Love savanna
Savanna=明瞭な乾季を持つ、熱帯・亜熱帯地方に見られる草原。
乾季にはイネ科の丈の高い草が繁り、低木も点在する。
アフリカ・南アメリカ・オーストラリアなどに広く分布。
サバンナRX-7=1978、573cc×2 ロータリー12A型として発売
1982、希薄燃料型RE6PIエンジン搭載
1983、マイナーチェンジ、ターボ追加
1985、フルモデルチェンジ
1992、カプリオレ/ファイナルバージョン発売
見つけたとき、その生き物は、ひどく弱っていた。
小さく丸まって泣く力もなくて、干からびた毛皮みたいに見えた。でも鼻先を舐めるとぴくっと、小さな舌が伸びて、その湿り気を欲しがるみたいにしたから。
水場へ行って全身を濡らした。水滴の滴る前足を顔の前に差し出すと、爪の剥がれた両手で挟んで、ぺろぺろ舐めた。乾いたらもう片方の脚を、そのあとはわき腹を近づけて舐めさせた。
湿って泥の落としやすくなった毛皮を毛づくろいしてやるとやっぱり仲間だった。でも見覚えのない子供だった。まだ母親のお乳を飲んでいる幼さで、どうしてこんなに疲れきって、一人で居るんだろう。この子のお母さんは?
尋ねてみたけど返事はしなかった。言葉をまだ、教えてもらっていないのかもしれない。とりあえず水を飲ませた後で、父さんと母さんの居る岩場へ連れていた。二人はそこの裂け目を住処にして、この草原をおさめる豹の夫婦。豹は三歳半になるまで両親と一緒に居る。生まれて二年目の俺は、弟や妹たちの世話をしながら狩も手伝っている、そんな時期だった。
俺が拾った子供をどうするか、両親はその夜、ずいぶん遅くまで話していた。育ててくれないかなァと俺は思いながら、弟妹たちと一緒にその子も前脚の下で寝かしつけた。最初は五人居た弟妹はもう二人に減っていた。理由はさまざまだ。ほんの少し目を離した隙に鷹にさらわれたり、狩に出た間にハイエナに食べられたり。俺の同腹の兄弟たちも結局、運がなかったり病気になったりして俺しか育たなかった。他所の子でもいいから俺は、一人でもたくさん仲間が欲しかった。
翌朝、母親がその子に乳をやってくれて、あぁ、育ててくれるんだなと思って嬉しかった。死にそうに弱っていた子供はもとが丈夫らしくて、三日もしたら歩けるようになった。同じくらいの大きさの弟妹たちより足つきもしっかりした感じで、俺は愉しくなった。いろんなところに一緒に行けると思った。
新しい『弟』は啓介、と呼ばれた。ついこの間、死んだばかりの弟の名前だった。
弟はすくすく成長した。一年たつ頃には体格では俺を追い越した。他の弟妹は結局、一人も育たなかった。水場に落ちたり、岩場の隙間にはまったり、不幸なことが続いた。
その頃には、俺はひとり立ちの時期を迎えていた。それは自分で分かった。優しい母親に疼きを感じた夜、俺は岩場を抜け出した。大好きだったここから広い世界へ旅立って、そこで母親とは違う伴侶をみつけて、今度は俺が自分の子供を育てる役目。
懐かしい水場へ立ち寄って喉を潤した。甘いこの水を、飲むのも最後だと思った。未練を振り切るように駆け出した、優しい夜。
「アニキ」
背後から、いきなり声をかけられて。
「啓介……」
振り向いた俺は正直、脅えて、竦んだ。うすい月明かりで見る弟のシルエットは、俺が拾った子供の頃が信じられない逞しさだった。まだ成長しきってはいない。けれど脚も腰つきも、俺や両親とは何処かが、根本的に、何かが違っていた。
「何処に、行くの」
「……、分からない。遠く」
「俺を置いて、いくの」
舌なめずりの音が聞こえる。瞳が緑に、怖く光っていた。
「だって、巣立ちの時期だから」
俺の声は震えていたかもしれない。
この弟が怖かった。体格も低い声も、強い力も。兄弟じゃあう時も、相手に怪我をさせないように気遣っているのはもう、この弟の方だった。
「遠くに行くよ。お前も来年の今ごろはそうなる。たぶんもう会わないけど、元気……」
「俺は何処にも行かねぇよ」
唸るよう呟きながら、ゆっくりと近づく。気おされるようにじりっと下がった。怖かった。
「気に入っているんだ、ここが。俺の国にする。……あんたのことも」
どこにもやらないよ、と。
その言葉を最後まで聞きはしなかった。
後ろを向いて駆け出す。一目散に逃げる。脚で地面を蹴って、息の続く限り。命がけで逃げた。本当に、怖かったから。
雨季が近かった。前触れの雨に伸びた茂みにてこずりながら、それでも弟は簡単に俺に追いつき、引き倒す。
「嫌だ……」
仰向けの視界に滲む、細い月。恐ろしく力強い弟の、肩のシルエット。
「嫌だよ、啓介」
弟が何をしたいか、するつもりなのか、俺には分かっていた。それまでにも何度か似た悪戯を仕掛けられていた。そのときは弟も恐る恐る、という風で、俺はいなして誤魔化して逃れた。けれど。
「お前とは兄弟だし、俺は、女の子じゃないし」
「関係ねぇよ、そんなの」
弟は本気だった。そうなった以上、俺に逃れるすべはなかったけれど。
「止めてくれ。許して」
捕らえられた兎みたいに震える。無慈悲に脚をひらかされ。
「勘弁してくれ、放し……」
それでも。
舐めるくらいは、してくれたんだろうか。
覚えていない。
その後の衝撃がキツ過ぎて。
「いやーッ」
痛いとか。そんなものじゃなかった。
硬い灼熱が肉体の、一番柔らかで無防備な部分を切り裂く。
「タイ、タ……、ケイ、スケ、助け、て」
逃れようとよじる身体を捕らえられ引き戻される。そのたびに喉から悲鳴が迸る。食い殺される錯覚に目の前が真っ赤になる。実際その時、俺は貪り食われた。
「ア、アァ、……、ん、イヤァッ」
泣き叫ぶことしか出来ないまま。
「動く、な、イヤ、啓介、イタイ、タ……」
かきまわされる。中を、無造作に。びくびく痙攣する自分の脚を、断末魔のインパラみたいだと自分で思った。この痙攣の後、インパラは意識を失って楽になる。でも俺は、そうできなかった。
「アァ、ア……、いや、ヤメ……」
意識を失おうとすると牙を緩められ呼吸をつがされる。そして一息つくと即座に、辛い責め苦は再会されてゆく。
「助けて、けい、介。も、終わって、……ンーッ」
マグマのような奔流が、俺の体の内側で弾けた。
恐ろしさにのけぞらせる身体さえきつく抱きこまれて。
「すっげー、気持ちよかった」
最中は一言も漏らさなかった弟が、泣きじゃくる俺を抱きしめながら、言ったのはそんな言葉。
「ずっと好きだった。欲しかったんだよ、あんたが」
「、イヤ」
「逆らわないで。大人しくしといて。したら俺も、優しく出来るからさ」
「もうイヤ。離して」
「逃がさないって。あんたが逃げたらあんたの両親、どうなるか、分かってる?」
恐ろしい、脅し文句だった。
まさかという気持ちで、潤んだ瞳で弟を見上げる。
「殺すよ。食い殺す。縄張りが欲しいから」
「啓、介」
「それは死んだ奴の名前なんだろ?俺じゃない」
「啓介、でも」
「脚、開いて。俺を抱きしめて」
「ケイスケ……」
「そしたら、あんたの、『弟』でいてやってもいい」
言われるとおりに、した。
それでももう一度、奥の狭間に受け入れることは怖くて。
「口でするから」
それで許してくれと哀願する。黙って頭を引き寄せられて、俺は舌を出した。雄の匂いを撒き散らすそのに触れる。自分の血の味もした。苦かった。我慢して一生懸命舐めて、喉に、突き入れられても耐えてむ大きくしたのに、いきなり身体をかえされて。
「…イヤッ」
「ごめん」
「……ウソツキ」
「うん。ごめんな」
「ん、ンーッ、ツァ、……、アァ、ア」
「好きだよ。大好き」
それから。
何度も、切り裂かれた。
俺があんまり痛がるからか、啓介はそれからは抜かなかった。刃を含まされたままでの休息は俺の恐怖を倍増させるだけで、優しく毛並みを撫でられて、それも怖くて震え出す。
「ンな、怖がるなって」
困ったように弟は俺を抱いたままゆっくり身体を揺らす。律動に、悲鳴を上げる。
「ほら、ちっとは良くなってきただろ?」
本当だった。途中から、俺は反応しだしていた。
「愛してんだよ。あんたが大人しくしてくれるなら、あんたの言うこと、なんだってきくよ」
夜半から夜明けまで抱き合って。
まどろみの後でもう一度いだかれる。
泣いて悲鳴をあげながら、それでも。
俺は弟の雄に反応した。
水場に連れていかれる。力の抜けた身体を易々と運ばれて、違いを今更、思い知る。
清めてくれる手は優しかった。残酷に押さえつける時と同じ手とは思えないほど。濡らされ、舐められる。怪我したそこを丁寧に。まるで伴侶の、傷を癒すみたいに。
傷口が潤ってほとびていく。それにつられて、気持ちも。
「啓介」
「……なに?」
「俺を好きか?」
「うん」
「頼みがある」
「うん」
「父さんと母さんと、これから生まれる弟妹たちには手を出さないで、くれ」
「……」
「お前の言うことをきく。いつでも思い通りに、なるから」
話に聞いたことはあった。大きくて力が強くって、俺たちよりも遥かに凶暴な生き物。獅子。
おれたち豹も、豹の子供も、見つけ次第に殺すという。獲物が競合するからだ。両親のさらに祖父母の代に、それらの居る森から離れてこの草原へ、俺たちはやってきたのだった。
「俺のこと愛せる?」
「あぁ」
「本当だな?」
「俺は、お前みたいな嘘つきじゃないよ」
きゅっともう一度、抱きしめられる。破滅の予感を知りながら。
それでもこの弟にこうされることは、幸福に近い気もした。少しだけ。
やがて弟は広大な縄張りを自分のものにして。
俺はその片隅、岩場とは方角が違う位置に棲みついた。三日に一度、鳥を一羽、捕らえればいい豹にはそれほど広い縄張りは必要ない。潅木の多い水場のある場所を、弟は俺にくれた。暑い季節にはパオパブの木に登り、沈んでいく太陽を眺めることが好きだった。
時々はその日没と重なるようにして、弟は俺の寝床へやって来た。王者の登場に頭上でハヌマンラグーンたちは騒ぎ、枝を揺すって大騒ぎ。鳥たちは警戒と恐れの鳴き声をあげて飛び立つ。そんな騒ぎの中でゆったと、近づく弟の姿を眺めることは嫌いではなかった。
精悍な若い王者の風貌は凛々しかった。みなが恐れる男に甘い声で、
「降りて来いよ」
優しく囁かれるのは、嫌なことではなかった。
何年目かの、乾季。
水場の水も枯れて久しかった。異常に続く乾いた日々に、弟は憔悴していた。大きな獣は大きな獲物を必要とする。俺ももちろん、弱ってはいたけれど弟ほどではなくて。
「大丈夫か?」
どうしてやれるわけでもなかったが尋ねる。
「死にゃしねぇよ」
「だよな。お前は、強いから。……この間、女の子が来てたな」
弟以外の獅子の姿を、最近ときどき、見かけるようになった。
「気づいてたのかよ」
「てっきり一緒に住むと思ったのに」
「逃げられるかも、とか思った?」
「そんなことは少しも。でも、お前にも家族は必要だと思って」
「あんた自分がなに言ってるか分かってる?俺、あんたの兄弟じゃないから、俺の家族はあんたの仲間じゃないんだぜ」
「あ……」
こんなになった今でさえ、俺は時々錯覚する。俺を貪る動きにもいつものような力強さのない、この雄を同族と。
「縄張りに他のは入れねぇよ。あんたが危ないじゃねぇか」
だってほら。こんなに優しいから。
「ありがとう」
愛している、と言う代わりに抱きしめる。
「遠出するなよ。今ちょっと、みんな乾いてて不穏だから」
「あぁ」
「雨季になったら、きっと蘇るさ」
「そうだな」
言いつけが、気にならない訳じゃなかったけれど。
俺は真昼に、岩場に向かった。弟はまだ俺の寝床で眠っていた。その日は幸運で、俺は鳥を四羽も捕らえた。弟の腹の足しにはたいしてならないことを承知で二羽を枕もとに置き、一羽は食べて一羽を口に咥え、俺はあの岩場を目指した。このキツイ乾季にそろそろ老いた両親が、どうしているか心配だったから。
岩場に生き物の気配はなかった。不審に思いながら鼻を鳴らす。仲間の合図だ。でも返事はない。
岩の狭間に入って、ぞっとした。
咥えていた、太った鳥がぽとりと床に落ちる。
そこに両親は居なかった。成長した弟妹たちも。生き物の気配どころか匂いさえなくて、ただ。
乾いた、噛み砕かれた骨と毛皮の端だけが。
どれくらい、そこで呆然としていたろう。
「遅かったか……」
背後で弟の声がした。しまったという後悔と、ばれてサバサバしたぜという気分が漂っていた。
「いつ」
振り向きもせず問い掛ける。
「昨日今日じゃないさ。もう随分前。子供を先に殺したら、二人とも抵抗しなかったぜ。諦めたんだろうな」
振り向けないままの肩に前脚を掛けられて床に押し伏せられる。力が少し復活してるのは、俺がおいてた鳥を食べたから?
「最後にあのひとたち、なんて言ったと思う?涼介だけでも逃げていて良かった、ってさ」
身体をひらかれる。前夜、さんざん蹂躙された場所は、今更雄を、拒むことは出来なかった。
「喰えよ……」
この雄を、責める気力はわかなかった。
胸に湧いてこぼれてゆくのは、自責と後悔。
「俺も、ここで。このまま」
「ハイエナたちの群れに、たまに居るよな。片足しかない奴」
右の前脚を咥えて舌と歯で、毛並みの感触を愉しみながら弟は言う。
「連中あれで愛情強いから、群れで養っているんだぜ。あんたのこともそうしてやろうか。ここに閉じ込めて」
「出来るもんか」
「信じてねぇの?俺、ホントにあんたが」
「片脚だけですむものか、大喰らいのくせに。ウドの大木」
「ひでぇよ、それ」
「俺が悪かったんだ……」
死にかけたこの雄を拾ったのは俺。両親に育ててくれと頼んだのも。俺も両親も獅子を見たことがなかった。仲間の子だとてっきり思い込んだ。それは、ともかく。
「妹たちを」
「ん?」
「お前と一緒に母さんの乳を吸ってた妹たちを、殺したのがお前ってことに、俺は気づいてた。妹が居なくなったときにお前から、あの子の匂いがしたから」
血の匂いが。
「俺はあの時、お前を始末するべきだった。まだあの時なら間に合った。俺の方が、まだ大きかったから」
「……」
「俺が悪かったんだ」
泣いたって、いまさら、どうにもなりはしない。
豹の楽園だった草原に獅子がやってきて、やがてここにも、獅子たちが満ちるだろう。
「ごめん」
泣く俺が、よっぽど可哀想だったのか。
男が抱きしめてくれる。優しく、強く。
「ごめんな」
「悪くない。お前は悪くないよ」
当然のことをしただけ。俺には出来なかった、当たり前のことを。
「お前が可愛かったんだよ……」
危機を知りながら目を瞑ってしまったのは俺自身。
長い間、男は俺を抱いていた。そうして日が暮れる頃、雨音。
「雨季だぜ」
男のほっとした声。
「……来年の乾季はきっと、もっとキツイ」
「縁起でもねぇことを言うなよ」
「水場は乾いて、お前は飢えるだろう」
「おい」
「来年は俺が行くよ。藪のお前の住処に。そこで遊ぼう。俺を……」
そこで、殺せ。
当然の罰だ。
そうしてお前は同族の雌と群れを作ればいい。
「しねぇよ」
ぎゅっと抱きながら、それでも男の、声は不安で揺れていた。
「絶対、しねぇよ。あんたを好きなんだから」
答えず俺は目を閉じる。
来年がダメなら再来年、その次でもいい、いつか。
飢えて乾いたこの雄に切り裂かれるだろう。今度は欲望だけじゃなく、血肉も。
唇を寄せて男の、牙にくちづけた。
震えているのは相手のように、思えた。
長い鬣を風にそよがせた雄の縄張りに、幾頭もの雌が侍っている。
草原の岩場には子育てに向いた裂け目があって、雌たちはみな、そこに棲みたがったが雄は許さなかった。
時々そこに、雄はやって来る。
寂しくなると地面を舐めて、耐え切れないと掘り出し口付ける。
やきつく飢えの中で、骨のずいまで甘かったひとを貪りながら、それでも。
それだけは形見のように残した。今では毛皮も乾いて萎んだけれど、かつてはビロードのような優しく美しかった、右の爪先。
命を拾ってくれた脚。