焔の無諸国漫遊記・9
朝食の後で、黒紙の偉い男はもう一度、寝室へ引っ込んだ。たぶん枕に顔を埋めて泣き噎せんでいたのだろう。金髪の若い男は憐れな上官をそっとしておいてやった。
朝食を結局、男二人は和食・女は洋食を頼んだ。ワゴンで運ばれて来たそれをリビングに置いてもらい、仲良く食べ始めたまではよかったのだが。
「うーむ、美味い。ハボック、冷蔵庫にワインがあっただろう」
出してくれ、と黒髪の上官が言って、へいへいと、若い男がそれわ取り出す。朝から、マダイのタタキとしらすつきの大根おろしを肴にイッパイ、ひっかけて上機嫌な上官の食卓から、
「……」
しらっとした顔で、金髪の美女が。
「……ぁ……」
残ったトーストの上に、いくらの醤油漬けをさらって、カナッペのようにして。
「あぁ、とても美味しいわ」
むしゃむしゃ、笑顔とともに食べていく。
「……」
好物は後に残す性質の上官は、涙を浮かべて女に無言の抗議をした。しかし。
「わたしのばーじん、召し上がったでしょ」
反論されてぐぅの音も出ない、ところを見ると、それは事実らしい。愛しい恋人の悲嘆に、男は出来れば自分のを進呈したかったが、しかし、好物を最初に食べる金髪の男の手元に残っていたのは、水なすの漬物とごはんだけだ。
「……」
「お先に失礼。お散歩してきます」
本当に晴れ晴れとした顔で女は部屋を出て行き、上官は寝室に引っ込み、男は旅行の荷物を片付けたりレンタカーの延長手続きをしたりフロントに地図を頼んだり、細々とした雑用を果たしていた。
泣くのに飽きたらしい上官が寝室から出て来たのは午前十時過ぎ。今日は札幌から小樽に足を伸ばす予定で、昼前に出発することは覚えていたらしい。パジャマを脱いで、クリーニングからあがってきたシャツとスラックスに着替え、そして。
「コーヒーを飲んでくる」
ホテルの最上階には二部屋続きのスイートルームばかりが並び、その中央には景色のいいカクテルラウンジがある。ラウンジでは夜のカクテルの他に軽食やアイスが楽しめる。
「それから温泉に行く。お前も来ないか」
「フロントから地図が届くんで、そしたらすぐ行きます」
「うん」
上官は新聞片手に部屋を出て行く。ほぼ入れ替わりに全道地図が届けられて、男は本日のルートをざっと確認した。レンタカーにナビはついているが軍人としての習慣で、地形や方角はアタマに入れてからハンドルを握ることにしている。
ホテルに付属した温泉施設にはタオルその他の用意があるので、てぶらで部屋のカードキーだけ持って、金髪の男はラウンジへ。上司はガラス張りの上席のソファに深々と腰掛け、新聞を放り出し外を眺めている。ひどく上機嫌だ。
「なに見てンすか?」
隣に座り、自分もコーヒーを頼んで、灰皿の用意があるのを確認してから男は煙草に火を点けた。
上官が眼下に広がる荒戸川の、ぐっと蛇行した場所を指差す。そこは広場になっていて、休日を愉しむ人々が集っている。その中に二十人ほどの集団が規律よく動いている。体操、にしてはてきぱきとした動きは。
「中国武術ですね。あの腰の据わりは、多分」
「そうだな」
「……、あ……」
「なぁ。目立つなぁ」
「はい」
その集団の後方に一人、素晴らしくきびきびと動いている女が居る。どちらかというと小柄だがカラダの切れが見事で、バネの素晴らしさを感じさせる。
「いい女だ」
感嘆する上司。目を細めて嬉しそうに眺めている。それ嫉妬を感じた若い男は、
「俺も仲間に入れてもらってきます」
負けるものか、という表情で立ち上がりかけたが、手をつかまれて、隣のソファに戻る。
「お前の肉体美は間近で観賞させてもらうさ」
小声で囁かれる言葉に、
「……、えへ……」
若い男の目元はだらしなく崩れた。
煙草を揉み消し、運ばれて来たコーヒーに口をつける。やがて彼らは、別棟の温泉へ向かった。
天気はいいが、さすがに北海道。気温は低くて、露天風呂には、向いた気候だった。
「いー気持ちですねぇー!」
日曜日の朝、清掃が終わった直後とあって、温泉には人気がない。貸切状態の露天の岩風呂で、若い男は上機嫌。黒髪の上官も岩に背中をもたれさせて、気持ち良さそうに空を仰いだ。
と。
逆向きになった視界の、真ん中に。
「あら、こっちの方が広いのね」
髪をタオルで包んだ女の顔が、仕切りの板塀ごしに見える。
「きゃー!」
男湯を覗かれて、悲鳴を上げてわたわた、立ち上がりタオルで前を隠したのは金髪の男だけだった。
「そちらは狭いのかな?」
黒髪の上官は落ち着いた容子で笑った。
「狭いというか、樽風呂なの。わたし、岩風呂の方が好きです」
男湯より高い位置に、樽の露天風呂は設置されているらしい。湯船の端に足をかけて板塀を覗き込んでいる。男湯から女湯は覗けないようになっている、構造としては正しいが、キャーキャーと悲鳴を上げ続ける若い男には災難なことだった。
「こちらに来るかね?他に客は居ないよ」
「お邪魔じゃないかしら」
「誰かが入ってたたら、私が踏み台になってあげるから戻ればいい」
「本当?いいの?」
「おいで」
黒髪の上官は岩風呂の中から立ち上がった。近くに置いていたタオルを腰に巻いて、女が板塀を乗り越えてくるのを手伝う。バスタオルを腋に巻いていた女はひらりと、身軽な動作で塀を乗り越え、男の腕の中から岩風呂の、濡れた閃緑岩の上に降り立つ。
「えー、うそ、ちょ、誰か入ってきたらどーするんですかーッ」
わたわた、半泣きの若い男に、二人は二人して。
「逆ならともなく、女性をこちらへお迎えするくらい大した罪にはなるまい」
「ゴメンあそばせ、って謝って戻るわ心配しないで。あぁ、いいキモチ」
北国の青空を、愉しむ。