焔の諸国漫遊記・8

 

 

 バチアタリな黒髪の色男はその朝、幸福な温かさの中で目覚めた。

 北国のホテルは建物の作り自体が寒さを防いでいて、暖房を切って眠ったのに部屋はふんわり暖かい。120平米、ドアからベッドまではリビングを越えて23歩、あるかなければならない広い室内の、三面は窓で、石狩川の景色がよく見える。

 スペシャル・スイートルームの寝室には、クイーンサイズのベッドが二つ入っている。二つのベッドは隙間なく並べられたいわゆるワシントンスタイル。幅3メートルを余裕で越し、長さは二メートルを優に超えるベッド面に、すぴすぴと、いい歳をした大人たちが並んで眠っていた。

 それぞれに思い思いの格好で。

 黒髪の主人はホテル備え付けのパジャマに着替えたが、右隣で眠る金髪の男は靴下を脱ぎスラックスの前を緩めただけの長袖Tシャツ姿。同じく金髪の女はタンクトップにショートパンツ姿。うつ伏せに無心に眠る美女の肩が毛布からはみ出して、ピンクのブラのストラップが見えている。その景色に目尻を和ませながら、黒髪の主人は女の肩に毛布を引き揚げてやった。

 そうして室内を見回す。もう一人が、居ない。

 二人を起こさないように、といっても左右で眠っているのでどうしても、男の頭をまたがずにはベッドから脱出できなかったが、主人は寝室から出て、居間へ。そこには金髪金目の、輝くような絶世の美形が。

「もう行くのかね?」

 部屋を出ようと、していたところだった。

 声をかけると、嫌なところ見つかったな、という表情で、それでも振り向いた。

「……おはよ」

 二十歳の肌はツヤツヤと朝の光の中で輝き、金色の目は若盛りの強さを宿している。ドアノブを掴んだ指先から踏み出しかけた右足まで、どこもかしこも、食べたいくらい可愛くて、そして。

「うん」

 自分を見て眩しそうに瞬き目をそらす、そんな正直な仕種が相手にどう見えるか、まだ自覚のない初心さがたまらない。美味しそうだなぁという感慨で自分が眺められていることに気付いても居ない無防備な横顔はつい、苛めたくなるようないじらしさだった。

 昨日は、ススキノで食べて飲んで、日付が変わる頃にホテルへ帰って来た。そこでまた飲みなおし、ワインの瓶を何本も転がして、そのまま全員、同じベッドに入って眠った。俺は帰ると暴れる若者を、黒髪の美形が押さえ込んで無理矢理添い寝させた。さらにその左右に部下二人が眠って、毛布は違うが、同じ寝床の中で。

 もちろんセクスレスだったが、それは大して重要ではない。

一晩、同じ夢を見た。

「今日は昼から小樽へ行くよ。一緒に行かないか」

「あんたほどいいご身分じゃないから」

「苦労をかけているね」

「そう思うなら早く帰って来いよ」

「なるべくそうするよ」

「信じてないけど待ってる」

 じゃあねと青年は言って出て行こうとする。背中を性悪の物師は追って、抱きしめた。

「……ッ」

 ぞわり、青年の全身が竦み上がって、戦慄に総毛だったのが、抱いた腕から伝わってきて。

「君を大好きだよ」

 セックスは出来ないけど。

 言わなくてもいい後半は省略した。言わなくても分かっているだろうから。

「息子のように、思ってる」

 優しい言葉は少しもウソではなく。いらねぇよ、と言いかけた青年の唇が途中で止まる。いつまでも強張らせているわけにもいかなくて、美形はぎゅっと力を篭めてから、抱きしめた腕を解く。

「困ったらいでも呼びなさい。すぐに助けに行く」

 腕を解かれて、青年は振り向き顔を上げた。何かを言おうとしたが、なにも言えないで出て行く。

「……その手で何人、泣かせてきたの?」

 部屋のエントランスへ通じるドアがバタンと閉まるなり、寝室から声がして。

「少なくも二人カクジツっスよ。ここに居ますから」

「新しい子を口説いてわたしたちのこと棄てるつもり?」

「一生の苦楽をともにするよ」

 黒髪の主人はリビングの机の上に置かれた案内を手に取り、応接セットのソファに腰掛けて朝食メニューを眺める。

「いつかわたしの容色が衰えて君たちが違う相手と結婚したとしても、配偶者と子供ごと私のものだ」

 朝食はロビーに隣接するメインダイニングでのブッフェも選べる。しかし今日はルームサービスを頼むつもりらしい。

「一生そばから離さない。覚悟はしているだろう」

「……ワガママ」

「ヘンタイ」

「イロアク」

「変質者―」

「なんと言っても構わないが自分たちの首も締めているぞ」

 そんな男を、愛しているのだから。

「わたし時々、お星様に聞くの。どうしてこんな悪い男を好きになったのか」

「悪さが響きあったからだろう?」

 流し目で二人を見た性悪は、ちょいちょいと指先で自分の左右に招く。

「昼食は鮭屋だったか」

「佐藤水産のサーモン・ファクトリーっスよ」

「混雑するそうですから、11時にホテルを出ましょう」

「なら朝食は簡単に済ませておくべきだな。うーむ、しかし、腹が減っている」

「俺もです。飲んだ次の朝って、ミョーに腹が減りますよね」

「アルコールを分解することに、身体がエネルギーを消費しているのかもしれんな」

「わたし、パンよりごはんが食べたいわ」

「でも昼には、海鮮丼食べたいですよ、俺」

 時刻は午前7時。朝食のメニューを眺めながら、三人は額を寄せ合い、深刻な表情。

「スペシャル・メニューの洋食が美味そうだな。サンドイッチ(スモークトサーモン/ポテトサラダ/ロースハム /野菜)・スコーン(純度100%のクロデットクリームもご用意)・チーズ(サンタンドレ/ブレスブルー/カマンベール/ダンスロットパイン/ペッパースモーク)・季節のデザート・コーヒー/紅茶/ハーブティー、か」

 朝食のくせして3800円、という但し書きがついている。が、そんなことを機にする一行ではなかった。

「和食の、愛媛産 真鯛のたたき/泉州 泉佐野産 水茄子/北海道産 本紅鮭/明石産 明太子/奈良県吉野で作った黒豆豆腐/飛騨高山産 ほうれん草/岡山産 ママカリの酢漬け/丹波産 黒豆の納豆/三陸沖で取れたいくらのしょうゆ漬/紀州田辺産 しらす干し 大根おろしを添えて/岸和田産 小松菜/魚沼産 こしひかり/麦味噌のお味噌汁、もいいですねー」

「鮭屋は夕食にするか」

「昨夜喰い損ねたラーメンはパスでいいんですか?」

「……うぅーむ」

 彼らは本当に真剣に悩み、そして苦悩で、ますます腹を減らす。

 

 

その頃、階下の和食レストランでは。

「ごはん、大盛りの山盛りでください」

 健啖家の青年がホッケの開きと味噌汁に卵焼き、イクラに野菜の煮付け、しらすを添えたザル豆腐の朝定食を、ばくばくと食べて、いた。