免疫力

 

 

 高橋涼介。

 という名前の青年は、二年前に国家試験に合格し、以来、医師として病院勤務を続けていた。

 仕事はなんでも、愉しいけれど辛い。最初のうちは特に。医者の場合はそれに加えて、超過勤務・不規則勤務・深夜勤務という三重苦を背負っている。その上、、裁量労働制度の指定する高度に専門的な知識を必要とする職業に認定されているせいで、労働基準法の保護もない。

 よく過労死しないもんだなとレーサーとしてデビューした弟が帰宅したときに言われて、時々する奴も居るぞと答えた。過労死も過労自殺もある。そんで、ナンで問題にならねぇんだと詰め寄られ、生き残った医者が医局をキリモリしているからと、答えた。

 そして、今日。

 高橋涼介は、休日勤務、だった。

 それも本来の勤務先ではない、健康診断センターに、片道二時間もかけて呼び出された、理由はそのセンター長が祖父の弟だからという、アホらしい代物。しかも、若すぎる彼には問診も読影も任されず、PCで自動判定された診断結果に、矛盾がないかどうか、マニュアルに従って目を通すだけという馬鹿馬鹿しさ。

 こんなのは事務員にさせろと心の中で思いつつ、理性は経過表担当医師の蘭に、自分の名前が必要なのだと理解している。黙々と赤鉛筆を握ってチェックを続ける彼の横顔は真摯で、医者としての彼の見事な適性があらわされている。彼の最大の適性。それは、

『ウソツキ』

 だという、こと。

 そんな彼を。

「涼介」

 胸部レントゲンを見ていたセンター長、彼の大叔父が読影室から招いた。

「こっちに来て、見てみろ。なにか分かるか?」

 高橋家の男らしく長身で、年齢からは信じられないほど引き締まった体躯の、柔和なふりして目の奥の光は厳しい。……しかし。

「分かったらなにくれる」

 涼介は、大層不機嫌だったのだ、その日。

 なぜならば自宅で最愛の弟が、風邪をひいて熱を出して寝込んでいたから。

 医者の属性として涼介も、身内や友人には極力薬品、それも、抗生物質は飲ませたくなかった。だから水分をとらせて部屋に加湿器を置いて、ゆっくり寝ていろと言い置いて部屋を出た。

『……行くの?』

 幾つになっても兄には甘ったれな、弟の心細げな表情。

『行って、らっしゃい……』

 いくなの代わりに告げられた言葉。くるんと背中を、拗ねたようにむけられて。

 どれだけそのまま、寄り添っていてやりたかったか。

 後ろ髪どころか背中の、皮膚が剥がれそうな未練をふりきって、出てきたのだ。

 さらに言うと、涼介はこの大叔父と昔から馬が合うというか、可愛がられていた。一見、角つきあわせているように見えるが一筋縄ではいかないウソツキ同士の共感が、あった。

 大叔父はにやりと笑い、そして。

「よし。……このセンターをやろう」

 外来、巡回あわせて年間の受診者は一万人を越える、設備の整ったセンターを。

「貰ったら、即、売り払ってやる」

 いいながら涼介は立ち上がり読影室へ入った。

 

 肺アスペルギス症、肺壊疽、肺カルチノイド、肺気腫、肺血症。

 高橋涼介の、常人より遥かに大きなメモリーに登録された病名が、形のいい頭蓋の中でぱらぱら、捲られていく

 肺結核、肺サルコンドーシス、肺ジストマ、肺真菌症、肺水腫、肺繊維症、肺嚢胞症。

 しかし、人体の組成はあまりにも複雑で、そして彼は、あまりにも若かった。

 あてずっぽうの病名を口にすることは、ヒヨコといえども医師の端くれである彼には出来なくて。

「……分からない」

 正直に負けを認める。

 大叔父は、にやりと、笑った。

「肺癌だ」

「何処に」

 言われて、まじまじと見直しても……、分からない。

「ここが」

 ボールペンのキャップで部位をつつかれ、それでも分からない。

「悲観して自殺することはないぞ。うちの医師たちの、誰も気づかなかったからな」

 名前を探せと大叔父に指示されて、レントゲンフィルムbゥら受診者名と、その連絡先をPCで検索する涼介は受診者の年齢を見た。五十四歳。

「さて、困った」

電話番号をダイヤルしながら、大叔父がぼやく。

もと・国立ガンセンターの外科部長。

それがこの大叔父が定年を迎えたときの、肩書き。

異常所見ナシ、で流れるフィルムにも一応、目を通しているが、学会が入ったせいで遅れて、もう結果が受診者に届いている。

「なんとかうまく伝えなければな。……もしもし……」

 受診者の職場にかけて、本人を呼び出す。電話で診断を伝える事は厳禁だから、

「専門病院に紹介状を、用意しておきますから、取りに来て下さい」

 そんな風に遠まわしに、上手に告げる大叔父を残して医局へ戻ると。

 いい歳をした外科・内科医たちが肩を落としていた。

 もとのチェックを続けながら、しかし内心で涼介は、大叔父を罵る。負けが口惜しかったせいもあるし、出掛けの弟の咳が耳元に蘇ったせいも、ある。そんな歳のはコロシとけ。将来のある俺の弟の、風邪がこうしているうちに、肺炎にでもなってたらどうしてくれる。

 医師としては、不適当なヤツアタリだったが。

 顔も知らない患者の肺がんより『恋人』の風邪が心配なのは、人間として、自然な発想だった。

『本日の診察は終了です。正面玄関の施錠をお願いします』

 受付の女史の声が館内放送で流れる。

『尚、風邪が流行しています』

全くだ、と涼介は心の中で頷いた。うちにもヒトリ、風邪引きが居て、熱が続いて可哀想なんだ、と。

『シイタケやエノキダケを食べて、免疫力を上げておきましょう』

 ぶ、っと。

 思わず涼介は吹き出した。

 心の中で、だったが。

 ……シイタケ?

 ……エノキダケ?

 ここは、何処だ……?

 CTやデジタル撮影の機器を備えた、医療現場じゃなかったか……?

 それが、……、シイタケ……。

 医療関係者ほど医薬品を忌避しがちとはいえ……、シイタケ……。

 フーッと深く、溜息をつく。

 それもモチロン、心の中で、だった。

 

 山積みの、自動判定ワークシートに赤エンピツでチェックをいれまくり、ようやく解放されて帰宅した、自宅。

「啓介」

 途中のコンビニで買ってきたプリンやヨーグルト、スポーツ飲料とともに、高橋涼介は自邸の階段を駆け上がり自室のドアを開けた。

啓介の部屋は物凄くよく言えば生活感に溢れていて、通いの家政婦が掃除しようと足を踏み入れたが最後、床に転がった障害物に足をとられてコケて骨折して労災事故、というのがあながち冗談ではない空間と化している。いわば、高橋家に存在する原生林だ。当然、埃まみれで、肺には優しくないので、自室に寝かせていた。

 アニキの匂いがする、と、嬉しそうに呟いて枕に顔を埋めた、弟。いとおしい……、オトコ。

 抱き締めてやりたくて、戻った部屋に、しかし。

「……啓介?」

 オトコはそこに、居なかった。

 

 

 

 

「だぁ、からぁ」

 夜更け、戻った自宅で、風邪ひきの男は。

「よんどころねぇ付き合いって、あるじゃん」

 殆ど負けの決まった勝負に挑みながら、防戦に必死だった。

「ガキん頃のダチが、その頃からのオンナを別のダチに、寝取られちまったんだよ。しかもその寝取った方、結婚してて嫁さん妊娠中で、その嫁さんってのも、知ってるヤツで」

 言い募る言葉は、しかし。

「……そうだな」

 愛しい兄の、ふせられた睫毛の翳りの前では無残に崩れていく。

「付き合い、ってある、よな。心配で一日中、メシも喰えなかった俺に書置きもなしで」

 嘘だった。昼食には大叔父のおごりで、センター近くの蕎麦屋で天麩羅そばセットを食べた。

「いやその……、あんた帰って来る前に戻るつもりだったすら」

「何処に行ったのかって今まで、ずっと、心配で……」

「だぁか、らぁ」

 言い訳を続けようとしたが。

「……具合は?」

 静かな瞳に見上げられ口を閉じる。玄関先に座り込んで、待っていてくれた人に。

「……ゴメン」

 謝罪以外の、言葉をなくしてしまう。

「ごめん、なさい」

「具合はもう、大丈夫なのか?」

「ん……、多分」

「……おいで」

 立ち上がった兄を抱き寄せて、風邪を移さないために呼吸を止めて頬擦り、する啓介はまだ、知らない。

「夕食は?」

「まだ。ナンか、食べに行く?」

「作ってる」

「……あんたが?」

「あぁ。お前の、風邪に効きそうなの」

「…………ありがとう」

 タイニングに用意されているのは、この暑いのに、鍋。

 そしてそこには、啓介のダイキライなシイタケが、山積みにされていることを、知らない。