供物・10
嫌がられること、逃げようとされること、膝をきゅっと、かなわないくせに閉じようとされること。
慣れていた筈だった。最初はずっとそうだったのだから。
それでもやっぱり腹はたって、だから縛った。
悲鳴と喘ぎは好きでさえあった。けど。
その中に助けて、なんて言葉が混じり出し、口まで塞ぐ破目になっちまった。離せとか止めろとかなら良かったんだ。俺に向けられた言葉だから。だけど助けろって、それは俺に、言われているんじゃないから。
白い背中が冷たい汗に濡れて、背筋が恐がって竦むのを眺めながら、かき抱くキモチのやるせなさ。もっとも彼の苦しみはそれどころじゃないだろう。嫌がって、痛がるのを見ていられずに背中から抱く。
泣くんだ、いつも。辛そうに。
苦しいとか、交合が不本意とか、そんなのじゃなくって。
俺を拒んでる。俺の手が身体に触れるたび、抗議するように左右に振られる頭。そんなに、嫌かよ。俺の背中に腕をまわして、すんなの伸びたこの脚を、緩めてくれたこともあったのに。
……俺が、悪い?
褥に肘をついて、縛られた不自由な腕でそれでも、少しでも離れようと足掻く身体を引き戻す。引き抜いて突き入れる快感とは別の場所で俺まで辛くって、痛い。そんなに、嫌が、るなよ。
身体は苦しくいだろう?会ってから、今が一番、俺は優しくしてる筈。体以外を残酷に傷つけてしまった代償だけど、傷めないよう怪我をさせないよう、ずいぶん気は、使ってる。
だからそんなに嫌がるな。俺から逃げよう離れようと、するな。愛しているんだ。手放せない。
あんたの胸の中を俺が、壊してしまったとしても。
夜明け前、行灯の明りを頼りに、着物を着ていく。
帯がみつからなくって、どうしたっけと捜した。端が布団からはみ出しているのをみつけて引くと、白い痩せた手首がついてきた。……そうだった。縛ったんだった、昨夜。
彼が暴れたせいで擦れた細帯を解いていく。汗を含んだ生地は締まって外れにくい。歯をたてて引くと、うっすら彼の、血の匂いがした。
ようやく解いて手首を戻したとき、俺は驚いた。寝ているというか、失神してるとばかり思っていた彼が目を開けて、俺を見ていたから。
「……もう来るな」
狂気の気配はない静かな声。雨が降っているのに彼は落ち着いて、俺に話し掛ける。いつだったか雨の中で『啓介』として彼を抱いて、翌朝、彼を泣き嘆かせて以来、彼は雨の日に外に出て行こうとすることはなかった。もっとも、治癒したこととは違う。証拠に。
「啓介が、怒ってる」
死んだやつの事をまるで、生きてるみたいに、そう言って。
「お前が来るからあいつ怒って、会いに来てくれない……」
寂しそうに呟く。
「んなの、来る訳ねぇだろ。そこで骨になってんのに」
何度も繰り返した会話だった。俺がそう言うと彼は目を伏せて抗弁はしない。でも、表情は少しも俺に承服していない。『啓介』はちゃんと居る。お前が分からないだけど、睫の翳りの濃い美貌は言っていた。
「起きてんなら、ほら」
彼を布団から引き起こし、
「しろよ……」
胸に抱いて催促。泣きそうな顔で彼は、唇をかむ。
「しろ。もっともアレを捨てられていいなら……」
不吉な呪いの言葉を最後まで言わせまい、とするように、彼は顔をあげ俺にくちづける。背中とうなじに腕をまわして、俺は彼の唇を堪能する。甘い、甘くて、とろけそうな、毒の味を。
骨を捨てちまうぞって、そんな風に脅してようやく与えられる、彼からの仕草。それが義理でもウソでも良かった。してもらえないよりは、ずっと。
「……おやすみ」
告げて布団に戻す。くるんと背中を向ける彼の背中が揺れて、あぁ、また泣いているんだなって分かった。
彼が言うには。あくまでも彼が言うには、だが。
壷の中に収められた骨、『啓介』は俺を大嫌い、らしい。俺が彼に触れると、彼が俺に触れると、彼のことまで嫌いになる、らしい。それが辛いと彼は泣く。『啓介』にもうこれ以上、嫌われたら生きていけないと。
キモチは、奇妙に、わかる気がした。……俺も。
彼に嫌がられ拒まれて、ひどく辛かったから。
だけど彼を手放して、生きていくことはできないから。
商家の主人は京へ仕入れに行っていて、見送りは妻女だった。キリッとした顔立ちの江戸の女らしい妻女は俺に、刀を渡しながら。
「……お殿様」
我慢できない、という風に口を開く。
「最近、少々……、無茶をなさりすぎ、ではないでしょうか」
俺が答えないで居るとキッとして顔を上げた。強気な瞳の光り方の強い、いい女だった。
「お預かりしています以上、あたくしたちにも責任がございます。ここはお江戸で、お国許ではございません。町奉行、というものもございますよ」
「沙雪さん」
「……はい」
「どうしたらいいと思う?」
まっすぐな強い瞳が彼と少しだけ似ていて、俺は思わず、本音を零してしまう。
「好きなんだ、あの人」
「……は、あの」
「けど彼は俺を好きじゃないって」
「まぁ、そんなことも、世の中には」
「でも俺はあの人が居なきゃ生きてけない」
「そんなことを仰るのは、お若いからでございますよ。ホントにお好きなら、放しておあげなさいまし」
「あんた優しいな。女の人は、優しい」
でも、それは女の発想。男には、それは出来ない。少なくとも俺には。
「もうじき、俺は国許にかえらなきゃならないから」
「はい」
「一年、 ゆっくりさせておいて。……今夜、また来る」
池谷屋の主人が仕入れから戻ったとき、既に藩主は国許へ旅立っていた。離れには賓客が残って尋常に日々を過ごしている。
「ご挨拶はゃんとしておいてくれたか?」
「もちろん。あんたがするより、ずっと丁寧にね」
主人の好きな鴨鍋を煮てやりなかがら妻女はしれっと、答える。たてついたことなどおくびにも出さず。
「このへん、煮えたよ。お酒はもう一本つけるかい?」
「もらおうかな。真子は?」
「もう寝たよ。明日、あんたにお祭りに連れてってもらうの楽しみにしてた」
「そうか。お前も行こうな」
「うん」
「ほら、お前もちょっと飲まないか」
「じゃ、頂こうかね」
杯に注がれたぬる癇の酒を喉に流して、
「馬鹿殿様と思ってたんだけどさぁ……」
見かけに似合わず弱いのか、妻女のくちがほぐれだす。
「ん?」
「案外、しっかりした男なんだね、あのお殿様」
「いまさらナニを言ってる」
「もしかしてちょっと可哀相かもって思ったのさ」
「……離れの客人は?」
温和で人がよさそうで、それでもと主人は、馬鹿な男ではなかった。
「普通だよ。大人しい。一年、ゆっくりさせてやってくれって。経費をおいていったよ。毎日隅田川へくりだしても余りそうなくらい」
「そうか」
「あんた、もしかして知ってた?お殿様、兄上様を、ずいぶん」
「うん。……実は最初、俺もお断りしたんだ」
お家騒動の片棒を担ぐのだと思ったから。けれどもあの若い藩主が言ったのは。
人目に晒したくない、ということだった。
頭が良くて切れ者のこの人が、乱心したのを衆目に晒したくない。一度晒せば、その印象が拭えなくなるから。きっと治る。ちょっとショックな事があっただけだから、治るまで預かってくれと言われて、引き受けた。
「もう一本、飲むかい?」
「そうだな。お前が手伝ってくれるなら」
「あいよ」
近所で祭りがあっていて、屋敷には人気が少なかった。
そこを狙ったように、庭から侵入した人影。気づいた飼い犬が吼えようとしたが、
「よぅ」
さっさと近づかれ頭をぽんと叩かれて、敵意と警戒を向ける間がなかった。男はそのまま歩いていく。犬も後ろをついていく。がらっと襖を開けたその先に、居たのは。
「捜したぜ」
幼馴染でまた従兄弟の、麗人。
「……京一」
「なんだ。パーになったって聞いたのに案外、まともなんじゃねぇか」
言いながら、京一はさっさと床の間横の棚に手を伸ばす。涼介の腰が浮く。
「な、触るな、それは」
「弟が死んでんのなんか、十年も前に分かってた事じゃねーか」
「止め、京一、どうする気だ、それ」
「目出度く骨を拾ってやれたんだから、供養してやりゃいいんだよ。自分まで骨に供えちまう馬鹿が、いるかよ」
「京一ッ」
さっさと出て行く京一血の背中を涼介は追いかける。敷地内までは犬もついてきたが、
「お座り」
京一に言われて生垣の内側にちょんと座り込む。垣根の破れ目を最初に京一が、次に裸足のままの涼介が、くぐった。
「返せ、それ。どうする気だ」
「寺に収めて供養してもらう」
「嫌だ、俺のだ」
「お前が抱いて暖めてたところで、死んだのが戻ってくるわけじゃあるまい」
「来る」
「来ない」
「来るんだ。お前が知らないだけ」
「来ない。お前が、勘違いしてるだけだ」
二人で激しく言い争う声を聞きつけたのだろう。寺の庫裏から坊主がゆったりと、
「……なんぞ、御用かな」
出てきた。びくっと涼介は手を引いて、京一は勢い余って骨壷を、落としてしまう。落ちた場所に石でもあったのか、壷はぱりんと、可憐な音をたててわれた。
散らばった中身に坊主は眉を寄せる。
「感心しませんな。仏を粗末にしてはなりませんぞ」
墨染めの袖から伸びた、痩せた皺だらけの手が、骨を拾い上げる。夜目に、うすく発光して見えるほど真っ白な、骨を。
「……面目ない」
暴れる涼介を押さえつけながら、京一が謝る。
「妻が、いつまでも死んだ子供のことばかり、気にしているので」
「さようか。さぞや可愛らしい娘御であらしゃったろうが」
しわがれた老僧の声に京一の腕の力が抜ける。そこに捕らえられていた涼介も、暴れていたのを、止めた。
「え」
二人、同時に声をあげる。
「いずれみな、死には赴く。御仏にいまだ招かれぬ我々は、せいぜいより良く、日々を生きていくこ……」
「御坊、骨は、娘ではないはずだが」
「……はて?」
老僧はじっと、拾ったものを眺めたが。
「娘御のようですぞ。老若男女の骨を拾うことをのみ、己に科して九十年、この老僧の目に狂いはござらぬ」
「……」
「……」
「左様、九つか、十、十一。それくらいの、女童の骨のようじゃが」
「……」
「……」
銀色の月。
遠くで祭りの太鼓の音。
立ち尽くす二人。骨を拾い続ける、老僧。
「どういう、ことだ?」
京一の呟き。
「……」
涼介の沈黙は分からない、ということではなくて。
切れ者らしい光を宿らせた目は、その奥の頭脳が忙しく回転している事を、物語っていた。