テスト中の事故。モーターに巻き込まれたレーサーの手を見てメカニックとオーナーは顔色を変える。ばちばちと火花を散らすバッテリー。とにかく引火する前に救出しようと駆け寄ったとき、
「神様……」
軌跡かれとも強運か。左手首切断かと思われたレーサーのその手は無事だった。手袋はもげて、巻き込まれ、レザーの焼ける嫌なにおいを漂わせていたけれど。レーサーの、それだけ不自然に曲がった薬指に嵌められた指輪がモーター部分に食い込んで回転を止めていた。もっともコントロールを失って暴走するモーター軸には羽根との軋みで無理な抵抗が加わり、指輪は摩擦で今にも溶けそうだった。銀色の部分が。
「はやく切って。引火するわ」
「……ヤメ」
ぴくりとも動かず、失神したとおもっていたレーサーが、うめく。
「ダメだ、そんなの。……切る、な」
「大丈夫、大丈夫よ。指を切るんじゃないわ。すぐに助けてあげるから。早く」
「やめろっていってるだろ」
「爆発するわ、このままじゃ」
「いいから。死んでいいから、指輪は、切るな」
「なに馬鹿言ってるの。切って」
「……切るなッ」
レーサーの自由な右手がオーナーのパンツスーツの裾を、掴む。
「頼むよ。形見なんだ」
「切って」
「大好きだったヒトの形見なんだ。も、これしか残ってねぇんだよ。頼むから」
「切りなさい。急いで」
「お願いだから、ヤメ……」
指輪の、銀色の台座は切れなかった。しかし銀色の部分をペンチでねじ切ると、レーサーの指はモーターから引き抜けた。もともと別の輪を、重ねてあっただけのように、容易に。爆発前に安全な場所へと、一目散に遠ざかる。銀属の破片が溶解し終わったのだろう。彼らが安全な距離をとるのをまっていたように、クラッシュした車体は爆音をあげてはじける。その音を、レーサーは聞いていなかった。担架のうえでもう一度、気を失っていたから。
救出された安堵による再びの失神、というよりも、全身強打の衝撃の中で、意識を取り戻した数秒がおかしかった。指輪を切る、という言葉を耳が拾って感情に伝え、感情が意識を無理に覚醒させた、そんな感じだった。
「助かった、みたいだぜ」
「あれでかよ。運、つえー」
「なんか指輪が噛みこんで助かったってさ。左手の」
「薬指?あいつ結婚してたっけか」
「死んだ恋人の形見だったってさ」
「へぇ……」
チームドクターによる緊急の診察。そのためにはだけられたレーシングスーツの胸元。プラチナの細い鎖に、留め金式の金具が通されていて、
「さっきまではしてなかったよな、指輪なんて」
「ふだんは服の下に隠してたって訳か」
「レース直前に手袋の下に?だとしたら、ホントにすっげー、幸運」
「けっこー、ロマンチストだったんだな、あいつ」
強気で生意気なレーサーの意外な一面が、関係者たちにひろがってゆく。
「形見だから、切るなって泣いたって。死んでもいいからって」
「マジかよ。あ、でも、そーいや涙の、跡……」
遠巻きにした野次馬たちの囁きに気づいたオーナーは白いハンカチを取り出し、レーサーの顔にかけてやろうとして縁起でもないことに気づく。
幾重にも折って目元を隠したが、それでは、煤で汚れた頬に流れた涙の跡は隠せない。
「心音、呼吸音、ともに切迫していますが乱れはない。心肺は無事です。全身を強く打っていますが、とりあえず命に別状はありません」
チームスタッフらの間から次々にもれる、深いため息。大事故の責任はいずれ誰かがとらなければならないものの、新人レーサーのテストでその新人を事故死させたとあっては、責任どころかチーム自体の存続問題になる。それに。
打算とは別に、このレーサーは死なせたくないと思った。誰もが。大病院の院長の息子に生まれたのに薄給の新人レーサーとして下積みを重ね、ようやく頭角をあらわしてきたばかりの、青年。
救急車が到着し、担架ごと、彼は担ぎこまれる。
彼の名前は、高橋啓介、といった。
病院で、意識を取り戻した青年は、
「ごめんなさい」
深々と頭を下げて謝るオーナーを眺める。
「ごめんなさい。今、事故のあとを探させているわ。わたしもすぐに捜しに行くけど……、溶けてみつからないかもしれない。ごめんなさい」
「……指輪のこと?」
「そう。ごめんなさい」
「いいよ。……しょーがないし」
全身ギプスで固められ、そこだけしか動かせない視線を彼女に向けて。
「もう捜さなくていいから。見つからない、だろうから」
小さな、本当に小さなプラチナの細い輪。外れたりなくしたりしないように、頑丈なチタンを加工してその形に窪ませた指輪と重ねて、大事なときだけ、そっと嵌めていた。
「ごめんなさい」
「いいって。謝るなよ」
「大事なものだったのに……、ごめんなさい」
「謝るなってば」
「形見だったんでしょ、ごめ」
「そうだけど、いい。……あんたちょっと似てるから謝らないで。その人のこと、苛めてる気がするから」
最後の時、ごめんと幾度も繰り返していた、あの人。
「いいよ。守ってくれたんだから。たぶん」
確信はないけど。
オーナーは暫くためらったあとで、
「あの……、その人のって、……他に、ないって言っていたけど」
「うん」
「恋人、だった……、の?」
「俺はね。そのつもりだった」
「親御さんに反対されていた、とか?」
「反対賛成っていうか、拒否」
「あの……、差し出がましいけど、私、その方の親御さんに事情をお話して、代わりのものを、なにか」
「ありがと。あんた優しいな。でもいいよ。顔向け出来ねぇんだ、オヤには」
「そぅ、なの。……あと、あの、親御さんの、ことだけど」
「俺の?連絡したの?」
「えぇ。……それで」
「来ないとか言っただろ。勘当中なんだ、俺。ごめ……、なんか、眠いや」
「麻酔が残っているのよ。お休みなさい」
「うん。あのさ、俺、これからもレーサー、出来る?」
「えぇ。打撲や骨折がひどいけど、後遺症の心配はないって、お医者様が」
「ラッキィ。やっぱ守ってくれたかも」
「えぇ。きっと、そうよ。おやすみなさい」
返事はなかった。既に寝息だった。
若くて頑丈な青年は、医師の診断より二週間も早く退院した。退院祝いの花束を抱えたオーナーにオフィスへ連れて行かれ、弁護士同席の上でF1チームの専属ドライバー契約を見せられて、
「中断したテストのやり直しもなしで?」
いつもどおりのふてぶてしい、けれど明るい目をして、笑う。
「ラップタイムはあなたが一番、早かったもの
「ふぅん。まぁいいさ、ありがたく。……ここの白紙のところ、ナニ」
「あなたからの条件があれば記入する欄よ」
「あ、じゃ、契約中に死んだら葬式して」
「止めてよ。縁起でもないわ」
「レース中にっては言ってねぇよ。病気とか」
「とても病気で死ぬようには見えないけど」
「ンなこと言ってたら、保険会社は軒並み潰れるぜ」
「生命保険、入ってないでしょう、あなた」
「ん。俺が困る人、居ないから」
「……」
「あ、そだ。墓も買って」
「え?」
「死んだときだよ、俺が。骨、引き取ってもらえる当てねぇから」
「……いいわよ」
「あともう一つ。ときどき、こうしていい?」
きゅっと、青年はオーナーを抱き締められる。弁護士は驚いた顔をしたがこうは出さなかった。
「そういえばなにか言っていたわね。私、似てる?あなたの……、死んだ恋人に」
「ちょっとだけな」
肩口に顔を埋めて、甘えるように、呟く。
「私、これでも既婚者よ。娘も居るわ」
「知ってるよ。別にエッチィことサセロって言ってねぇだろ。時々、抱っこさせて」
「夫が居るの。恋人の変わりは困るわ。お母さんに似ているってことにして」
青年の腕をオーナーはふりほどく。ほどかれて大人しく退いた長身を、彼女は逆に抱き締めた。
「時々だっこ、してあげる。お母さんの代わりに。それならいいわ」
「情けねぇから、明文化しないで」
「分かったわ。約束だけね」
「うん。あとさ、あんたに一個、言わなきゃならねぇコト、あんだ」
「なぁに?」
「そのヒト、死んでもねぇの」
「……なんですって?」
「怒んなよ。でも二度と会ってもらえないから死なれたのと同じ。形見がアレしか残ってなかったのも、ホント」
「……信じるわ。あんたみたいな男がびーびー泣いたんですもの」
「そのこと、二度と口にしないでくれ」
「みんな知ってるわ」
「それでも、俺の前では」
「週刊誌にも載ったわよ。読む?」
「イヤミかよ。それでさぁ、もしかして、俺が契約中に死んだらサァ」
「死んだあとのことばかりね」
「許してもらえるアテがそれしかねぇからな。俺が最後まで愛してたって、言って」
「どなたに?」
「……いえない」
「じゃあどうやって伝えるの」
「記者会見で喋りまくれよ」
「やっぱり事故死のこと考えてるじゃない。それにしたって、あて先を特定しなきゃ開いても困られるわよ。自分かしらと思う女のヒトは一杯居るでしょうし」
「そのヒトにはすぐ分かると思うけど。俺、そのヒトのことしか、愛してなかったし」
「大抵はそういうとき、認識はすれ違うわ。その人はそうだって思わないで、そうじゃない人に限って自分って思うもの」
「……イニシャルだけな。R」
「Rのつく人ね。覚えておくわ」
書類にサインして契約は終わった。
「……なぁ、俺の事故と指輪んこと、騒ぎになったのか?」
「大騒ぎよ」
「連絡なかった?アニキから」
「お兄さん、いらっしゃるの?」
「……うん」
「なかったわ」
「……そう」