後悔・その後で・1

 

 

 自分の恋人が美しいことを、若い男はよく承知していた。

マフィア稼業には見た目の良さを含めた魅力、構成員候補のガキどもから格好いいと振り仰がれる必要がある。そういう意味で彼の恋人は何処からも文句の出ない看板。次期ボンゴレのボス、十代目である沢田綱吉の右腕に相応しい美貌の持ち主。

自分自身の美貌を、若い男の恋人は自覚していなかった。

女の子に黄色い声を上げられても無視、面倒くさがって視線も向けなかった。そっちの気のあるなしに関係なく、偉い男たちに感嘆の表情を浮かべられても愛想笑い一つせずふいっと目をそらして、せっかくの美貌は組織に華を添えることがなかった。

そんな恋人の頑なさを若い男は危惧していた。身体を繋げる関係になってからは直接的な影響があって危惧どころではなくなった。性的な全てに嫌悪感を持っている恋人の、心の傷は理解できないでもない。愛人の子としての出生、そうしてそれを長く教えられず、実の母親と知った相手は知ったのと前後して暗殺されたと思しき死を遂げた。恋愛と性交を嫌いになったし思春期をずるずると引き摺る相手に、セックスのたびに嫌そうな顔をされて仕方ないとは思いつつ傷ついた。

辛い時代だった。抱きたいのはスキだからなのに、その愛情を受け取ってもらえない苦痛は男の胸をチリチリと噛み、男の気持ちを荒れさせた。ストレスが積み重なった結果、娼婦の肌に初めて縋ってしまった苦い気持ちは今でも生々しい。自分を愛している訳でもない玄人女は、でも愛しているフリが上手で、優しくしてくれた。癒されたけれど同時に、そんな擬似で曖昧に誤魔化そうとする自分の惨めさが情けなくもあった。

買春は嫌いだ。格好つけているのではない、本当に嫌いだ。アレは金銭で遣り取りするものではないと個人的には思っている。女たちに酒場でちやほやされ、明るく騒ぐのは好きだけど、裸で抱き合うのは恋人と呼べる相手とがいい。好きな相手に望まれて抱き合う方が、いい。

でも好きな相手はセックスをしたがらない。健康な成人男子として、どう仕様もない時もある。生臭い苦悩の中でのたうっていたのは美しい恋人だけではない。それを抱きたい男も同様に、同じ地獄に居た。

それは過去形。

最近、そこからは脱却した。

するりと、した。

きっかけは分かっている。当時、ボンゴレ本邸の警備責任者として出向中だった銀色をハメた筈が即座に噛み返されて、失禁するほど悶え狂わされた。その夜以来、恋人はセックスの気持ちよさをやっと覚えてくれて、男の腕に抱きしめられてもびくびく恐がらなくなった。相変わらずセックスには淡白、誘っても夜這っても本番をさせてくれるのは月に数えるほど。でも抱きしめて眠ること自体はあまり拒まれない。パジャマごしにカラダを男が撫でて、暖かさを感じながらの自慰を、している間は大人しく背中を抱き返してくれる。それで十分、幸福で目が眩みそう。

けれど、世の中はそうそう甘くは出来ていない。

性的な意味での思春期を脱した恋人は、同時に自分の美貌を自覚した。その商品価値と利用方法を。相変わらず無愛想で媚びはしないけれど、自分が笑えば大抵の強面でも崩れることを知ってしまった。

天下のヴァリアーのボス、『あの』ザンザスに攫われて以来、会うたびにその肩に当然のように触れている。ザンザスは愉快そうではないがそれを拒まない。関わったオンナを丁寧に扱うことはマフィアの男の鉄則。何をした訳でもされた訳でもないが、車に引きずり込んで一緒にメシを食ったという事実がある以上、カラダに触れられる挨拶を拒絶することは出来ない。ザンザスという名の男に『触る』ことはまだ、ボンゴレ十代目を正式に襲名した沢田綱吉さえ出来ないでいるのに。

『あの』ザンザスにそんな態度を取られた恋人が、獄寺隼人が増長するのはある程度しかたがない。沢田綱吉のやり方を危惧する組織の幹部が面会を求める都度、言葉での遣り取りに失礼があってはいけないからという理由で獄寺が先に用件を聞く。その時に宝石質の美貌にものを言わせて幹部たちの怒りを沈め、交渉と説得の余地を作り出す手腕は実にら見事だった。発光するようにキラキラ輝く美青年に、お帰りどうぞお気をつけてと屈まれて、送り出される幹部たちは大抵、表情を微妙に緩めている。イタリア男は奇麗なモノに弱い。多分、世界で一番、そういう意味では惰弱だ。

若い、その男は。

 惰弱な男どもに囲まれ視線を受けて輝きを増して行く恋人は許容範囲だった。面白がって遊んでいるだけ、それに実益がないでもないから余計に愉しんでいるだけと分かっていた。実際の具体的な恋愛関係に進展する気はない。まだセックスは殻が割れたばかり、十年ちかい付き合いの自分にもおずおずとしかひらかない。オスを相手の浮気、裏切りは警戒していない。

「アイツ、唇まで火傷あんだなー」

 ヴァリアーのメンバー以外では誰よりも間近に近づくことを許容され、時には肩に額をぶつけてどつくような、馴れ馴れしい振る舞いを、わざと人目がある場所でしてみせる恋人の意図は分かっている。自分がヴァリアーのボスと親しいことをボンゴレの内外にアピールすることは、沢田綱吉の為だ。ザンザスを担いで沢田綱吉に対抗しようとする古い勢力への牽制。

「いーカタチしてるよなー。あーゆークチとはオレ、まだキスしたことねーなー」

ほんの時々、主にザンザスに関してだけ、ムカツクこともないではない。イタリアでは肉付きのややいい唇が男女ともにセクシーとされている。

「……したいのかよ?」

 一緒に夕食を終えて、ヴァリアーから届いた焼き菓子をコーヒーで抓みながらの会話。銀色の鮫が本邸に滞在していた頃、よくお裾分けにあずかっていた菓子を獄寺が恋しがり、昼間のザンザスの訪問時に強請った。ザンザスは聞いているのかいないのか分からない様子だったが、夕方にはストックされていたと思しきナポレターニが大きな瓶にいっぱいに詰められて届いた。ナッツとドライフルーツが入ったクッキーで、獄寺隼人が大好きなクルミとレーズンの組み合わせだったのは銀色の鮫のアドバイスが入ったからだろう。

関わったオンナの願いは叶えてやるのが当然と言う、クラシックなマフィアの美学に忠実に生きている男だ。

「凄むな、山本。こえーから。ちょっとどんなだろうって思っただけだ。しねーよ」

「うそつけ」

 若い男は苦い表情で菓子を齧る。自分を恐がる筈がない。そうして興味を持ったということはしてみたいという意味以外ではない。

「しねーよ。あの銀色と張り合う自信はねーし」

 そう言う獄寺の頬が柔らかく緩む。珍しいことだった。『あの銀色』のことを思い出しているのだろう。肌を重ねた夜の記憶を反芻するだけで甘さを繰り返し堪能できる性質を、山本武は羨ましいと思うことがある。

「……オレはザンザスと張り合っていいぜ」

「敵対するより懐柔しなきゃならねぇ相手だしなぁ」

「カラダ使うなよ?」

「しねーよ。あーゆーのに、寝技は逆効果だ」

 相手が自分に魅力を感じていると、獄寺隼人は思っている訳ではない。怒りに任せて腕を掴み、引き寄せてしまった行為の責任をとっているだけ、義理を果たしているだけと分かっている。あの硬派な男が銀色と引き離されて揺れた挙句に見せたほんの少しの隙に、つけこんでいるに過ぎない。

「このまま泊まってもいいか?」

 さっきから口にするタイミングを測っていた山本武がコーヒーのお代わりを淹れながら尋ねる。

「んー。いいぜぇ」

 望みはあっさり受け入れられる。えへへ、と、居間に続いたミニキッチンでコーヒーメーカーと向き合いながら山本は、背中から幸せのオーラを部屋中に撒き散らす。

 本番のセックスは前もっては尋ねない。それはベッドの中で抱き合った時の、恋人のコンディションによる。気分といってもいい。機嫌の方の意味が近いかもしれない。

 今もってなお、恵まれているとは言いがたい性生活だが、山本はそれを受け入れていた。少しずつでもいいのだ。前に一緒に進んでいければそれで。愛情があるから。

「風呂は入りてぇ」

 コーヒーカップを渡されながら獄寺が呟く。

「あ、用意してきてやるのな」

 山本武は打てば響くというタイミングで答えた。

「入浴剤、どする?」

「あったまるの」

「分かった。今日、ちょっと冷えるよなっ!」

 らんらん、という様子で浴室に消える男の背中を、流し目で見送りながら。

「……おもしれー」

 思わず、小声で、声にして呟く。

 面白い。本当に楽しい。知らなかったお楽しみだ、これは。

ザンザスにべたべた触れて忍耐、という表情をあの額に浮かべさせるのももちろん面白い。が、もっと楽しいのはその後の山本武の反応。文句を言いたそうな不満そうな口元と、心配して不安気な目元のアンバランスが楽しい。安定感を失ったところを軽く押せばころころと転がっていく。高圧的と言うか亭主関白と言うか、古い日本の男の傾向がないでもない相手が、まるで生粋のイタリア男のように自分に奉仕して点数を稼ごうとしているのが珍しくて、とても面白い。

「これぐれー、して当たり前だよなー。アイツは俺のバージン、持って行きやがったんだからよー」

 強姦ではなく合意の上、そのこと自体を悔いている訳ではないが。

「男同士で張り合う前に、俺のご機嫌とれってんだ。ったく、これだからジャポーネはよー」

 カップの中のコーヒーに向かって呟く。少し冷めたところで口をつけ、ゆっくり飲んでいく。ちょうど空近くなった頃。

「お湯はいったぜぇ、獄寺ぁ!」

 使役され嬉しそうな男がバスルームから出てくる。袖を肘まで捲り上げたシャツから除く腕の筋肉の逞しさにオンナは唇の中、舌を蠢かす。

「おー」

 面倒そうに立ち上がり、そして。

「一緒に入んねーか?」

 さらりとそんな、台詞を投げつけて『遊んだ』。