樹海の街・3

 

 

 ぺこりとお辞儀をする若い男に、高名な映画監督は笑った。しかしその笑みはまだ用心深いもので、視線を女主人に向け、説明を求める。

「街で拾いました」

 背が高くて金髪の、まだ若い男。もと水泳選手で、鍛え上げた体躯は映画俳優としても有利な条件だった。デビューではちょい役だったがなかなか好演をして、次回出演作では助演男優とまではいかなくとももう少しまともな台詞と役回りをもらえる筈だったけれど。

「居てもらっていいでしょう」

 平日の午後六時。開店したばかりの店内にはまだ、他の客は居ない。海外ロケから帰ってまっすぐ顔を出した男は土産に高価な翡翠のネックレスを持って来た。 

「従業員としてかね?それとも君の恋人として?」

「前者で。わたしよりお酒に詳しいから」

「君と四六時中、一緒に居られるのか。羨ましいことだ。嫉妬してしまいそうだよ」

「こんな若くてハンサムな子が、わたしみたいなおばちゃんを相手にする訳がないでしょう」

「それはどうかな。……どうかね?」

 視線を真っ直ぐ向けられる。顔つきは温和だが目は笑っていない。

「……マダムは大変、魅力的な女性ですが」

 オーナーの囲っている女をババァだと罵るバーテン志願は居ない。

「今の俺には、職にありつける方がもっと魅力です」

 答える若い男に、高名な映画監督は表情を曇らせる。

「街で、おなかをすかせて、ふらふらしているのを見かけて拾いました。飼っていいでしょう?」

「君がわたしを捨てないと約束してくれるなら」

 いいよ、と、折れた映画監督に若い男は驚きを隠せない。この高名な、業界ではキングとさえ呼ばれる映画監督は物腰の柔らかさとは裏腹に、自身の意思を決して曲げない気質だったのに。

「あなたが何を言っているのか分からない」

「君がその男を、愛していないという証明が欲しい」

「どうすればいいんですか」

「わたしにキスをしてくれないかね。その男の前で」

「……」

 ごく無造作に、つまらなそうに女主人はカウンターから出てオーナーの前に立った。軽く屈んで、止まり木に腰掛けた男が振り向くのを待ってから唇を重ねる。のを、カウンターの中から、若い男はぼんやりと眺めていた。

 キングと呼ばれる男の腕があがり、女の背中を抱いてうっとり、目を閉じる。

「君の『お願い』は随分と久しぶりだ」

「……」

「嬉しいよ」

「……そう」

「今夜。いいかね」

「どうぞ」

「手土産のリクエストは?」

「べつに……」

 浮かれて嬉しそうな男に抱き締められながら、女主人は無感動に答える。そんな態度に腹を立てた様子もなく、男は今度は自分から女に軽くキスをして、そして。

「よかった。君にまだ愛情が残っていて。子供たちが居なくなって以来、君は何もかもつまらなそうで、心配していた」

「……」

「その男のことは君の裁量に任せよう。だが、私が嫉妬するほど仲良くはしないでくれ」

「分かりました」

 男は頷き、立ち上がって出て行く。若い男は先回りしてドアを押した。頷き、キングはポケットから、チップ用に小さく折りたたんで持ち歩いている現金を慣れた仕草で渡しながら。

「遅くなったが、無事でよかった。彼女をよろしく。助けてやってくれ」

 若い男に笑いかける。嘘をついているようには見えなかった。映画俳優になりかけて追放されたハンサムな金髪の男はぺこり、頭を下げる。

 通りまでオーナーを見送って、そこで待っていた運転手つきの車に乗り込むのを確認してから、若い男は店内へ戻る。女主人はグラスをキュッキュッと音をたてて磨いているところ。

「俺がしますよ」

「いいよ。それより、キープを整理して」

「はい」

 長身を生かして踏み台を使わないで、高い場所に並べてあるボトルを男はアルファベット順に並べ直す。来店客に素早く対応することが出来るようにはなるが、客たちは内心でがっかりするかもしれない。この店の女主人は露出が多い服装をしないから、踏み台に登り一生懸命、キープのボトルを探すうなじは数少ない、白い肌を観賞する好機だったのに。

「びっくりしました」

「なにが」

 黒神の美女はオーナーへは無口だったが、若い男には気軽く声を出す。

「イロイロ、たくさん。あのキングが、あんなに下手に出るの初めて見ました」

 映画界では王者のようなのに。

「俳優やスタッフがちやほやし過ぎるから、女にくらい、自分がそうしてみたいんだろう」

「あんた子供居たの。あいつの子?」

「拾った兄弟を育ててた。居なくなったけど」

「病気?事故かなんか?」

「家出」

「へぇ……。なんで?」

「知らない」

 棚のボトルを探すふりをして、若い男が盗み見た表情には、消しきれない寂しさが漂う。

「あいつあんたの家に来る訳?今夜エッチすんの?」

「多分。頼みをきいてくれた後は、そういうことを、することになってるから」

「……え?」

 若い男は、今度は本格的に振り向く。

「あんたあいつの愛人なんでしょ?業界じゃ有名だよあんたは。入れ食いで大股ひらいてる女優に手ぇ出したことないキングが惚れ込んで、こんな店まで任されて愛人ってったって殆ど公認でさ、相当大事にされてるのにさ。契約じゃなくって丸抱えだろ?普通セックス、男のしたい時にしたいだけ、じゃないの?」

「よく分からないな。そういう決まり事には詳しくない」

「ない、って……。なぁじゃあ、前にしたのいつ?」

「子供たちに戸籍を買ってくれた時だから……、半年くらい前」

「……ウソだろ……?」

 呆れられても無表情な女が、嘘をついているようには見えなかった。