樹海の街・2

 

 

 その店に一歩入った途端、どうせもぐりの酒場か売春宿だと思っていた警官達は戸惑い足を止めた。

 雑居ビルが地下で繋がりあう、入り組んだ繁華街の裏通り。一ブロック先を反対に曲がれば官庁街だが、おカタい区画の目と鼻の先に猥雑な、どこか頽廃的な色街が発展するのは都会のお約束だ。

「……こんばんは」

 地面は磨かれた黒大理石、壁面も殆どがそうで、二十坪ほどのさして広くもない店内に、間隔を広くとって置かれた四つのテーブルは白大理石。カウンターも同様で、その向こうには店の主人らしい美しい女が白いブラウスの袖を捲り上げて流しを使っていた。

 日頃は安酒場にしか出入りしない警官達にもその店が高級なクラブであることはすぐに理解できた。店の調度品もカウンターの背後の壁の棚に並んだ酒瓶も、そうしてその前に立つ女も、何もかもが美しく高雅な雰囲気を発していたから。

 女は黒髪、そして黒い瞳。最近流行のタイプではないが、白い肌とのコントラストが痛々しいような美貌日は男たちの目を惹きつけるには十分の迫力。

「何か、ありましたか?」

声も落ち着いて美しい。突然の闖入者にも深いな顔を見せず、女主人は流しの水を止める。今夜使う予定らしい様々なカタチのグラスが数十個、手元のトレーに洗い上げられて置かれていた。

 時刻は午後の四時。まだこの街の目覚めには間がある。

「お、お邪魔いたします」

 美貌に気おされて敬礼しながら、警官の中でリーダー角の男が敬礼した。背後の数人もそれに習う。靴の汚れを気にして彼らは、それ以上、踏み込んで来なかった。

「容疑者を追っていたのですが、この近辺で見失いました。近隣ビルで窓が開いていたのがこちらだけだったため、お邪魔させていただきました」

「容疑者?」

 美しい女の表情が不安そうに揺れる。

「このビルに入ったのですか?」

「いえ、それを確認した訳ではありません。しらみつぶしに、捜させていただいております。不審者や物音を、聞かれませんでしたでしょうか」

「いいえ」

「いつからこの店の中におられましたか」

「十分くらい前から。今夜は貸切の予定が入っているので、その準備をしに」

「ではその前に容疑者が逃げ込んだ可能性があります。捜索させていただいて構いませんか」

 容疑者、といっても刑事犯ではなく思想犯。最近この国に流行する危険思想は下層市民を中心にシンパを増やしている。繁華街にも共鳴者が多く、飛び込んできた容疑者を匿ったとしても不思議はない。

「お仕事ご苦労様です」

 言いながら、女は手を拭い酒瓶の棚を振り向き、踏み台に登って一本のブランデーを取り出す。そうしてそれを手に、カウンターを廻って男たちに便の名前を差し示した。日付はほんの三日前。名前はこのあたり一帯を統括する署の、副署長のものだった。

「……」

 男たちは息を飲み、改めて女を見る。睫毛の影が濃くて、ほっそりした肢体なのに胸と腰の曲線には不足がない。唇の肉付きが薄くて冷たく見えるのが難だが、それさえある種の男たちには嗜好を刺激する要素だろう。間近で見ても本当に美しい女だ。年齢は読めない。二十五歳といわれても実は四十と告げられても、どちらも有り得そう。

「ご贔屓いただいています。うちのオーナーとは友人です」

「失礼ですが、オーナーのお名前は?」

「フリッツ・ラング。ご存知でしょうか、映画監督の」

 全員が知っていた。その監督が撮った映画の主演女優より国際的に名前を知られている著名人。

「分かりました。ご協力、ありがとうございます。一応、我々が出ましたら開店まで、施錠されていることをお薦めします」

 官憲らしく、警官たちは権威に弱かった。出て行く彼らをドアまで見送り、パタンと閉めて、がちゃんと鍵をかけた。そして。

「もういいよ、出ておいで」

 店の奥に向かって声をかける。その声に呼ばれてカウンターの下から人影が現れた。男だ。かなり背の高い金髪の。

「……すいません」

 大きな男なのに小さな声で、俯いて女主人に謝る。

「こっちにおいで。おなかはすいていない?」

 カウンターの椅子を引き、遠慮する男を座らせてから、女主人は内側のキッチンへ戻った。

「日没まで居なさい。何か作ろうか。うちは食事を出さないからおつまみしかないんだけど」

 カウンター下の冷蔵庫から取り出されたのはチーズとサラミ。棚からクラッカーと缶詰のホワイトアスパラガス。それを切って皿にもりつけるだけ。若い男は申し訳なさそうな顔をしながらも、それに手を伸ばした。空腹だったらしい。

「もう少ししたら近所の店が開くから、そうしたら出前をとってあげる。……前も、そうしたね」

 優しい姉が母親みたいに、女主人は言ってアイルランドの黒ビール・ギネスを冷蔵庫から出してくれた。自分はドイツビールのレーベンブロイの栓を開け、静かに口をつける。

「ご迷惑おかけます」

「わたしはいいけど、あんまに危ないことはしない方がいいんじゃない。ご家族が嘆かれるよ」

 以前、この若い男は店のオーナーに連れられて来店した。アイルランド移民の俳優だと紹介されたのを女主人は覚えていた。そうして素晴らしい観察眼で、野生派の凛々しい顔立ちと裏腹の青い優しい目が印象的な二十歳そこそこの青年の耳にそっと、女主人はその時も囁いた。おなかがすいているんじゃないの、と。

 思わず頷いた若い男に、彼女は他所のスタンドから出前をとってくれた。テューリンゲン風の焼きソーセージ、長くて大きなをそれを丸パン挟んだ、ボリュームのある軽食。でも若い男の手の中では小さく見えた。ソーセージのはみだした部分でビールを飲むんだよ、と笑いながら女主人はギネスを出してくれ、紙皿いっぱいのフライドポテトともども、それは若い男にとって忘れられない味になった。

 一ヵ月後もしないうちに、国粋主義活動の余波を食らって移民二世の彼は映画界からパージ(追放)されたから、尚更。

 クラッカーを食べ終えた男に、女主人はキッチンを漁って、別の缶詰をみつけてやる。オーナーが映画撮影でロシアへ行った時に気に入ってこの店に箱ごと送り付けてきたアラスカ産のキングサーモンを自然塩で馴染ませた高級品で、値段も一缶3000を越えるが、そんなことを女主人は知らず、気にもしなかった。ただ栄養を考えたのか、ダイスカットのトマト缶を開けてそれに添える。

「キングが、あなたのこと心配していた」

「嘘でしょう、こんな下っ端、覚えてるはずないですよ」

「本当に。証拠に私が知っている。自分もユダヤ人だから、身につまされたみたい」

「まぁ、王様はなにしても特別ですからね」

 外国人排斥の嵐も、国内映画界の国際競争力を一手に担う感のある名監督の周囲だけは避けて吹いた。

「あんたあいつの愛人なの?」

 若い男は不安定だった。悪い良い方をした。

「見れば分かるでしょう」

「ドイツ人なのにユダヤ人にカラダ売ってんだ?」

「ドイツ人よりお金持ちだったから」

「美人は得だね。国が負けても外国人が買ってくれる」

「キングも国籍は、四百年前から、ドイツなんだけど」

 そうしてドイツの国庫に莫大な税金を、個人の所得税も映画の興行収益の課税も、支払い続けているのだけれど。

「前も思ったけど、あんたいい女だね」

 酔った男は、女を引き寄せた。

「……抵抗しねーの?」

「日が暮れるまでは居なさい」

「たまには若い男も食いたいんだ?あー、見た目よりふっくらだね。あんなジジィじゃ、そりゃ食いたりねぇよな」

「わたし、むかし、大学の先生していたの」

 女主人に突然告げられて、若い男はブラウスのボタンを外そうと蠢かしていた手を止める。ふっくらした隆起は高価そうなレースの下着に包まれて形良く、男の欲望をよよる感触だが、それより黒い目の優しさが強かった。

「君くらいの若い子は、みんな教え子に見える」

「やっぱインテリなんだ。俺、カレッジどころか、高校もろくに出てないけど」

「外国人も、移民の奨学生もたくさん居た。あの子たち、いまどうしてるだろう」

 黒い目が潤む。雫をこぼしはしなかったが、本気の悲しみが若い男の、荒れた気持ちにも響いた。

「……まあ、ろくなことには、なってないんじゃない?センセェしてたあんたがこんな事になってんだから」

「そう、だね」

 

 日が暮れて。

「奥のロッカーに手提げ金庫がある」

「いいよ。それより、腹減ったら、また来ていい?」

「……だめ……」