南国・2

 

 
 離れようとするのを許さなかった。服を着ようとするのも。裸の肌が好きだから。
 光の下で存分に眺め、撫でて舐めて貪る。そう抵抗はしなかった。なにしてもいいって、最初から約束だったから。でも、
 「まるで性奴だ」 
 低く呟かれる言葉。彼なりの、控えめな抗議。
 「奴隷だよ」 
 言うと身体の下で、彼の表情が白っぽくなる。
 「俺がね」 
 付け加えると複雑な顔をした。情交を終えて水気を含んだ冷たい肌が急速に醒めていく。陶器みたいなその感触を愛してるけど今は憎くもある。熱を交わした俺への裏切りのようで。
 「起きれる?」 
 尋ねながらそっと抱き起こす。素肌にバスローブを羽織らせる。支えるようにしてリビングへ連れ出すと、開けっ放しのベランダから風が吹き通った。
 下の階の屋根に張り出したベランダは広く、ジャグジーがつくられている。そこから見えるのは濃い緑の稜線が幾重にも連なる遠景。ふりそそぐ日差の明るさに眩暈がしそうだ。
 気温は高く、風は涼しいという訳にはいかないが、南国の怠惰な安息をもちらす。 
 柔らかな藤の安楽椅子を引き、
 「どうぞ、ご主人様」 口元に曖昧な笑みを浮かべ、それでも逆らわず座るこの人は、ご主人様というよりも女王。いやそれほどの貫禄はなくて、まるで。 
 「姫君かな」 
 まだ歳若い、線の細い、高雅で清らかな。繊細な横顔はいっそこの手で引き裂いてやりたいほど。こんなに懸命に愛しているのに、淫らな声で肢体で悶えるのに、今、俺の痕跡は少しも残っていない。
 「お前、俺を幾つと思ってる」 
 二十九歳。俺より永遠に二つだけ年上なあなた。 
 でも最近は歳を越してしまったような気がする。身長や体重があなたを超えてしまったように、年齢も。いま二人で並んでこの人を俺のアニキだと、思う人間は居ないだろう。
 「でもあんた、歳とらないから」
 「見た目だけだ」
 「嘘つき」
  座らせただけで何もさせず、飲み物を唇に運んでやる。フレッシュのオレンジジュース。日本に居たら甘すぎるといって飲まないかもしれないが、この風の中ではひどくうまい。白い喉がこくこくと動いて大ぶりのグラスの中身を飲み干す。
 「あんた全然、変わってねーよ」 
 俺が恋した、少年だったあの頃から。
 「十九や二十歳の頃とはだいぶ違うさ。ベッドで無茶するとてきめん、身体がぎしぎしいう」
 「トシってーよりナマってんじゃねぇの?俺は平気だぜ」
 「プロのスポーツ選手と一緒にするなよ」
 「はい、口あけて」 
 水分が多くてやわらかな鴨のテリーヌを食べさせる。少しずつ胃を刺激してゆっくり食欲を取り戻す。 
 「昔はさぁ、一週間ぐらいシーツの上で泳ぎっぱなしでも平気だったろ。覚えてる?」
 「軽井沢の親父の別荘だったな。お前の大学の合格祝いだ」
 「そうそう。馬に乗ってみたいからって親父に言って二人で出かけたのに、結局、乗ってたのアニキにだけ……、イタッ」 
 手すりにゆったりと置かれていた手が不意に伸びてきて、耳を引っ張られる。
 「やーめーろー。スープこぼれるよ。ほら、あんたの好きなグリーンピースのポタージュ」
 それを飲ませ終えた頃には、
 「いい。自分で食べる」
 持っていたフォークを取り上げられ、自分で皿から唇へ運ぶ。 
 「あー、召使の仕事、とりあげるなよぉ、お姫様」
 「お前に食べさせられるなんて物騒だ。小学校にあがる直前まで箸使えなかったくせに」
 「ンな二十年以上も昔の話、思い出すなよ。さっさと忘れてくれ」
 「忘れないさ。給食が始まる前に使えるようにならなきゃって、」
 「はい。俺も覚えてます。教えてくれたのはアニキです。お世話かけました」
 「お前も食べろよ」
 「あーあ。後で食べさせてもらうつもりだったのに。あんたが奴隷の時間にさ」 
 香辛料のきいた川蝦と青菜の炒め物を食べていた箸が止まる。咎めるような視線。でも口に出しての抗議はされなかった。何もかも聞き流すつもりかもしれない。どうせあと二日だから。
 そう、あと、たった二日。二日のうちのこの人を翻意させなきゃならない。
 それが不可能に近いことはよく分かってる。頑固で強情なこの人は、言い出すと頑なで、昔っから俺に手を焼かせた。 
 食事が終わる。メイドを呼んで片付けさせる。隠れ家のようなこの広い洋館は特殊な目的で建てられている。玄関や中庭への通路が独立していて他の宿泊客たちと顔をあわせないこと、毎晩ホールで催される淫靡なショーが、その目的を代表する。
 館に専属の高級娼婦も居る。一晩が500ドル。この国の相場と桁が一つ違う。生身で居るのが不思議なような美人の値段にしては安い。もっともそれは基本価格で、チップだのなんだのと加算されるだろうが、800ドルもあればこの国では一家五人が一年間、優雅に暮らしていける。 
 日陰になったベランダに二人で出て、並んで日没を眺める。よりそううちに眠くなって、俺は彼の、しなやかな膝に崩れた。 そっと頭に載せられる掌。俺の髪を撫でていく指先。
 「……なぁ、アニキ」
 「ん?」 
 問おうとしてやめた。答えはとおに知っているから。
 「なんでもない」 
 俺を好き?俺が大事?俺を愛してる? 答えはわかってる。この人は、俺のためなら命をくれるだろう。だけど。 俺が欲しいのはそんなんじゃなかった。
 命も、気持ちも、もしかしたら身体も、本当はいらないのかもしれない。
 「あんたの何かを」
 「なに」
 「欲しいんじゃないんだ。最近ようやく、それに気づいたよ」
  俺はあんたに欲しがられたい。 
 抱いて暖めて血肉を与えたい。あんたが俺にそうしたみたいに。あんたが俺から離れられないようにしたいよ。あんたが俺に、そうやったみたい。 
 寝かしつけるような優しい掌の感触を享受しながら目を瞑る。うとうと、していた。鼻先に煙の匂いがして目がさめる。庭も山脈も見えない。夜が世界を包んでていた。
 「だめだ」 
 起き上がろうとすると引き止められる。膝の上に。優しく、でもしたたかな力で。
 「なんで。今日のショー、凄いらしいぜ」
 「昨夜もそう言ってつまらなかった」
 「でも興奮したろ」
 「お前があぁいうのを見るのは嫌だ」
 「余計な知恵がつくから?」 
 掌を掴んで起き上がり、彼を逆に引き倒す。身体をかさねると一瞬の緊張。でも拒もうとはしない。むしろ安心したように、腕が背中にまわされた。
 「行くよ。自分が今夜どんな目にあうか知りたいだろ?」
  瞳の翳りが深くなる。それでも俺に起こされて腕を引かれるままに、ゆっくりと歩き出す。 
 
 この人は。 
 女に興味が、ないわけじゃない。けど。女の媚は嫌がる。演技のよがり声やわざと胸を振る仕草、なんかを。
 だから昨夜はとても嫌そうだ。今夜もそれは同じ。でも、嫌そうの、意味はかなり違う。
 「なぁ、あれ演技だと思う?」 
 吹き抜けのホールの中心に女。宿泊客たちは壁に沿って仕切られた螺旋階段から女の狂態を眺める。女の顔は涙で濡れていた。喘ぎ声、哀願。言葉の意味は分からないけどなにを言いたいのか見当はつく。止めてくれ、でなければ、助けて。
 「ねぇってば。返事してよ」
 「……苦しい、だろうな」 
 目をそらすと俺に顎を掴まれて観賞をしいられるから、無理に女に目を向けながら、震える声で答える。
 「拷問で見た覚えがある。……悪趣味だ」 
 女の身体は汗と、違うものでぬめぬめ光ってる。その肌に這う、黒い点。
 「見てるの辛い?」
 「あぁ」
 「じゃ、部屋に戻ろうか」 
 ほっとした様子の横顔が、
 「あんたの方が似合うと思うよ、あぁいうの」 
 俺の言葉にひきつる。まさか、と言いたげにこっちを向く。
 「色白いし、肌綺麗だし。泣き顔も」 
 淫らがましいし。
 「啓介、嫌だ」 
 部屋の前で立ち止まり、腕を引っ張る力に初めて、逆らった。
 「あんなのは、嫌だ」
 「ならさ、俺と寝るのをやめるのやめてくれる?」 
 俺の返事は最初から決まってる。
 「そしたら俺も無茶なことしねぇよ。今夜は手、繋いで寝るだけでいい」 
 あんたはひどい人だけど、でも。
 「俺のこと棄てないでくれるならなんでもする」
 「啓介、それは違う。お前を棄てるとかじゃない」
 「おんなじだよ。俺から離れるんだろ」 
 それが俺のためだと、思ったからとしても。
 「実家の病院も辞めて、ここから出たらアフリカに医療奉仕。帰国の予定は未定」
 「……なんで、知って」
 「史浩から聞いた。止めてくれってさ。親父とお袋はあれでも医者の端くれだから、若いうちにそうするのは悪いことじゃないとか思ったらしいけど。あんたが日本に戻ってこないなんて夢にも思ってないんだろうな」 
 俺や史裕は誤魔化せないぜ。あんたが発展途上国の医療に興味があるなんて信じない。あんたの目的は他にあるはずだ。誰にも言わない、本当の望みが。
 「こんな細くなっちまって、そんな丈夫な方でもないくせに。ナントカ熱とかの発生地域に、なんでわざわざ行きたがる。医者だって病気にはなるんだろ」 
 それは一種の自殺ではないのか。緩慢な死を望んで、本当に永遠に、手の届かない場所へ行くつもり。
 「あんたは俺を棄てるだけじゃ足りずに」
 「啓介」
 「自分まで棄てちまうんだろ。どうせ死ぬなら好きにさせろよ。それでもし死んじまっても、どうせ居なくなるつもりなら同じ事だろ」 
 白い肌。綺麗な顔。優しい声。したたかな、腕。 
 甘い嬌声、暖かな粘膜。抱きしめられる安らぎと抱きしめる恍惚。 
 とりあげる気なのだ俺から、全部。自分が教えた甘さを何もかも。
 「あんたにそんな真似されて、俺がどうなるかなんてどうでもいいんだな」 
 本当にそれは俺の為?
 「あんたは逃げたいんだよ俺から。俺のためとか言っといて、本当はただ、逃げ出しちまいたい。違うか?」 
 答えはしばらく考えたあとで、
 「分からない」 
 この人には珍しく正直な言葉。
 「ベッドに上がって服を脱げ。言うとおりにするって、あんたが言ったんだ」 
 今度は自分からドアを開け寝室に向かう。枕もとには、きちんと用意があった。 
 拘束のための包帯。ベッドサイドに渡された細い竹の輪。蜂蜜の瓶ともう一つ、透明なガラス瓶の中には。 
 
 共食いぎりぎりに飢えた大きな蟻の群れ。