供物・5

 

 領内巡回をこまめに行う城主は帰路、南屋敷に立ち寄ることを習慣にしていた。屋敷の主人は主命によって他藩へ使いしており、その留守宅を見舞うという意味もあった。一藩士の屋敷にこうもコマメに通うのは、普通なら周囲に疑念を抱かせたが、南屋敷には彼の父親のかつての愛妾と、彼女が生んだ義妹が住んでいて、女子供に優しい殿様と、評判は悪くない。
 城主は長居は、しなかった。玄関から入るとやれ座敷へ上座にと格式がやかましいので、いつも、庭からまわって濡れ縁に腰掛け、茶を振舞われ、少し話をして帰る。母娘は夕暮れ時になると、来訪を知らせる使いを愉しみに待つようになった。
 その日は朝から蒸し暑く、桑畑の視察のために山の斜面を登ったり下ったり、さんざん歩いた城主は汗だくだった。行水させてくれ自分が汗臭くて死にそうだと言われて湯殿へ案内されかけたが、
「井戸でいい」
 そのまま下帯一枚になって、汲み置きの水ではない井戸の、肌が悲鳴を上げるほど冷たい水をばしゃばしゃと、頭からかぶる。裾を短く端折って諸美が、井戸水を汲んで渡してくれた。裸の背中と脚に照れて、顔もあげられないでいるのが娘らしい恥じらいで、見ているお供や母親の微笑を誘った。
 濡れた髪を絞り、留守中の主人のものだという浴衣を羽織って、ようやく涼風のたちはじめた縁に座り庭を眺める。井戸水で冷やした、薄い塩味の麦こがしを飲む。汗を流した身体にうすい塩味が、気持ちがいいほど、美味い。
「なぁ、諸美」
少し離れてうちわで扇いでくれる彼女に城主は呼びかける。ちゃん付けはずいぶん前に止めていた。
「はい」
「俺たち、兄妹なんだぜ。ちゃんとそう思ってるか」
「はい」
照れながら、でもしっかりと少女は頷く。可憐な容姿をしているが性格ははっきりしていて、城主と少し似ている。横顔の、口元のあたりも。
「なら隠さずに言えよ。好きな男、いるか」
「……」
「まぁ、恥かしいとは思うけど、お袋さんが京に戻りたがってることは知ってるだろ?」
「はい」
「お前、どうする。お袋さんと一緒に行くか、それともここで嫁ぐか」
「母のこと、一人には出来ません」
「そう言うと思った。でもな、俺、正直いってお前んこと、都の公家に嫁がせたくねーんだ。……辛気臭いからな」
 くすっと、諸美がわらう。現代風の朗らかな娘。
「貧乏だし、イジケるし、僻む。それぐれーならうちの家臣たちの中の、しっかりしたのに嫁がせたい。それなら時々会えるし、なんかあったら助けてやれるから心配しなくていーし」
「でも、母が」
「イイって思う男の名前、言え。何人でもいいぜ。別にそいつと、絶対結婚しろとか言いやしねぇ。花婿候補を十人でも二十人でも、京屋敷に転勤させてやるよ」
それならお袋さんとも離れなくて済むしと、城主は優しい事を言う。母親は少し離れた場所で二人の会話を黙って聞いていたが、
「申し上げなさい、諸美」
 娘をそっと、優しく促す。
「兄上様ですもの。何を恥かしがる必要もありませんよ」
 二人がかりで促され、
「涼介兄さまの、お友達の」
 さすがに小さな声で言う。
「史浩さん、親切で優しくて、……いい方です」
「史浩。史浩か、えーっと」
 まだ家臣の顔と名前が一致していない城主は懸命に記憶を探る。
「ご家老の赤城様の甥御にあたられます」
 母親が助け舟。
「赤城様の娘御が嫁がれた先でもうけられた方で、知行は二百石ほど」
「あんまり楽じゃねぇな、それじゃ」
 城主の呟きに、
「いいです、私、貧乏で」
 反対されたと思ったか、諸美はさっと反応する。
「繕い物も仕立て直しも得意だし、料理も。下女を置けなくても平気です。贅沢したいなんて思ったこと、ないから」
「……ん。まぁ、好きな人となら、大概のことは大丈夫だよな」
 よしよしと、縁から手を伸ばして城主は義妹の頭を撫でた。
「まぁ、急ぐ話じゃないけど、とりあえずそのふ……」
「史浩さま」
「は、京屋敷に移す。これから大阪・京都とは行き来が増えるから、どっちみち人数、増やさなきゃならねぇから」
「ご配慮、感謝いたします」
母親は淑やかに頭を下げた。
「あの……、お殿様」
「お兄様」
「お、にいさま。涼介兄さまは、いつごろ戻られるの?」
 問い掛けられて城主は、曖昧に笑う。
「うん。……俺も、早く帰って来て欲しいなって、思ってんだけど」
「お母様のご出発までには間に合う?」
「間に合わせたいなって、思ってるんだけど」
「涼介兄さま、途中でちょっとだけ、帰って来ていただくことは出来ない?」
「諸美、殿方のお仕事に口を出してはいけません」
凛とした口調で母親が、娘の多弁を嗜めた。
「涼介はお役目で他所へ行っているのです。女子供の都合で呼び戻すことはできません」
「……はい」
 しゅんとした娘を慰めるように撫でて、城主は城から届けられた衣装に着替えて、戻った。


 そして、日没後。
「今日暑かったね。大丈夫だった?」
 表御殿の奥、入り組んだ廊下を通ってさらに一段低くなった建物の一角に、座敷牢はあった。
「……死ぬかと思った」
「明り、誰もつけてくれなかったのかよ。……、おい」
 真っ暗な室内に城主は呆れ、人を呼ぼうとしたが、
「暑かったから、消してもらったんだ」
 そう言われ、叩こうとした手を止める。
「飯は食った?咽喉、渇いてない?」
「……大丈夫」
「ちゃんと水くれた?昼間」
「あぁ」
「ならいいけど」
 彼の世話を言いつけてた役人には、健康に気を配るようくれぐれも言い渡してある。城主の直接の命令に逆らうものなど城内に居るはずもないが、心配でならない。
 手探りで格子の鍵を外し、牢内へ入ると、たった格子一枚なのに内部がひどく蒸し暑いのに気づいた。これではたまらないだろうと、一度でて、建物の障子や襖を外して廻る。涼しい夜風が吹き込んで淀んだ熱気を追い払う。同時に雲が切れて、十六夜の月が面を、のぞかせる。
 銀色の光の中、目を半眼に閉じてうっとり、風を受ける人の姿。少しやつれた、けれど悪夢のように美しい美貌。近づき、格子をくぐって抱き締め、口付ける。抵抗はない。最初から、それはしたことが、なかった。
 それでも閉じ込めた当初は食事を拒否したり口をきこうとしなかったり、拒もうという意志は持っていた。拒絶が辛くて、痛くて、焚かせた香炉の煙に紛らわされて、彼は今、夢と現実が曖昧な世界の住人。城主のことを求められる名前で呼んだ。啓介と。本当に実弟と、城主を思っている。朦朧とした意識の中で何度も囁かれて。
 城主が襟に手を掛け、かすかに汗ばんだそれを引き剥ぐと、
「まだ飽きないのか……?」
 呆れた、けれど憎んではいない口調で咎めるともなく、呟く。
「全然。だってアニキんこと大好きだし」
「困った奴だな、もう。大人になったらこんな遊びは止めるって、あんなに約束したのに」
「だって……、しょーがねぇよ。大人になってもアニキんことだけ、すっげー欲しいんだもん」
 口付けの合間に囁き、
「……イヤ?」
 耳元で尋ねる。甘い褥に押し倒しながら。
「あんたがイヤならしねーよ。俺は無茶苦茶したいけど、それであんたが俺んこと、嫌いになるなら我慢する。嫌われたら、辛いから」
「馬鹿。俺がお前を嫌う筈ないだろ」
 月光を浴びながら凄絶なほど艶やかに、微笑む唇。
「好きだよ。啓介」
「うん」
「ガキの頃から、ずっと、お前だけ」
「ホントかよ。ガキの頃ってでも、こんなコトとか」
「ア……っ、ん、っく」
「こんな風にとか……。あんたにしてやれなかった、のに」
 くすくす、彼は笑う。昔を思い出して。
「そう。お前、無茶苦茶だったな。まだちっちゃいのに、俺のこと触ったり舐めたがったりはともかく」
「……うん」
「勃ちゃしないのに挿れたがって……、俺にヘンなの突っ込んだの覚えてるか」
「……なんだったっけ」
「牛の角だよ。女中部屋で見つけたって。アノ形に削ってある、空洞に湯、入れて使う奴。お前、火鉢で煮えてた鉄瓶の湯を入ようとして、熱くて火傷、しただろう?」
「そう、だったっけ」
「ひどくて……、跡が残るんじゃないかって心配した。理由をお袋や乳母に説明もできなくって、結局俺が不注意で怒られた。覚えてるか?」
「……ううん。ごめん」
「都合の悪いことは忘れちまうの、ガキの頃からだな」
「……ごめん」
「いいよ。跡、残らなくって良かった」
 頬を包んだ左手にくちづけられて、たまらずに、
「……昔の話、もうしないでくれよ」
 泣き言をいってしまう。
「なんで?懐かしい、のに」
「覚えてないから、不安になるんだよ」
「仕方ないさ。お前は俺より二つ下だったんだ。でも、俺が覚えてるから」
「でも言うな。ナンか、イヤだ。あんたが知ってること知らないと、自分が啓介じゃないみたいな気がしてくる」
「馬鹿な事を」
 彼が笑う。華やかに。
「言うなっていうならそうするけど。……啓介」
「……、ナニ」
「愛しているぜ」
「……」
「俺も愛してる、は?」
 彼から睦言をねだられて。
「オレも、愛してるよ」
 嘘ではない。それは決して、嘘ではないけれど。
 ひどい嘘をついている気分になる。泣きだしそうな城主に気づいて彼は、優しく腕をまわす。
「なにが悲しい。なんでそんな顔、するんだ」
「ナンでも、ねぇ」
「お前は啓介だよ。そうなんだろう?」
「……、う、ん」
「大きくなってくれて嬉しい。立派に、なって」
 すり、と胸元に頬を擦り付けるように涼介は城主を抱き寄せる。それでも嘆きの気配を消さない城主の耳元に、仕方ないなと、囁く。
「いいこと、教えてやるよ。恥かしいから一回しか言わないぜ。いいな?」
「……」
「嬉しかったよ、本当は」
口付ける。優しく、けれど情熱をこめて、彼から。
「お前が俺を欲しがってくれて。こんなに立派になったお前がまだ、俺を好きでいてくれたなんて夢みたいだ」
 ……それは、求めていた言葉。
 再会の夜にそう言って欲しくって、でも、与えられずに荒れてしまった言葉。
 残酷な衝動や欲求を溶かす魔法、自分の一部のようにいとおしい、大切に思う人。
「……啓介?」
 耐え切れず泣き出した城主に彼は、今度こそ困り果てた表情。
「なんで、泣くんだ。イヤだったのか?」
「んな、コトぁ、ねぇ、よ」
「泣くなって。笑えよほら。笑って。俺のために。俺も笑ってやるから。な?」
「アニキ」
「ん?」
「俺、けーすけ、だよ、な」
「……だって、お前がそう言ったじゃないか」
 優しくされればされるほど城主の不安、慄きはひどくなる。この愛情が優しさが、もしかして、まさか、自分以外に向けられたものだとしたら。
 彼の語る彼との過去を、覚えていないことが多すぎて。
 そういえば愛しさ以外、最後の夜の他、ろくな記憶は……、ない。
「覚えて、ねぇんだ。あんたとのコト……」
「だってそれは、仕方がないよ。お前まだ小さかったから」
 愛情だけを覚えてくれていれば充分。記憶はこれからいくらでも増やしていけれるだろう?優しい声が耳朶をくすぐる。
 優しさに、余計に泣けて。嗚咽だけは辛うじて耐える弟の背中を兄は、いつまでも撫でてやった。