樹海の街

 

 

 大抵の芸術家は若い頃、表沙汰に出来ない仕事をこなしている。素材である演技者を含んで。

 映画監督として大成し、娯楽作品の作り手としては既にカリスマじみた評判を持つこの男も、若い頃には。

「ピンク映画も、ヌードのスチール写真も撮った」

 名もない頃の金目当ての仕事。でも将来の大監督の作品はさすがに完成度が違っていて、うちの幾つかは時の流れを超えた『名作』として未だに流通している。クレジットに名前が出る事はないがカメラワークや構図で見る者が見れば分かる。若くても鷹で、鶏とは世界が、最初から違っている。

「だから業界を少しは知っているが、ヌードモデルやAVの出演料はその苦労からすると法外に安い」

 男が構える広大なスタジオの中の一室。アンティーク家具に埋め尽くされた中央、猫足螺鈿のテーブルで、既に世界的な評価を得て自己のレーベルを興そうかという大監督は、秘書に運ばせたオールド・イマリのティーポットから紅茶をカップに、自分で注いで、客人に勧めた。

 駆け出し若手の監督に貸した別の部屋で今日そのテの撮影をされる予定だった、以前は大学の研究者で今は市井の失業者である、女に。

「今時の相場でいえば100万と君は聞いただろう。だがそれは出演者全員に支払われる額だ。女優には半分の五十万、うちの四割は紹介料としてエージェントに差し引かれる。契約書の二枚目は見せてもらっていないだろう?」

 ギャラに関する支払い明細は二枚目に隠して、いい条件だけを記した一枚目にサインさせる。業界ではごく普通に行われる誤魔化し。

「何人ものスタッフに囲まれてカメラの前で八時間から十時間、寝て起きて座って立って、表からも裏からも、性器も排泄器も撮られてから男優との絡みだ。撮影のセックスは歪で、内臓を吐きそうなポーズを強要される。辛いよ」

 男は娯楽映画の他に、実録の記録映画も多く撮っている。南極大陸の撮影をした時に同行してくれた大学の若手研究者は敗戦後の不況で職を失い、こんなところに迷い込んで来た。

「君に必要なだけの現金を用立てよう。今日は帰りなさい」

 女は黙って相手の話を聞いている。紅茶には口もつけないまま。艶やかな黒髪は数年前と変わっていなかったが、頬は少し痩せ、疲れてやつれている。それでも白い透き通りそうな肌と眦の切れの深い濡れた瞳の痛々しい美貌は相変わらず。黒目がちなのに幼さがないのは唇の形が良いせいと、瞳の奥で知性が冴えているから。飛び級を繰り返し、二十歳で自然科学系の学部の大学院を卒業。そのまま研究者として国内有数の大学に残り、南極撮影当時には二十七歳で助教授の地位を得ていた才媛。

100万で足りるのかね」

「お金持ちですね。恵んでくださるんですか」

「こんなことはしないでくれ。頭を下げて頼むよ」

「あなたには関係がないでしょう」

「それを本気で言っているとは思えないな。君を好きになったと、二年前に告白は済ませている。忘れたのかね?」

「おことわりしたはずです」

「そう。断られて当然だ。こんな年寄りの、しかも妻子持ちの男はきみとつりあわない」

 言いながら男の目線はどんどん、真剣かつ深刻になっていく。

「でもわたしは君をまだ好きなのだ。こんなことはやめて欲しい。私の願いを叶えてくれたら、必要なだけの謝礼を支払う」

「お金が欲しいんです。でも恵んでもらうのはイヤです」

「好意を抱いている女の性が、そんな値段で大衆化されるのには耐えられない」

「でも、お金が欲しいんです」

「なんにどのくらい要るのかね?」

「できるだけたくさん。明日はヌードモデルの撮影に行く予定です」

「トップレスで五万、オールヌードで10万にしかならないよ。またそれも、四割は事務所にピンハネされる。商品としての鮮度が落ちれば、すぐに買い叩かれる」

「お詳しいんですね、キング」

「こんな業界に居ればイヤでもね。騙されて泣いた女優たちも数多く見てきた。正直、君は大衆向き商品としては歳をとりすぎている。美貌もスタイルも素晴らしいが、大量生産のマス・プロダクションのラインに乗るには、前提条件が足りないのだ」

「はっきり仰いますね」

「愛しているから本当のことを言うよ」

 男は正直な目をしていた。紅茶に落とされた角砂糖が溶けて、カップの中で崩れる。

「君はだが、文句なく美しい。だからそちら関係へ進むのなら、一対一の方向を選ぶべきだと思う。英語もフランス語も話せただろう?外国人客の多いクラブを君さえよければ紹介する。保障給は日当で二万ほどだ。指名料は別で、売上の二割ともども、丸々懐に入る。わたしは毎日通わせて貰う」

「よろしくお願いします。でも今日のお金も欲しいんです」

「いますぐ用意しよう。もって帰りたまえ」

「恵まれるのは嫌です」

「私を助けると思って受け取ってくれないかね」

 男の口調は必死で、表情には縋るような切実さがあった。

「私を困らせないでくれ。撮影は止めて欲しい」

 男がこいねがい、沈黙の時が流れる。

「……困っているのは、わたしの方です、キング」

 それは映画界で君臨する男の愛称。でも今、この場面には相応しくなかった。薄く笑ってかすかに首をかしげた女の表情に見惚れて悲しそうにさえ見える男には。

「お金は欲しいのです。でもただで恵まれるのは嫌。こんなに一生懸命繰り返しているのに、まだ意味を分かっていただけないのでしょうか」