くちびる

 

 

 差し出されたのは、コーラの缶。冷え冷えらしく、あっという間に汗をかていてる。

 やって来たのは県境の峠。赤城からはかなり距離があるド田舎。でも、田舎のおかげで車も警察も、走り屋さえ滅多に現れない。山を貫通する新道が完成した今では通行量は少ないというより殆どなくて、頂上のドライブインは閉鎖され広々とした駐車場が、夏というのに寒々とした印象。

ここで、Dの主要メンバーだけが集まって、何をしているかというと。

「えーと、次は……」

80Rだから……、そっちもってくれー!」

 砲丸投げの計測に使うような100メートルのメジャーを使い、コンクリートの上にチョークで描かれる円。コンポストが置かれて出来上がったのは幅5メートル、半径80メートルの円形のコース。独楽のようにそこを、5080100キロをそれぞれ保って、廻っていく。

 コースどりの最中、アニキの口からとびだすコーナーの大きさの単位、ナントカあーる、というのが俺も藤原もよく分からなかった。アニキと一緒にジムカーナやサーキットに出ていたメカニックたちはふんふんと頷いていたが、肝心の俺たちが、

「……あーる、ってナンだ?」

「俺に聞かないでください」

 こそこそ、話しているのをアニキに聞き咎められて。

「お前たちは……」

 なんとかアールを、体験させられることになった。

 それはカーブの角度の単位、らしい。40Rといえば直径40メートルの円相等のカーブ。つまり、数字が少なけりゃ少ないほど、コーナーはキツクなるって訳だ。その単位をカラダで覚えさせられるべく、俺と藤原は日曜の朝っぱらから、くらくらするほど、円を描き続ける。

 んでも。

 文句は、俺は言わなかった。もちろん藤原も。それがどんなに大切なことかよく分かっていたから。これで覚えて明日からは、いや今夜からはアニキとメカニックたちの話についてけるだろう。コース攻略もビデオ画像だけじゃない、数字で正確な情報がとれる。

 40Rくらいまでは俺と藤原と、駐車場を二分してそれぞれやっていたが、60Rを超えると二円、とるのはムリで一台ずつになった。一つの円を二台で走ればいいじゃねぇかと俺は言ったが、キケンすぎると却下された。公道バトルのための練習を、あくまでも安全第一でやるアニキが、俺はダイスキだ。

 信じられるから。

 この人だったら、全部を、信じられる。

 勝負も命も、預けられるよ。

 俺が60Rを爆走してたのは40分。その間に、藤原は麓まで降りて全員の缶ジュースを買ってきたらしい。ハ左手には重そうなビニール袋を抱えてる。

 夜の峠と違って、正午近いコンクリの上は、暑く。

 持参のペットボトルは飲み干して、買い置きのミネラルウォーターはぬるく、なっていた。

 だから俺は有り難く受け取った。差し出されたコーラがちゃんと、俺の好きなペプシのライトなのも気に入った。藤原はそれからメカニックやチョークを持ったスタッフたちに、缶ジュースを配って歩いてる。やがて、史浩と一緒に携帯の圏内の中腹までおりてたアニキが帰って来て。

「涼介さん、史浩さん、どうぞ」

 差し出されたはちみつレモンは史浩、午後の紅茶ストレートはアニキに。

「うを、嬉しいなぁ。藤原、ありがとう。でも気を使うなよ?」

 史浩がさっそく、受け取ってプルをたてる。

「みんなに買ってきたのか?遠征の経費はこっちもちの約束なんだから、お前はこんなこと、しなくていいんだぜ?」

 周囲を見回しながらアニキが言う。軽く眉を寄せてる。若い藤原に金を使わせるのが不本意なんだろう。ってったって、人数は二十人弱。自販機のジュースでも、千円札二枚。

「させてください。俺、すごく感謝してます」

 明るく元気に、藤原はアニキに笑い掛けた。

 かわいい顔を、してる。

 顔に似合わない気性もしているが、顔がかわいいのは事実だ。

「こんな風に練習するんだって、俺、初めて知りました。どうやったら速く走れるようになるのか、教えてもらえて、凄く嬉しいです」

「そうか」

 カワイイ顔にほだされてアニキが、つられて笑って缶を受け取る。プルをたてて、そーっと口を、つける。

「冷たい。生き返るな」

「あー、本当に。ありがとうなぁ、藤原」

 ごくごく、喉を鳴らして飲み終えた史浩の空き缶を藤原が受け取って袋に入れる。他の連中のも回収してる。軽く膨らんだ買い物袋を、ちゃんと持って帰るつもりだろう。ゴミを散らすな、ってのはアニキが常々、メンバーたちに言ってることの一つだ。それはマナーというよりも、もっと切実な理由から。

ゴミを散らせばそれが苦情になって、行政の手で伸びて警察の取締りが始まる。そんな『社会』の仕組みさえ、知らないバカが居るせいで愉しく走れなくなるのはゴメンだ。だからレッドサンズの面々は夏休みや秋の行楽シーズンには、赤城山の道沿いのゴミを拾ってまわったりも、時々は、する。派手なバトルの裏には涙ぐましい努力がある。

今日こうやって人気のない廃道で、大きさの違う円の上をぐるぐる、廻ってるみたいに。

最終的に150Rまで実走して、午後二時には一応、今日の練習は終わったが。

「ここでも足りなかったな。200Rまでやりたかった」

「あと、できれば8の字も。連円で、やりたかったですね」

「やっぱりサーキットを借りるしかないか。……うーん。予算が……」

「練習は午前中にして、午後からは二軍や赤城の他のチームにタイムアタックさせればいいんじゃないか?出走料で、もとはとれるだろう」

 走り屋じゃ、サーキットは借りられない。それは金銭じゃなく信用の問題。ただし、アニキは世話になってるショップに信用があるから、そこを通せば、難なく手配できる。もちろん、使用時間終了後は全員でゴミ拾いだ。

「検討しておこう。日程も決めなきゃ、な。藤原、お前、休みはどうなんだ?」

「えっと、月末までに希望を出せば、翌月十日から一月分のシフトは、かなり配慮してもらえます」

「月末だな。分かった」

「あの、涼介さん」

「ん?」

「それ……、すいません。いらないなら、棄てますから……」

 藤原が買ってきたジュースの缶を、アニキはまだ、片手にもっていた。かれこれ三時間。

「いや、頂いてるよ。あとまだ、80ccくらい残ってる」

「……はぁ」

「少しずつ飲んでいるんだ。こんなに暑いとは思わなかったから、脱水症状にならないように、な」

「あ、そうですか」

「助かったよ」

 ほほえむアニキの、目尻に藤原は誤魔化された。

 心の中で、俺は、微笑んだ。

 

 夜にもう一度、赤城の山頂で待ち合わせることにして、一旦は解散。俺はアニキをFDのナビに乗せて、

「いいよ」

 他の連中を置き去りにして、途中までは藤原とつるんでいたけど麓の売店で、空き缶を棄てるために止まったらしいパンダトレノに、テールランプで挨拶して、独走。

「もうそれ、飲んでいいぜ?」

 にやっと笑って俺が言うと、アニキはちょっと俺を睨んだが、いつまでも缶を持ってるわけにもいかなくて。

「……、ッ、んく……」

 ようやく、飲み干す。缶に舌を這わせるようにして、殆ど吸い付く、みたいにして喉をのけぞらす。

 ちょっと、オツな眺めだった。

「……笑うな」

 不本意そうに言う、彼が可愛くてひーひー笑い転げる。赤信号で、空き缶を投げられた。

 受け止めて、フロントに置きながら。

「カタチが良すぎる、からだよ」

 ちょっとホンキで口惜しそうな彼を慰める。

 なんでも出来る、人なのに。

 缶ジュースが上手に飲めない、人。

 すぐにぽたぽた、零してシャツを汚す。零さないように飲むとちょっと、ナンてぇか……。

 舌を伸ばして、下唇と缶の飲み口を繋いで、その上を滑らせて。……そーすっと。

 違うカンジの、飲み方になっちまう。

 写真にとって、ベッドの枕もとに置いておきたい、感じだ。

 子供の頃からそうだった。だからこの人にとってペットボトルの出現と普及は福音だった、のだ。

「あんた本当にキレーな形、してるもん」

 肉が薄くて顎の形が締まってる。形のいいおとがいに相応しい、やさしい唇。毒舌の針を含んでいるけれど、とても、キレイだ。

「ちゅー、するとさぁ、全部、覆えるん、だよネ……」

 信号は長くて、右折レーンは進まない。俺はハンドルに肘を置いて、横目で彼を見る。

「すき、だよ」

 彼は、少しだけ笑ってくれた。