落ち着いてくれボス、と、ロマーリオが声を掛けたのは最後の瞬間になってから。ボンゴレ本邸を早朝の五時という非常識な時間に強硬訪問する寸前。
「腹が立つのは、よく分かる。ケチがついたからもういらないってんなら気が済むまで怒鳴れ散らせばいい。でもあの別嬪をまだ欲しいんなら、抗議はしても決裂はしない方がいい」
金の跳ね馬、キャバッローネのディーノはここ暫く、やがてボンゴレを継ぐ弟分にいいように扱われてきた。金銭の要求こそなかったが金銭以外の全て、利権や同盟条件、隣接する縄張りの境界の取り決め、逃亡した裏切り者たちの引渡し、などなどで譲歩を要求され全てにイエスと答えてきた。答えたのはどうしても欲しかったからだ。取り戻したかった。子供時代に指の間からすり抜けていった恋を。
「どっちにするか決めてからそのドアを開けるんだぜ?」
いつものように正面玄関から賓客としての来訪ではなかった。業者用の通用門を開けるから、という対応はそれでも時刻の非常識さを考えれば好意的だ。二十四時間体制のセキュリティチェックを受けた後でロマーリオだけを連れて今にも通用口のドアを開け乗り込もうという寸前。
的確なアドバイスに金色の跳ね馬は凍りつく。そういえばどうするのかを決めていなかった。衝撃でそれどころではなかったからだ。機内でもここへ来る途中の車の中でもロマーリオが声をかけなかったのは、まだ判断が無理と思ったからだろう。実に物慣れた、落ち着いた大人の男。
「……」
運命のドアの取っ手に手を掛けたまま、キャバッローネの若いボスは凍りつく。欲しかった相手を餌に散々に振り回されて、条件は全て呑んだのに、その相手の部屋に深夜、自分ではない男が忍んだと知ってとるものもとりあえず駆けつけた、最後に選択を迫られる。決めなければならない。
それでも欲しいか、それとも諦めるか。
諦められない。欲しい。『傷物』にされた後でも構わない。欲しい。けれど問題は相手の気持ちだった。不動産や宝石と違って相手は生き物で気持ちがある。ボンゴレやジッリョネロファミリーやキャバッローネといった大マフィア勢力の狭間で自分の手に落ちてきそうなあの銀色を心から愛している。
「……スクアーロ次第だ」
一番怖いのはそこだ。それ以外はむしろ些事でしかない。年に数臆ユーロを稼ぎ出すドーバー海峡間の密貿易の権利も先代が匿ったボンゴレの裏切り者の居場所を漏らすことも、愛した相手の心に比べれば軽い。
一番怖いのは、これが本人の意思だった場合。
自分の恋人になってくれるのが嫌で、自分を拒む為にベツの男を、ずっとお気に入りだった若い雨の守護者を寝室に招いたのかもしれない、という恐怖。
この話が出てからずっと、キャバッローネのディーノは昔馴染みの銀色と会っていない。電話も取り次いでもらえず、せめて手紙で気持ちを訴えたかったかそれも丁寧に送り返されてきた。口説き文句の一言も耳に入れてくれないまま、また拒まれるのだろうか。ザンザスと出合った瞬間の昔と同じように、自分に背中を向けてベツの男の腕に飛び込むのか。
……あんなガキに?
最悪の未来図を、金の跳ね馬は生々しく想像した。ぎゅっと目を閉じる。そうして口を開く。ロマーリオ、と。
「なんだい、ボス」
「オレは今日、人を殺すかもしれない」
「Si」
覚悟を決めた様子に、腹心は短く返事をする。イエス、分かった、それだけ。
閉じていた目を開け、金の跳ね馬がドアを開く。
その、向こうには。
「……どーも、はよ、ざいます……」
まだ眠い。そう顔に書きながら、ボンゴレの嵐の守護者が立っていた。なんとかスーツは着込んでいるがさらさらの髪はいつものようにきちんとセットされておらず、瞼も腫れぼったくて刃物のような眼光が曇って見える。
「Buona mattin。十代目に挨拶ヌキ、スクアーロの部屋に直接、案内でいーだろ?今日はヒバリと一緒に寝てられっから。寝てる途中に起こすとこえーんだよ、ヒバリ」
だから内線も鳴らしていないんだ、と、獄寺はふにゃふにゃしながら告げる。緊張感漂うキャバッローネの二人に対して、まるきりいつもの態度で。
「勝手にオレを通してもいいのか、スモーキン・ボム」
さすがにいつものフレンドリーさは見せず、ディーノは厳しい口調で口を開く。
「ツナを起こした方がいいんじゃないか。騒ぎになったとき、お前一人の責任になっちまうぜ。それともそれが狙いか?」
「盛り上がってンなぁ跳ね馬。恋する男の盲目もいーけどよぉ、てめーのスパイのタレコミは嘘じゃねーけど正確さに欠けてるぜ。おかげでンな朝っぱらから……」
文句を言いつつ獄寺隼人はこっちだと、先にたって金色の跳ね馬を案内した。表玄関のそばにある本邸警備責任者の部屋は通用門からは遠い。
「オレもその部屋から、ついさっき出てきたンだ」
「……え?」
「夜中まではヒバリと十代目も居たけどな」
「……」
ディーノが眉を寄せる。ロマーリオは眼鏡のブリッジを指先で押し上げ表情を隠した。
「呑んでたんだよ、あの鮫の部屋で引っ越し祝いに、みんなで。確かに昨日は山本だけ外に出てたから、遅くに一人、遅れて入ってきた。っ、言ってもすぐにゃシンヨー出来ねーだろ自分で確かめろや。……許婚候補が居るオンナの部屋で酔いつぶれた俺らも悪かった」
最後は珍しい反省の言葉。早足で十五分ほども歩いてようやく一行は目的の部屋に来る。獄寺がインターフォンに向かって来訪を告げる。入れと言われ、ガチャンと開いたドアの内側の空間はまだカーテンが開けられておらず薄暗い。
「山本ぉ、行くぞ。俺らの無礼をドン・キャバッローネがお怒りだ。別嬪が宥めてくれるまで引っ込むぜ」
遠慮なく部屋に踏み込んだ獄寺は屈んで床に腕を伸ばしながら告げる。そこには毛布を掛けられた若い男が、酒臭い息を吐きながら転がっていた。
「……、っ、が……、ふにゃ……」
酔いの眠りは深く、山本武は目を覚まさない。暗がりに目が慣れてくると室内の惨状が見えてきた。転がる空き瓶、食べちらかされたと思しきクラッカーの箱。テーブルの上には汚れた皿とグラスが散乱している。いかにも若者の宴会の後。そして酔いつぶれて床に転がって寝ました、という典型的な酒臭さが、一応は換気されたらしい室内にうっすら漂っている。
起きない相棒を獄寺は屈んで肩に担ぐ。よ、っと気合を入れて立ち上がると長身の山本の足が床から浮いた。たいして重いという顔もみせずに獄寺はディーノの方を向いて。
「こーゆーだからよぉ、詫びはまた改めてさせてくれ」
「……それが本当なら詫びるのは俺の方だ」
驚き過ぎて声が出なかった金の跳ね馬は率直に答える。獄寺は山本を担いでいない方の肩を竦めて出て行く。パタンとドアが閉まる。それと同時に、パ、っと。
「……ッ!」
部屋の明かりが点けられた。突然のことで目が眩みそうになった。咄嗟にかざした掌の庇の下で、居間から続く寝室の奥が透かし見えた。
「オマエもヒマだなぁ、シカゴから来たって?」
寝室のベッドに腰掛けて照明器具のリモコンを手にした姿勢で、そう言ったのは金の跳ね馬が焦がれ続けていた美形。部屋着のまま、呆れた口調で、自家用ジェット機で遠い場所から飛んできた昔馴染みに話しかける。
「スクアーロ!」
ここは当人の新しい部屋だ。居るのが当たり前だ。けれど会えた嬉しさに跳ね馬の声が上ずる。思わず駆け寄って、そして。
「……会いたかった!」
まるで生き別れの恋人とめぐり合ったような声。
「てめーがなに心配して来たかはだいたい分かってっけどよぉ、っと」
「スクアーロ、スクアーロ。……、会いたかった……」
「おいおい、なに盛り上がってんだぁ?」
「愛してる」
眠っているところを起こされたらしい銀色の微妙な不機嫌を気にせず、鮫が座るベッドのすぐそばの床に膝をついた。
「あー、ボス」
いくらイロゴト関係とはいえ自分のボスの降伏に近い姿を見ていることがロマーリオは出来なくて。
「外に出てる。なんかあったら呼んでくれ」
部屋を出て行く。パタンとドアが閉じる。二人きりになる。
ピ、っと、銀色の鮫は手元のリモコンで寝室と居間の照明を一度に消した。空間自体が薄暗く沈む。その中で二人きりであることを自覚して、金の跳ね馬は息苦しくなった。
もちろん不愉快で、ではない。むしろ逆、ひどくときめいてしまう。ドキドキ心臓の音がうるさい。二人きりなのはリング争奪戦の後、鮫の腹からこの美形を救出して以来のこと。あの時は敵味方に別れていて、しかも相手は重症と言う切迫した状況だった。もちろんそれでもときめいた。
今はそれどころではない。もしかしたら恋人になれるかもしれないという希望を抱いた状態で愛している相手と一緒に暗闇の中で同じ空気を呼吸することは、呼吸を忘れそうになるほど幸福なことだった。
「お前の望むことはなんでもする。俺と付き合ってくれ、スクアーロ。俺をお前の恋人に選んでくれ」
政略結婚の前哨に、ボンゴレとジッリョネロファミリーの共通の利害の為に結び付けられる不自然な関係でも良かった。
「望むことかぁー。んじゃぁまずとりあえず、寝るぞぉー」
「……えっ」
「ねみーんだぁ、まだぁ。マフィオーソ時間じゃ深夜だぜぇ。寝るぞぉ」
「ちょ、待てスクアーロ。なぁ話を聞いてくれッ!結納とか財産分与とか、ツナには手紙を出したけどお前、聞いて……、うわぁっ!」
今を時めく経済マフィア、羽振りがいいことではイタリア暗黒外有数と言われるキャバッローネのディーノが情けない悲鳴を上げる。銀色の鮫に話を聞いて欲しくて、鮫が横たわったベッドに近づきその肩にかけた手を、逆に取られて、毛布の中へ引きずり込まれてしまう。
「すく、あー、ろ……ッ」
暖かい褥の中。甘い気配がする。そして弾力に満ちた、よく撓るムチのような体が身近にある。ぞ、っと、するほどの、全身が総毛だつほどの、戦慄。
「ガキにいいよーにされてるそうじゃねぇか」
そして耳元に囁かれる。声、というより、息に色がついた程度の低い響きで。
「てめぇ生粋のイタリアンマフィアのくせしてよぉ、ジャポーネのガキに舐められてんじゃねぇぞ、ヘナチョコ」
「……ッ!」
懐かしい口調だった。
「だって……、」
思わず跳ね馬まで昔の口をきいてしまう。だって、なんて言葉を話すのは何年ぶりだろう。
「だってお前を人質にされたら終わりだ。俺に対抗手段はない」
「んなタワゴトほざいてっから舐められんだぁ」
毛布の舌の狭い暖かい空間の中、銀色の鮫が喋るたびに息で工期が揺れる。
「ホントのことなんだから仕方ないだろう!」
「静かにしろ」
叫んだ跳ね馬の口元を鮫の生身の右の掌が塞ぐ。
「大きな声出すんじゃねぇ。まだ部屋ン中、チェックしてねーんだぁ。カメラとかマイクとは、ねぇとは限らねぇ」
ああだからか、と、金の跳ね馬は納得した。だから毛布の中に引き込まれてこんなに近くで喋っているのか、と。納得はしたが心臓はまだうるさい。ドキドキ、音をたてている。
「イケてる男になったんじゃなかったのかよぉ、てめぇ」
「……お前が絡むと……」
だめになる。ヘナチョコに戻る。駆け引きや条件闘争をする気力も知能も失って、弟分から送られてきた親書に頷くことしか出来なくなってしまう。
「スクアーロ。お前の意思はどうなんだ?俺の恋人になってくれるつもりは?」
「んなものはねぇけどよ、ボスの結婚が落ち着くまで遊んでくれるってんなら、世話になる気はあるぜぇ」
「一緒に暮らしたい」
「そりゃ却下だぁ。ガキからもお断りがいってっだろ。オレはこれから、ココに住み込みだぁ」
「うん、聞いた。でも一緒に暮らしたい。だからキャバッローネの本拠をこの街に移して、俺はお前の部屋で一緒に暮らしたい。ツナにはそう言ってある。聞いていないのか?」
「聞いてねぇ。ってーか、なに寝言ほざいてやがるんだてめぇ」
「オレはマジだ」
確かに、ドマジの表情と声音だった。
「お前を愛してる。一食に暮らしたい。スクアーロ、俺の気持ちはヘナチョコの頃から何一つ変わっちゃいないんだ」
「……連れ歩いてた女優はどうしたよ」
キャバッローネのボスにはここ数年、パーティーのたびにエスコートしていた女が居た。実業家としての表の顔しか知らない女だったがイタリアでは指折りの舞台女優。テレビに出ている女たちより顔は知れていないが美しさでは張り合う。
「別れた。なんだ、それもツナから聞いてないのか?」
「殆どナンにも知んねーぞぉ。てめーがガキにいいよーにされてんのも昨夜、やっと聞いたぐれぇだぁ」
「……スクアーロ」
間近で体が触れ合う。息がかかる。金の跳ね馬は我慢が出来なくなる。既視感に胸の奥が疼く。学生時代、まだ子供だった頃、同じように毛布の下でセックスとも言えないママゴトだったけれど、触れ合ったことが、あった。
「なん……、っ、ン……」
名前を呼ばれて、なんだよと尋ねるまでもなく唇を重ねられる。反射で一瞬、押しのけようと相手の肩にかかった銀色の鮫の手は、けれどそのまま動きを止めた。変わりに男の掌が蠢く。細いカラダの平たい表面をなぞっていく。
「……どうして?」
部屋着のシャツの、裾を捲くり上げながら。
「いい、のか?」
頬を擦り付けながら男が銀色の耳元に囁く。
「味見の権利ぐらいありそーだからなぁ」
「なに言ってだお前。今さら」
むかしむかし、触れ合った記憶が鮮やかに蘇る。叶えられなかった最初の恋の感傷に胸が押しつぶされそう。こんな風に暗くて暖かな寝床の中で、確かに触れ合ったことがあった。気持ちが十数年を掛け戻って、自分の心臓の音が頭の中で響く。
「色々、ガキの頃とは違うぜ」
体から力を抜いて大人しい銀色が呟く。
「こーゆーコトのオンナ役は、とっくに卒業の……」
年齢だと、言葉は最後まで紡ぐことができなかった。
「……、っ」
昔と同じではないのは男の方も、だった。