『斑』予告編・その四

 

 

 

 

   暗い地下牢の空気は淀み、黴の匂いがする。
 囚人は尋問を受けて、それには当然、暴力が伴った。片頬が腫れて顔が歪んで見えるほど手酷く。黒幕や後援者を吐かせようとしたが強情に口を割らず、看守も長期戦にきりかえるつもりで一旦は引き揚げた、夜半。
 立ち上がれないよう膝まで念入りに縛られ汚れた床に転がっている男の表情は、そんな状況には不似合いなほど、穏やか。
「……ずいぶん酷くやられたな」
牢に足音が近づき、そんな声が聞こえてくるまでは。
「あんたが、他所に行って、見つからなかったからだぜ」
 誰かに何かを告げている、偉そうな男の声には覚えがある。金色の国家錬金術師。でも足音は違っていた。昔の、左右で違う機械鎧の響きではなく、左右ともに等しいリズムで歩いている。
「見える?」
「ジャン」
「俺の前で男を名前で呼ぶなよ」
 びくっ、と男が暗闇の中で、目を開けたのはもう一人の声に弾かれて。落ち着いた口調の声を、知っていたけれど、まさか。
「生きていたか、よかった。随分捜して、心配していたよ」
「聞き捨てならねぇな。探してたって、どーやって」
「会いたかった。会えて、よかった」
 入り口の柵が開けられる。細いシルエットしか見えない相手が近づき、気配で見当をつけて手を伸ばしてくる。背中に指先が触れた。それから肩を辿って、頭へ。
「痛むか、かわいそうに」
 声は人生をくれてやった性悪な上官のものだ。性悪だけど優しくて、もう何年も一緒に暮らしてきた。同棲と言うには変則的な暮らしはでも、今にして思えば、幸福に満ちていた。
「もう会えないのかと思った。お前のフレンチトーストがもう食べられないのと思うと悲しかった」
 髪をなでられて、添い寝するように、相手が身体を寄せてくれる。冷たい床の上で冷えきっていた全身が温められて、なんども唾を飲み込んで、囚人は。
「……、ろい……?」
 疑問符がついたのには理由がある。
 触れてくる身体は暖かく、そして柔らかくて。
 やわらか、過ぎて。
「そうだ」
「……生きて……?」
「恥かしげもなく、な」
 自虐的な言葉にも暗さはなく、自身を笑いながらもしたたかに今を認めている、そんな気配がした。
「リザも生きてる。そばに居てくれている」
「……よか……ッ」
「めでたしめでたしは、早いぜ」
 硬い声が二人を圧するように響き、手にしたランプの火を牢内の燭台に移した。大きな蝋燭の光の輪がぼんやり、その場の人間達を照らし出す。
 黒ずくめの戦闘服のまま、顔だけ剥かれて床に転がった囚人。
 ジーンズにタンクトップに長袖のシャツを羽織って、囚人の横に寄り添う、黒髪の女。
 燭台のそばに立って二人を、鋭い視線で見下ろしている金髪の権力者。
「分かっているよ。どうすればいい?」
 恐れ気もなく女は権力者に尋ねる。女の横顔を囚人は、まじまじと見詰めた。切れ長の目も形が良すぎて冷たく感じる唇も、確かに知っていて、長い時間を一緒に過ごしてきて、何度も抱いて触ってきた相手そのもの、だ。……けれど。
「いーオンナだろう?」
 囚人の驚愕を嘲るように権力者が声を高める。声とは裏腹に瞳は暗く沈んで、背中を温めるように囚人に寄り添って、汚れた埃と黴だらけの石床に、無造作に横たわる女の腕を掴む。
「俺がつくったんだぜ。胸の形も格好いいんだ。こっちも」
 強引に引き起こし、片手で胸をタンクトップの上からぎゅっと押さえ、もう片方はジーンズの股間を撫でるように。
「すっげぇビンカンでカワイーの。……見せてやんねーけどな」
 両手でぎゅっと掴まれて、女は一瞬暴れかけたが、すぐに大人しくなった。
「なんと引き換えでわたしに売る?」
 顎を上げて、背後の男を振り向きながら尋ねる。女の頬も髪も艶やかで、健康な生活を送っているのが分かる。対照的に金髪の権力者は、女よりずっと歳は若いのに肌があれて、憔悴して見える。
顔色が黒ずんで見えるのは、蝋燭の焔がゆれたせいではなさそう。
「もっともわたしは何も持っていない。カラダと命の所有権も君にあるんだから。それでも欲しいものがあるなら教えてくれ。ジャンを私に売る気があるから、ここに連れてきたんだろう?」
「……俺の前で男のファースト・ネーム呼ぶな」
「ハボックを」
「何処行ってたんだよ昼間。答えろ」
「皇太子殿下の客殿」
「……、だろーと、思ったぜ……」  男の声が震えて掠れる。激昂と興奮を押し殺している声。
「腹減ってんだ」
 正直すぎる告白。
「あんたに何日も、逃げ回られて、腹が減ってんだよ」
「満腹するまで好きにすればいいだろう」
「……言い方、ツメタイ……」
「それでハボックを逃がしてくれるか?足りないか?」
「そんなにタスケてやりたいの……?アイシテル?」
「可愛いんだ」
 正直さでは女も負けていない。
「リザもそうだが、こいつも可愛い。そばに居てくれないと毎日がつまらなくて、何をする力も出てこない」
「そばになんか、居らせてたまるかよ」
「助けてくれ。なんでもする」
「あの女より高いよ?」
「分かってる」
「なんせ、シンの皇太子の命を狙って進駐軍本部にアタックかけてきた命知らずだ。もと大総統府の奥まで入って来られて、俺の面子は丸つぶれ、覆面ひん剥いてみりゃ知った顔だった。まぁ、おくまで入ってこれるはずだよな。あんたと一緒に、ここに何ヶ月も住んでりゃ」
「接収後、通路と出入り口のライン変更をしていなかったのは君の落ち度だ。残存勢力の襲撃は予想できただろう」
「あんたが随分、無傷で逃がしたからね。降服が早かった」
 市街地は無傷、将兵も多くは一般人に紛れ、或いは武装解除に応じて生き延びた。この囚人のように地下に潜り、抵抗活動を継続している者も少なくない。