犬ですよー」
「でもさぁ、それ決めるのはまこっちゃんだろ?」
「まこっちゃん、沖田さんにすっげぇ懐いてんですから。沖田さんのベッドの下で毎晩寝てたんすよー」
「……あ」
そこで、全員が気づいた。今夜からまこっちゃんの寝床がないという事実に。奥の部屋のドアには鍵がおろされて、中の二人は、しばらく出てこないだろう。もしかしたら明日まで。
「キミ、俺のうちに来てくれないか?」
よく焼けた牡蠣の身を掌に取り出してふぅふうぅ吹き、柴犬の鼻先に差し出しながら山崎は聡明そうな犬に話しかける。
「冬の間の主人がもとの場所に戻って、俺は今日から独りぼっちなんだ。キミが一緒に居てくれると嬉しいな」
柴犬は返事をしない。でもじっと山崎の口元を眺めている。さて、と、山崎は軍手を外し立ち上がった。
「買い物に行くよ。キミも一緒に来ないかい?」
誘われて柴犬はすっと足を伸ばす。
「あ、あの、山崎さん、俺が行って来ます」
「お供なら俺がご一緒します」
「いや俺が」
「俺が」
「いや、いいよ、ありがとう。久しぶりだから、散歩がてら、ぶらっと行って来る」
「どちらへ?」
「阿さ里」
会館からは、歩いて十五分もかからない。
「すき焼き弁当を予約しているんだ」
ここ数日は雪が降らない。除雪された道は歩きやすく、天気もよくて、散歩日和だった。ふかふかのコートを着て山崎は出て行く。詰め所は会館の出入りが監視できる二階にあるから、柴犬を連れて歩いていく後姿がよく見えた。
「……土方さんのことなのかな」
「他に居ねぇだろ」
「やっぱ、デキてんのかな」
「それ以外ありえねぇだろ」
「沖田さんともだろ。二股?」
「三竦みかもな」
「まざりてぇー……」
喘ぐような切ない声で一人の隊士が呟く。その場の全員、きれいに同感だった。が。
「レベル高すぎねぇか?」
現実は厳しい。
「あの格好の山崎さんと、夜の廊下で会ったりしたら、俺やべぇよ。理性に自信ねぇよ」
「安心しろ。ザキの腕が上だ。ばっさり斬りおとしてくれるぜ」
びくぅー、っと。
全員が床から三十センチほど飛び上がった。
「車、出せ。買い物行く。……ザキは?」
ドアにもたれるようにして、立っていたのは若いボス。表情が少し疲れていて、まだ山狩りのダメージが抜け切れていない様子だが、顔色は悪くない。いつもより少し目を細めて、それがいつもより、鋭いカンジで、ちょっとゾクッとクる。
「あの、弁当を予約されてるとかで、すき焼き屋に」
「まこっちゃんが一緒に行かれました」
「車、すぐ表に廻します」
「……なら、いい。ザキ帰ってきたら俺が呼んでたって言え」
「はっ、了解です」
「あの、沖田代行、なにかお持ちしましょうか?」
昼飯時である。気を利かせて、隊士はそう言ったが。
「部屋には来るんじゃねぇ」
言い捨てて、若いポスは自室へ戻っていく。部屋には別の人間が居る。怪我の治療のために冬の間中、本土へ戻っていた。その間中、若いボスは膝を抱えて冬篭り、あまり気持ちを外に出す人ではないけれど、時々やっぱり、寂しそうだった。迷い犬を可愛がるくらい。
「部屋行く度胸なんかねぇよな」
「山崎さん呼んで、どーするんだろーな」
「……三人で?」
「想像させんな、鼻血出る」
がしがし、妄想を追い払おうと、若い隊士が頭を掻き毟る。たまらないカンジだ。だがどこかあっさりとして明るいのは本人たちに後ろ暗さがないせい。不道徳な三角関係も部屋に閉じこもっての荒淫も、ここまで堂々とされると色っぽいけれど淫靡ではなくなる。
「俺やっぱ店まで車で行って来る。帰りだけでも、歩くよりゃ早いだろ」
「事故るなよー」
「途中で手ぇ出してちょん切られんなよぉー」
「んじゃ、缶スープでもあっためとくか」
「すき焼きだろ?味噌汁の方がいーんじゃね?」