いつも、君を待ってた

   昔、むかし。俺がまだ無邪気なガキで、好きなのはお父さんとお母さん、大好きなのはアニキとか言っていた頃。
 俺はずっとあの人を待ってた。
 幼稚園から帰って、小学校から帰って、それからアニキが帰ってくるのを待ってた。
 アニキはいつも俺より遅かった。歳が二つ上なんだから当たり前のこと。家に帰っても、そこは本当の『家』じゃない。アニキが帰って来てようやく、俺は『家』にたどり着く。
 いつも、そんなだった。
 変わったのは中二、くらいの時。俺がいわゆる不良になって、終業時刻と帰宅時間の間の何時間かに、ダチと連れ立って悪さするようになってから。
 アニキに殆ど反抗期がなかったから、親父もお袋も俺をどう扱ったらいいか分からず、結局は沈黙した。ウザイ寝言をきかされない分、他所よりマシな親だったと思う。アニキも俺に何も言わなかった。ただ、俺をリビングで待つようになった。
 昔、俺が少しでも早くアニキに会いたくて、玄関でおやつのプリンを二つ、並べて待っていたみたいに。リビングを夏は涼しく、冬は暖かくして。俺が中学生になってから、家政婦は昼前から夕方までのパートに切り替わってた。俺が帰る時間、夜の十時とか十一時とかには大抵、誰も居ない。親父やお袋は夜勤でなければ午後九時には寝る。ハードな仕事はそうしていないと耐えられないらしい。代わりにアニキが何時までも、一階のリビングに明りを点けていた。
 大抵は勉強、時々はTVやビデオを見て。ノートパソコンを買ってからはそれを打ってることも多かった。帰って来ても、特に会話はない。
 「ただいま」
 俺が先にそう言って、
 「お帰り」
 彼が答える。無口な彼と反抗期の俺との間にそれ以上、活発な会話が交わされる筈がなくて、いつも、そこで止まる。でもその短い会話だけが俺を家族に、家に繋いでいた。喧嘩の怪我も酔っ払ったのも見られた。田舎の中学生らしい可愛い無茶。それ以上のことをしなかったのは多分、リビングで待っている人からの圧力。盗んだバイクでダチが爆走する時も、俺は適当で切り上げて家に帰った。
 その都度、ハメられてると思ったものだ。ただ待つことであの人は、殴るより縛るより確実な圧迫を俺に与えた。俺が彼を……、好き、だったから。
 それこそガキの頃から。
 俺のアニキはとびっきりの上物。何をさせても上手で格好良くて、時々ぽこんと、どっかとぼけてた。何よりも彼の容姿が俺のお気に入り。たまに寂しく見えるほど涼しい。文句なく、高崎一の男前だった。あんなアニキが居て鬱陶しくないのかとダチに尋ねられる都度、全然そんなことはないと答える。ブラコンのなんのと散々言われたが、ホントはそんなモンじゃない。
 俺がアニキにもってる気持ちは、信頼。恥ずい言葉だが他に言いようがない。俺の事あんなに分かってくれる人は居ない。生まれた時からずっと近くに居た。夜の街が面白くなんかないことも、喧嘩に強いからって近づいてくるダチのつまんなさも、ツラとカラダだけを見て股を開く女も、俺は本当は何一つ、欲しくはなかった。
 なにが欲しいのか何に価値があるのか、分からないまま俺が飢えてることを、彼だけは知ってくれていると思った。どうしたいのか自分でも、分からないままただ、自分に出来る事をだけ繰り返す。喧嘩、ダチとつるんで、女とのセックス。それだけだった、俺に出来るのは。手下や取り巻きつれてイキがるほど馬鹿でもなく、馬鹿な女に入れ込むほどの情熱もないまま。
 ただ、たった一つだけ俺に救いが、あったとすればこの人。中学の卒業式の夜。定石どおりに酔って帰った俺を、いつものように彼は待っていてくれた。
 「おかえり」
 いつもの言葉だった。字を読むときにだけ時々かける眼鏡で、彼は新書本を読んでた。難しいタイトルだったことだけ、覚えてる。ただいまと、俺は返事をしなかった。ソファーの彼に近づき抱き締めた。……何故かは、分からない。
 彼は黙って抱かれてくれた。本を放って、そっと抱き返してくれた。二人で黙ってどれくらい、抱き合っていただろう。
 「お前、何が……」
 耐えかねたように彼は口を開き、俺は言葉を拒んで頭を振る。それきり彼は言葉をとぎらせた。
 尋ねないでくれ。俺が欲しいものなんて。
 どうして俺がこんなに……、寂しいのか、なんて。
 俺にも分からないから。
 恵まれた環境に生まれた。それは確かだ。断言できる。家は金持ちだし、両親は仕事中毒だが基本的な路線ではリベラルで誠実。それでも俺はひどい気持ちなんだ。どうしてか、なんて俺にも、分からない。
 親のコネと寄付とで入った工業高校でも、俺の素行は改まらなかった。悪い仲間が沢山居るのと、自由がきくようになったのでむしろ悪化した。
 それでも彼は俺を待ち続けた。群馬大学の医学部を受験して、京大も合格っていたけど、地元の方に進んだ。そっちを選んでくれたとき、誰よりもほっとしたのは俺だったと思う。彼が居なくなったら自分がどうなるか、俺には分かってた。箍が外れて滅茶苦茶になる。
 彼は俺の、規律で良心で誠意。酔ったふりして時々だきしめる背中だけ、俺が安心できる場所。
 「動けなくなるほど飲むな」
 呆れながら、それでも引き摺るように、俺を自室に連れてってくれる彼。俺の部屋じゃなかったのは、そっちだとベッドまでの障害物が多すぎるから。寝かされて服を楽にされて、シーツや枕の、匂いというほどでもない彼の、気配を感じながら目を閉じるのが好きだった。……要するに、ガキなんだと、自分では思ってた。
 おかしな話だが、俺にとって彼は母親の要素が強い。歳の違いはたった二つなのに、俺は彼の膝の上で育ったような、気がしてる。
 平仮名教えてくれたり小学校に手を引いて連れて行ってもらったり、ある程度の年齢になってからは彼が朝の支度をして二人でメシを食うことが多かった。母親が多忙で手が回らない分、しっかり者の長男が次男坊の世話をしていた。そういうことなんだろう。
 俺に明りが当たらないように調節して、キーボードを叩く人だけが俺の、家族、家庭、なくせない縄張り。他とは違うあんただけ、比較さえ出来ない絶対の価値。
 その気持ちに俺はまだ、名前をつけれていなかった。
 あの人が脱衣所に脱ぎ捨てたシャツがどうしても気になって、我ながらヘンだと思いながら抱き締めて嗅いだ。懐かしい、いとおしい匂いだった。それでもまだ、俺は自覚していなかった。
 放置されて餓死した子供の事件報道なんかで、よくあるじゃないか。寂しがった飢えた子供が、母親の気配を探して、母親の衣服にすがりついて死んでたって言うような、報道。
 あれと一緒と、思っていたんだ自分では。
 ……あの時、までは。
 
 高校二年の春。いつものように、俺は午前二時過ぎて家に戻った。角を曲がった時から違和感はあった。なんだか屋敷が、暗かった。
 案の定、リビングに明りはなく、人の気配もなかった。
 「……アニキ?」
 居る筈の人を探す。眠ってしまったのか。
 そんなことは前にもあった。でも大抵はリビングで、明りをつけたまま眠っていた。ソファーにごろって、俺を待ったままで。
 そういう時は嬉しかった。アニキが目覚めるまで抱き締めていられたから。
 なのに今、リビングは暗くて冷たい。二階へ上がってアニキの部屋を開ける。電気をつけるまでもなく人が居ないのは分かった。
 呼吸の気配がない。体温の温かみも。冷たくしんとした空気だけそこにある。この家全体に満ちてる。外泊なんかしたことのない人だった。どうしたんだろう、病気か、事故か。書置きを捜したけれど見当たらない。俺は両親の病院に電話をした。初めてだった。
 『……、啓介か。どうした』
 父親は眠そうな声で、それでも誠実に答えてくれた。
 『何かあったのか』
 「アニキが居ないんだ」
 俺の言葉を父親は暫く反芻していたが、
 『たまにはそんなことも、あるだろう』
 涼介にも彼女くらいはいるだろうしと、気軽な一言。
 こん畜生、だからイヤになる。こいつは何も分かっちゃいねぇ。
 『事故の知らせは入っていないし、大学生の、しかも男が一晩くらい、帰ってこないからといってなんという事はな……』
 太平楽な電話を切ってリビングに、俺は座り込む。
 何処に行った、何をしてる。帰って来れないのか?
 捜しに行きたい誘惑を振り切る。彼の行動範囲を俺は把握していない。大学に入って車を手に入れてからは尚更。
 それに、帰れないのがさらわれたからなら絶対、家に連絡がはいるから。
 不良仲間同士の拉致や監禁は俺には日常茶飯事で、アニキがカタつけに来てくれたのも二度や三度じゃない。もしそうならば今度は俺が、アニキを絶対、助けに行こうと思った。
 まんじりともしないで迎えた夜明け。聞きなれたエンジン音。飛び出していくと玄関の、ガレージに直接続くドアの前で、ばったり少し眠そうなアニキに会う。
 「アニキッ」
 無事だったのか、良かった。そんな風に盛り上がる俺を尻目に、
 「なんだ啓介。お前も今だったのか?」
 父親とよく似た平和な口調で言って、アニキは笑う。
 「少しでも寝ろよ。今日は学校だろう?」
 「あんたこんな時間までなにしてたんだよ」
 「……?」
 俺の苛つきの理由がわからないらしく彼は小首を傾げたが、
 「車で走ってた」
 なんでもないことのように答える。
 「こんな時間まで?」
 「夜の方が交通量が少なくて、走りやすいから」
 「オンナの処に行っていたんじゃねぇのか」
 「冗談。俺はお前と違うぜ。史浩も一緒だった」
 幼馴染の名前を出され、咄嗟に俺の胸を過ぎった感情は……、嫉妬。
 激情のまま、彼の体を、抱き締める。
 「……おい?」
 困ったような声で彼が、俺を咎める。
 「俺より遅く、帰ってくるな」
 唇から零れ落ちる言葉は、俺自身さえ気づいていなかった、俺の告白。
 「先に帰って明りをつけて、ちゃんと俺を、待ってろ」
 「そんなのは結婚してから、女房に言えよ」
 あくまでも彼の口調は軽い。
 「ガキじゃあるまいし。まさか寂しかったのか?」
 「……」
 寂しい。確かに、それもある。それだけじゃないけど。
 「まぁ、でも悪かった。心配させちまったみたいだな。今度から、ちゃんと言っていくよ」
 「行くな」
 「ん?」
 「何処にも、行くな」
 俺を置いては、何処にも。
 「よしよし。分かったから、お休み」
 酔っているとでも思ったのか、宥めるように言った彼はそのまま、俺のわきをすり抜けて奥へ入ろうとする。腕を伸ばして今度は背後から抱き締めた。
 ……明確な意図を持って。
 「啓……ッ」
 さすがに彼も驚いた。腕を胸の前で交差させて左右の掌で掴む。オンナだったら、乳房に当たる位置を。彼のふくらみのない胸も、触れると乳首の位置はわかった。
 背中を抱き締めたことはあったけどこんな風に、胸に触れたのは初めてだった。
 ……キモチ、イイ。
 眩暈がしそうなほど。
 「好き」
 告白を補完するために唇を寄せていく。
 「好き、だよ」
 ようやく彼は反応した。俺を突き飛ばした。
 大人しく突き飛ばされて、でも、俺は彼を、じっと見据えた。
 咎める視線に真正面から向き合う。咎められる筋合いはなかった。俺の気持ちを募らせたのはあんただ。優しく待ってくれていた夜事に、俺の慕情は少しずつ重なって、今、最後のボーダーを越えた。
 「風呂に入って、頭冷やして来い」
 指図に肩を竦めて従う。彼の前を通るとき、彼がかすかに強張ったのがおかしかった。
 あんたを貰うぜ。手に入れる。
 自覚した衝動は、股間から脊椎を通って脳みその頂点まで、バリバリ火花を撒き散らし感電するほどの、欲情。