供物・二
城から徒歩で四半刻ほどの場所に、南屋敷と呼ばれる建物がある。敷地は三百坪、建坪は百足らず。中堅あたりの家臣と同じ規模。
ただし、一歩でも門をくぐればそこが書院造りの武家屋敷とは違っていることに気づくだろう。美しい甍の波、土塀の更に内側に結いまわされた生垣、自然の小川を利用した池。池に張り出した釣殿。京うまれの愛妾のために前城主が、京から棟梁を招いて建てさせた建物。そこへ当主は、夜明けに紛れて戻った。
「お帰りなさい」
母親は、眠らず待っていた。
「戻りました。母上、お休みになっていないのですか」
いつもに増して白い顔色をした美貌の息子は病身の母親をいたわる。母親は曖昧に笑って、
「お城から、話が弾んでいて泊まりになるとお使いは頂いたけれど、気になって、寝つけなかったの」
「……」
気づかれたのか、と思って涼介は母親を見る。しかし母親は曇りのない笑みを見せていた。昨夜、目の前の息子に起った事態を予測している顔ではない。
「藩主様のご機嫌は、およろしかった?」
「……はい、とても」
「そう。わたくしと緒美にも反物の下賜を頂きました。仲良くしていただくのはとてもいいことよ。でも、家臣としての分は弁えなければいけませんよ」
「心得ております」
「ならよろしい。ゆっくりお休みなさい」
「はい。母上も」
挨拶をすませて自室へ。図書係として城下の役所に勤務している彼だが、今日は非番で休日だった。良かったと、思った。
寝巻きの小袖に着替える間も身体が軋んで、油のきれたカラクリのようにうまく動けない。関節が、痛い。寝床に入る。真綿でもない金襴でもない普通の、綿の布団へ。
ようやくほっとして息を吐いた。自分の吐息に、昨夜の記憶が蘇る。力ずく権勢ずくで強要された、行為の。
……よくあることだ。
そう思おうとした。男色は武門や寺社ではよくあること。そう、されたからといって軽蔑の対象になるわけではない。主君の所望に応えることは家臣としては当然の勤めだと、思い込もうとした。出来なかった。
そんな出来事ではなかった。痛めつけられた場所よりももっと奥の、心臓の裏側あたりがキリキリする。言葉は殆ど交わさなかった。短い命令を告げられただけ。会話は、まったくなかった。けれど、目が。
少しかぶいているけれど澄んだ、真っ直ぐで強い目をしていた……、義弟。その目が涼介を責めていた。理由がどうしてもわからない。大人しく言うことを聞かなかったから、だけとも思えない激しさだった。
「……兄上様、眠ってしまわれたの?」
襖の向こうから声が掛かる。妹の緒美だ。返事をしないでいると老女が、お勤めでお疲れなのですから、と嗜めて連れ去った。明るい、可愛い妹だ。母親に似た細面の頬が柔らかくなってきて、じきに娘盛りを迎える。輿入れも、そろそろ考えてやらなければならない。
母親の病ははかばかしくはない。
俺がしっかりしなければと、思う。庇護してくれた父親はもう居ない。親類の一人も居ないこの土地で、二人を守ってやるのは自分の役目なのだ。
新しい藩主に憎まれれば生きていけない。でなくとも、前藩主の愛妾と遺児というのは微妙な立場なのに。あれに憎まれるわけには行かない。俺がしっかりしなければ。
耐えれる筈だ、身体を好きにされるくらい。母親もそうして生家と、我が子を庇ってきたのだ。オレは女の子でもない。こんなのは、大したことじゃない。
自分にそう、言い聞かせながら眠った。
目覚めたのは昼過ぎ。覚めたというより起された。殿様がお越しです、と侍女に言われて
「父上が……?」
覚醒しきっていない意識で尋ねる。そんな、まさか。父上は、もう。
「しっかりなさって下さい。新しいお殿様ですよ。今は、母上が相手をなさっています。さぁお支度を」
言われてとびおきる。ずきんと、痛みが走ったのを無視して手早く、袴に脚を通す。羽織を着る暇はなかった。
「ごめん、寝てたよな」
臣下に対するというより身内の、ごく親しい間柄に語るように、藩主は声を掛ける。立ったまま、襖をからりと開けて。
「お袋さんと今、話してたんだけど。出家なさりたいって仰るんだけどさ」
でも緒美ちゃんが嫁いでからの方がいいって俺は思うけど、あんたは?親しげに話し掛けながら部屋へ入り、後ろ手に襖を閉じる。びしゃりと音がした時、若い藩主の顔つきは変貌した。
「……、具合、悪いのか」
話し掛ける声まで。
いいえ、という代わりに涼介はかぶりを振る。着かけていた羽織のヒモを、そっと結びかけたとき。
「脱げよ」
していることの、逆を命令される。明り障子から午後の、明るい光がさし込む自分の部屋で。
寝る前に、自分にあんなに言い聞かせたのが無駄だった事を涼介は知る。唯々諾々と命令に従うことはできなかった。
顔をあげ、酷薄さの中にかすかな甘さを見せる義弟に向かって、口を開く。
「悪ふざけは……、もう」
「ふざけてねぇよ。脱いで、そこに寝ろ」
布団はもう片付けられて、顎先で指し示される場所には畳と、衣桁があるだけ。
「血が、繋がっているんです、あなたとは。……半分でも」
「だから?」
「こんなことは、もう」
「あんたの母親、さすがに美人だね」
告げられる、聞きなれた褒め言葉が、こんなに禍々しく聞こえたことはなかった。
「幾つだったっけ。あんたが二十歳だろ。買われてきたのが十四か五として、まだ四十にゃなってないな。肌も髪も綺麗だ」
「……、殿」
「オレはあんたがいいけど、あんたがどーしても嫌ならあれで我慢しとくけど」
どうする?昨夜と同じ脅し文句だった。
「あの女なら血は繋がってないし」
「父上にお仕えした女ですよ」
「知ったことじゃない。田舎だな、ここは。江戸じゃよくある事だぜ。父親と息子が同じオンナをとりあうのは。あぁ、そういや朝廷でもこの間、そんな騒動があったな。三の宮が父帝の寵愛してる内侍と……」
聞きたくなくて、俯く。義弟は言葉をとぎらせて、
「……どうする?」
もう一度、昨夜と同じ言葉。
「人が」
「来ないよ。人払いしといた。父親の遺言を秘密で伝えたいから、って」
どうする?
追求に涼介は羽織を脱いで袴を脱いで、着物も。足袋に手をかけコレも?と問い掛けるように義弟を見た。義弟はゆっくり情欲の滾りつつある顔で頷く。
小袖一枚の姿で、裾に手をいれ足袋を外す。はせこがひやりと、指に冷たかった。
「そのまんま上、触れ」
意味がよく分からない。
「自分で触れって言ってんだよ。やり方ぐらい、分かってるだろ」
唇を噛み締めて従う。小袖を脱げといわれなかったことに縋って、その中で。視線に晒されて過度の緊張と屈辱の中で。涼介のそれは掌に包まれても指に擦られても、ナンの反応もしなかった。
「手間のかかる」
近づき、腕をとられる。畳の上に仰向けにされて、脚の間に割り込まれる。下着を剥がれて細帯はそのまま、膝を開かされた自分の姿を涼介は想像するまい、とした。相手に対する憎悪より先に自己嫌悪で、死にたくなってしまうから。
「当てろ」
ぐいっと目の前に差し出されたのは肘あて。けっこうな高さのそれを何処にどうするか、分かってしまう自分を涼介は嫌悪した。
昨夜も、二度目か三度目にそうやって、犯された。背中のくぼみにあてて腰を浮かせる。身体は楽になるが屈辱に全体の苦痛は増す。それでも逆らうことは出来ない。
自分でしたのなんか比べ物にならない、殆ど暴力と同義の無茶苦茶な愛撫に呼吸は乱れる。身体も、男として当然の反応を、かえす。
それでも白濁はなかなかこぼれなかった。最後に手放すされてからまだ半日。身体の疲労も傷跡も回復していない。声を殺し涙をのむ彼の狭間に、義弟は手を進めた。
「……痛い?」
返事はしなかった。出来なかった。唇を開けば悲鳴が漏れただろう。なぁ、と、優しい声が、霞んだ意識をかきまわす。ホントに忘れたの、俺のこと。それとも忘れた、フリしてんの?
頼りない寂しい子供みたいな声。甘えるような、口調。ひでぇよ。オレはあんたに会いたくて、親父のことまで、……した、のに。
苦痛と衝撃の中で、言葉の意味を、うまく拾えない。ナンて言ってる?
「しらばっくれるつもりなら好きにすりゃいいさ」
しらばっくれって、……、ナニ。
「それで俺が諦めるとか飽きるとか思うなよ。あんたもう、俺のなんだからな」
ナニを、言ってるんだ、……なぁ。
名前を呼べと強要された。けれど涼介は義弟の名を知らなかった。主人に対しては敬称のみを使い、実名に言及することは、ないから
「……け、」
呼んだのは、だから全然、違う名前。
「……ん」
「けい、すけ」
「うん」
「啓介」
「そう。もっと、呼んで。思い出した?」
痛んだ身体を叱咤して、首を横に振る。かすかに。目も開けていないのに義弟の顔が悲しみに歪んだのがわかった。自分を抱く、腕の力だけで分かった。
「……ウソツキ」
違う、違うんだ。本当に分からない。どうしてお前そんなに、俺を。
憎んで、恨んで、悲しそうな顔してる?会ったばかり、なのに。
俺の母親がお前の父親の妾だったから?俺が異母兄だから?でもそんなのはよくあること。喰うに困らない身分の男なら当然のこと。大名と呼ばれる身の上ならば、尚更。お前はもう、自身が藩主になって。俺は単なる、家臣の一人。なのにどうして、俺をそんなに……。
思考は中断した。ひどくゆさぶられて、痛みを少しでも和らげるために自分の身体も揺らす。肘掛を支点にして、その時が恐いのに。なかで、男が、はじける。熱くて痛くて、死にそうに……、苦しくて。
失神同然に脱力した耳元に、
「好き」
囁かれる言葉。失神したと、思ったのかもしれない。背中を抱かれる。ぎゅっと抱き締められる。それがどういう意味なのか、そもそも意味があるのかさえ、分からない。
「会たかった、ずっと……」
誰に言ってる、そんな言葉を。
自分にだとは、どうしても思えなかった。